忌人は、師の伊波比毘登(イハヒビト)と訓(ヨマ)れたるぞ宜(ヨロ)しき、此訓(コノヨミ)は黒田ノ宮ノ段に、伊波比辨(イハヒベ)を忌瓮と書るにて定むべし、凡(スベ)て伊波布(イハフ)と伊牟(イム)と本同言にて、齋ノ字をも書て、【後生には、忌ノ字をば伊牟(イム)とのみ訓て、伊波布には齋ノ字祝ノ字などをのみ書ケども、齋を毛能伊美(モノイミ)とも訓ムを以て、同言なるを知るべし、】諸(モロモロ)の凶惡事(マガコト)汙穢事(キタナキコト)などを忌避(イミサケ)て、萬ヅを愼(ツツシ)むを云なり、故(カ)レ多く神に仕奉る事に言(イヘ)り、【後生には伊波布(イハフ)とは壽(コトホ)ぐ事をいひ、伊牟(イム)とはたゞ嫌惡(キラヒニクミ)て去(サル)ことをのみ云て、反對(ウラウヘ)なる如くなれれども、壽(コトホグ)を云も、其人其物を吉(ヨ)からしめむと願ふにつきて、凶惡事(マガコト)を嫌去(キラヒサリ)て、愼む意より轉(ウツ)り、又たゞ嫌去(キラヒサル)を伊牟(イム)と云も、凶惡事(マガコト)を嫌去(キラヒサル)より轉(ウツ)れるにて、本は一ツ意なり、】

 (中略)

 さて此(ここ)の忌人は、書紀にも、吾當為汝輔之奉典神祇者(アレハミマシヲタスケテイハヒビトトナリテツカヘマツラム)と有て、天皇の御親(ミミヅカラ)行ひ給ふ御神業(ミカムワザ)を、扶輔(タスケ)奉り給ふ職(つかさ)を云なり、…其ノ御扶輔(ミタスケ)を為(シ)給ふなれば、甚々(イトイト)重き職掌(ツカサ)にぞ有える、上に扶汝命と言ひ、書紀にも為汝輔、とあるに心を着(ツク)べきものぞ、【齋主(イハヒヌシ)と云ハずして、齋人(イハヒビト)と云るは、如何(イカ)にと云に齋主は、中臣忌部などの諸(モロモロ)の神職(カムツカサ)を總師(スベヒキヰ)て仕奉る職なる故に、主と云を、今此ノ神八井耳命の仕ヘ奉リ賜ふは、然には非ず、天皇の御自(ミミズカ)ら仕ヘ奉リ賜ふ御事(ミワザ)を、扶(タスケ)奉リ給ふ方の職なる故に、主とは稱ざるなり、】

 (中略)

  日子八井ノ命、書紀には此ノ皇子(ミコ)無し、姓氏録には神八井耳ノ命ノ男彦八井耳ノ命とあり、【其文は下に引べし、舊事記にも、御名は彦八井耳ノ命とありて、神渟名川耳尊の御弟とせり、】故レ思フに、此命若シ白檮原朝(カシバラノミカド)の皇子ならましかば、御兄弟等(ミハラカラタチ)の當藝志耳命(タギシミミノミコト)を殺し賜ふ時に、必ズ出デ給はましを、其ノ段には唯二柱のみにて、此命は見え給はぬを思へば、書記の方正しくて、姓氏録に見えたる如く、實は神八井耳命の御子にぞ坐けむ、然るを此記に其ノ兄弟としもせるは、混(マギ)れたる傳ヘなるべし、其ノまぎれは、此ノ命御齢(ミヨハヒ)長(オトナ)しく、勇(イサミ)などの優(マサ)りて、父命よりは、御威名(ミイキホヒ)も殊に高くありし故なるべし、されば姓氏録に、茨田(マムタ)ノ連など、たゞに神八井耳命之後とのみいはずして、その男彦八井耳命之後と、此ノ御名をしも擧(アグ)るは、彼ノ氏々、此ノ命を以テ本祖(モトツオヤ)とする故なるべし、



 引用した部分における宣長の要点は、
①「齋(祝)ふ」と「忌む」は、本来同言である。「齋(祝)う」とは寿(ことほ)ぐことであり、まがごとを取り除き慎むことであるから「忌む」と同じである。よって、「忌人」は「いはひびと」と読むのがよい。
②「忌人」は天皇自ら行う神業を助ける職である。(後の)中臣忌部氏などのようにすべての神職を統括するものとは異なるために、「齋主」でなく「齋人」としている。
③日子八井命は、「姓氏録」の記述や、当芸志美々の謀反に登場しないことなどから、神八井耳命の子であると思われる。茨田連などがその祖としたのは、日子八井命が齢長く、武勇にも秀でていたからである。
 ①~③いずれも明快な解釈であり、殊に③については(記紀の兄弟数の違いについてずっと考えあぐねていたが)宣長の判断で迷いが消えた。


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