庚申年(こうしんのとし)秋八月の癸丑(きちゅう)の朔(つきたち)にして戊辰(ぼしん)に、天皇(すめらみこと)正妃(むかひめ)を立てむとし、改めて広く華冑(くわちう)を求めたまふ。時に人有りて奏(まを)して曰(まほ)さく、「事代主神、三島溝橛耳神(みしまのみぞくひのみみのかみ)の女(みむすめ)玉櫛媛(たまくしひめ)に共(あ)ひて生める児(みこ)、号(なづ)けて媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)と曰(まを)す。是(これ)、国色之秀者(かほすぐれたるひと)なり」とまをす。天皇悦びたまふ。
 九月の壬午(じんご)の朔にして乙巳(いつし)に、媛蹈鞴五十鈴媛命を納(い)れて正妃(むかひめ)としたまふ。(全集『日本書紀』巻第三)


〈全集訳・校注〉
 庚申の年秋八月の癸丑朔の戊辰(十六日)に、天皇は正妃を立てようとして、改めて広く貴族の子女を求められた。その時ある人が奏上して、「事代主神が三島溝橛耳神の御女玉櫛媛を娶ってお生みになった児(みこ)を、媛蹈鞴五十鈴媛命と申します。この方は大変容姿が秀麗でございます」と申し上げた。天皇はたいそうお喜びになった。
 九月の壬午の朔のにして乙巳に、媛蹈鞴五十鈴媛命を宮中に召して正妃とされた。
(三島溝橛耳神女)
 神代紀上は「三島溝樴姫」。「三島」は大阪府茨木市・高槻市を中心とする地域。茨木市に溝咋神社が残る。ミゾクヒ姫はいわゆる流れ矢伝説の女主人公の名で巫女(ふじよ)的性格をもつ。ここの「耳」は「霊みみ」の意。

(全集『日本書紀』巻第一神代紀上)
 「吾は日本国(やまとのくに)三諸山(みもろのやま)に住(とどま)らむと欲(おも)ふ。」故(かれ)、即ち宮を彼処(そこ)に営(つく)り、就(ゆ)きて居(ま)しまさしむ。此(これ)大三輪の神なり。此の神の子、即ち甘茂君等(かものきみたち)・大三輪君達(おおみわのきみたち)・又媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)なり。又曰く、事代主神、八尋熊鰐(やひろくまわに)に化為(な)り、三島溝樴姫に通ひたまひて、或に云はく、玉櫛姫といふ、児(みこ)媛蹈鞴五十鈴媛命を生みたまふ。是、神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといはれびこほほでみのすめらみこと)の后と為る。

 「ここでは五十鈴姫の父は事代主神、前々行では大三輪の神が父となっているが、要するに五十鈴姫が神の子であることを示している」(全集校注)。『記紀』でいう「大物主命・事代主神」はいずれも現身(うつしみ)というよりはその御霊(みたま)を指しているといえるが、今後『先代旧辞本紀』や『出雲国造神賀詞』もふまえていくならば、「事代主神」と見るのが妥当である。
 母については、『記』
が勢夜陀多良比売、『紀』が
玉櫛媛、三島溝樴姫となっているが、いずれもその物語や出自から命名されたものであることが分かる。
 そして姫の名も
、『記』の
比売多々良伊須気余理比売(神霊が加護し寄り付く姫)」、『紀』の「媛蹈鞴五十鈴媛命(蹈鞴〈足踏み式のふいご〉で鈴がたくさんついている姫)」いずれがよいか、物語性と史実を調和させつつ、これも神(かむ)ながらの道、自ずと定めていきたい

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