ぼちぼちいこか/伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会

サークルぼちぼちいこか/伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会 の事務局ブログです。例会の案内、講演の原稿や印刷物に寄稿した原稿、不登校ひきこもり関係の情報、三重フレネ研究会やフレネ教育関係の情報やレポートなどをアップしていきます。

カテゴリ: 不登校ひきこもり

@ 3年程前に紀宝町の社会福祉協議会の依頼で講演した原稿です。
 
 

 

はじめに

 

 
9月に入って、紀宝町の社会福祉協議会さんから、105日に、ひきこもりについての講演をしてほしいということでご案内をいただきました。不登校やひきこもりの問題については、大学の卒業論文で夜間中学を取り上げた時点から数えれば30年、三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会の設立の準備段階から数えても15年になります。生計のための職業としているわけではありませんが、それなりに長い時間かかわり続けている問題でもあり、また、本格的に臨床心理学を学ぶきっかけにもなった問題でもあることから、まとめてみるのに良い機会でもあろうと考えてお話をお受けしました。

 
不登校・ひきこもりの問題は、私が関わっている二つの家族会【三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会】(三重県・考える会/現在は【つぅの会】に改組)および【伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会】(サークルぼちぼちいこか/志摩
& 子ども未来会議/伊勢)においても、今までとは少し様子が変化してきています。不登校よりも、学校を出てからの自立や就労の問題に参加者の意識が動いてきているのです。初めは「不登校」だった本人が高校を卒業し成人式を終える例がいくつも見られるようになり、親の方も歳を重ねていることから自然にそうなっていくのですが、全国的に見てもその傾向ははっきり出てきています。そして、特に高齢化の進む地域においては、親と本人の高齢化によって、ひきこもりを抱える家族では深刻な問題が生じるであろうことは容易に想像できます。

 
例えば、家族を支えていた親の収入の減少、親の介護の問題、当事者本人の対応力や生活能力の問題、働き口の数や働き方のバリエーションの数とサポート機関との距離といった就労の問題、さらに就労が困難で家庭の収入も多くないケースでの福祉につなげる問題など、実に様々な問題があります。それらいずれもが、本人のコミュニケーション力をはじめ、衣食住に関わる日常生活の能力の問題によって、家族と本人を深刻な事態に陥らせかねない可能性は決して低くありません。

 
そこで今回は、特に、ひきこもりに焦点を当てていろいろと考えていきたいと思います。

 

 

ひきこもりとは何か

 

現在では、「ひきこもり」という言葉は様々な場で耳にするようになってきています。例えば、私は文芸同人誌の編集をしていることもあって、時々「自宅にひきこもって小説を書きたい」と考えることがありますが、もし、それが実現したとしても、それはここで問題にしようとしている「ひきこもり」とはちょっと違います。私が小説を書く目的でひきこもったとしても、他の人に特に迷惑をかける訳ではないし、私という人間をよく知っている人たちなら、「ああ、またやってるな」と思う程度で、それが何かの病気ではなく特に問題にする必要はないからです。今ここで私たちが問題にしたいのは、その状態が続くと、本人にとっても家族にとっても、そして社会にとってもプラスにならないであろう「ひきこもり」のことです。

このような「ひきこもり」について、『社会的ひきこもり』(斎藤環/PHP新書)の著者で精神科医の斎藤環さんは、次のように定義しています。

 

   (自宅にひきこもって)社会参加しない状態が6ヶ月以上続いている。

   精神障害がその第一の原因と考えにくい。

・なお、【社会参加】とは、就学や就労をしているか、家族以外に親密な対人関係がある状態を指す。

 

つまり、「ひきこもり」そのものは、風邪や花粉症といった病気ではなく、単に状態を表わす言葉であるということなのです。実際、うつ病や統合失調症でも、いわゆる「ひきこもり」状態になります。そんな場合は病院にもかからずに放置しておくと症状が悪化して自殺願望が強まったり、幻覚が出たりして、より危険な状態になりますが、逆に、きちんと病院に受診して治療を受けると、最近は効果のある薬もいろいろ出ていますので、改善することが多いのです。

 
したがって、病の症状の一つとしての「ひきこもり」なのか、斎藤環さんのいう社会的ひきこもりなのか、という判断が重要になります。病の症状の一つとしてのひきこもり、あるいはその疑いがある場合は、急いで医療につなげる必要があるということです。けれども、カウンセラーでも精神科医でもない普通の人にとっては、その辺りの判断はなかなか難しい。一方で、周りが焦ってしまってエネルギーの切れた状態の時に無理をさせると関係がこじれてしまう。その辺の判断の目安として、斎藤環さんは
6ヶ月という期間を設定しているわけです。

 

私自身も、斎藤環さんの判断は妥当だと思います。学校に通っている年齢での「ひきこもり」は、不登校の中の一つのパターンということになります。ひきこもらないで、外で遊び歩いての不登校……などというようなケースもありますから、一つのパターンということです。しかし最近では、学校時代はきちんと通えていたのに仕事に就いてから突然ひきこもってしまうこともある。うつ病や統合失調症とは違う場合でも、さまざまな「ひきこもり」がある訳です。

 
例えば、個性的であるため、周囲とおりあうのに疲れてしまったような場合は、ある程度、自我の強さを併せ持つことも多いので、しばらく休んだ後エネルギーを蓄えて自分から動き出す場合も少なくありません。その場合は、とにかく、安心して休める「場」の確保が大切です。家庭や家族、恋人や親友などがそうした「場」となり得ますし、趣味が共通な人々の集まりなどもそうした「場」となるので、安心してひきこもれる「場」を保証してあげられるようなサポートができると良いでしょう。そしてこの場合は、ある程度ひきこもった後、エネルギーを蓄えて、自ら動きだすことも少なくありません。

 
実際、私の関わった例でも、いじめを受けて不登校になっていたけれど、しばらくしてから知人の紹介でアルバイトを始め、職場でかわいがられてエネルギーと自信を取り戻し、好きなアニメ関係の道へ進んでいった子がいました。私は、直接その子と接することはありませんでしたが、家族会の中でずっとご両親の話を聞き、時にはアドバイスもして、間接的に見守り続けました。そういう「場」があることで、お母さんが不安定にならず、落ち着いて対応していきましたので、家族の中で暴力が出ることもなく、自らの道を見つけて進んで行きました。

 
このように、当事者本人を支えるというだけでなく、家族……特に母親を支え、孤立しないようにする、というのも大切なサポートです。私たちが組織して活動している家族会
(三重県・考える会、子ども未来会議、サークルぼちぼちいこか)などは、直接当事者をサポートするのではなく、母親や家族をサポートすることで本人の周囲を安定させ、安心してひきこもれる「場」をつくるのを支援するのを基本としています。私自身は塾をしていますし、カウンセリングも専門的な訓練を積んでいますので、本人がそれらの会の例会に顔を出せば、学習の相談でも心の相談でも可能な範囲で応じていますが、基本は「家族会」ということなので、家族の支援を中心とした活動を続けています。

 
それから、同じ「ひきこもり」の形であっても、年齢相応の自我が十分に育ってなくて、楽な方に流れてしまい、ひきこもってしまうような場合もあります。自我の未熟さがちょっとしたストレスに遭って普通の人以上にダメージが残り、疲れてしまうような場合です。こちらの場合は、当初は安心して休むことも大切ですが、自我の未熟さが安易な方向に流れてズルズルいってしまう危険も無きにしもあらず……なので、自我を育てるようなサポートも大切になります。というのは、あまり休みすぎると、その居心地の良さに安住してしまい、自らの意志で次のステップや自分を成長させる道に進もうとしないこともあるからです。そうなると、悪い意味での退行や精神的な病につながっていくこともあります。そうさせないためには、日常生活の枠組みや家庭での仕事・家事での役割分担、計画をきちんと守り、結果を出すことで自尊心を育み、自ら選択・決定する体験を重ねて自我を強化していくようなサポートができると良いと思います。

 
以前、事故が起きて問題となった戸塚ヨットスクールでも、日常生活の枠組みを外から強制的にではあっても作っていたことから、条件によっては改善した子もいたということでしょうが、合わない子の場合のリスクが大きすぎますので、私としては本人の現状や現実を無視して、あまりに外から強圧的に強制していくやり方はお勧めできません。

 
また、いじめやトラブルの背後に発達障がいが関係していて、その結果、深く傷ついてひきこもってしまうようなケースも見られます。その場合は、うつや対人恐怖などの重い症状がでることもあるのですが、根本にある発達障がいへの対応をきちんとしていないとなかなか状況が好転しないことが多いようです。

 
ということで、発達障がいについても少し触れておきましょう。主なものとしては
ADHD/注意欠陥多動性障がいとアスペルガー症候群(最近では、専門家の間では自閉症スペクトラムと呼ばれることが多くなっています)LD/学習障がい、発達性協調運動障がいといったものがあります。その中でもADHDとアスペルガー症候群が双璧でしょう。両方あるいはそれ以外も含めた複数の特徴を兼ねた人もいますが、いずれにしても対人関係に問題を抱えやすい傾向があり、周囲の対応がよくないと、ひきこもったり問題行動となったりうつ病や反社会性人格障害などの病に発展するケースも見られます。それから、t定型発達…いわゆる普通の人よりもアルコールやパチンコあるいは薬物などの依存症になりやすい場合もあるので、注意が必要です。また、ある種の感覚が特別に過敏であったり、過鈍であったりすることも多く、聴覚が鋭すぎて机を運ぶ音が耳に触って掃除ができなかったとか、視覚が鋭くて部屋を明るく感じすぎるためサングラスをかけないと仕事ができなかったというような例もあります。

 
ADHDについてはドラえもんのキャラクターにちなんで、不注意で集中がしにくいけれどわりと穏やかな「のび太型」と感情の起伏が激しく衝動性のある「ジャイアン型」に分けている研究者(司馬理英子『のび太・ジャイアン症候群』主婦の友社)もいます。昔は、ADHDは子どもだけのもので大人になれば治る……という考え方がほとんどでしたが、最近では、大人になっても骨折やインフルエンザなどのけがや病気ように完治はしないことが分かってきています。つまり、完全にそうではない普通の人と同じになるというのではなく、日常生活はだいたい普通のように送れるように見えても、周囲の対応によってはADHDに特有の見方や感じ方、言動によってトラブルが起こる可能性は完全には消えない、ということです。ADHDの人たちは、他者との関係を結びたいという思いはあるのですが、他の人の感情や空気を読むことが苦手で、そのことが対人関係のトラブルにつながってしまうことが少なくありません。

 
アスペルガー症候群については、自閉症スペクトラムという新しい専門用語の中にある「自閉」という言葉によって多少想像がつくように、あまり他者との関係に意欲を示さない傾向があります。幼稚園や小学校で、あまり他の子どもたちと関わりを持たず、一人で極端に好きなことだけに没頭していることが多いような子どもは、アスペルガー症候群の可能性があります。他者との関係にあまり興味を示さないので、当然、他者の感情や空気を読む必要性をあまり感じていません。知的能力が高いもしくは普通くらいのことが多いので、学校時代は成績の良さが幸いして問題視されず有名大学に進学するケースも少なくないのですが、就業時に他者とのトラブルが顕在化して、うつ病やひきこもりになってしまう例が見られます。

 発達障がいについての詳しい話は、丁寧にしていくとそれだけでも2時間や3時間は軽く超えてしまいます。詳しくお知りになりたい方は、文庫や新書など手に入れやすい本もたくさん出ていますのでそれをお読みいただくと良いかと思います。また、伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会のブログ「ぼちぼちいこか」には、以前私が講演した発達障害についての原稿もupしてありますので、そちらをお読みいただいても多少は分かっていただけるのではないかと思います。今日は、他にもお伝えしなければならない内容がたくさんありますので、この辺りで切り上げさせていただきます。

 

 

ひきこもり支援の方向性

 

このように、「ひきこもり」という言葉でひとくくりされている状態であっても、実は、様々なケースが考えられるのです。うつ病や統合失調症などの精神的な病が疑われるケースでは、少しでも早く医療機関につないでいくことが大切です。そして、治療や投薬によって症状が安定してきたら、それから、生活習慣の再構築や社会参加、就労(可能であれば)といったステップを踏んでいくと良いでしょう。その際、福祉との連携も大切です。作業所での活動や就労が困難な場合でも、福祉とつながっていくことで生活を安定させ、クォリティー・オブ・ライフ/生き方の質を高めていけるでしょう。

 
発達障がいが疑われるケースでも、医療や福祉とつながることは重要です。特に障碍者福祉手帳等の取得によって障碍者枠での就労が可能となる場合もあり、本人たちが安心できる「場」……居場所づくりと、家族や当事者本人を孤立させないような様々な支援が大切でしょう。

 
精神的な病や、発達障がいの可能性が少ないと思われる場合でも、家族とのつながりがぎくしゃくしていたり、他者との関係を結ぶことに気おくれを強く感じていたりする可能性はかなり高いと思われます。したがって、支援としては、家が安心していられる「場」になるように環境を整えること……辺りから手を付けると良いのではないかと思います。そして、本人の状態が落ち着いてきたら、家事などのきちんとした役割分担によって、本人の生活力を回復させながら、ボランティアなどの社会参加や就労への道筋を探っていくと良いでしょう。就労を最終目標とする場合は、自動車運転免許の取得も、特に交通の便があまり良くない地方の場合は大切なステップとなります。免許を取るための勉強は、だいたい、中卒程度の学力が基準になっていますし、取得すれば運転免許証は身分証明書としても使用可能になります。何よりも、就労が可能となる地域が拡大しますので、就労のための重要なステップとして自動車運転免許の取得はきちんと位置付けておくと良いでしょう。

