福岡県筑紫郡那珂川町の古代用水路、裂田溝(さくたのうなで)です。
その難工事の様子は日本書紀に「大岩が立ち塞がった」と書かれています。
伝説によると3世紀、神功皇后(じんぐうこうごう)は三韓遠征の際に安徳村に立ち寄り、旅の安全と戦いの勝利を祈り、那珂川から玄界灘へ船出しました。
戦いに勝利し無事に帰ってきた皇后は、神々へお礼のお米を捧げるために新田を開き、溝の建設を命じました。しかし安徳台のあたりまで溝を掘り進むと、硬い岩盤にあたって掘り進めなくなりました。皇后は竹内宿禰という家来に命じて溝を通してくれるように神々に祈りました。すると硬い大岩に雷が落ちて岩が裂けてしまいました。完成した溝は現代まで千数百年もの間、那珂川の村々をうるおし続けています。
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神功皇后を祀った裂田神社
裂田神社の裏を流れる裂田溝
ここが日本書紀に記載されている「大岩が立ち塞がった」場所です。
西側に広がる台地「安徳台」。日本書紀に登場する「迹驚岡」(とどろきのおか)です。
9万年前の阿蘇噴火による火砕流体積により形成された台地です。
ここでは弥生時代中期の大型住居跡や首長の墓とその副葬品が見つかり、魏志倭人伝に登場する「奴国」を支えた大集落があったことがわかりました。
また平安時代に都を逃れてきた安徳天皇が「仮御所」を構えた場所とも伝えられています。
安徳台は私有地なので入れません。
安徳台の北側、王塚台にある「安徳大塚古墳」。
4世紀の前方後円墳です。
1971年に発掘調査され、埴輪、土師器、鉄剣などが発見されています。
裂田溝の起点、「一の井手」に近いところです。
神功皇后の御立石
神功皇后が溝の開削を祈願したと言い伝えられている舟形の石。
国道385号線の下をくぐると、那珂川の取水口「一の井手」です。
昭和62年の改修工事記念碑
一の井手跡碑
案内板より
裂田溝はこの山田地区から安徳・仲を経て今光にいたる総延長約5kmに及ぶ古代の人口水路です。ここは那珂川から水を引くための取水口で、地元では「唐戸」(からと)と呼ばれています。取水口を通った水は足元をくぐり裂田溝へ流れており、ここを始点として、本町を代表する文化財である長大な古代水路が始まります。
裂田溝に取水するために築かれた井堰は「一の井手」といい、現在は後ろに見えるかたちに改修されていますが、江戸時代の書物「筑前国続風土記」によると「筑前国最大の大井手」と記されています。いつごろ造られたのかわかっていませんが、昭和24年の大水害で「正徳四年」(1714年)の文字が刻まれた水門が発見されています。改修前の井手は、川に対して斜めに築くことで取水口に土砂が堆積しにくい優れた構造になっており、その一部は今も川底に眠り続けているため、水位が下がると所々にその名残を見せてくれます。
裂田溝が造られた時点でどのような井堰があったのかはわかりませんが、取水するために何らかの施設が造られたことは間違いありません。当初の井堰は、一体どのようなものだったのでしょうか。
ここから裂田溝に取水します。
「一の井手」の前に国道385号線を隔てて建つ伏見神社。
裂田溝を造ったと伝えられている神功皇后を祭っています。
神功皇后三韓遠征を描いた絵馬
なまずの絵馬
地元では神功皇后が三韓遠征の際、なまずが現れて船を先導し無事帰還できたといわれています。
それによりなまずは神の使いの魚として大切にされるようになりました。
(那珂川町郷土史研究会「探訪なかがわ」より)
伏見神社から一の井手を撮影
本宮さま
伏見神社前の那珂川の川べりに、しめ縄を張った大楠と石像があります。
ここは「本宮さま」といい、慶安元年(1648年)、筑前二代藩主黒田忠之公のときに現在の位置にお社を建立するまで伏見神社があったところです。現在の拝殿は、天保4年(1833年)に再建されています。
(那珂川町郷土史研究会「探訪なかがわ」より)
現人神社(あらひとじんじゃ)
神功皇后の三韓遠征の際、軍船の舳先に、現人宮の御祭神である住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命) の大神が現れて進路を導き、皇后は無事に凱旋できました。
無事凱旋した皇后は現人宮を訪れて現人大明神の尊号を授け、摂津の住吉大社に和魂を祀り、1200年前福岡の住吉宮に分霊されました。
案内板より
現人大明神の鳥居
この鳥居は、明神鳥居とよばれる形式のもので、高さが5.15m、柱の幅が4.2mあり、年号のある鳥居では、那珂川町の中でもっとも古いものです。
また、現在鳥居の中央に付いている額は、明治のはじめの廃仏思想の風潮が盛んな頃に付け替えられたもので、もともと付いていた「現人大明神」と書かれた額は、外されて拝殿横に保存されています。
神社の略史によると、元禄の頃から那珂川の領主であった黒田靭負重実が、神田を寄進して神社の復興につくしたとあります。そして、十二ヶ村の氏子達の協力を得て現在の神殿・拝殿を建立し、鳥居の銘にあるように正徳4年(1714年)の初夏にはこの鳥居が建てられました。
