2005年12月13日

「コクと旨味の秘密」




本屋に行ったら、こんな本がやっぱり出ている。
いまは時間がないので、時間ができたら読んでみたい。
そしてここでは音楽についても、分析的な文体になり過ぎずに同じような問題意識をもって考えてみたい。  
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2005年11月20日

神は神

「Qちゃんは宇宙人」 歓喜の抱擁、チームQ
2005年11月20日(日) 20時33分 共同通信

高橋尚子
 〜ゴール後「チームQ」の専属スタッフと抱き合って喜ぷ高橋尚子選手=20日午後、国立競技場 「奇跡だ! やっぱりQちゃんは宇宙人」。シドニー五輪女子マラソン金メダルの高橋尚子(ファイテン)が2年ぷりのマラソンで復活優勝した20日の東京国際女子マラソン。ゴール後、「チームQ」の専属スタッフ3人は、涙目のQちゃんと歓喜の抱擁を繰り遍した。

 逆境を全員で乗り越えた。高橋が10年来の師弟関係だった小出義雄佐倉AC代表から独立し、6月に結成された新体制での初マラソン。3月にUFJ銀行を退職した西村孔トレーナーは米国合宿から帰国後に右脚肉離れが判明し「歩くのも痛そうな状戴だったし、毎日がひやひや。スタートできただけで驚きだし、最後の一歩まで不安だった」と打ち明けた。

 スタート前は全員が高橋と握手し、遮で移動しながら10キロ閑隔で沿道から声を掛けた。〜


∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽


 沿道に出て熱狂する人の数、ゴールの国立競技場に集まった人の数をあなたは見ただろうか? ぼくは帰宅後、ビデオで見た。

 神は神だった。大袈裟だろうか? いや大袈裟ではない。高橋尚子の立っている場所にとってのみ、それは。

 前半から中盤まで、かつてないほど高橋は慎重にレースを運んだ。はじめの10kmは特有のピッチ走法というよりほとんど摺り足で、そうとう怪我の状戴が悪いのか、そうでなくても気を使っているのはありありと伺い知れた。

 慎重に、慎重に足の具合を伺いながら、35km地点からのロング・スパートに至るまで、高橋はその状態を保ち続けた。おそらく、TVでも高橋が勝てることに確信を持ちながら見ていた人はいなかっただろう。東京国際マラソンのコースの名物である難所、36km地点から約3kmに渡ってじわじわとのぼり続ける魔の坂、正にこれからそれのはじまろうとする前でのスパートに、誰もが意表をつかれたはずだ。ずっとこのコースでのマラソンを見続けているが、少なくともここでのスパートを見た記憶は過去にない。

 初優勝をしたときからのファンのぼくにとっても、今回ほど、高橋の底力に懐疑的なままレースを見たことはなかった。けれど神は神だった。優勝インタビューを見た人にはそれがわかると思う。ゴールして1分も経たないうちのインタビュー、一答一束において常に高橋の喋る言葉の場所は主体の位置にない。高橋の走りを一誰よりも遠くから見ている、もう一人の高橋が言葉を喋っている。このことは初優勝のときから変わらない。

 けれど2年前の同じ東京のレースでのはじめての失敗以降、常人でははかり知れないほど精神的にも肉体的にも内向性を深め、生活とトレーニングをしてきたはずの高橋は、今まで以上の彼方から今回のインタビューに答えていた。あのときの失敗で、それまで高橋の精神と肉体を持続させていた力は確実に一回切れている。レース前に語っていた「止まっていた時間を再び動かす」という表現に、おそらく誇張はない。そして高橋はそれを、本当に失敗したら最後、の今回のレースで再び「動かし」た。想像もできないような極限の彼岸と此岸を、高橋は天性の筋力に乗って行き来している。

 高橋は質問をされて、よく定型的に同じ内容の言葉を答える。それは作っているからだととるべきではなく、高橋が本当に自分で思想し、嘘ではない本当のことだけを答えるからだとぼくは解している。自己としての次元だけではない、「高橋尚子」という存在の次元からを含めてそれに応えている。だから、これほど国民的な人気を得て、それに応えながらも、たとえば「日本」を背負っているというような印象を与えない、器の大きさとしてそれがあらわれる。それだけの器とは限りなく大きいと同時に、かつ「軽み」があるのだ。

 少なくても自分にとって、彼女ほど感動を与える、また寒気を感じさせるほどすごい理性を持っていると思えるスポーツ選手はいません。これからも、勝手に応援し続けます、あなたが走るのをやめるまでは。。。  
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2005年11月19日

偉そうに何を言っているのか。。。

 うつらうつらしている間に「僕らの音楽」を見すごすところ。

 PE'Zははじめてみましたが、ん〜どうなんでしょう? キーボードの人だけまあ面白いかな? インタビューとかもおいおいきみらが主役かよという感じのダルな態度でしたが、まあそれはいいとして。音楽として、なんか日本人がこういうタイプの楽器を使うとき・やるときの典型的な表層性、根っこのなさがもろに悪い意味で出てるようしか、ごめん見えませんでした。管楽器がとくに良くない。今回みたいな特別なジョイントじゃなく、また生だと違うかしら? まあでも平面的。中途半端。同じ平面的ならスカコア、メロコアの人たちの方がまだ徹底されていていい。

 で、すこしチャンネルをまわしたらニュース23にサンボマスターが出ている。なぜか。まあ毎度ながらこの番組に出ている司会者の筑紫何某って方のお感性には本当に以下略。。。。サンボマスターのことも実はぜんぜん知らないのですが、見た限り演奏が上手い。シンディ・ローパーが「ロックバンドと組むよりも(PE'Zに対して)あなたたちみたいな形態のバンドとやるときの方が上手くいくのよ」という趣旨のことを言っていたが、まあそれもそうだろうと思うがむしろサンボマスターと一緒にやった方がまだ面白かったんじゃないかと、思いました。シンプルな形態だけど、演奏の懐は深い。情報量が何気に多い。ポーズと本気がバランスよく混じっている。つまり知性派。バッキングにまわっても的確でひねりのある演奏をしてくれそうな気がします。なによりサンボマスターの人たちの方がシンディ・ローパーのこと好きそうな気がするのだが、どうでしょう?