 
こうした流れについては精神的な病や、発達障がいであっても医療との連携によって状態が安定すれば、生活の改善や作業所通い、アルバイトや就労につなげていくことも可能となるでしょう。私のカウンセリングの師匠…実は日本でのユング派の巨人、河合隼雄先生の弟子でした…が関わった事例でも、薬やカウンセリングで状態を安定させた精神疾患を持つ方が就労したという話を聞いております。適切な治療を継続しながら安定していけば、普通の人と同じように日常生活を送ったり就労したりすることが可能になる例もあるということなのです。

 
その際に、あせりは禁物です。一足飛びに正規雇用などという無茶は望んだり期待したりしない方が良いでしょう。正規の就労に家族がこだわった(その影響で本人も無理をした)ために何度も離職を繰り返したような例もあります。週一のアルバイトから、週三日、そして週五日…といったような感じで少しずつ身体と心を慣らしていくような形でステップを刻みながら自信をつけていくことが大切です。また、農業や林業、漁業など自然に近い所で身体を使う仕事は、続いてくれば、本人の心身に良い影響を与える場合が多いことも付け加えておきましょう。

 
一方で、こうしたステップを進んで、自立・就労まで行きつけない人も、残念ながら存在します。知的能力なども含めると、自立・就労までは困難だと判断せざるをえないケースも出てくるのです。その場合は、何とか生きていけるようにきちんと福祉につないでいく必要があります。

 
自立や就労が困難であると思われるのに、それにこだわって勉強をさせられたり様々な訓練を強制されたりするのは、ほとんど、いじめや虐待に等しい行為だと考えて下さい。ここには、様々な方がいらっしゃると思いますが、今の生活の中で、毎日チェコ語の本を読めるようにするための勉強を2時間するように強制されたらどうでしょうか。よほどチェコやチェコ語に興味がある、あるいはチェコ人の配偶者や恋人がいる人でない限り、1日で嫌になるでしょう。基本も何もない中で、あるいは理解や技術が十分進んでない中でそれを強制されるのは大変苦痛なのです。

 
だから、就労まではとても無理だろう……ということであれば、作業所は可能か……とか、家事はきちんとできそうか……とか、何とか能力を発揮させ、伸ばせるような可能性を探しつつ、死なずに生きていけるように福祉へつないでいく必要があります。障害年金や生活保護、様々なデイ・サービスなど、家族の方に万が一のことがあっても生きていけるような工夫が必要となります。

 
例えば、数年前、北海道や東京、埼玉などあちこちで孤立死事件が相次いだことがありました。生活保護を受けられる条件にありながら、世話をしていた家族の突然死によって世話や介護を受けていた人も死んでしまう、という事件です。背景に、生活保護バッシングなどによって手続きを躊躇したり、誤解したりして、SOSの声を出しにくかった事情もあるようです。しかし、逆に、きちんと福祉とつながっていれば死ぬことはなかったのではないか、と思われるケースも少なくありません。

 
自立・就労を目指すのが基本だとしても、それが難しい場合の対応についても、きちんと考えておく支援が大切です。孤立させず、必要に応じて福祉や医療につなぎやすい環境をつくる。地域全体にそうした努力が必要であり、それは公的な機関や組織にすべて「おまかせ」するのではなく、一人ひとりも、何らかの形で関わり、つながっていけるような形が理想なのです。自分が何かできる時には、その【何か】をして、逆に、それをしてあれば、もしもの時には【何か】のサポートを受けられる。そんな形に、少しでも近づいていければいいのではないかと思います。

 

 

さまざまなひきこもり支援

 

大まかな方向性については先に述べた通りですが、民間でできる支援……ということで考えた場合、当事者や家族がより良い方向に状況を改善していくのを支援するには、多くのことが考えられます。それについても少し考えてみましょう。

 
まず、誰でも、今すぐにできることがあります。それは、ひきこもりについて今より少しでも多く理解を深める努力をすることです。これは、その気になれば、誰でも、たった今から実行できる「支援」です。そしてそれは、様々な支援の根本にあるとても大切な事なのです。何故かというと、別にひきこもりに限らず、自分が何かで深く悩んでいる時にその相談をする(あるいは愚痴を言う)相手は、それを理解し共感してくれそうな相手を選ぶからです。そして、悩みを理解してもらえたり苦しさや辛さを共感してもらえたりしたら、ずいぶん気持ちが楽になります。

 
これは、「ひきこもり」問題でも同じで、「ひきこもり」についての理解の深い人が相手であれば、本人や家族も、知らない人や関心のない人に対してよりもずっと話しやすくなります。こうしたことは、本人や家族を孤立させないということにつながる、とても大切な支援です。不登校・ひきこもりに限らず、家族会や当事者会がいろいろあります。発達障がい関係では「あすぺ・えるでの会」などがけっこう有名ですが、北朝鮮拉致被害者の家族会はマスコミにも度々登場している《家族会》です。いずれの場合でも、家族や当事者という同じ立場の人が集う「場」ですから、どんな話をしても理解し共感してもらえる可能性は高くなります。そこが《家族会》や《当事者会》のいいところであり、家族会や当事者会の存在そのものが、問題を抱える家族や当事者の孤立を防ぐのです。

 
安心して話ができ、共感してもらえる「場」が存在することは、精神面の安定に関わるとても大切なポイントです。精神的な安定は、心の余裕を生みます。心の余裕は視野を広げ、また様々な対応にも余裕を生みます。そうした余裕が、生活のゆとりや当事者をとりまく環境の変化につながります。そしてそれは、状況を改善していく土台となるのです。また、同じ問題を抱えていても、一人ひとりがその問題に向き合って関わっている時間や経験が違いますので、知識や情報の交流という意味でもプラス面は大きいのです。

 
私が関わっている【三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会】や【伊勢志摩不登校・ひきこもりを考える会】もこうした家族会の一つです。だから、理解を深める……ということから発展する支援の形としては、家族会や当事者会のサポートをしていく……ということが一つは考えられると思います。

 
それ以外にも、様々な支援が考えられます。というのは、立ち直っていくステップの中で、それぞれの段階において必要な支援、というものがあるからです。

 
当事者本人が深く傷ついて、それをどうすることもできないような段階では、まず安心して十分に休める「場」が必要です。そして、その「場」となるのが、たいていは家族・家庭です。それに加えて、本人と何らかの形で接触が可能なのは、家族、特に母親……の場合が非常に多い。けれども、当然、母親や家族には理解のない親族や近隣の人々の心ない言葉などを投げかけられているケースも多く、精神的に負担がかかっています。だから、心ないうわさや中傷、無理解な言動に母親や家族がさらされるとさらにストレスや負担が拡大することになります。それは結果として本人への対応の悪化に直結していきます。ですから、その家族を孤立させずにサポートする「場」があれば、本人の周りにいる母親や家族が安定し、本人への対応に余裕が生まれて、本人にとって家庭や家族が安心して十分に休める「場」となっていきます。ただ、発達障がいやうつ病、統合失調症の可能性も当然あるわけですので、いつでも医療や福祉へつなげられるように、家族の周りでサポートしてあげられると良いでしょう。

 
三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会(
2018年現在は【つぅの会】に改組)は、そうした家族を支える家族会としてスタートしました。私自身が参加した時は、「教育」の専門家として入ったのですが、相談を受けていく中で臨床心理学やカウンセリングの理論やノウハウの必要性を痛感しました。そこで、まずは独学で、その後専門的なレクチャーや訓練も受けて臨床心理学やカウンセリングを学び、対応できることも増えて、現在に至っています。が、民間ボランティアとして考えれば、精神医療の専門医や病院を教えてあげたり、福祉の窓口について教えてあげたりするだけでも大きな助けになります。特に初期には、家族は、本人への対応で手いっぱいで、そうした情報を調べる心の余裕も時間もないことが多いからです。

 
教育や心理、福祉の専門的な知識を持っていたり、つながりを持っている人は、時間の許す範囲で、「当事者の会」や「家族会」を作ったりサポートする側に回ったりすると良いのではないかと思います。伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会でも、いせ若者就業サポートステーション(サポステ)のスタッフが参加してくれています。専門的な知識や情報の持つ意味は大きいのです。

 
本人が動き出した段階では、本人が無理しすぎない程度に、様々な活動に参加しやすい環境を整えることが大切です。活動に参加して、「まあまあ、うまくいったかな」という実感を持てるようになると、それが自尊心の回復や自信につながって、次の活動へのエネルギーとなります。この「まあまあ」というのは、結構大切なポイントになります。というのは、本人に完璧主義の傾向がある場合が多いので、「完璧に出来ない」と「ダメ」ということになって、逆に自信や意欲を失ってしまうことも少なくないからです。そうした注意は必要ですが、様々な参加しやすい活動やイベントを続けることも、民間や周りでできるサポートということになります。ボランティアに誘ったり、様々な活動や日常の場面で、本人があまり負担にならない程度に挨拶をしたり話しかけたりすることが大切です。

 
ひきこもりの期間が長引くと、他者と接するのが不安になったり怖くなったりするものです。その気持ちは、言葉の通じない外国の空港や港に一人で降り立ち、周りに知人が一人もいなく連絡を取る術もない状況を想像すると理解しやすいかも知れません。たぶん、それでも平気で動ける人はあまりいないでしょう。それとまったく同じではないにしても、ひきこもりの当事者はそれによく似た不安や恐怖を感じていると考えてもらったらいいと思います。

 
10年ほど前の話ですが、私がタイのチェンライ空港を離れる時、荷物の中にあったお土産のお茶の箱が機械の検査にひっかかり、荷物の開示を求められてことがありました。私は笑顔でOKして鞄を開け、中のお茶の箱も開封しようかと尋ねたところ、係の人も笑顔になって、それには及ばない、と言い、さいごに向こうから日本語で「アリガトウ」と言われ握手をしてもらいました。笑顔や挨拶は、「自分があなたの敵ではありません」と相手に伝える大切なメッセージなのです。けれども、逆に顔をこわばらせて黙ってしまえば、相手に不信感を与えます。チェンライ空港で私がそのような対応をしたら、多分、ややこしいことになっていたでしょう。

 
ところが、長くひきこもっていると、こうしたことが分かりません。また他者に対する恐れや、自分が上手に対応できなくて相手を怒らせてしまったり相手に嫌われてしまったりする不安や恐怖でいっぱいで、黙ってしまったり、顔をこわばらせて固まってしまったり、逃げ出してしまったりするような対応になるでしょう。自分の心の中の不安や恐怖しか考えられず、その対応が逆に相手に不信感を与えたり怒らせたりするなどということは、まったく思いいたらないのです。

 
だから、このような「不審な対応」をされたとしても笑顔を失わず、挨拶をしたり声掛けをしたりする対応を続けることも一つの支援になります。また、身近な話をできる人が、笑顔での挨拶や、ちょっとした言葉のやりとりそのものが、「私は敵ではないよ」というメッセージを伝えていることを、教え、行動で示していくと良いでしょう。それと並行して近所の人々や顔を合わせる機会のある人々にも挨拶や声掛けをしてあげると良いということを伝えていくと良いでしょう。そうした対応は「あなたの敵ではないよ」ということばかりでなく、「あなたを気にしているんだよ」というメッセージにもなっているのです。

 
当初は、先に述べた通り、本人の顔がこわばったり、何も反応を返してこなかったりする場合も少なくないかもしれません。それは、本人がどう対応していいかわからなかったり、間違った反応をしてしまうことを恐れていたりする場合がほとんどで、悪意や害意を持ってそうしていることはまずありません。だから、そうした反応に怒ったりせずに、にこやかで穏やかな対応(挨拶や声かけ)を機会があるごとに続けてあげられると良いと思います。本人は、コミュニケーションに自信を持っていないことが多いし、その結果としてコミュニケーションの機会が極端に少なくなっています。だから、挨拶を交わすだけでも、コミュニケーションの機会を提供していることになるのです。それもまた、大切なサポートです。

 
人間の能力は、使っていないと衰えるものが少なくありません。私は一時期タイの女性と結婚していたのですが、彼女が帰国していたときは時々タイ語で手紙を書いていました。離婚した後は、タイ語を書く機会がないため、現在、ほとんどのタイ文字を忘れてしまっています。ひきこもっている期間が長い場合でも、様々な知識や能力が低下していることが少なくありません。一方、就労に際して必要な知識や能力もあります。ところが、長期間ひきこもっていると就労に最低限必要な知識を忘れていたり、必要な技術や気配りなどが低下していたりするのです。伊勢のサポステのスタッフによりますと、就労に際しては最低限小学校5年生程度の学力が必要だ、と言います。だから、当事者に勉強を教えたり、学習につきあってあげたりするのも周りでできる重要なサポートです。また、本人に教えられなくても、同じ部屋で一緒に別の勉強をする形を取っても良いと思います。本人は自動車の免許取得の勉強、お母さんは簿記の資格の勉強……というのもアリです。自分だけが勉強しているのではない、と思えば、そのことが勉強する上での励みにもなります。

