blue2012のblog

 忌人は、師の伊波比毘登(イハヒビト)と訓(ヨマ)れたるぞ宜(ヨロ)しき、此訓(コノヨミ)は黒田ノ宮ノ段に、伊波比辨(イハヒベ)を忌瓮と書るにて定むべし、凡(スベ)て伊波布(イハフ)と伊牟(イム)と本同言にて、齋ノ字をも書て、【後生には、忌ノ字をば伊牟(イム)とのみ訓て、伊波布には齋ノ字祝ノ字などをのみ書ケども、齋を毛能伊美(モノイミ)とも訓ムを以て、同言なるを知るべし、】諸(モロモロ)の凶惡事(マガコト)汙穢事(キタナキコト)などを忌避(イミサケ)て、萬ヅを愼(ツツシ)むを云なり、故(カ)レ多く神に仕奉る事に言(イヘ)り、【後生には伊波布(イハフ)とは壽(コトホ)ぐ事をいひ、伊牟(イム)とはたゞ嫌惡(キラヒニクミ)て去(サル)ことをのみ云て、反對(ウラウヘ)なる如くなれれども、壽(コトホグ)を云も、其人其物を吉(ヨ)からしめむと願ふにつきて、凶惡事(マガコト)を嫌去(キラヒサリ)て、愼む意より轉(ウツ)り、又たゞ嫌去(キラヒサル)を伊牟(イム)と云も、凶惡事(マガコト)を嫌去(キラヒサル)より轉(ウツ)れるにて、本は一ツ意なり、】

 (中略)

 さて此(ここ)の忌人は、書紀にも、吾當為汝輔之奉典神祇者(アレハミマシヲタスケテイハヒビトトナリテツカヘマツラム)と有て、天皇の御親(ミミヅカラ)行ひ給ふ御神業(ミカムワザ)を、扶輔(タスケ)奉り給ふ職(つかさ)を云なり、…其ノ御扶輔(ミタスケ)を為(シ)給ふなれば、甚々(イトイト)重き職掌(ツカサ)にぞ有える、上に扶汝命と言ひ、書紀にも為汝輔、とあるに心を着(ツク)べきものぞ、【齋主(イハヒヌシ)と云ハずして、齋人(イハヒビト)と云るは、如何(イカ)にと云に齋主は、中臣忌部などの諸(モロモロ)の神職(カムツカサ)を總師(スベヒキヰ)て仕奉る職なる故に、主と云を、今此ノ神八井耳命の仕ヘ奉リ賜ふは、然には非ず、天皇の御自(ミミズカ)ら仕ヘ奉リ賜ふ御事(ミワザ)を、扶(タスケ)奉リ給ふ方の職なる故に、主とは稱ざるなり、】

 (中略)

  日子八井ノ命、書紀には此ノ皇子(ミコ)無し、姓氏録には神八井耳ノ命ノ男彦八井耳ノ命とあり、【其文は下に引べし、舊事記にも、御名は彦八井耳ノ命とありて、神渟名川耳尊の御弟とせり、】故レ思フに、此命若シ白檮原朝(カシバラノミカド)の皇子ならましかば、御兄弟等(ミハラカラタチ)の當藝志耳命(タギシミミノミコト)を殺し賜ふ時に、必ズ出デ給はましを、其ノ段には唯二柱のみにて、此命は見え給はぬを思へば、書記の方正しくて、姓氏録に見えたる如く、實は神八井耳命の御子にぞ坐けむ、然るを此記に其ノ兄弟としもせるは、混(マギ)れたる傳ヘなるべし、其ノまぎれは、此ノ命御齢(ミヨハヒ)長(オトナ)しく、勇(イサミ)などの優(マサ)りて、父命よりは、御威名(ミイキホヒ)も殊に高くありし故なるべし、されば姓氏録に、茨田(マムタ)ノ連など、たゞに神八井耳命之後とのみいはずして、その男彦八井耳命之後と、此ノ御名をしも擧(アグ)るは、彼ノ氏々、此ノ命を以テ本祖(モトツオヤ)とする故なるべし、