 知性派、知性派ふうの音楽は基本的に趣味ではないのであくまで野次馬的な感想ですが、もっと脱力して演奏の中に「間」ができるほど、さらに良さそうなバンドだなと思いました。

 でもそういえば、知性を「間」を使って殺せる人は、ほとんどいないような気がする。

 「間」は、それについて意識するほどに、それこそあっという「間」にその意識が浸透し渡り、埋めつくされる、そしてそれが透けて見える状態のときほど、人を不快な気分にさせるものはない。。。会話と同じ。鬼門難問だったな。。。  
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2005年11月15日

コク感じタイ

 タイ料理屋でランチをしたのですが、エスニック風味の料理は好き、なので不味くはない。しかしまるでファーストフードのような、タイ風ランチだったのでした。

 あくまでランチ向けのためのせいか、辛みはほどんどなく、いたって食べやすい、コクのない味。しかし料理のコクとはそもそも何なのか。

 人間の舌は、塩みは側端、甘みは 先端、苦みは基底部というふうに、部位によって感じる味の種類が違います(参照…http://maoda.hp.infoseek.co.jp/sita.html)。部位によって違うのだから、どうしたってそれぞれの知覚への、反応する時間差も生まれるはず。おおまかに言ってこの二つの伝達における差異要素が混ざることによって、ふだんそんなことを意識しないで食べている人間にとって「コク」とか「隠し味」と言われるものになり、神経をここちよくシビれさせているのでしょうか。平面的な「味つけ」のタイ風ランチを食べながら、そんなことを思いました。

 同じように、複合的に人間の器官が知覚せざるをえないようなつくりを持っているものに対して、音楽でも、絵画でも、人はそれを芸術的と思い、味わい深いと感じて、シビれているのかもしれません。

 喫煙者はたばこをやめると、信じられないほど味覚が戻ると聞きますが、あれは舌全体が麻痺しているのでしょうか?それとも先端部とか、基底部とか、ある部位だけが麻痺しているのでしょうか?もしある部位だけだったら、それではバランスが崩れていくらなんでもまともな料理が作れないだろうから、おそらく全体が麻痺しているんだろうと思います。

 金曜の「僕らの音楽」にシンディ・ローパーがPE'Zとジョイント出演。http://www.fujitv.co.jp/ourmusic/


  
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2005年10月10日

そういえば昔、何かのインタビューで「サザンなんて聴いたことがない」と言っていた気がする浅井健一

 大衆音楽を根底的に改革し、新たな普遍性として後世へ刻むこと。

 初期のロックンロールやヒップホップ、また、個人ではエルビス・プレスリーやボブ・ディランらがやってきたように、言語感覚がその時代に生きていることによる強さと、歌唱感覚が歌い手にとって根源的なところから生まれてくることによるみずみずしさ、それらが絡まり、引き離せないほど一体となることによって、懐の深い、弾力性を持った表現として、かたちあらわれる。

 ぼくにとって、そんな確信を持つことの一番の裏づけになる、大きく偉大な存在がサザンオールスターズ、及び桑田佳祐です。

 アナーキーかつ、振れ幅の広い唯一無比の存在として、ぼくが生まれる前からいまだにトップを走っている彼らに対しては、いくら賞賛の言葉を与えても足りません。なにを引用していようが、歌詞の意味が壊れていようが、それらの事柄があまりにも些細な次元になってしまうほど、彼らの音楽は、音楽として根源的な魅力を、聴き手にも、演じ手の彼らにも与えるようなオリジナルな語法を持っているように思います。他に日本人では、たとえば最近ではaiko、宇多田ヒカル、PUSHIMなどがそういった系譜に連なる、懐の深い人たちのような気がします。

 もし彼らの音楽にとって、引用について、歌詞の意味についてなど上記した事柄が、あまり些細な次元ではなくなってきた時、つまり、きっとその時は、彼らの音楽が気の抜けた様式となって、死んでしまった時です。以前からアルバムに必ず一曲は入っている説教ソングや、「TSUNAMI」以降の最近のシングル曲などには、特にその徴候を嗅ぎとることができましたが、どうやらそれはまだ、まだ、ぼくにとって心地のよい程度の腐臭であってくれているようです。