 
それから、就労に際してのサポートについても触れておきましょう。家族も本人も、精神的に焦っていると、一足飛びに完全な正規雇用を目指すかも知れませんが、ほとんどの場合、それは困難です。起きられない、長時間同じことが続けられない、など、体や心が短期間で正規雇用に対応できないことが多いからです。だから、作業所や短期間・短時間のパートやアルバイトなどで体や心を慣らし、徐々に働ける時間を長くしていって安定した雇用につなげていけると良いかと思います。

 
その時に、夕方いつも、あるいは一日おきにでも、おじいさんの畑仕事を手伝う……というような、お金につながらない労働から始めても良いでしょう。その前段階として、風呂の掃除に責任を持つ、とか火曜と金曜の夕食は作る、といった家事の分担をして、それを守らせ、責任を持たせるというようなことも良いかと思います。本人にとって簡単すぎる課題だと、達成感や自信につながりませんし、難しすぎる課題だと続きません。続かない時は、課題設定に問題がある、という方向で考えて、本人と一緒に適度な課題に修正すれば良いでしょう。

 
このようなことをベースに考えると、ここでの支援についても、いろいろなことができるとお分かりになるでしょう。まずは、作業所やパートやアルバイトの形で働ける場を確保すること。それから、働き口での経営者やそこで共に働いている労働者が本人への理解を深めてお互いが働きやすい環境を整えるサポートをすること。そして、就業だけではなく、続けるために、本人の悩みを聞いたり、トラブルを解決したりすることを目的として、定期あるいは不定期に本人と関わり、支援を続けることなどです。

 
だから、作業所などの働ける場を作ることも支援だし、パートやアルバイトの形も含めて、労働者として雇用することも支援となります。また働き口を紹介するのも支援ですし、働いている中での悩みを聞いてあげたり、トラブルになった時にサポートしてあげたりするのも支援です。それから、家以外でも安心出来る「場」を提供することも支援となります。それから、トライアル雇用など就労に関わる様々な制度もあるので、そうした知識を伝えたり、手続きを教えたり、サポートしたりする支援の形もあります。

 
また、きちんとした就労までは無理な場合でも、本人に何ができて何ができないかを、本人と支援者や家族がきちんと確認し、出来ないことをカバーする制度につなげるのをサポートすることも大切な支援の一つです。条件によっては難しい場合もありますが、きちんと手続きをすれば障害年金などを受け取ることも可能になる場合もあります。そうした様々な制度につなげるのも大切な支援の一つです。

 
もちろん、これらをすべて、一人の人や一つの組織でする必要はありません。というより、一人の人や一つの組織で行うのはまず無理です。自分あるいは自分たちができることが何かを考えると同時に、それぞれのつながりを深め、たくさんのネットワークで支えていける体制を作っていけると良いでしょう。

 
以上、簡単ではありますが、私が知る範囲でのおおよそ重要と考えられることは話をさせていただきました。知ること、そして出来ることからやっていくということ、さらにその「出来ること」をつなげて、ネットワークで支えあっていければ少しずつ改善していけると思います。

 

                                   〔完〕

 

 

 

主要参考文献

 

斉藤 環  『「ひきこもり」救出マニュアル』〈理論編〉&〈実践編〉 ちくま文庫

司馬理英子 『のび太・ジャイアン症候群』  主婦の友社

加藤進昌  『大人のアスペルガー症候群』  講談社+α文庫

岩波 晃  『大人のADHD』        ちくま新書

岡田尊司  『パーソナリティ障害がわかる本』 ちくま文庫

鍋田恭孝  『子どものまま中年化する若者たち』 幻冬舎新書

雨宮処凛  『14歳からわかる生活保護』(14歳の世渡り術シリーズ) 河出書房新社

 

   学習へのアプローチ ~覚えることと練習~

 
 

はじめに

 

 学習を進めていくにあたって、理解することと覚えること、そして十分に時間をかけて練習することはとても大切です。そして、理解することによって覚えていく道もあれば、練習を重ねる中で理解していく場合もあり、覚えることが理解につながっていくこともあり……と様々な過程が学習にはあります。けれども、その三つをバランスよく組み合わせることで学習した内容が定着したり深まったりすることは、あまり一般的には意識されていないようです。

 そのため、問題を解く/あるいは消化するだけで勉強をしたつもり/させたつもりになっている子どもや大人は意外と多いようです。そのため、伸び悩んだり、わからないところすらもわからなくなってやる気を失ってしまったりして、結局、学習そのものをあきらめてしまう……そんなシーンも少なからず見かけます。

 以前はそれ程でもなかったのですが、最近は、学習に問題を抱えて行き詰ったりやる気をなくしてしまったり、勉強の仕方がわからなかったり、といった子どもたちやその家族と関わる機会が増えています。そして、関わりを続ける中で再び学習に目を開き、学びを再開していく子どもたちを何人も見てきました。

 そこで今回は、再挑戦も含めた、学習へのアプローチについて考えてみようと思います。

 

 

練習は大切…でも

 

 私は25年以上、自分の塾をはじめとする様々な場で多様な子どもたちと関わってきていますが、その中には、最初は別の塾に行っていたにも関わらず私の塾に来るようになった子どもが何人もいます。極端な場合、一度やめてよその塾へ行っていたのに、やっぱりこちらの方が良かった……と戻ってきた例もあります。ここ数年の例でも、5人前後の生徒が塾を移ってきていました。学習の伸び悩みがその原因だったようなのですが、こちらの塾に変わって数週間から数ヶ月の間にそれぞれ硬さがとれて、のびのびと、けれどもけっこう集中して勉強できるようになった例が多いです。

そういった子どもたちの話などから推察すると、最近の塾はたくさん宿題を出しているところが少なくないようです。けれども、学習心理学的に言えば宿題をたくさん出すことが必ずしも覚えることや練習につながる訳ではありません。それどころか、反って学習意欲を殺ぎ、能率や意欲の低下につながることも少なくないのです。実際、塾を移ってきた子どもたちの中には、塾の宿題に追われ、明らかに学習意欲が低下していた子どもも何人かいました。

 私が指導している塾では、特別な場合を除いて、伝統的にこちらから積極的に宿題を出すことはありません。(英語の自由作文の完成が他のメンバーよりかなり遅れている時や、連続して同じものを忘れてきた時の《罰》としての宿題は出すことがありますが…)学校の宿題を塾でさせてあげることはあっても、学校の休憩時間にまでやらなければ追いつけないほどの大量の塾の宿題を出すなど、考えられないような「のほほん」とした塾です。それでも数ヶ月が過ぎる頃には「先生に、『今まで勉強してなかったやろ』と言われた」とか「学年の真ん中ぐらいやったのが、通い出してからベスト10に入った」という話を聞くことがあります。

4月からの新しい塾の生徒たちも、6月くらいになると、次第に「どう勉強したらいいのか」ということが分かってくることが多く、テスト前になると「塾の回数を増やして欲しい」とか「プリントを出して欲しい」というような声が増えてきています。そして、回数を増やしても自分で持ち込んだテスト勉強のための教科書やワークを取り出して、質問がある時以外は勝手に進めていることも少なくありません。

それから、生徒たちはまったく質問することがないかも知れなくても、家よりも塾で勉強をやりたがったりする傾向があります。その理由は、テレビやゲームなど気を散らすものが塾にはないことから勉強に集中しやすい、ということと、理科でも英語でも国語の文法でも、数学の応用問題でも、分からなければ聞けるという安心感があるからなのだろう、ということが考えられます。

 私は、関わっている子どもたちに対して、質問や説明、個別指導といった様々な機会に、覚えることの大切さと練習の大切さを伝えています。結果として、こちらは宿題を出さなくても、生徒の方から「先生、宿題を出して」と言ってくることがあります。わからなかったことがわかるようになり、練習が必要だと自分で判断した生徒が、わかったことを家で練習するための「宿題」を自分からもとめるのです。当然、外から押し付けられた「宿題」よりも「やろう」とする意欲ははるかに高いし、その結果、定着も良くなります。そして、わかって出来るようになった、という実感が、さらに勉強への意欲を高めていきます。そうした経験を重ねることで、少しずつ「自分」で勉強の仕方がわかり、勉強ができるようになっていくのです。

 また、今まで関わってきた子どもたちの中には、そばについてやっていれば勉強に取り組めるけれども、1人ではなかなかそれが難しい子どもも存在していました。小学校1年生くらいであればそれほど珍しいことではありませんが、それが小学校高学年や中学生といった年齢にも、少ない数ではあっても存在しているのです。あくまでもこちらの感覚的な判断ではありますが、それらの子どもたちは、自我が10歳…13歳などといった肉体的な年齢にも関わらず、年相応に育っていない未熟な部分を感じられます。だからこそ1人で勉強を続ける自信がなく、いつでも質問できたり教えてもらえたりできるような自分を支えてくる存在が必要なのだと思います。

けれども、外見的に大きくなっていると、周りの大人はそうした不安や自信の無さを理解できません。だから、小学校1年生のように長時間、丁寧にそばについていることはほとんどありません。それほど時間的な余裕が大人の側にもない、という状況が存在している部分もあるのでしょうが、「甘えている」あるいは「集中力がない」というように思われている場合が多いように思われます。大人の側に自我や学習についての知識と目の前の子どもの現実に対する理解、そして時間的な余裕があればそうした「甘え」だとか「集中できない」というような見方も変わってくるのかも知れませんが、なかなかそうはならないようです。大人の忙しさや余裕の無さからくる鈍感さの問題もあると思いますが、気付いた人から出来る範囲で改善の努力を重ねていくことも必要だと思います。

具体的には、勉強に際して、出来るだけそばにいてあげること。大人がTVDVD、ゲームといった子どもの集中を乱すようなことをするのでは一緒にいると返ってマイナスになりますが、子どもの集中を乱さずいつでもサポートできるような行動、例えば本を読んでいたり、パソコンで資料を作っていたりはしていても良いと思います。ただ、わからない、と本人が助けを求めている時には、すっと教えてあげられる…というのがベストです。その際には、着眼点やポイントを指摘しながら途中まで一緒にしていっても、最後の寸前で手を引き、自分で完成させる形にするのが良いでしょう。慣れてくれば、ポイントだけ指摘し、後は自分で取り組ませるなど、関わる時間は徐々に少なくしていくように心がけることも、1人で学ぶ力をつけさせていく際のサポートとしては重要です。最初は手がかかりますが、力がついてくれば、勝手に自分で進めていけるようになります。そうなれば、大人には忙しい日々の中で心にゆとりと落ち着きをもたらしてくれる読書の時間、子どもには勉強の時間…となるかも知れません。

でも、「教えるまではちょっと…」と思われる方もあるかも知れません。そんな場合は、一緒に勉強する…というのもアリです。例えば、高校の時には分からなかったことが、大人になってふと子どもの教科書や参考書を丁寧に読んでみると意外なほど簡単に分かる…という場合があります。中学や高校の時は狭い見方・考え方しかできていなかったのが大人として様々な経験を積むことによって以前よりも幅広い見方が出来るようになったことで、当時は分からなかったことが分かるようになる…ということはあるものです。自分が分かってしまえば、子どもに教えられる場合も出てきます。また、一緒に勉強している…ということが子どもの目からは親しみや共感につながり、今まで口を閉ざしていたことを話してくれるきっかけとなったりもします。何よりも自分を見守ってくれている存在がある、ということが子どもに安心感や安定感を与え、勉強に集中しやすくなる環境を作っていくことにつながっていくのです。

 

 

覚えること

 

 さて、子どもたちを教えていると、3日前に教えたことが完全に頭から抜けている、とか、一週間前にも二週間前にも教えたのにまだ覚えていない、というような場面に出くわすことがあります。気が短いと「前に教えたやろ!!」と怒鳴り、子どもを萎縮させてしまう…という対応(もちろん私にも経験があります)をしてしまったりしますが、子どもの様子を観察してみると、すべてを同じように覚えて同じように忘れているのではないか、と感じることがあります。

 例えば、中学校3年生の数学で、乗法の公式・因数分解の学習において、、(x+a)(x+b)=x2+(a+b)x+ab の公式を覚えて使いこなせるようになっていれば、(x±a)2=x2±2x+a2 2乗の公式》や(x+a)(x-a)=x2-a2《和と差の公式》といった公式を完全に覚えてなくてもちょっとした応用の仕方を知っていれば、基本的な問題は解くことができます。もちろん、すべてを覚えていた方が計算は速いし応用もしやすいというのは事実なのですが。

 とすれば、最低でも(x+a)(x+b)=x2+(a+b)x+ab の公式を覚えることを最優先すれば、《2乗の公式》や《和と差の公式》を覚えてなくても解ける場合がある、ということで、どちらの暗記をより完璧にすれば良いかの判断はできる筈です。私は時々、「覚えなければできないこと、覚えた方が便利なこと、覚えなくても応用でなんとかなること…といった違いがある。【覚えなければできないこと】は、とにかく、何が何でも、絶対に覚えること!!」と子どもたちに言います。すると、同じように覚えて同じように忘れる…ということは少なくなっていきます。

 それから、自分の好きなことや良く知っていることは良く覚えているものです。それらに関連付けて覚えることが出来れば、頭に入っていきやすくなります。語呂合わせや無理やりなこじつけであっても、頭に入れば、それを使うことでさらに記憶は定着していきます。また、ある程度覚えられれば、関連することは覚えやすくもなります。好きなことや得意なことを利用することで覚えやすくなるのです。