その難工事の様子は日本書紀に「大岩が立ち塞がった」と書かれています。
伝説によると3世紀、神功皇后(じんぐうこうごう)は三韓遠征の際に安徳村に立ち寄り、旅の安全と戦いの勝利を祈り、那珂川から玄界灘へ船出しました。
戦いに勝利し無事に帰ってきた皇后は、神々へお礼のお米を捧げるために新田を開き、溝の建設を命じました。しかし安徳台のあたりまで溝を掘り進むと、硬い岩盤にあたって掘り進めなくなりました。皇后は竹内宿禰という家来に命じて溝を通してくれるように神々に祈りました。すると硬い大岩に雷が落ちて岩が裂けてしまいました。完成した溝は現代まで千数百年もの間、那珂川の村々をうるおし続けています。
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神功皇后を祀った裂田神社
裂田神社の裏を流れる裂田溝
ここが日本書紀に記載されている「大岩が立ち塞がった」場所です。
西側に広がる台地「安徳台」。日本書紀に登場する「迹驚岡」(とどろきのおか)です。
9万年前の阿蘇噴火による火砕流体積により形成された台地です。
ここでは弥生時代中期の大型住居跡や首長の墓とその副葬品が見つかり、魏志倭人伝に登場する「奴国」を支えた大集落があったことがわかりました。
また平安時代に都を逃れてきた安徳天皇が「仮御所」を構えた場所とも伝えられています。
安徳台は私有地なので入れません。
安徳台の北側、王塚台にある「安徳大塚古墳」。
4世紀の前方後円墳です。
1971年に発掘調査され、埴輪、土師器、鉄剣などが発見されています。
裂田溝の起点、「一の井手」に近いところです。
神功皇后の御立石
神功皇后が溝の開削を祈願したと言い伝えられている舟形の石。
国道385号線の下をくぐると、那珂川の取水口「一の井手」です。
昭和62年の改修工事記念碑
一の井手跡碑
案内板より
裂田溝はこの山田地区から安徳・仲を経て今光にいたる総延長約5kmに及ぶ古代の人口水路です。ここは那珂川から水を引くための取水口で、地元では「唐戸」(からと)と呼ばれています。取水口を通った水は足元をくぐり裂田溝へ流れており、ここを始点として、本町を代表する文化財である長大な古代水路が始まります。
裂田溝に取水するために築かれた井堰は「一の井手」といい、現在は後ろに見えるかたちに改修されていますが、江戸時代の書物「筑前国続風土記」によると「筑前国最大の大井手」と記されています。いつごろ造られたのかわかっていませんが、昭和24年の大水害で「正徳四年」(1714年)の文字が刻まれた水門が発見されています。改修前の井手は、川に対して斜めに築くことで取水口に土砂が堆積しにくい優れた構造になっており、その一部は今も川底に眠り続けているため、水位が下がると所々にその名残を見せてくれます。
裂田溝が造られた時点でどのような井堰があったのかはわかりませんが、取水するために何らかの施設が造られたことは間違いありません。当初の井堰は、一体どのようなものだったのでしょうか。
ここから裂田溝に取水します。
「一の井手」の前に国道385号線を隔てて建つ伏見神社。
裂田溝を造ったと伝えられている神功皇后を祭っています。
神功皇后三韓遠征を描いた絵馬
なまずの絵馬
地元では神功皇后が三韓遠征の際、なまずが現れて船を先導し無事帰還できたといわれています。
それによりなまずは神の使いの魚として大切にされるようになりました。
(那珂川町郷土史研究会「探訪なかがわ」より)
伏見神社から一の井手を撮影
本宮さま
伏見神社前の那珂川の川べりに、しめ縄を張った大楠と石像があります。
ここは「本宮さま」といい、慶安元年(1648年)、筑前二代藩主黒田忠之公のときに現在の位置にお社を建立するまで伏見神社があったところです。現在の拝殿は、天保4年(1833年)に再建されています。
(那珂川町郷土史研究会「探訪なかがわ」より)
現人神社(あらひとじんじゃ)
神功皇后の三韓遠征の際、軍船の舳先に、現人宮の御祭神である住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命) の大神が現れて進路を導き、皇后は無事に凱旋できました。
無事凱旋した皇后は現人宮を訪れて現人大明神の尊号を授け、摂津の住吉大社に和魂を祀り、1200年前福岡の住吉宮に分霊されました。
案内板より
現人大明神の鳥居
この鳥居は、明神鳥居とよばれる形式のもので、高さが5.15m、柱の幅が4.2mあり、年号のある鳥居では、那珂川町の中でもっとも古いものです。
また、現在鳥居の中央に付いている額は、明治のはじめの廃仏思想の風潮が盛んな頃に付け替えられたもので、もともと付いていた「現人大明神」と書かれた額は、外されて拝殿横に保存されています。
神社の略史によると、元禄の頃から那珂川の領主であった黒田靭負重実が、神田を寄進して神社の復興につくしたとあります。そして、十二ヶ村の氏子達の協力を得て現在の神殿・拝殿を建立し、鳥居の銘にあるように正徳4年(1714年)の初夏にはこの鳥居が建てられました。