 引用した部分における宣長の要点は、
①「齋(祝)ふ」と「忌む」は、本来同言である。「齋(祝)う」とは寿(ことほ)ぐことであり、まがごとを取り除き慎むことであるから「忌む」と同じである。よって、「忌人」は「いはひびと」と読むのがよい。
②「忌人」は天皇自ら行う神業を助ける職である。(後の)中臣忌部氏などのようにすべての神職を統括するものとは異なるために、「齋主」でなく「齋人」としている。
③日子八井命は、「姓氏録」の記述や、当芸志美々の謀反に登場しないことなどから、神八井耳命の子であると思われる。茨田連などがその祖としたのは、日子八井命が齢長く、武勇にも秀でていたからである。
 ①~③いずれも明快な解釈であり、殊に③については(記紀の兄弟数の違いについてずっと考えあぐねていたが)宣長の判断で迷いが消えた。


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 神渟名川耳天皇(かむぬなかはみみのすめらみこと)は神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)の第三子なり。母は媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)と曰(まを)し、事代主命の大女(えむすめ)なり。天皇、風姿岐嶷(ふうしぎぎょく)、少(わか)くして雄抜之気有(ををしきいきさしま)します。壮(をとこざかり)に及(いた)りて容貌魁偉(ようぼうくわいゐ)、武芸人に過ぎて、志尚沈毅(ししょうしんき)にまします。四十八歳に至り、神日本磐余彦天皇崩(かむあが)ります。時に神渟名川耳尊、孝性純(もはら)に深く、悲慕已むこと無し。特(こと)に心(みこころ)を喪葬(みはぶり)の事(わざ)に留めたまへり。其の庶兄(ままえ)手研耳命(たぎしみみのみこと)、行年(とし)已に長(た)け、久しく朝機を歴(へ)たり。故(かれ)、亦事を委ねて親(みづか)らせしむ。然(しか)るを其の王(きみ)、立操厝懐(りっそうそかい)、本より仁義に乖(そむ)き、遂に以ちて諒闇(りやうあん)の際に、威福自由(いふくほしいまま)なり。禍心(くわしん)に苞蔵(つつ)みて、二弟(ふたりのおと)を害(そこな)はむことを図る。時に太歳己卯(たいさいきばう)にあり。

(…庶兄の手研耳命は年長であって、長らく朝政の経験があった。そこでまた政事を委任して親政を行わせた。しかしこの命〈みこと〉は、性質や心構えがもともと仁義の道に背いており、ついに天子の福喪の間にも権力と幸福をほしいままにした。邪心を内に包み隠して、二人の弟を殺害しようと企んだ。時に、太歳は己卯であった。)

 冬十一月に、神渟名川耳尊と兄(え)神八井耳命は陰(ひそか)に其の志を知らしめして、善く防きたまふ。山陵(みささぎ)の事(わざ)畢(をは)るに至り、乃ち弓部稚彦(ゆげのわかひこ)をして弓を造らしめ、倭鍛部天津真浦(やまとのかぬちあまのまうら)をして真麛鏃(まかごのやさき)を造らしめ、矢部(やはき)をして箭(や)を作(は)かしめたまふ。弓矢既に成るに及(いた)りて、神渟名川耳尊、以ちて手研耳命を射殺さむとと欲(おもほ)す。会(たまたま)、手研耳命片丘の大窨(おほむろ)の中に有り、独り大牀(おほとこ)に臥せり。時に、渟名川耳尊、以ちて神八井耳命に謂(かた)りて曰(のたま)はく、「今し、適(たまたま)其の時なり。夫れ、言(こと)は密(ひそか)なることを貴(たふと)び、事(わざ)は慎むべし。故(かれ)、我が陰謀(ひそかなるはかりごと)に、本より預れる者(ひと)無し。今日の事、唯に吾と爾(いまし)と自ら行はまくのみ。吾先づ窨(むろ)の戸を開かむ。爾其れ射よ」とのたまふ。因りて相随(あひしたが)ひて進入(すす)み、神渟名川耳尊其の戸を突開きたまふ。神八井耳命則ち手脚戦慄(をのの)き、矢を放つこと能はず。時に神渟名川耳尊、其の兄の持てる弓矢を掣取(ひきと)りて、手研耳命を射たまふ。一発(ひとさ)に胸に中(あ)て、再発(ふたさ)に背(そびら)に中(あ)て、遂に殺したまふ。是(ここ)に神八井耳命、懣然(もだ)えて自服(したが)ひぬ。神渟名川耳尊に譲りて曰(まを)さく、「吾は是(これ)乃(いまし)の兄(え)なれども、懦弱(をぢな)くして果(なり)を致すこと能はず。今し汝(いましみこと)特挺(すぐ)れて神武(たけ)くして、自ら元悪(あた)を誅(つみな)ふ。宜(うべ)なるかも、汝天位(たかみくら)に光臨(のぞ)みて皇祖(みおや)の業(つぎて)を承(う)けむこと。吾は汝(いましみこと)の輔(たすけ)と為りて、神祇(あまつかみくにつかみ)を奉典(つかさどりまつ)らむとまをす。是即ち多臣(おほのおみ)が始祖(はじめのおや)なり。