 それから、学習心理学的に言えば、よく使うことはしっかりと記憶していって忘れにくくなります。これは逆に、使わないことは忘れやすくなる、ということでもある訳です。私は以前、タイ人女性と結婚していましたが、その当時は、タイ語/タイ文字で短い手紙を書くことが出来ました。けれども、彼女と離婚してから日常的にタイ文字を使う機会はほとんどなくなり、ほとんどのタイ文字を忘れてしまいました。今では、日常のタイ語のあいさつもあやふやになってしまっています。

 そんな訳で、私自身も身に染みていることなので、英語の指導や数学の指導といった教科に関係なく、「よく使うほどしっかり覚えるから、そう心がけると良いよ」という話をします。それを理解した子どもたちは、「英語の自由作文に今週勉強した新しい表現を使ってみる」とか「ようやく、連立方程式の解き方を理解したので、次の回までにやってくる宿題を出して欲しい」といった要求が出てきたりします。計算などでは、10回ほどの練習で頭に入る子もいれば、30回ぐらいの練習が必要な子もいます。そして、そのことも機会を見つけては伝えていますので、宿題のほとんどない塾で、子どもたちが自分の状況にあわせて宿題を要求する、という場合も出てくる訳です。そして、必要性が分かっていて自分から求めた【宿題】ですから、当然、意欲は高いし、取り組む際の集中力も通常とは違います。その結果、よりいっそうよく覚えるようになる訳です。

 

 

理解することと練習

 

 それから、練習から入って理解していくタイプや、理解しないと練習する意欲がわかないタイプなど、子どもたちにはいろいろなタイプがあります。そして、理解して納得しないとエンジンがかからないタイプの場合は、最初は時間がかかっても理解するまできちんとつきあってあげる方が、結果としては早く出来るようになります。

 また、練習をていねいにすることが理解につながっていきます。例えば、方程式や式の計算などの計算問題などは、途中の式をていねいに書くことで間違いが少なくなり、理解がはやくなります。すぐに「わからない」とか「できない」と言ってくる子のほとんどは、そうした途中の式を書かずに、いきなり答えをだそうとする場合がほとんどです。暗算は確かに大事ですが、例えば連立方程式などは、中学や高校で10年以上数学を教えたことのある私でも計算ミスをすることがあります。正確に計算しようとすれば、暗算でやるよりも途中の式をていねいに書いてやった方が、結局は速く、しかも正確であることも少なくないのです。

 計算の途中の式などをていねいに書くように言うと「ややこしい」あるいは「うざい」などと言ってくる子がいます。それでも、ていねいに書いて理解が進み、出来るようになってくると、そんな言葉はほとんど出なくなります。それに、ていねいに書いていると、ミスをした時にどこで間違ったかが見直しで発見しやすくなり、それがまた理解や覚えることにつながっていきます。そして、八割がたミスをしなくなった段階で、「少し省略しても良いよ」という風に言ってやるようにすると、ミスが多い時はきちんと理解していない、あるいは定着していないということだから、途中をていねいに書くことが大切だ、ということが身についていきます。

 学習指導の際に、よく言う言葉があります。「勉強ってのは、けっこう、うっとうしいものなんや」ということと「ものごとは、ある程度は苦労せんと身につかへんよ」ということです。だから、子どもたちが英語の意味を聞いてきても、「まず、辞書で調べなさい。そこまでは君たちの仕事。でも、そこからは教えてあげるよ」と言って、まず英和辞典をひかせます。実際、様々な意味がある単語の場合だとか、熟語になっている場合などは、記述(意味)が多すぎて、ちょっと見ただけでは判断できないこともありますから、自分で調べた上で説明してもらう方が、辞書の使い方が身に付くということも含めて、理解しやすくなるのです。加えて、「辞書を調べるのはうっとうしいから、単語を覚えるしかない」ということになれば、英単語を覚えることにそれまで以上に努力をするし、そうやって英単語をたくさん覚えていくと英語に対する理解も深まっていきます。ある程度単語を覚え理解が深まった時点で、act(動詞/行動する)actor(名詞/俳優)action(名詞/行動・活動)active(形容詞/活動的な)actively(副詞/活動的に)といった関連を教えてあげると、理解も深まり、単語も覚えやすくなり、学習も進んでいきます。

 このように、覚えることと理解することと練習することはそれぞれが深く関わっています。だから、学習する者のタイプを見極めながら、それぞれをバランスよく進めていくことが大切になります。そして、最終的には、学習者が自分で判断して学習を進めていけるようになっていくと良いと思います。

                                 【完】

ビジョンとステップ

 

 

はじめに

 

以前から伊勢志摩地区での相談や亀山の会、三重県・考える会での発言の中で、ビジョン(将来的な目標)とステップ(それに向かって持続的に努力可能な短期的課題)について何度も触れてきましたし、2年ほど前にも再度まとめましたが、その重要性は現在も変わらないと感じています。不登校問題ばかりでなくNEETひきこもりの就業と関わっても、このビジョンとステップの考え方はとても大切です。というのは、当事者である本人にとっての具体的な課題としてのステップという視点ばかりでなく、家族をはじめ周囲で支える人々の具体的な課題としてもステップを考えていく事は、様々な意味で重要な事を多く含んでいます。ちょうど《のブログ》のサービス提供終了のため、伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会の事務局blogを切り替えなければならなくなりました。そんな中で、現時点での私の考えを今一度整理して、以前の文章に加筆や訂正したのがこの文章です。ということで、ビジョンとステップについて丁寧に考えてみようと思います。

 

 

 

一、    ビジョン…将来的な目標

 

21世紀に入り、民主党政権になって1年足らずで鳩山政権の崩壊から管・野田政権を経由して自公政権に戻りましたが、安倍政権になってからの逆行ぶり無法ぶりは目を覆いたくなるような惨状です。沖縄の米軍基地移設問題では当事者である県民・市民の選挙や集会で示され続けている結果よりもアメリカ軍を大切にするような言動ばかりで沖縄の民意や日本国民の利益、日本国憲法の規定よりも政権維持に執着しているとしか見えません。また、尖閣列島や北方領土に関わる外交でも醜態が何度も繰り返され、データ改ざんによる帳尻合わせや嘘とごまかしによって現実の課題に向き合おうとしない無能な政権によるビジョンのない政治が続いています。けれども、家族や周囲に不登校やひきこもりの問題をかかえている私たちは、小泉純一郎の以降の権力維持のために国民の利益を侵害し続ける悪質な政治業者たちのように言動をもてあそぶような時間的・精神的余裕はありません。当事者のために、今、必要なものは、将来に向けての納得でき、努力する気力を失わせないような希望です。それが、本人と家族や周囲の人々の中で明確になれば、努力する方向が見えてくるからです。そうした意味でのビジョンについて…本人のビジョンとそれを支えようとする家族のビジョンについて今一度考えてみたいと思います。

 まず、当事者本人について考えてみましょう。不登校・ひきこもりの問題で苦しむ当事者の中で少なからず見受けられるのが「どうせ私なんか…」という否定的な思いです。それは、1つには自分に対する自信のなさと将来に向けての展望が見えてこない事による焦りや苛立ちに由来するケースが多いと考えられるからです。したがって、ある意味では自信や希望という問題がはっきりしてくれば、精神的にも落ち着きを取り戻し、目標に向かって努力するための第1歩を踏み出す事が可能となると言えるでしょう。そして、可能な範囲での努力を確実に積み上げていく事がさらなる自信につながり、自己肯定にもつながっていくと思われます。

 でも、自信や自己肯定の問題は、実は不登校や引きこもりとはまったく無関係に見える「普通の人」にとっても、けっこう重要な成長・成熟面での課題になっている場合が少なからずあります。授業中に携帯電話でメールをしたり、大人に怒られるような事を繰り返したりする「元気な高校生」たちの中にも、自分の夢や希望が見えない苛立ちから反抗や非社会的行動を繰り返す者がけっこう多いからです。

高校生たちばかりではありません。その意味では、どこかの国の政治のトップを勤めている安倍総理などもそうした例に当てはまるかも知れないのです。国の将来に対するビジョンも何もないがゆえにまともな説明も出来ず、「丸投げ」や「感情的な言い逃れ」あるいはその場しのぎの「嘘」を繰り返す言動はその表れである可能性があります。国の将来ではなく「権力維持」のための「自分の決定」に固執し、状況が変化してもそれを認め改めるという事ができず(改めれば権力の座から滑り落ちるという恐怖感があるからかも知れないが…)、自分の権力を守るという目的だけのために、NHKをはじめとするマスコミに圧力をかけて失敗やオトモダチの悪行や無法行為を隠蔽し続け、矛盾が露呈している方向へしゃにむに周囲を強制して進んでいこうとするように見えるからです。この様な行動を見ても、「現実認識能力」を持たない彼の「現実」やその頼りなく信頼に値しない力量が浮かび上がってくるように思われます。

こうした例からも分かるように、ビジョンを持つ事はかなり大変です。それは、人間関係に問題を抱えている不登校や引きこもりに悩む当事者にとっては「普通の人」以上に重い……と感じられる「大変さ」かも知れません。その「大変さ」を意識しつつも、私はやはり「ビジョンを持つ事が大切である」と伝えたいのです。その上で、付け加えたいのは、何も「完全無欠」の変更のきかない「ビジョン」である必要はない、という事です。

ビジョンや希望を探すキー・ワードは「自分の好きな事」あるいは「自分が穏やかな心で取り組める事」であろうと考えられます。例えば、花に囲まれていると落ち着く……というような人は、それを生かして何かをする事を考えればよいでしょう。そうした生活を続ける中で、華道から日本文化の研究へ進んでいくかも知れないし、園芸から農業への道を選択するような場合もあるかも知れません。とりあえずの方向性を決めて、それにそった活動や勉強を続けていく中で自分の中に見えてくるものがあるのです。地道に続けられる活動や勉強が、自分の心を安定させ、力を育てていき、自信と自分を取り巻く世界に対する信頼感を回復させます。その中で新たな道が見えてきた場合は、ビジョンを修正していけば良いのです。

そうした発想は、ある意味では周囲の人々、特に家族においても同様です。とは言っても、正直な話、家族の立場からすれば、それなりに自立して、地域の中で社会生活を営んでいけるような力を身につけ、将来的に自立していければ良いと考えれば、取りあえずは十分ではないかと思われます。

何も、本人が接触する、あるいは出会うすべての人と上手に関係を結ぶ必要はありません。それに、世間一般と比較して飛びぬけた収入や地位を望むような「押し付け」は、真摯に不登校やひきこもり、NEETの問題と向き合い、その現実から多くを学んだ人たちとは無縁の考えだと想像できるからです。

しかし、大切な家族や関わりを持つ相手の事を真剣に思っていれば、「それなりの自立」という実体は必要だと考えるでしょう。自分たちの暮らす地域社会で、多少不器用ではあっても、それなりに生活を維持していければ、それは「自立している」と見てもかまわない、とたいていの人は考えるからです。だから、非常に大まかな表現になるが、当事者の「それなりの自立」という事は、家族や周囲の人々にとって、当面のビジョンとなり得るのです。

何も、東京へ行っても札幌へ行っても、パリやバンコクへ行っても、すぐに自立できるような能力が普通の人間に必要なわけではありません。必要なのは、自分が暮らす地域で、周囲の人や自分にとって大切な人との関係をきちんと結びながら、家族トータルとして経済的にもやっていけるという確信が持てることが「それなりの自立」の中身だと考えて良いでしょう。

そのように肩の力を抜いて考えると、精神的にも日常的にもゆとりが生まれてきます。時間の経過の中で「ビジョン」は微妙に変化していっても良いでしょうし、当事者の「現実」が変化していけば、当然「ビジョン」そのものも変化してきます。それを前提に、周囲のサポートもその変化に合わせて変えていけばよいという事になります。

ゴールという意味ではなく、当面、高卒の資格を取ることを目標として設定すると仮定しましょう。当事者の現実を見つめていけば、通信制・定時制・高卒認定試験など様々なルートの中で、当事者の個性やその時点の力量から考えて何とかなりそうなルートが見えてくるかも知れません。

それに伴って、生活面、学力面、体力面、対人関係面など、様々な課題もまた見えてくるでしょう。どこから手をつけ、どこを後回しにし、それぞれについて誰から、どのようなサポートが受けられるのか。それらの点は状況によって異なるでしょうし、また変化もするでしょう。そして、場合によっては「高卒の資格」を必要としないルートに進む事になるかも知れません。けれども、きちんと取り組み、一歩ずつ歩みを進めていった結果の変更であれば、それはそれでかまわないのです。大切なのは自分で考え、決断・決定した上で、納得して努力を積み重ね進んでいく事なのですから。

就業についても同じです。長期間ひきこもってしまっているような場合には、他者と挨拶をするだけでも不安や恐怖を感じる場合が少なくありません。そのような場合に最初から8時間毎日働くような就業はよほどの好条件と幸運が重ならない限り、まず不可能です。とすれば、少しでも他者との関係を結ぶような訓練がまず必要でしょうし、その上でパートやアルバイトを経験しながら少しずつ就業する時間を増やしていって、その先に毎日8時間の就労という目標を設定しなければ、一足飛びには無理だろうと考えられます。