 彼らは普遍の現在進行形。。。。

 ♪神の島遥か国


  
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2005年10月09日

○○へ

忙しくて記事を書けません。
覗いたとき殺風景なので、好きな松江泰治さんの写真を貼ります。

松江泰治  
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2005年09月17日

第25回:部屋に差す光のうつろい



 ちょっと遅いが、JUDEの新しいシングル『Shampoo』を聴いた。

 表題曲は、飾らない、まあなんてことのない曲に聴こえる。詞の飾らなさ、歌い方の飾らなさは、ブランキー初期の頃の曲、たとえば「冬のセーター」とかの感触を少しだけ連想させる。もちろん、あれほどの緊迫感は既にないが、SHERBETSのアルバム『Natural』から、JUDEのアルバム『エレクトリック・レインボー』と、演奏の中にそういう印象を感じさせる瞬間が、少しずつだが確実に増えてきている。歌詞は、どんどんストレートに、生まれたばかりの言葉が音にそのまま定着させられ曲になっている。

 曲の創作として、それでは後退していると思う。たとえば自然のまま、ありのままだけが正しいという答え、モチーフが、最近の曲の創作についてどこかしらにあるとすれば、短絡すぎてそれには同意できない。人の理性と自然は生きているかぎり同化できずに、その同化できないことへの葛藤が、表現する動機を生むと思う。そして表現を通してこそ、理性と自然を瞬間的に同化できるのだと思う。いつか、ふたつが永遠に同化するとき、それはたぶん人が死ぬときだろう。強く、同時に、その透明度が高いときの浅井健一の音楽こそ、そんな事柄を何よりも深く突き付け、証明していたように思う。荒唐無稽な物語も、自己矛盾も、そんな表現の中にだけ宿ることのできる真理として。

 2曲目の「Tuesday Afternoon Baby」は、アルバム『エレクトリック・レインボー』に入っていたどの曲よりも良い。3曲目の「わに」も、演奏の透明度は高い。とくに歌声につきる。音程はあまりにも不安定だが、午後、部屋に差す光のうつろいのように言葉が消えていく。曲とは別に、歌声や演奏されるギターに関しては、その自然さに心を動かされる。ちょっとした分裂だが、音楽の不思議さ、面白さもそこにあると思う。突き抜けるような衝撃はないが、うつろう光の中にちりが舞っているのをはっと見つけたように、心に入り込んできたので、やっぱり、彼の音楽は特別だとも思った。  
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2005年09月09日

シェイクシェイクモンキーマンズフレッシュ

http://www.rollingstones.com/abiggerbang/

A Bigger Bang/The Rolling Stones



 急にローリング・ストーンズについて書いてみようと思った理由は、掛け値なしの傑作としか言い様のない新作を聴いたから。8年ぶりの新作『A Bigger Bang』での演奏を聴くほど、こん棒で、ばしばしと身を打たれるような気分になって高揚させられる。こん棒で打たれたことはないけど、ただもしこん棒で打たれたら、もっぱら肉に、刺激を受けるような気がするからという、これはそう思った理由の話。

 音楽を奏でる輪の中で、互いに気心の伺える距離感、それを保ちながらかたちづくろうとするアンサンブルほど、それぞれの演奏者の支点に、観念性と、身体性とが寄せあい打ち消しあい、いったりきたり、輪の中心軸を震わす。中心軸が震えるほど、不安定で、また魅力も生み出す可能性のある形態。あるときから「ロック」とか形容されることになった音楽様式が、特別になまなましく聴き手になにかをうったえることの本質、固有性があるとしたら、それはそこにしかない。軸がただ必然性をもって、呼吸するように震え続けているかぎり、それは在り続け、鳴り続ける。

 ここで震え続け、鳴り続けるアンサンブル、その形態をかたちづくる骨と肉と皮にとって、寄せあい打ち消しあう観念性、身体性が、骨であるとしたら、それをもっと具体化し、表象しようと彩る装飾、飾りが皮かもしれない。では肉は、何か。その間の肉は何か。

 その間の肉は、ただ、間にしかない。つまり、演奏者の観念や肉体と、楽器を媒介される音階の間、闇にあたる。たとえば、黒人の俊敏な演奏リアクションは、骨と皮の距離がとても少ない。それは、ミーターズの原始的で超モダンなグルーヴを持ち出すまでもなく、砂漠の豹のように身体が演奏に対して、反応の時間に要する離反が必然的に少ないこと、それが音楽と身体のジレンマを無化するための、たったひとつの限りの無い道。そして、頭の中のイメージにとって理想的に演奏するのならば、この道に忠実な方がいい。余分な肉があるほど、それは意図としない振動も生む。肉と闇、真空の荒れ地。とりあえず、人が人である限り、肉はゼロになることはない。ただ機械が機械であるときだけ、肉はゼロになる。

 そして頭の中のイメージ、骨にとってのもう一要素、観念性もまた、膨らめば膨らむほど、音楽を遠くに追いやる。身体性と観念性という、一見真逆の極にありそうなものをひとつにまとめた理由、それは生まれるための音楽に対して、このふたつが同義であり、表裏になるからだ。人と音楽をつなぐ線の両端、そのいちばん人の側にあるコインの、表裏がこのふたつ。レッド・ホット・チリ・ペッパーズの圧迫的で直角のリズムは、まさに観念性と身体性の骨がいっしょくたに混じりあって奇形化した産物だ。震え続け、鳴り続けることの必然性をさがし求めるための自戒、そこまでしなければ、人にも音楽にも人工呼吸を与えなければならないほど、きっとそれは硬直していた。