(…「私はあなたの兄ですが、臆病であって成果をあげることができないでしょう。今あなたはとくに衆にぬきんでて武勇にすぐれていて、自ら大悪人を誅伐された。これからは、あなたが天皇の位に即〈つ〉いて皇祖の業を受け継ぐのが至当です。私はあなたを助けて、天神地祇を奉斎いたしましょう」と申し上げました。これはつまり多臣の始祖である。

『古事記』に比べると、
①史書として当然ではあるが、神渟名川耳尊を讃える視点で書かれている。
②漢文調で中国史書の影響も多いと思われるが、手研耳命の悪行や武具の詳細等、より踏み込んだ描写がなされている。
③時は11月、場所は「片丘の大
窨(穴ぐら)」となっている。
④神八井耳命については、「忌人(いはひびと)」という言葉はないが
、「汝の輔(たすけ)と為りて、神祇(あまつかみくにつかみ)を奉典(つかさどりまつ)らむ」と述べている
⑤『古事記』の「意富臣(おほのおみ)」は、ここでは「多臣」と表記され、また他の氏族は示されていない。

 是(ここ)に、其の御子、聞き知りて驚きて、乃ち当芸志美々(たぎしみみ)を殺さむと為(せ)し時に、神沼河耳命、其の兄(え)神八井耳命に白(まを)ししく、「なね、汝(なが)命(みこと)、兵(つはもの)を持ち入りて、当芸志美々を殺せ」とまをしき。故(かれ)、兵を持ち入りて、殺さむとせし時に、手足わななきて、殺すことを得ず。故(かれ)爾(しか)くして、其の弟(おと)神沼河耳命、其の兄の持てる兵を乞ひ取りて、入りて当芸志美々を殺しき。故、、亦、其の御名(みな)を称へて建沼河耳命(たけぬなかはみみのみこと)と謂ふ。
 爾くして、神八井耳命、弟(おと)建沼河耳命に譲りて曰(い)ひしく、「吾(あれ)は、仇(あた)を殺すこと能はず。汝命(ながみこと)、既に仇を殺すこと得つ。故、吾は、兄なれども、上(かみ)と為るべくあらず。是(ここ)を以(もち)て、汝命、上と為りて天の下を治(をさ)めよ。僕(やつかれ)は、汝命を扶(たす)け、忌人(いはひひと)と為(し)て、仕へ奉(まつ)らむ」といひき。

〈全集校注〉
(忌人)身を慎んで吉事を招き求める役。イハフは、神の加護を願って、身を清め慎むの意。
〈大系校注〉
(忌人)斎(イハヒ)人の意で、神祇を祭る人である。神武紀には顕斎にウツシイハヒ、斎にイハヒの訓注がある。
〈集成校注〉
(忌人)神を祭る人。この神八井耳命の発言内容は、末子相承の理由づけになってはいるが、あるいは弟に統治権が、兄に祭祀権があったことを表すものか。

 神八井耳命が弟建沼河耳命に皇位を譲り、自ら就いた「忌人(いはひびと)」とはどのような存在か。
 この問いこそがブログを始めた動機であり、神八井耳命はこの物語の主人公である。そして、下に記す十九もの神八井耳命を祖とする氏族。これらの氏族はどのようにつながり、広がっていったのか。少しずつ紐解いていけたらと思う。


 神八井耳命は、意富臣(おほのおみ)、小子部連(ちひさこべのむらじ)、坂合部連(さかひべのむらじ)、火君(ひのきみ)、大分君(おほきだのきみ)、阿蘇君(あそのきみ)、筑紫三家連(ちくしのみやけのむらじ)、雀部臣(さざきべのおみ)、雀部造(さざきべのみやつこ)、小長谷造(をはつせのみこと)、都祁直(つけのあたひ)、伊予国造(いよのくにのみやつこ)、科野国造(しなののくにのみやつこ)、道奥石城国造(みちのくのいはきのくにのみやつこ)、常道仲国造(ひたちのなかのくにのみやつこ)、長狭国造(ながさのくにのみやつこ)、伊勢船木直(いせのふなぎのあたひ)、尾張丹羽臣(をはりのにはのおみ)、島田臣(しまだのおみ)等(ら)が祖(おや)ぞ。

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