だから、それぞれの状況や個性に合った方向性、それが必要な「ビジョン」が大切なのであり、それはまた、状況の変化に合わせて修正していけるものともなるのです。短期的な「結果」に拘ったりせずに、じっくり、そしてゆっくりと歩みを進めていくという覚悟と決意が、結局は状況を好転させていく事につながっていくでしょう。まずは、そのような気持ちで日々の努力を続ければ良いのです。

 

 

 

二、    「居場所」と現実

 

 ビジョン……それは未来への夢を描く力、と言えるかも知れませんが、それはまた自分を精神的に支える「居場所」の存在と、自分自身の現実をきちんと見つめる能力によって支えられているものです。

 不登校の場合は主に「学校」の中での関係に問題を抱えていると思われますが、引きこもりの場合は「周囲」を取り巻く関係で深く傷ついているために関係をほとんど閉ざしてしまっている、という状態であると考えられます。

 その意味では、先へ進む以前に、傷ついた心を癒す「居場所」の構築が最優先の必要事項となります。ここで言う「居場所」とは、単なるスペース(空間)という意味にとどまらず、その場における人間関係をも含めます。自分自身の悪い部分や嫌な部分も含めて丸ごと受け入れてくれる人がいる「場」、「良い子」を演じ緊張し続けなくても良いその時の「ありのままの自分」でいられる「場」、疲れきった自分を無防備にさらけ出しても危険のない「場」、ゆっくり心身ともに疲れを癒す事のできる「場」……。それらが、1人の人間にとっての「居場所」です。そして、多くの人間にとってその最も大切で基本的な「居場所」と信じられているのが「家族」であろうと思われます。

 ここで、1人ひとりが自分自身を振り返ってみると良いかも知れません。「家族」が自分にとっての「居場所」となり得ているか、そして他の家族にとってはどうか……と。皆が「家族」を大切な「居場所」だと感じているように思われる場合はそれで良いでしょう。けれども、そう感じられない誰かがいるように思う場合は、それを少しずつでも改善するために自分が出来そうな事を併せて考えてみましょう。無理なく、続けられる小さな努力……。必ずしも、引きこもりの当事者のみではなく、お父さんやおばあさんに対しても何か考える必要があるかも知れません。

表面に出ている誰かよりも、実は隠れている誰かの抱える問題が、状況を変えていくきっかけとなる場合があります。そして、隠れている誰かの問題への取り組みの方が簡単で取り組み易かったりもします。その結果、隠れていた問題を解決した誰かが、やがて大きな支えとなってくれたりもするのです。最初の努力は、無理なく続けられる小さなものかも知れません。けれども、そうした「小さな努力」を積み重ねて、家族全員の「居場所」を再構築することにつながっていくのです。それが、「周囲の人」に出来る第1歩ではないか、と思われます。

 しかし、注意して欲しいのは、すべてを「家族」で背負う必要はないと言う事と、誰もが「居場所」を複数持てる方がより安心・安定して、他の事や新しい事に取り組んでいけるという事です。

 私自身を振り返って見ても、実は、たくさんの「居場所」に恵まれている事に気づきます。家族はもちろんですが、他にも文学の関係で「青い鳥」という「居場所」があります。フレネ教育研究会や三重フレネ研究会も大切な「居場所」の1つです。鳥羽子どもの本の会や、鳥羽国際交流ボランティアの仲間たちもいます。志摩市国際交流協会の日本語教室という場もあります。美味しいウィスキーとカラオケを楽しむ常連として通う店も安心して楽しめ、くつろげる「居場所」かも知れません。私は、それらの「居場所」に様々な形で支えられながら、教育実践や文学、不登校ひきこもり問題や外国人への日本語教育に取り組み続ける事が出来るのです。

 そして、新しい「場」は、自らが心を開き、関係を続け、深めていく中で「居場所」となっていくことも少なくありません。1人で悩んでいないで、まず、扉を叩く事で、扉は開かれるのです。そして、そこでの出会いが新しい道を開いてくれるということにもつながっていくでしょう。

最初は、その場にいて話を聞くだけの関わり方でスタートしても、「お父さんも連れて参加しよう」と考えたり、他の人の話を聞いて「私のところでは、……でした」というような形で体験を語り、少しでも参考になれば……と心を砕くことが出来るようになったりしていくかも知れません。それらのすべてが、関係を深める行動であると同時に、「居場所」を作っていく事にもなっていったりするのです。

 子どもの不登校や引きこもりで悩んでいたお母さんが、例えば、不登校ひきこもりの家族会に参加したとしましょう。そこで悩みを話す事で、自分の考えや行動を再確認できるし、経験者や助言者からのアドバイスを聞く事も出来るかも知れません。それによって不安が小さくなれば、同じ様に参加しているけれどもまだ心のゆとりを持てない様な誰かのために自分の体験を話してあげられるようになるかも知れないでしょう。そうなった時、そこはそのお母さんにとっての「居場所」となります。「居場所」が増えれば、精神的にも安定してくるし、精神的な安定は他の人への接し方の変化につながっていきます。そこに「居場所」としての「家庭」の変化・「家族」の変化の第1歩につながる何かが生じているのです。

 心が安定してくれば、今まで見ようとしなかった「現実」、気づく事を恐れていた「現実」を見つめる強さが生まれてきます。アルフォンス・デーケンは、癌などの不治の病に直面した時の一般的な反応について、現実否認・怒り・悲しみ・孤独などを味わう場合が多いと述べています。が、そうした怒りや苦しみ・悲しみを乗り越えて自分の運命を受容出来た人は新しい希望を見出し、豊かな生を全うしている、という事を指摘しています(A・デーケン『死とどう向き合うか』 NHK出版 1996年)。この場合は病や死に直面したケースでの反応と展望ですが、こうした【現実否認・怒り・悲しみ・孤独・そして現実の受容】という一連の経過とその立ち直りの過程は、不登校や引きこもりに悩む当事者やその家族にも、ある種、共通するものがあるように思われます。

 例えば、誰かが不登校や引きこもりになったと仮定しましょう。当事者である本人自身も、どうしてそうなったのか分からない場合が少なくないので、苦しみ、怒り、荒れ、同時に「誰も分かってくれない」という孤独感にさいなまれる事がけっこう多いでしょう。しかし「学校へ行けない」とか「外に出られない」という現実をまず受け入れれば、その中で、今できる事と、今はまだ出来ない事、これからの一生の中で時間がかかっても出来るようになりたい事などがだんだんと形になってはっきりしてくるでしょう。そこまでくれば、「今やれる事」を積み重ねていく中で、徐々に自分の力を伸ばし、周囲の人々や社会との関係性を再構築していけるようになっていくと考えられます。

 家族の立場からも同じような事が言えます。子どもが不登校や引きこもりになった時、多くのお父さんやお母さんはその「現実」を受け入れられず、怒り、苦しみ、当事者を責めたり、あるいは周囲に相談出来ずにひた隠しにして孤独感にさいなまれ、「なぜ家の子だけが……」と思い、苦しんだり悲しんだりする事が多いのではないでしょうか。そして、「なぜお前は……」と本人を責めたり、「お前が甘やかすから……育て方が悪かったから……」とお母さんだけに責任を押し付けたりする場合も少なくないように思われます。その結果、お互いを信じられなくなり、「家族」が「居場所」としての機能を果たせなくなってしまいます。「現実」を受け入れるのは大変な作業ですが、それから逃げている限り苦しみは続く場合が多いのです。

 けれども、子どもが不登校や引きこもりになってしまったという「現実」を誰かが受け入れ始めた時、「家の子だけではない」という事が分かってきます。そして、周りには敵ばかりではなく、理解し、手を差し伸べてくれる人や「場」がある事も見えてくるでしょう。そうなれば、「家族」や「学校」が本人の「居場所」となり得ているかどうかを確認出来るし、その中で、「今、自分がやれる事」もだんだんと見えてくるようになると思われます。

 いずれにしても、「居場所」を確保し、「現実」を受け入れていく事で、ゆっくりとではあるが確実に歩みは進み始めるのです。そして、本人なりの、あるいは本人を支える家族の人それぞれ独自の、これからの「ビジョン」と、「今すぐにやれる事」や「もう少ししたら出来るようになるかも知れない事」が見えてくるようになります。これらが「ステップ」すなわち(短期的な課題・目標)なのです。次に、これについて詳しく検討してみようと思います。

 

 

 

三、    ステップ…短期的課題(当事者について)

 

 今まで「現実」を受け入れる事が「ステップ」につながっていく事を述べましたが、この「ステップ」についても「ビジョン」と同様にそれを必ずしも固定的に考える必要はない、という事を記しておきましょう。と言うよりも、「現実」は常に変化するものである以上、「ステップ」は方向性さえしっかりしている限りは「ビジョン」以上に状況に応じて変えていけば良いものなのです。

 まずは、当事者本人の「ステップ」について考えてみましょう。

 例えば、高校卒業の資格を取るために、定時制や通信制の受験を考え始めたと仮定します。本人の「現実」として中一から学校へ行ってない状況があるとしたら、中1の勉強を始める事が取りあえずの「ステップ」となり得ます。しかし、問題を解いてみたら、まったく分からない……という「現実」があったとしたら、例えば分数計算から良く分かっていなかったというような新しい「現実」が見えてきます。それを本人が受け入れられない場合は「わからない」「集中できない」といって逃げたり、自分をごまかしたりする事もあるかも知れません。あるいは「どうせ自分はできないのだ」とやけになって勉強そのものをやめてしまうような場合も少なくないでしょう。けれども、新しい「現実」を本人が受け入れられたら話は簡単になってきます。そう、中1の問題と「現実」の間に、《分数計算をできるようにする》というさらに細かい「ステップ」を追加すれば良いのです。

 と、このように文章で書けば簡単に思えるかも知れません。しかし、決して必ずしも簡単にはいかない場合も少なくありません。私が高校で数学を教えていた時でも、こちらが観察していれば〔分数の計算のところでつまっている〕ことか分かっていても、本人がなかなか「分からない」が言えないために、結局、授業そのものが止まってしまう場合が何度もありました。「分からない」の一言が出れば、その時点から例えば分数の計算まで含めた説明をしていけるので授業も進むし、本人以外の分数計算の分からない生徒にとってもプラスになるのですが、それが出ないためにただ時間だけが過ぎていったのです。その背景には本人のプライドやその他、様々な心理的な問題がいろいろとあるのですが、とにかく、まずは「分からない」と言う……ただそれだけの簡単な「1歩」がどうしても踏み出せないのです。

 自分の能力が不足している事を認めるのは辛い事です。そして、点数主義や能力・成果主義の環境に傷つけられて不登校や引きこもりになってしまったような場合は、「分からない」「出来ない」が、単なるその場での周囲からの否定的評価や自己否定にとどまらず、いじめや攻撃のきっかけの1つになった場合も少なからずあるように思われます。そのような経験が積み重なっていれば、簡単に「分からない」「出来ない」が言えなくなってしまうのも当然であろうと思われます。

 しかし、考えてもらいたいのは、人間という存在を評価する場合に、点数主義や能力・成果主義は、たくさんある評価のうちの1つに過ぎないという事です。そして、社会の中には、それ以外の様々な視点で人間を見るちからを持った人が少なからず存在します。その様な人々と出会い、関係を深めていく事で、道は開けてくるのです。

 それからもう1つ、「分からない」「出来ない」というのは、現時点での事であって、その「現実」から目をそらさずに必要な努力を続ければ、やがて、「分かった」「出来た」と言える可能性がある、という事も事実です。週刊少年ジャンプで連載されている『ぼくたちは勉強ができない』(筒井大志/単行本は現在4巻まで集英社より発売中)というマンガの主人公の唯我くんは、彼が関わる苦手教科に関しては壊滅的に点が取れない女の子たちを責める周囲の人々に対して反論し、「今できないとしても、いつまでもできないとは限らない。もっと長い目で見てほしい」と女の子たちをかばい勇気づけながら勉強を教え続けます。だから、「今、分からない」という事実は、決して「分からない人間は能力がなく、価値もない」という事とつながっていないのです。「分からない」という現実を受け入れる心の強さを持つ事が出来るようになれば、そこから「分かるようになる」ためのステップが見えてくるでしょう。そして、周囲の信頼できる人のサポート受ければ、より効率的に学習や訓練を進められるようになっていくのです。

 けれども、引きこもりが続いているような状況がある場合は、その周囲のサポートを受ける事自体に困難を伴う場合があります。そのような場合には、そうした〔人間関係を結ぶのに不安や恐怖を感じる〕という「現実」から出発すれば良いのです。確かに、その「現実」を改善するのは簡単な事ではないかも知れません。しかし、時間をかけて地道に取り組めば、必ずしも不可能なわけではないのです。ポイントは、2つあります。知識と継続できる地道な努力なのです。

対人関係に対する不安や恐怖……というのは、ある意味では感覚・感情的なものなので、知識を持っている場合であっても簡単に直せる訳ではありません。けれども、知識として知っていれば、慌てたりパニックになったりする事は少なく、多少なりとも冷静に自分で対処する事が可能になります。