 震えが、「ただの震え」だったときは過ぎ、いつの頃からかその原因、病理を求めはじめるようになるのが、人だ。ものごとに層が重なると、人が自然に与えようとしてしまう理。それが、どんなふうにどうして震えているのか、診断を欲しがる、病名を欲しがることを切に願うことで、人はらせんに降りていく階段に既に足をかけている。イヤーホンで耳の穴に直接あてがわれ補給される「最近の音楽」が、独特の気持ち悪い響きを言葉のどこかに感じさせながらも、あまりにも本当はそこにあるべきはずの「癒し」と付かず離れずであると同時に、患部注射のシルエットを帯びているのはすべての必然だ。人がその患部注射を惰性に求め続けるのは、注射が効いていないという証拠になるだろうか。いや、きっとそういうことではない。むしろおそらく、それはかなり効いている。しかし、効いている間隔はどうやら短い。なぜ短いのか。音楽にも、それに呼応する聴き手にも、余分な肉は必要ないと思い込んでいるからではないだろうか。そこはすべて、太い骨とぶあつい皮でできている。そしてそこに、患部注射は打たれている。

 ローリング・ストーンズは古きブルースの持っていた肉を求め、また、あまりにもずっと肉で奏で続けてきた。演奏のテクニカルさ、技巧面での高度さ(彼らによく言われることは、それらにまったく重きを置いていないということ)とは別の次元で、それをやり続ける事も困難だ。ちょっと肉が腐食するなり、中途半端に骨と皮に厚みを足すなり、途端にただの「ふぬけ」に成り果てる危険、実際に、何度も彼らは成り果ててきているはずだ。

 それで、件の新作『A Bigger Bang』はどうか。それがおどろくほど、徹底的に肉でできている。骨は細く、皮は薄い。空回りしあうことの多かった、ミック・ジャガーの歌声と、キース・リチャーズのコード・ストローク、それぞれの芝居がかったポーズが、ポーズでなくなった。つまり、同じ舞台で自然と呼応しあっている。そうしてはじめて、生身の肉がただごろんと転がることで、「ふぬけ」ずに成り立つ。余分なもののない、純度の高い肉の饗宴、ざくり、ざくりと、あちこちでその音。

 純粋な祝祭。ローリング・ストーンズの過去の偉大な演奏が持っているそれは、バラードもシャッフル・ビートも、オードブルからデザートまで肉ばかり。そのための肉を召還するために、若さですら越えられない魔術の存在があることを、唐突に証明したローリング・ストーンズ。震え続けることを信じる前に、転がり続けた必然。音楽の本当の素晴らしさを、ローリング・ストーンズに、それもいまになって、教えてもらうとは思わなかった。肉を打つ刺激をマゾヒスティックに求める彼らが、老いぼれた骨と皮だけの身体とはうらはらに、まず自ら徹底的に肉となって演奏した。


:肉盤的代表:

Beggars Banquet



Let It Bleed



Sticky Fingers



Exile On Main St.



Black And Blue

  
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2005年08月22日

快人さま

 なんとなくニュースステーションをつけていた。ホリエモンと安藤美姫に感銘受けた。

 安藤ミキティー、「心から、自由な気持ちで滑りたい」、そんな本質的なこと言えて、やれる奴、早々いない。フィギアスケートっていう競技は昔から嫌いで、採点基準の分からない、回転数なんか競ったりいったいなんなんだよと、ふだんぼくは思っている。きっと彼女は、そういう価値基準をいつのまにか自分の中で越えようとしている。いま一番、先端で輝いている人だ。そしてそれに気づくことができるのは、野次馬だけだ。

 高橋尚子も出ていた。特別に感銘は受けなかった。がんばれ。あなたが2回目のレースで圧倒的に優勝したとき、同じように、心の底から走ることを、自由に自分の中で楽しんでいる選手の表情を発見した。そんなことははじめてだった。そのときからずっと、あなたのファンだ。まだがんばれ。

 がんばるとはどういうことだろう。がんばれと言っても、言われても、思ったところで、人は本気でがんばったりはしない。気と、期が熟さなければ、それはやってこない。今の自分にもやってきていない。高橋尚子にも、きっとほんとはやってきていない。

 それでもがんばれと言ってみたところで、別の収穫がえられることもまあある。だからあえて言ってみた。自分にも。
  
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2005年08月17日

夏の夜長

 ずっと投稿していないですが、しばらく忙しく、きっと更になかなか投稿しません。ついにトップページに何も表示されなくなった!

 実は2回ほど投稿しかけたが、内容のろくのNASAに自己嫌悪し直ぐ削除―明らかに性格がブログに向いていないのではないか?絵文字とか、使えるようになりたい。メールにはメールの文体で、ワードにはワードの文体、ブログにはブログの文体、手書きには手書きの文体、使い分けられるのが理想。文体は思想。硬化しそう。へたくそう。媒体に寛容であれ。

 芸がないですが夏の夜長に聴いてみている音楽を開帳します。

Nothing's in Vain/Youssou N'Dour



Speakerboxxx/The Love Below/Outkast



Pieces/Pushim


Travelogue/Joni Mitchell



Rhythm Tree/Baka Beyond


Abattoir Blues/Lyre of Orpheus/Nick Cave And The Bad Seeds



Solo Collection/Freddie Mercury



I Want you/Mervin Gaye



マグマ/稲葉浩志



London Scene/Fela Kuti


 上位みっつを特によく聴きます。

 ユッスー・ンドゥ−ルについて、いつか何か書いてみたい。ワイクリフ・ジョンとかと組んだその前の「Joko」はちょっと全然だめですが、 「Nothing's in Vain」は圧倒的、という個人的意見。