例えば、私は15年程前の冬、何事に対してもやる気が起きなくなり、また眠りたくない……というような状態になったことがありました。多少なりとも心理学的な知識があった私は、「今、少し鬱状態になっている」と判断し、流れに身を任せる事にしました。つまり、目前に迫った必要最低限の仕事以外はすべて可能な限り先送りをし、夜は身体が疲れて眠くなるまでひたすらTVゲームを続け、音楽(実はかなりの音楽好きで、クラッシックからジャズ、シャンソンやニューミュージック、TVや映画のサントラなど、持っているCDだけでも500枚は下らないのですが)はと言えば、通常はあまり長時間に渡っては聞きたくないと思っている陰鬱な森田童子の歌だけをひたすら聞き続けたのです。そして、およそ1ヶ月で鬱の状態が軽減し、徐々に意欲も回復して鬱状態から抜け出していきました。その結果、1月の終わり頃には普通の状態に回復していたのでした。

引きこもり状態が長引いている場合は、対人関係に対する不安や恐怖感は私の例とは比べものにならない程強いので、こんなに簡単に回復するわけではないでしょう。けれども、多少なりとも心理学的な知識があれば、その知識がない場合よりも自分をコントロールしやすくなります。例えば、「お父さんに毎日挨拶をする」というような持続可能な行動目標を「ステップ」として自分で設定し、それを繰り返していくというようなことです。最初はぎこちないでしょうし、やっていく際の違和感も半端なものではないでしょうが、それを1週間……1ヶ月……半年……と続けていく中で、徐々にお父さんと言葉を交わす時に感じる不安や違和感が小さくなって、やがては知らない間にそれが消えている事に気づくでしょう。

周囲の知識のない人から見れば「そんな簡単な事が……」と思われるかも知れません。しかし、当事者の不安の大きさと日常化する中での解消効果は一般的に考えられているよりも大きいのです。特に、自分1人であれこれと考え悩み続けていると、実はあまり根拠のない漠然とした不安に支配されているケースが結構あります。訳の分からない不安から具体的な不安(例えばM先生に会うと怒られそうで怖い……といったような)を抽出し、具体的な行動を通して(例えばM先生に挨拶したら、ニッコリ笑ってくれた……というような経験が不安を和らげ、消していきます。)改善のための努力を続けるのです。だから、簡単な事でも続ける事が大切だし、必要に応じて「ステップ」は修正していくらでも細かく刻めば良い、という事になります。時間をかけて努力を重ねれば、知らないうちに心の中のどんよりとした重苦しい感じや違和感は小さくなって消えていくでしょう。あせらずに、続けられる努力を積み重ねていく事で、少しずつ周囲との折り合いがつき、崩れてしまっていた周囲の人々や「世界」との関係を再構築できるのです。

そのように考えて、息の長い努力を続けていく事が、結局は、自分の状況を改善する早道となります。あせらず、自分の未来を信じて地道に努力を続ければ、やがて少しずつ理解してくれる人が現れてくることも少なくありません。そしてその先で、「世界」と和解できる日が訪れるであろうと考えられます。

 

 

 

四、    ステップ…短期的課題(周囲の人々について)

 

次に、当事者の家族やサポートをする周囲の人々の「ステップ」についても考えてみましょう。

先に述べたように、当事者の「ステップ」をサポートするように動けば良い、というのが基本ですが、家族や周囲の人に知識や外の世界と本人をつなぐ情報やネットワークを持っていれば、よりサポートは楽になります。そして、周囲の支えやサポートを受けて家族や当事者本人に接する人がある程度の知識を持ち、精神的に安定していれば、本人も安心して自分の当面の課題に取り組めるようになります。だから、当事者本人も大事ですが、お父さんはお父さんなりに、お母さんはお母さんなりに自分自身も大切にするようにしなければならないのです。

不登校や引きこもり問題に取り組むに当たって「子ども本人が1番傷ついている。だから、子どもを1番大事にしなければならない」と言われる場合があります。それは確かに正しいし、それを貫ける精神的な強さを親や周囲が持ち得ている場合はそれで良いでしょう。しかし、大人であっても、すべての人が精神的に強い訳ではありません。大人の側が、そうした「子どもが1番」を貫けない「弱さ」を残している場合も決して少なくない……というのが、親をはじめとする大人の偽りの無い「現実」なのです。その意味では、自分の親や大人としての「弱さ」という「現実」を見つめ直して受け入れ、それから出発して、実行可能な「ステップ」を1つひとつ着実に刻んでいく……というのが、最も現実的な対応となります。

家族の誰かが不登校や引きこもりという状況になってしまった場合、それが数日や数週間、あるいは数ヶ月といった短い期間で改善する事は、実はあまり多くはありません。けれども、時間をかけてサポートを続ければ改善する可能性は高いし、その苦しみを乗り越えた当事者は精神的に大きく成長し、今までよりも強く、そして優しくなれるのです。

だから、本人の未来を信じ、息の長いサポートを続ける事こそが大事になります。逆に、親を始めとする周囲の大人たちが「本人が1番大事だから……」と、自分を殺して無理の多いサポートをしていると、結局は周りがすぐに燃え尽きてしまって息切れし、後が続かなくなるのです。サポートが消滅すれば本人の心もより不安定になるし、家族も含めた状況はより悪化する可能性が高くなります。その意味で、自分自身の弱さも含めた「現実」から出発する事は、自分のためというだけではなく、長い目で見れば当事者にとってもプラスになる事なのです。だからこそ、親や家族の1員である自分自身も大切にしなければならない、という事になります。もちろん、その際にはある場面・場面で当事者の要求と自分自身の「現実」とがぶつかり合う場合も出てくるでしょう。けれども、その中でお互いに折り合いをつけ、関係を良い方向に持っていく努力をする事は、当事者にとっても大切な経験となり得るのです。

そうした意味で、親や周囲の大人も「現実」を受け入れながら、続けられる努力を重ねれば良いと考えられます。そして、今の時点で行っている対応や努力が続けられない(あるいは非常に負担に感じる)ならば、それは、自分の「現実」をきちんと見つめきれていない可能性が高いという事です。そのような場合、実は話はあまり難しくはありません。もう1度「現実」を見つめ直せば良い、というだけなのです。

そしてその時には、すべてを1人で背負う必要はありません。他の家族や、信頼できる友人や知人・仲間にサポートをしてもらっても構わないのです。そうやって、「現実」を見つめ直せば、親や家族としての「自分」の新しい「ステップ」が見えてくるでしょう。それに合わせて、今の時点の努力を、長く続けられるものに修正していけば良いのです。

その際に、親や家族としての思いを伝えていく事も大切であるという事になります。それが、親としての自分・家族としての自分を大切にする事にもつながってくるのです。本人と自分、どちらかではなく両方ともが大切であり、自分にとっても当事者本人にとっても、自分自身とお互いの存在そのものがかけがえのない存在なのです。

しかし、そうした「思い」を伝える際には、解決を焦って《イベント》を企画しないように心がけた方が良いでしょう。何かをきっかけに状況が好転する事は確かにあるのですが、安易な「きっかけ」を周囲の大人の側が周到に考えて用意しても、当事者本人に見透かされたりして、返って状況が悪化する事も少なくありません。それよりも、日常的な努力の積み重ねの過程で起こる《アクシデント》が、本当の意味での「きっかけ」となる確率が高いのです。

サポートを地道に続けていけば、機が熟した時に《アクシデント》が起こる。その時を逃さずに、そうした《アクシデント》を当事者本人が自分の力で越えていけるようにサポートしてやる事が大切になります。例えば、今までがんばっていたお母さんが体調を崩して動けなくなったことがきっかけになり、当事者本人が動き出す、という例はよく聞きます。それは、体調を崩すというのは大人の側が意識的にそう仕向けた《イベント》ではなく《アクシデント》だからです。

その際に必要なのは「焦らずに待つ」という心の姿勢と、小さな事でも愛情を持って見守り続ける粘り強さです。このような努力と配慮を続けていれば、ゆっくりとでも、確実に歩みは進んでいきます。それを信じて、自分の能力・体力・時間の可能な範囲で続けられる事をしていけば良いだろうと思われます。

とは言っても、地道に努力を続ける事は確かに苦しいものなのです。けれども、正しい努力を続けていれば、必ず、手を差し伸べてくれる人が出てくるということは、実は、経験的にも数多くの例があるのです。確かに、今もまだ、苦しく辛いかもしれません。しかし、この文章を読んでいる人には、少なくとも1つ以上は、共に考え、サポートしてくれる人や「場」が存在している筈です。10年前にはなかったけれど、今は存在する「場」も、いくつかあるでしょう。その意味では、環境も少しずつ変化してきているのです。小さな努力でも、それを積み重ねていけば、いつの間にか出来るようになっている事があります。

「ぼちぼちいこか」

この言葉を、私のこの小文を読んでいただいたすべての方に贈りたいと思います。

 

〔完〕

*この文章は、発達障がいの方を念頭に置いたものではなく、定形発達の方を前提に考えてのものです。そのため、発達障害の方には当てはまらない、あるいはそのままではかえってよくない場合も出てきます。発達障がいの方には、過去の出来事の背景や未来のことに対して想像することや自分で決定することが苦手だったりする場合がみられるからです。長期的な目標と短期的な目標を立てて短期的な目標を達成する過程を続けながら長期的な目標に向かって進んでいくという趣旨は共通していますが、発達障がいの診断を受けている方、あるいは発達障がいの可能性や傾向がありそうに思われる方は、発達障がいについて書いてあるものを参考にしてください。


 

   学習のサポート

 

 

はじめに

 

 不登校や保健室登校、別室登校といった状態が長く続くと、当然、授業に参加できなくなるので、学習の遅れが気になり始めます。それは当初、本人以上に、先生や家族の方がとても気にします。でも、本人は気にしていないように見えても、実はかなり気にしていて、ある程度気持ちが落ち着いてきても、教室へ入っても勉強が分からないに違いないと想像して、どうしても教室に入れなくなったり、いっそう学校へ行けなくなったりする……という場合は少なくないようです。

 実際、私が関わった子どもの中にも、数学の勉強がよく分かってきた時期に「行ってみよう」という気になって、学校に行ってテストを受けた例がありました。数学が分かってきたと実感できたことで、それが自信となり心の支えとなって、登校という行動に結びついていったのではないか、と思われます。

 別の例では、ゲームが好きでそれに登場する戦国武将についていろいろな本や高校の教科書を読んで自分なりに勉強した結果、戦国時代を中心に歴史が強くなり、それが自信になって他の教科の勉強にも意欲的になっていった例もありました。

 また、地図帳をよく見るということで、中学生でしたが高校の地図帳を用意してそれを見ていることで理解し覚えたことがベースとなって勉強を再開した例もありました。同じクラスの子より「遅れている」というのではなく、「進んでいる」という感覚が自己肯定間につながって、学習意欲を支えたのではないかと思われます。

 こうした事例から考えても、単に、成績や受験に関わってではなく、こころの支えともなる、という意味においても学習は重要ですが、そのサポートについては難しい面や、気をつけなければならない点もあります。そこで、今回は学習のサポートについて考えてみたいと思います。

 

 

 

ステップをきざむこと/行動のステップ

 

 不登校になっていたり、学校には登校していても教室には入れず、きちんと授業を受けたりしていない場合、学習の全体を意識することは返ってマイナスです。それは、しなければならない内容の多さに圧倒されてやる気を失うからです。かなり前の話になりますが、不登校の相談の際に、1人のお母さんが、「不登校になってからの教科書をすべて、本人の目の前に並べました」という話を出してきたことがありました。その時に私は、「同じことをされたとしたら、お母さんはやる気が起きますか? 逆にやる気がなくなってしまうのではないでしょうか?」という話をしました。では、どうすれば良いのか。基本的な考え方は、やることができそうな小さな目標……ステップを刻み、それを達成することで自信をつけ、それを何度も積み重ねていくという形で進めることが、意外と有効です。

 以前、小学校の途中から不登校になった男の子と関わったことがありました。本人が最初私のところに顔を出してから、次に顔を見せるまでおよそ半年のブランクがありましたが、本人も何とか勉強を進めたいという意欲があり、まず、2週間に1度私のところに来て、1時間勉強するという目標を2人で立てました。それは、すぐに達成できたので、次に週に1度、そして1回の学習時間を1時間半にする、さらに週に2度、その上1回の勉強の時間を2時間にする……という風にして、行動目標を現実に応じて修正し、それを達成することによって自信をつけ、次に進む……ということを繰り返していきました。

 加えて、単元ごとに学習内容も教え、練習問題等を積み重ねました。やがて本人が自分で教科書を読んだり問題集をしたりできるようになってきました。その段階で、単元ごとにテストをしてみて85点以上を取れたら合格……ということで次に進む、という形にしました。そうしたやり方をすることで本人は自信をつけ、特に数学などは、わずか1年半ほどで中1の最初の単元である「正の数負の数」から中3の「三平方の定理」まで、ほぼ85点以上をとって「数学はできる、得意だ」という気持ちを持つようになりました。

 その自信が「期末テストを受けてみよう」、「学校へ行ってみよう」という気持ちにつながり、高校入試でも、「不登校枠」の推薦入試ではなく、得意の数学を含む一般入試でチャレンジし、見事合格を果たしました。その後は、休むことなく元気に高校に通っているという話をしばらくしてからご両親からうかがいました。

 この例から、行動上のステップと学習上のステップを、それぞれ別々に細かく刻んでいることが先へ進むための重要なポイントとなっていることがよく分かります。精神的に混乱し、安定を失って、学習の習慣や日常生活の習慣が崩れてしまっている場合は、ある程度の時間を使って心を休め、エネルギーをためることが最優先です。が、その混乱期を過ぎて精神的に安定してきた時期に、行動上の目標を本人と一緒に設定し、時には修正しながら、ステップを積み上げていくことは、学習を進めていく上でとても大切になります。学習のステップを一歩ずつ進んでいく際に、この行動上のステップが土台にあると歩みは安定し、次第に早めていくことも場合によっては可能となります。その意味で、行動上のステップを意識することは大変重要だといえるでしょう。

 

 

 

ステップをきざむこと/学習内容のステップ

 

 一方、学習内容のステップについては、まずは、続けることが可能となる無理のない目標を立てて、少しずつそれをクリアしながら進んでいくことが大切です。本人の中に長いこと勉強していない……という意識があると、どうしても焦ってしまいます。先に、すべての教科書を並べたお母さんの話を書きましたが、まじめな性格の場合は、そうしなくても本人の意識には「すべての勉強を完璧にしなければ……」という思いがある場合がほとんどです。でも、その学習内容の多さも同時に意識してしまうので、どこから手をつけてよいのか分からなくなって途方にくれてしまい、何もできなくなってしまうのです。ちょうど災害の後の大変散らかった家の中を片付けなければならないときに1人や家族だけの少人数ではどこから手を付けていいのかわからない……という感じでしょうか。私は、震災の後のボランティアで東北に行ったことがありましたが、とりあえず人数を投入して1部屋、また1部屋と進めていく中で家族も積極的に動き出したのを覚えています。やらなければならない全体を考えるとその多さに圧倒されて気力が失われてしまいますが、まずここから……という小さな目標を立てて、それを達成することで自信を取り戻して気力を奮い立たせることが出来るのではないでしょうか。だから、無理のない目標を立てて、それをクリアするという学習を積み上げる行動はとても大切なのです。

 不登校に限らず学業不振で高校入試の相談に来る中学生や家族の方に、「中3の学習内容は捨てなさい」というアドバイスをすることがけっこうあります。実際、連立方程式を今の時点で解くことができない大人はけっこういますが、その人たちは、立派に職業人として仕事をこなしていたり家庭人として家庭生活をきちんと支えていたりしていますし、一部の進学校を受験するのでない限り、中3までの学習内容を完璧に身に付けていなくても高校入試で合格する点の取れる学校はそれなりにあるのです。

 そうした意味において、中3までの学習内容のすべてが、日本の社会で生きていく上において絶対に必要という訳ではありません。けれども、自分の就く仕事などによって必要となる場合はあります。例えば、「水道工事なんかの会社の事務をしているんだけど、水道工事でパイプをつなぐ計算などで三角比がけっこう使われていて、その勉強が分かっていたので役に立った」とか、「電気関係の仕事をしているけど、連立方程式をもっとしっかりやっとけば良かった」などという話を、かつて中学や高校で教えていた生徒と後に居酒屋などで再会したときに聞いたことがありました。

 一方で、必要だから勉強する……のではなく、探究心から勉強することが後になって様々な形で役に立ってくることもあります。08年の日本人ノーベル物理学賞やノーベル化学賞の受賞者はすべて基礎研究で受賞していますが、研究していた時点で、それが実際の日常生活には直接役に立たないものばかりでした。けれども、4人の研究が土台になってさらに研究が進んだり、実際に日常の様々な場面で応用される形になったりしています。「方程式ができるようになったら、方程式を解くのがおもしろくなってきた」という声を時々聞くことがあります。「必要」ではなく「おもしろい」からという動機であっても、学びを深めることが人間的な成長や意識の広がりにつながっていくのです。

 高校入試……という、とりあえずの目標があるから勉強をしているのだとしても、自分自身の今の現実をしっかりと考えてみる必要があります。例えば、人の多いところでは萎縮してしまうとか、混んでいるバスや電車には乗りにくいといった行動上の現実。あるいは、1年次の英単語も覚えていないとか、文字の式の計算がまったく理解できていないといったような学習上の現実……。そうした現実から考えてみた場合、続けられそうな環境・条件の高校はどれだけの学習の土台が必要か……ということを意識してみる必要があります。それらをきちんと考えた時、中学校3年間の学習内容すべてが必要となる場合はそれ程多くはないはずです。

 残された時間が少なければ、基礎的な部分をしっかり身に付ける……そう意識すれば、「学習すべき内容」の量は減ってきますし、段階ごとに小さなステップを刻んで積み上げていけば、「学習しなければならない内容の多さ」に押しつぶされるようなことにはならないでしょう。やれそうな計画を立てて、1つひとつ確実にステップを刻み、土台を積み上げていくことが大切だし、それがまた自信にもつながり、高校からの学習の基礎作りにもなっていくのです。

 それに、そうして身に付けた内容は、高校ばかりでなく次の学習やその後の生活で、直接・間接に役立っていくことも少なくありません。基礎作りは、その意味で、決して無駄にはならないのです。

 

 

 

環境を整える大人の接し方

 

 本人の学習を進めやすくするには、環境を整えることも大切です。例えば、「勉強しなさい」ということは、環境を整えることになっているかどうかを考えてみましょう。中学の頃、テレビの番組が終わり、そろそろ勉強をしようかな…と考え始めた矢先に、母に「そろそろ勉強せなあかんぞ」と言われて、途端にやる気をなくしてしまったことが何度もありました。同じような経験のある大人の人は、けっこう多いのではないかと思います。

 そうしたことから考えると、「勉強しなさい」ということは、必ずしも「良い環境を整えることになっていない」と言えそうです。中学や高校という、そろそろ自立心が芽生えてくる年齢では、「勉強をしなさい」という言葉は、親からの押し付けと受け取られ、返って反発されることも少なくないのです。特に、「勉強をしなさい」と言うだけの場合は、その傾向が強まります。口だけではなく、他に何か出来ることはないか……ということを考えて、可能なサポートは実際に実行することが大切なのではないかと思います。

 大人が、子どもに「勉強しなさい」と言うのは、もちろん、子どもの将来を心配しての言葉です。でも、そう言うだけで自分はテレビを見ていたりマンガを読んでいたりしては、それは子どもには伝わりません。説得力がないのです。それに、テレビの音が気になって勉強に集中できないようなことも出てくるでしょうし、子どもの心に「何で俺だけ? 自分はテレビを見ているくせに」というような思いがあれば、反発や怒りが生じ、結局、勉強に集中できなくなってしまうのです。

 以前、数学の講師をしていた中学校での話ですが、学年で校内のスケッチをする授業の時美術の先生に「先生も子どもたちに声をかけてあげて」と言われました。彼女とはよく美術関連の話をしていて、こちらに美術の素養があることを知っていたということもありますが、3クラスの子どもたちが校内に散らばっている時に1人ではなかなか全員のケアをしきれない、という事情もあったのでしょう。実際にこのような場面では、教師の目が届きにくいことが幸いと遊びだす子がちょろちょろ出てきます。そんな子たちに対して、美術的な指導の基礎や自信を持ってない先生だと「遊んでないで真面目に描きなさい」という対応がほとんど…というよりそうしかできないのではないかと思われます。でも、私はそんな子の作品をまず手に取って、スケッチしている方を見ながら「ここの石はこうなっていて、ここにはちょっと葉っぱが出てるよね」とか「美術の場合は鉛筆を寝かしてこんな風に使うと太くて柔らかな線が描けるよ」とか「細かいところはシャープペンシルを使ってみたら面白いよ」といった言い方をしました。するとほとんどの子が「うん、わかった。もう少し描いてみる」と言い出して実際に再び集中しだしました。実際に、具体的に、どうすればいいかが分かると再開・集中しやすくなるのです。

 では、どうすれば良いのか。まず、子どもが勉強に集中できない理由を考えてみることです。よく観察してみると、何となく理由が見えてくることがあります。他の家族がテレビを見たりゲームをしたりしていると、自分もそうしたくなって集中できなくなる場合、1人でするのが何となく不安で、ちょっと傍についていて欲しい場合、苦手な問題だけが残っていて1人では解く自信がないので誰かに教えて欲しいと思っている場合、実は勉強の仕方がまったく分からなくて途方にくれている場合など、様々な理由が考えられます。観察によって、それらの理由をある程度特定できれば、どうしたらよいか……という点もある程度分かってくるでしょう。

 例えば、テレビの音が気になるなら、テレビを切ったりヘッドフォンを使ったりして音が漏れないように見る工夫ができますし、1人でやるのが不安なら、本でも読みながら同じ部屋にいるように心がけるだけでも意識は違ってくるでしょう。教えて欲しいと考えている問題があるなら、可能であれば教えてあげたり、一緒に考えてあげたりすることもできるでしょう。

 そして、ある程度自我が育っているようであれば、危なっかしくみえても、歯がゆく感じられても、大人の側がそこをぐっと我慢して、「余計な一言」を言わずに、子どもの勉強しようとする意欲を信頼してあげることも大切です。あまり勉強を苦にしていない子どもたちに話しを聞いてみると、「あまり、勉強しなさい」とは言われない、とか「自分の将来のことやから、自分で勉強しようと思ったらしたら?」などと言われている、という声が聞こえてきたりします。家で、何らかのお手伝いを日常的にしているような例もありました。そうした意味において、本人が意識して始めると意欲もついてきますし、大人に言われてイヤイヤやるよりも集中しますから、学習内容もずっと身に付きやすくなります。

 その子の様子や状態をよく知り、状況や年齢に合わせて接してあげることが大切だし、大人の側が「勉強しなさい」を連発するよりも、一歩ひいて、学習しやすい環境を整えるサポートに回ることが、本人にとっても大人にとっても良い結果をもたらすのではないかと思います。

 

 

 

学習の仕方とそのための工夫

 

 それでは、「勉強の仕方が分からない」と言ってくるような場合はどうでしょうか。けっこう有効なのは、丁寧に音読することです。私自身の例でも、こんなことがありました。大学入試を数ヵ月後にひかえた段階で、どうしても物理が分からなくて、受験科目を物理・化学から生物・化学に変えました。でも、あまり時間もなかったので、生物の勉強は高校の教科書を隅から隅まで丁寧に読むことしかできませんでした。しかも、丁寧に読むにはけっこう時間がかかりましたので、せいぜい数回呼んだだけだったと記憶しています。が、共通一次試験(今は大学入試センター試験になっています)では、生物は80点、好きな教科でどちらかと言えば得意であったはずの化学よりも1点だけ点数が高かったのです。

 国語や社会、英語などの教科でも音読は重要です。塾に、新しい生徒が入って来た時に、私は、英語の力量をさぐるのに、教科書を音読してもらいます。読む際に、きちんと言葉のかたまりを捉えて音読できればかなり実力がありますが、単語の途中で平気で切ってしまうような読み方をしていれば、少し聞いただけで英語を苦手としていることが理解できます。そんな子でも、きちんと言葉のかたまりを捉えて音読できるようになってくると、英文和訳もきれいな日本語になってきます。英語でも、言葉のかたまりをとらえて上手に音読できるようになれば、感覚的にけっこう分かってくるのです。

 音読の他にも、英単語の練習や漢字の練習、計算の練習などは、教科書とノートがあればそれなりにできます。とりあえず20分、机の前に座って勉強する習慣をつける……といった行動目標の段階であれば、音読や漢字・英単語の練習、計算の練習などは、あまり深く考えずに取り組める勉強の代表的な例ではないかと思います。また、パソコンが得意な子であれば、エクセル(別にワードでも良いのですが、エクセルの方が回数を数えるのは楽です。)を使って、英単語の練習をする……などというやり方もあります。綴りを書くのも、綴りをタイプするのも同じように綴りの確認にはなるからです。

 勉強のやり方がわからない/実は学習習慣そのものも身についていない……という場合は、こうした「勉強のやり方」を教えると共に、一緒の部屋で本を読んだり編み物をしたり……といった気の散らないような事をしながら、口出しをせず見守ってやるのも1つの方法ではないかと思います。

 かけ算の九九を自由に使いこなせるようになってから割り算や筆算ができるように、ある程度の知識が頭に入ってくる、それを使うことによって記憶がいっそう堅固になったり、知識が深まったりするのです。そうした意味で、【まとめる】という学習活動は、一段上の学習ステップとして考え、使っていけるものです。

 本を読んで分かったつもりになっていても、実際、問題にチャレンジしてみるとできないことがあります。覚えていたはずのことが出てこなかったり、分かっていたはずなのにできない……そんな時には、まとめることによって頭の中で整理ができ、記憶を強化したり理解を深めたりすることができます。

 第一次世界大戦後フランスで生まれ、『窓際のトットちゃん』に出てくるトモエ学園の小林校長先生も強い影響を受け、現在でもフランスはもちろん世界の20カ国以上の国で実践をされているフレネ教育の日本の実践で《アルバム作り》というのがあります。自分たちで調べたことをまとめ、加工して、1冊の手作りの本を作るのです。本の作者は、それを作る過程で、見てくれる人が分かりやすいように、おもしろくなるように、というような思いで工夫を加え、自分が調べ、学んだ知識を加工していきます。その活動のすべてが、知識をより扱いやすい形に整理したのより深く理解したりする学習活動になります。そして、出来上がったアルバムという手作りの本は、読み手の学習に役立つと同時に読み手と書き手、読み手と別の読み手の関係をつなぐ架け橋ともなります。

 もちろん、そこまで「まとめる」にはそれなりに時間が必要となりますし、上質の「作品」を作るためには「日常的な活動」にしながら作品や子どもたちの交流を促すなどの工夫も必要です。が、自分なりにまとめることで、新しい関係が見えてきたり、自分が覚えやすい形で整理できたりもします。