 アウトキャスト、、、、いまさらですが、ちゃんと聴いて気に入っています。

 さらにプシンはJummyさんのブログでみてはじめて存在を知りました恥ずかしながら。ジャパニーズレゲエの女王的存在だそう。まあそんな代名詞はいいとして、声、音、言語感覚、すべてが内面から自然と溢れてくるかんじ、びっくりしました。レゲエ・ミュージシャンとは違うけどUAといろいろな面で比べてみると、面白いかなと思っています。時代は変わる。

 ついでにBaka Beyondのホームページもリンクはってみます。いろいろと試聴できると思います。ただただ洗練されすぎていて、自然なのか、人間なのか、分からなくなるよう。素晴らしい音楽は、そんなもの超越していて自然も人間も同列、同義になる瞬間が、きっとあると思います。エコロジーとかそういうわけじゃなくて、もちろん、別にアコースティック楽器じゃなくても。

そしてAgustin Laraの楽曲を物色中。しかしタワレコとかでもほとんど置いてない!


 さてベンジー関連は、、、、あえて言うなら「幸せの鐘が鳴り響き僕はただ悲しいふりをする」を聴きたいが友だちに貸出中。

 ああ....夏、なんですね。  
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2005年07月26日

第24回:「コラージュ」のカロリー(2)



 たとえば、なにかひとつの支持体の上に構成されていて、確立している、という世界が既にあった。その世界の上に、まったくの他の支持体として存在している、もうひとつの世界から、一要素を採取したものを合成した。そう整理するとき、そのような「コラージュ」の手法とは、私たちがいつもよりもっと俯瞰的な態度になって、支持体を指先で操っている光景として、浮き上がる。もっと俯瞰的、というからにやっぱり、私たちの位置が同時に、支持体とどんどん離れて、後ろの方に下がっていく光景として、浮き上がる。

 タイムマシンで、どこかの現代人、時空を越えて、いきなり原始時代のマンモスの群れの中心に現れます、というようなストーリーが、映画とかでよくある。そのときの映画監督と同じ気分で、私たちが支持体としての世界を俯瞰したときに、「コラージュ」は、表層的なイメージの部分に対して、時空外的な次元の異化作用を入れ、“未知との遭遇”を支持体の世界に現出させるものとしてある。もちろんその場合、生命を取り除かれたサンプルとして、もっぱら役者たちは扱われる。つまり本来的な「コラージュ」の世界では、それぞれの演者はいず、そこには全知全能の監督がいるだけ、ということだ。

 レコード文化以降の、音楽と制作者との関係でいうと、楽器の演奏者たちとは、ただの演奏者であると同時に、「コラージュ」されるのを待っている世界の住人でもある。演奏者の立っている世界とは、現実的にはひとつだが、同時空間的なアンサンブルのためのひとつとして、もうひとつ、異時空感的な「コラージュ」のためのひとつとして、二重の役割を持っているということになる。それが、レコード文化以降の音楽における「コラージュ」の占有概念になる。

 浅井健一の表現に沿って考えてみる。浅井健一の表現の場合、ほとんどの基盤がバンド(ギター、ベース、ドラム)のアンサンブルとしてあり、世界になっていて、そのもとでそれぞれの演奏がある。そこに後から重ねられるギター、キーボードなどが、異時空感的な距離を隔てて、世界に侵入し、浸透していく。こんな場合、なぜ表現としての「コラージュ」が必要か。

 アンサンブルの演奏と、「コラージュ」の重層が、それぞれの演奏世界における生命を保存されたまま、全一化されようとしている浅井健一の表現の場合には、「コラージュ」自身が“未知との遭遇”をつくり合うことにはならない。「コラージュ」自身が“未知との遭遇”を指向するのではなく、それらが全一的なかたまりとなったときはじめて、“未知との遭遇”が指向されなくてはならない。それぞれの演奏世界は、はじめから極めてお互いに響きあっている状態で、既にある、それが大きな跳躍への前提とならなくてはいけない。

 アンサンブルの演奏は同時空間にお互いが歴然とあるとして、しかし「コラージュ」の重層は、いくらお互いに響き合わせようとしても、異時空感から事後的にそこにやって来ていることに、変わりはない。やって来ているのは異時空感の浅井健一の演奏である。それにより音楽の核から、異時空感的なねじれを持った浅井健一の世界としての膨張、そして重層化を指向しているといえる。もちろん、あくまで核にあるのは、アンサンブルの演奏である。

 重層化に価値を置いている、そのような場合の「コラージュ」、その用法を間違えて、効用がひとたび逆効果となることがある。『Electric Rainbow』で多用されている「コラージュ」に、あまりにもそれが当てはまる。「コラージュ」はカロリーを消費しない、手っ取り早の価値の付加でもある。異時空感をまたいでその価値の痕跡は、余計にパッチワーク的に強調されるという点で、拭い難い表層となって、印象に訴えかけてくることがある。

 →続く

筆洗:熱い胸さわぎ/サザンオールスターズ

  
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2005年07月22日

しょうにゅうどう

 今日、あるきっかけで「鍾乳洞」の話になった。

 すごい小さい頃、「子どもの科学の世界」シリーズみたいな、「惑星」とか、小さなグラビア本を見るのが好きだったのだが、中でも「鍾乳洞」が結構好きなうちのひとつで、よく見た。

 それを珍しがられた。女子たちに。そこで自分ともうひとりいた男子が、男は子どもの頃そういうもの見るのが好きなんだよと、フォローを入れてくれた。

 えっ、鍾乳洞って、女子興味ないんだ驚ーーーーー!

 そう思ったついでに、鍾乳洞が、なにか母胎のイメージに変わってきました。


 「えー見ない ー」と君が 言ったから 今日から女子=(は) 鍾乳洞記念日


 これから機会があったら、男子女子に鍾乳洞の話をさり気なく振って、検証していこうと思います。

筆洗:A Voz e o Violao/Djavan

  
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2005年07月20日

第23回:「コラージュ」のカロリー(1)

 浅井健一率いるJUDEの最新作『Electri Rainbow』が出てから、ひと月近くたった。

 どこを切っても、「永遠でない浅井健一」が顔を現わすこの作品を、ぼくは通しではまだ一回しか聴いていない。とばしとばし、断片的に何曲かを数回ずつ聴いたが、この最新作についてちょっと驚くほどに聴きどころのないものだという実感は、まず確かで、これからもおそらく揺るがない。

 それでいま霧の中に包まれようとしている、自分の「永遠の浅井健一」の像を救い出すために、浅井健一関連の近作に露になっている音楽的病理の根に付着した「泥」についてを、これからしばらく、手探りでいろいろと洗い出してみようと思う。浅井健一の奏でてきた音楽の根には、ただそれに身を委せる者にとっても、耳先から脳の奥へと思考を巡らす者にとっても、とても深い意識/無意識の底に閃光を当て、コントラストのついたその周辺の闇へと、全方位に引力を与え、拡げる、そんな核が常に呼吸を繰り返していることには、いまでも疑いを持ってはいないからだ。



 私たちがいま、ごく当たり前に「音楽」だと思って享受しているもの、そのほとんどの構造的な源泉はどこかにあるとしたら、それはどこにあるか。

 20世紀の中ごろから勃興したレコード文化、廻るLP盤のみぞからのうず、「音楽」の今日的大量生産/消費のうずから、いまだにそれは、ちょろり、ちょろり、湧き出ている。スタジオ内での「コラージュ」によって輪郭から、中身まで、かたちづくられるようになった制作品が、「作品」という概念に包まれた「音楽」を生んだのだ。

 うずの大量生産、大量生産のうず、その可能性を拡張した「作品」という概念、それを、スタジオ内での「コラージュ」によって、私たちは意識化している。みぞの記録、そのうずを基準に置くようになってからの「音楽」の高度化は、制作品を提供する演者たち、享受する聴衆との関係の糸を、「コラージュ」によって、いろいろなように複雑にからめていくことにより、進む。

 ただ感度良好の波待ちをする、私たちの日常の無意識音感から張られたアンテナのうしろ側で、糸を張ったり、ほぐしたりする「アーティスト」。知らないあいだに倒錯する、糸のからまり、そのひだををかたち作っているのが「コラージュ」。

 日々高度化する「音楽」制作品、スピーカーから私たちに流れ込むうずとして、その表面的な伝達方式としては、不動のまま、うしろでうごめいている関係の糸がある。その配線を操る「コラージュ」。

 「コラージュ」

 フランス由来のこの言葉について辞書などで牽いてみると、まずはじめに出てくるのは、近代以降の絵画芸術の技法である、ということ。

 絵画表現の視覚的作用から、この言葉/概念、それ自体が、ひとつの独立した手法として特化されることになったという。ここでこの、今日の「音楽」にとっても本質的な、「コラージュ」の持ついろいろな効用について思い巡らすために、そんな出発点にひとまずかえって、考える必要がある。

 →続く

筆洗:Speakerboxxx/The Love Below/Outkast

  
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2005年07月17日

汝、ふと空でも見上げたくなったら某の轍を愛せよ?

不思議、大好き・・・・?

坂道×アースダイバー?






オ、オカルト・・・・!?

Y字路×坂道

筆洗:Blood On The Tracks/Bob Dylan

  
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2005年07月14日

ディラン



 予約していた「ボブ・ディラン自伝」が、今日Amazonから届いていた。

 ぼくは、近年の英語圏の中での大衆音楽について、広い意味でヒップホップ以降の系譜に連なるもの以外には、音楽としていいものが聴ける可能性をほとんど感じていない。それに比べて、30年ほど前の「ロック」音楽のオリジネータ−たちの無意識が到達した水位は、やっぱり別格的なところがある。

 そんなオリジネータ−たちの中でも、もっと別格的な光を、鈍く、ますます放ち続けているような存在はボブ・ディランだ。

 ボブ・ディランの音楽は、ぼくにとって決して大きくはない。それは森というよりは、ただの木だ。ものすごく不思議な、ただの木だ。だが、ほかのいろいろな音楽が、たとえば聴くほどに自分にとってよくわかっていったのと逆で、ぼくの場合、ボブ・ディランを最初に聴いたときこそ、いちばんそれをわかっているような気がした。そして、あまり魅力を感じなかった。

 聴くほどに、いま、それに耳をすませるほどに、それはわからなくなっていく。そして、自分にとっての魅力もまた、深まっていくのだ。こんな音楽の類は、ぼくの聴いたことのある決して多くはない音楽の中で、ボブ・ディランによる音楽だけだ。

 自分の中の謎、自分にとっての謎、あの友人の謎、会話の謎、大人たちの謎、死の謎、いろいろな謎は、知恵のようなものをつけるほどむしろ増えていく気がする。その謎たちの持っているみぞに、ゆっくりと浸透していく。ボブ・ディランのうたごえはあまりにもぶっきらぼうで、鋭く、また鈍い。

 歌詞をほとんど気にしないたちのぼくが、ただ聴いているだけでボブ・ディランの音楽にいつも感じていることが、だいたいそんなことだ。たまに気になった曲の訳詞をちらっと読んでみると、意外に、それがますますわからなくなっていく、というわけでもない。もちろん、よくわかるというわけではない。だが、音楽だけをただ聴いているときに比べて、そのわからなさについて、立体感と輪郭を与えられたような気になる。だからそれによって、なにか少し、安心するぐらいだ。

 この本の原題は「chronicles」、春先に実は原書で、既に買っていた。できの酷い語学の勉強になるかなと。ただ少しだけ読んでほっぽっておいてしまった。翻訳版が出たら一緒にみながら読もうと思っていたので。これからちびりちびりと、読んでいこう。ボブ・ディランはますます、「別格」になるだろうか?

 P.S.何か久しぶりに、ホフディランが聴きたくなってきた。(ワタナベイビーのみ)  
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2005年07月12日

自分のためにもおさらい〜トラックバックの仕方・カウンタの取り付け方(ライブドア限定)

★トラックバックの仕方

新しく記事を投稿するさい、『Blogの投稿』の階層内、「新しくBlogを投稿する」ページのいちばん下にある「トラックバック先のURL」の欄に、相手のブログ先の「 この記事へのトラックバックURL」を入力して、投稿する。

で、「トラックバック」って結局なんなんだ?

★ カウンタの取り付け方

『Blogの設定/管理』の階層内、「プラグインの追加」ページから「上級者向けプラグイン」を選択、「フリーエリア」を追加。

済んだら「プラグインの設定」ページに移動して、追加された「フリーエリア」の項目の「設定」を選択、「本文」の欄に、カウンタレンタル先から指定されたソースを入力し、「設定する」を選択。

最後に「ブログの再構築」ページに移動、再構築する項目を選択し、「再構築する」ボタンをクリック!

□bloghajimeのカウンタレンタル先:「Count EX」 http://countex.ddo.jp/

で、ございます。了。  
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2005年07月10日

映画のバトンがまわってくる

 疲労と偏頭痛と腰痛でやられていたところに、夏かぜをひいてしましました。ああ。微々・朦朧です。「SHERBETSの印象」が一段落した浅井健一ネタも、微々・たまっています。でもちょい待ち。blues1974さんから、「映画のタスキ」とやらがまわってきました。アーオ!そこで、ふやけた脳で思い出してみること数分。


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□過去1年間で一番笑った映画

 
『博士の異常な愛情/または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(スタンリー・キューブリック監督,1964年)

 みたのは何度目か忘れましたが、まあお笑いですね。「平和」ってなんでしょう。こういう映画を笑って鑑賞できるときのことを言うんでしょうか?そうだとしたら、それは哀しいことなのかしら。


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□過去1年間で一番泣いた映画

 泣かないぞェ   ということで・・・・ナシ。

 blues1974さんの挙げている『道』、なんか、いいかんじの映画(ビデオ)ですよね。でも、泣かないぞェ。蛇足ですがカエターノ・ヴェローゾの『フェリーニへのオマージュ』というアルバムは、名盤!です。


Omaggio a Federico E Giulietta/CAETANO VELOSO



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□心の中に別に常にあるわけではないが、5つの映画

 
『マルホランド・ドライブ』(デビット・リンチ監督,2001年)

 
『シャンドライの恋』(ベルナルド・ベルトルッチ 監督,2000年)

 
『シティ・オブ・ゴッド』(フェルナンド・メイレレス監督,2002年)

 
『千と千尋の神隠し』(宮崎駿監督,2001年)

 
『ファイト・クラブ』(デビット ・フィンチャー監督,1999年)

 

 ベタ・・・でしょう?いまこれぐらいしか思いつかないんです。でもまぁ、思いつくのほど心には残っているんだろう、ということですね。いいものはいいんです。どうやらblues1974さんにバトンを渡したonomichi1969さんのブログでも、「恋愛映画ベスト5」で『マルホランド・ドライブ』は挙げてらっしゃる。。。。ようだが、『シャンドライの恋』と『シティ・オブ・ゴッド』はあまりベタそうでもないかな?ということでミニ紹介コーナー。


 『シャンドライの恋』は、恋愛映画の小品です。監督はご存知ベルトリッチ監督ですね。代表作は『ラスト・タンゴ・イン・パリ』『ラスト・エンペラー』『ドリーマーズ』など。舞台は、ほとんど螺旋階段のあるアパートの中だけです。才能のない(と思い込んでいる)、口下手なピアニストと、戦争で留置所に入れられた夫を、故郷に残してきたアフリカ人女性の、恋。

 ビター。どことなく気の合う、異性と一緒にみるのは如何が?


 『シティ・オブ・ゴッド』は、ブラジルの、極端な括り方をするとバイオレンス映画なんですが、60年代から80年代へのリオのスラム街での少年強盗・麻薬取り引き集団の抗争を、映像による時間軸の交差を駆使して、スピーディーに力技でみせつけられます。大・大・大傑作です。少年たちがピストルで撃たれまくりますが、ぜひ興味ある人はみて下さい。

 ドライ。よく気の合う、同性と一緒にみるのは如何が?


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□観たい映画

 『吉本隆明の日常』



 誰か撮ってくれないかしら。そして、世界に残してくれないかしら。彼のまさに現在を。テレビをみながら、足腰のリハビリをしながら、「思想」の生まれる瞬間でも。。。。観たい。

 ほぼ日「まかないめし。居間でしゃべったまんまのインタビュー。」
 ほぼ日「まかないめし。二膳目。」
 ほぼ日「まかないめし。番外。」


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□このタスキをつなぐ

 以上、blues1974さんに比べ断然タンパクな気もしますが、如何でしょうか。それは気のせいということで、ご勘弁を。アーオ!まわす人が、こう、なかなか、いないんではないか?すいません、CMお好きなJummyさん、映像全般つながりということで、このバトンの種子を受け取ってくれないかしら?blues1974さんも言っている通り、バトンだし、1名でもいいんじゃないかしら?お願いします。

 ・「HYPER BALLADS」(Jummyさん)

 もちろんスルー上等でございます。  
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2005年07月03日

グミぞく

ちかごろやたらとグミがいっぱい売っています。

そういうお店でバイトしてたときは、グミなんてぜんぜん売れなかったし、仕入れなかったし、まったくの氷河期だった。

ぼくは昔から大好きなので、うれしいと同時に、種類がありすぎて、逆に少し申し訳ないようなきぶんになってきます。

レイハラカミのところで書いたみたいに、グミ状のものは弾力があって、運動がいちいちはねかえってくる。柔らかいからって、それはただ受け身を支えるだけじゃなく、受け身を支えつつ、鏡として、こちらの運動に甘味を加え、はねかえしてくる。

こういう感触はなにか、替え難い感じがする。気張るわけでもなく、癒されるわけでもなく、ただまぎれもない自発的なリズムが口の中の空間を出たり入ったりして、胸や頭の奥までいろいろなところまで拡がり、気分の波を、少し中空の高いところに、落ち着かせる。

さいきん見たらポンジュース・グミ(グレープフルーツ)味が売っていました。ポンジュースのそんな味を、そもそも見たことはない気がするが。

いいな。と思ったけど、ゼスプリゴールドキウイグミとやらを、買いました。「ポン・グレ」はまた今度の機会に。

筆洗:1974/ロス・バン・バン  
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2005年06月29日

第22回:SHERBETSの印象(7)



 そして、SHERBETSというバンドの表現する音楽が、浅井健一の内的世界のイメージを純粋に近い状態で抽出し結晶化していくという、そのような印象を聴き手に与えるのもまた、事実である。

 ただ、SHERBETSの演奏する音楽の全体像の印象を、掘り下げてみようと少し冷静になって、その音楽を構成している各々のパートに少しでも耳を傾けてみると、たとえ印象の範囲内でも、浅井健一のギター核の運動に対して、アンサンブルがただ追随していく「凝固」過程から、ギター核の強力な求心力が一種のブラックホールとして、理性の臨海点を越えてしまったアンサンブルが呑み込まれ、各々の軌道を失っていく「分散」過程に移っていくことが、分かるはずだ。

 だから、その音楽が「結晶化」というような状態についての印象を与える一番の要因としては、つまり、全体の音像としての「凝固」と「分散」の運動過程が、はっきりと音楽に表れてしまっているところにあると、考えておいて間違いはない。ただしその場合、それがバンドとしての意志によるものである、という状態ではなくて、単純に、アンサンブルとしてのバランスが崩れて、起こってしまっている状況のものであるということも、確認しておいた方がいい。たとえ浅井健一の内的世界のイメージが尊重されているといっても、それがバンドとしての力で抽出されたものでは、決してない、ということだ。

 『VIETNAM1964』でSHERBETSは、そういう次元での表現形態としての完成を、一応している。そこでは完成の代償として、アンサンブルが「凝固」するも「分散」するも、どちらにしても全てがギター核のブラックホールの中で起こっている、同じ「結晶化」状態にかわらない音楽として、表現が生まれるようになっている。

 おそらくその先の地平には、どのような景色もなかっただろう。ここで浅井健一は必ずしも、純粋な内的世界だけを表現しようとしているわけではないだろう。しかし何をやろうとも、圧縮された、閉塞世界がかたち作られるため、音像としての擬似的な内的世界ができあがる。SHERBETSの音楽を聴くときに、ある種の退屈さを感じるとしたら、それはもし聴き手が、その閉塞世界をただ外側から眺めるしかないような精神の状態の場合、聴き手とその世界との間の距離の結び方が、常に一定で、そこにほとんど動きがないからではないだろうか。閉塞世界とは、まず主題で、人を選ぼうとしてしまう世界のことである。

 そして、最初にSHERBETSの世界はギターの独裁世界だといったが、この頃の浅井健一の表現の求心力が、いろいろなレベルでの欲求をいつにもまして抱えていたからこそ、このような奇態の音楽が生まれたのかもしれない。今年、それから3年以上のブランクをおいてリリースされた『NATURAL』では、その核としてあった求心力を、抑えているのか、失っているのか、どちらにしろ以前の臨海点で「分散」したままのアンサンブルは、そのまま宙空間に漂ったまま、音楽となって奏でられている。

 まだそこに漂よい続けるのか、また別の地点から「結晶化」しようとするのか、ともかく、SHERBETSというプロジェクトは再び始動するらしい。ブラックホールがどうなったのか、現時点でそこにはただ、宙空間だけが見える。

筆洗:Mutations/Beck

  
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エターナル・サンシャイン



観た。

面白かった。

あぁ、面白かった。

面白かった。心から。

今年はまだ数えるほどしか映画は観ていないけど、上半期みた中では一番面白かったです。オススメ。  
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