例えば、聖徳太子と徳川吉宗は同じ事をしている……と言われると驚くかも知れません。でも、そう述べるにはこのような理由があります。聖徳太子は「冠位十二階の制定」によって、徳川吉宗は「足高の制」によって、共に家柄にとらわれない実力本位の人材登用を行ったのです。ただ、暗記しているだけでは見えないことが、氏姓制度や幕藩体制によって身分・家柄・職業がガチガチになっている社会を改革するために、家柄にとらわれず実力のある人々を登用しようとした2人の苦心が見えてきます。そして、それが整理できた時、不思議なことになかなか暗記できなかった「足高の制」がしっかりと頭に入っていたりするのです。

 大人の側がこうした学習についてのことが分かっていれば、「今の段階なら、これをしたら?」とか「こんなことができそうじゃないかな?」といったアドバイスができます。大切なのは強制ではなくアドバイスです。そして、うまいタイミングで適切なアドバイスがあれば、けっこう勉強を続けていけるものです。

 ある中学校で、学年全員が校舎のあちこちでスケッチをしていた時、美術の先生とは別に、生徒達の間を回ったことがありました。時々、飽きてしまって遊んでいる子がいたのですが(たいてい「できた」とか言って遊んでいます。で、普通だと美術以外の先生のコメントは「もっと丁寧に描け」くらいで終わります。)、その子の作品と描いている場所を見比べながら「ここはこうなってるよね」と言ったり、「鉛筆はこういう使い方をするとやわらかい線が描けるよ」と言うようなアドバイスをしたりすると、ほとんどの子が再び熱心に書き始めました。「丁寧に描きなさい」という言葉では動かなくても、具体的にどうしたら良いかが分かると、けっこう集中してやれるものなのです。

 これは、「勉強」でも同じです。「勉強しなさい」と言うだけでは、そうそう勉強は出来ません。本人は意識していなくても、実は、どうしたら良いか分からなくなっている場合は、意外と多いのではないでしょうか。だから「勉強しなさい」という言葉を言いっぱなしで放っておくのではなく、具体的にアドバイスをすることが大切なのです。

 

 

 

無理のない計画と学習の継続

 

 それから、細かいステップを意識化するために、計画を立てることも良い方法です。ただ、本人や周りの大人に焦りがあると、無茶な計画や無理な計画を立ててすぐに続かなくなり、やがて諦めてしまいます。そうなってしまわないように、冷静な大人の目で今の目の前の子どもの現実を見極め、無理のない続けられる計画を立てるように持って行くことが大切なのです。

 例えば、それまで30分すらも勉強できなかった子が突然5時間……という勉強時間の計画を立ててもすぐに挫折しまうのです。25年ほど前の話になりますが、学校の先生に「行く高校がない」と言われて、青くなったお母さんと一緒に私の塾に来た中学生の子がいました。私は、「お母さんも、毎日5時間なんて無理でしょ?」という話をして、その子と「とりあえず、毎日1時間勉強することを目標にし、出来るようになったら、少しずつ増やしていこう」という話をしました。

 その子はその目標ならできそうだと感じたのか、毎日勉強を続け、やがて少しずつ勉強時間を延ばしていきました。ところが、その子は、10月頃に骨折して一ヵ月ほど入院したのです。ご両親は「受験に向けて大切な時期なのに」と慌てたのですが、その子は「毎日、マンガではない普通の本や勉強の本を読みなさい」という私のアドバイスをきちんと守り、退院後の模擬テストで前回よりも良い成績をとりました。そして、地元の高校に無事入学を果たしたのです。

 私が全国委員や事務局長をしているフレネ教育(第一次世界大戦後のフランスで現場から生まれた教育実践運動で、『窓際のトットちゃん』に出てくるトモエ学園にも大きな影響を与え、現在、30か国以上の国々でも行われている。)の実践でも、学習計画表を立てる……というものがあります。先生や大人の都合ではなく、自分のペースを大事にしながら自分で計画を立て、達成できたら次へ進み、出来なければ計画を修正してさらに時間をかける。それを子ども自身だけでなく、クラスの仲間たちからも確認してもらいながら進めていくことで、意欲を持って学習に取り組んでいけるのです。もちろん、1人で計画を立てるのが難しい場合は、友達や先生のアドバイスを聞きながら一緒に作っていくこともできます。守るための学習計画、こなすための学習計画ではなく、学習をする目安としての計画を立てることで、修正を加えながら、自分にあった「学習」を少しずつ組み立てていけるようになるのです。

 また、中三の3学期ではちょっと使えない方法ですが、新学期に照準を合わせて、四月からやる勉強を先に予習してしまう……というのもちょっとした裏ワザです。そうすることで、四月に復帰した時、他の生徒よりもそこの勉強かよく分かるようになり、それが自信につながるので気分的に復帰のプレッシャーが小さくなるのです。特に、ある程度進みたい道や学校がはっきりしている場合は、その道や高校へのステップということで意識化でき、意欲を持って学習に取り組めるようになります。もちろん、難易度の高い学校を目指す場合は、後で、欠席期間に抜けた分を取り戻す必要は出てくるでしょう。しかし、先に進んである程度落ち着いてから戻る……というやり方もアリです。遅れを気にして取り組むよりも、ある程度進んだ状態で、その必要性を実感しながら復習すると、意識しないでダラダラ復習を進めるよりも短時間で頭に入りますし、意欲や集中力の低下もある程度抑えられます。学習にだって、いろいろな道があるのです。

 そうした点も含めて、子どもたちの痛みや辛さ、焦りや恐怖感に共感してあげながら取り組むことはとても大切です。けれども、大人の側が子どもの焦りや恐怖感に感情的に流されて自分を見失ってしまうのではなく、一方において大人としての冷静な目で、子どもには見えていなかったり意識されていなかったりするような現実を見極めることも大切です。子どもの「現実」をきちんと見極めた上で、学習を無理なく続けられるような環境を整えたり、その瞬間、瞬間に必要なアドバイスをしてあげたりするのも大人の大切な役割ではないかと思います。

 いろいろと大切な見方や考え方、具体的な例をあげて大人のサポートやアドバイスについて述べてきました。もちろん、これらがすべて正しく、あらゆる子どもたちに通じるとは言えないでしょうし、すべての人がすぐにこのようなサポートやアドバイスを実行できる訳でもないでしょう。けれども、少しずつでも意識しながら続けることでやがてできるようになっていく……というのは、子どもも大人も同じです。子どもたちと同じように、大人の側も、自分の続けることのできる努力を積み重ねて、少しずつ変わっていければ良いのではないかと思います。

 

                           〔完〕

発達障がいと不登校・ひきこもり

 

 

 

はじめに

 

 不登校・ひきこもりの相談の場で家族の方から話をうかがっていると、当事者の発言や行動の様子などから、もしかしたら何らかの発達障がいも関係しているのではないか、と感じることが時々あります。また、学校の現場の様子から、あくまでも個人的な感触ではありますが、発達障がい圏の児童・生徒が以前に比べて増加している傾向があるようにも思えます。そこで今回は、発達障がいということをベースにおきながら不登校やひきこもりの問題について考えてみたいと思います。

 

 

 

1、 発達障がいとは何か

 

十数年前から、「発達障がい」という言葉を目にしたり耳にしたりする機会が多くなりました。私自身もカウンセリングの勉強の中で発達障がいについて何度も学びましたし、学習支援教員として発達障がい圏の子どもたちと実際に接したり直接指導したりするという経験も持っています。ところが、言葉そのものは学校や保育の現場ではそこそこポピュラーにはなっていますが、十分に理解が進んでいるとは言えず、一般社会でも発達障がいという言葉は目や耳にする機会は増えましたが、発達障がいについての理解はそれほど進んでおらず、誤解や偏見がトラブルにつながる状況があります。

十年程前にもこんなことがありました。伊勢市内にある行きつけの喫茶店のカウンターで紅茶を飲んでいた時、たまたまある会社の重役と話をしていたら、「こまった社員がいて…」という話になり、配置転換をした途端にトラブルが続出したというのです。もう少し詳しく話を聞いてみて、どうも発達障がいらしい特徴があると感じました。そこで、1人でもくもくとやる決まった仕事はとても丁寧でしっかりやれていなかったかを尋ねてみたら、配置転換の前はそういう仕事できちんとやれていた、という事でした。それが、営業の仕事に回った後、トラブルが続出したということだったので、その社員はASD(当時の言い方ではアスペルガー症候群)のような発達障がいの可能性があり、人間関係を調整するのが苦手である可能性が高いから、できれば元の配置に戻して能力の発揮できる仕事をさせれば本人にとっても会社にとってもプラスになる、という風に話をしました。

また、志摩市内の行きつけのショット・バーでも以前話をしたことのあったお客さんに話しかけられ、少し会話をしているうちに「困った従業員がいて…」という話になりました。これまた詳しく話を聞いてみると、気は良いんだけど集中を持続して仕事を続けたり、資格取得のための勉強がなかなかうまくいかなかったり…ということでしたので、不注意の方のADHD系の発達障がいの可能性かあるように思われました。そこで、そのような人たちに対する接し方としての注意やサポートの仕方について話をしました。

発達障がいの子どもたちはここ15年程前くらいの文献でも一割程度は存在していると書かれています。実際に学校現場で子どもたちと接していると、クラスに数人程度は発達障がいもしくはそのボーダーラインの少し上くらいにいる子ではないか……と思われる子はいますし、私自身の実感からしてもそれは増加傾向にあるようです。だから、ごく普通の日常的な仕事の中で発達障がいの傾向のある人たちと接する機会はあって当然なのです。それでも、きちんとした知識を持って接すれば何でもないし、かえって発達障がいの人が、その対人関係面の不器用さと引き換えに持っている優れた能力を発揮して素晴らしい業績を上げる可能性もあるのです。ところが、それを知らずに接しているとお互いに嫌な思いをするし、内外でトラブルが頻発することにもなりかねません。

現在、発達障がいについては、サポートする施設や学校や当事者・その家族の間でこそ多少は理解され始めていますが、一般の人にはまだまだ理解が進んでいないのだ、ということを、私はこれらの体験から実感しました。ただ、学校や当事者、その家族の間でも十分理解されているか、ということについても、実際はかなり心もとない状況です。

例えば、7,8年前でしたか、知人から連絡があり、知り合いの人が「子どもが、発達障がいだ」と言われたが、どうしていいか分からずに途方に暮れている……という電話がありました。そこでその後、その人にあって発達障がいについての説明をし、いくつかの気をつけることや、今後の対応などについて1時間ぐらいかけて詳しく説明をしてあげました。そして、このような例は、決して特別な例だとは言えないと感じられるのが現状です。

では、発達障がいとは何なのか。あいち小児保健医療総合センターで長く子ども達と関わり『発達障害の子どもたち』や『発達障害のいま』(いずれも講談社現代新書)の著作で発達障がいについて分かりやすく整理してくれている杉山登志郎さんは20117月にでたの『発達障害のいま』の中で《発達凸凹》という言い方をしています。これは、対人関係を中心に一般の子どもと比較して未熟・未発達な面がある一方で、一部の感覚が非常に優れていたり、興味のある分野での集中や記憶が優れていたりする例が少なからず見られるからです。また、心療内科医で『発達障害に気づかない大人たち』などの著作で有名な星野仁彦さんも『発達障害を見過ごされる子ども、認めない親』(幻冬舎新書)をはじめとして、発達障がいについてわかりやすく整理した本をたくさん出版しています。杉山さんや星野さんの本を参考にして発達障がいについて整理してみると、だいたい以下のようにまとめられます。

 

 

注意欠陥・多動性障害(ADHD)

  注意が散漫になりやすく、落ち着きがない、あるいは集中力がない。感情のコントロールがきかない、計画性がない、などの特徴が見られることも少なくなく、衝動的な行動を起こす場合もある。司馬理英子さんは、その著書『のび太・ジャイアン症候群』の中で、ADHDではこれらすべての特徴が見られるのではなく、感情のコントロールがききにくく活動的だが衝動性の強い、いわゆるジャイアン型と、集中力の維持が困難でぼうっとしているように見えることが多い、いわゆるのび太型など大まかに分けてもいくつかのタイプがある……と述べている。

 

 自閉スペクトラム症(ASD

・自閉症、かつてはアスペルガー症候群(AS)と呼ばれたもの   を含めた言い方で、他者との関係において相手の立場に立って考える想像力の発達が十分でないなどの根本的な障害が共通し、スペクトラム(連続性)があることから名づけられた。特徴としては、人の感情が理解できないため対人関係がうまくいかない、人との会話が成り立たない、コミュニケーション能力が乏しい、興味や関心を持つ範囲が限定的、こだわりが強いなどが見られる。話をしている相手や周りの人たちの思いや感情、気持ちを想像して思いやる力やその事柄やトラブルの背景や未来予測を想像する力が同年代の子どもや人たちよりも未熟で、言葉の裏にある真意や感情を感じ取ることが苦手であるために皮肉や比喩を言葉通りにストレートに受け取ってしまったりする傾向がある。自分の好きなことや興味のあることには素晴らしい集中力を発揮し、好きな教科の勉強では普通の同級生たちよりも優れていたりするが、対人関係や突発の出来事に際しての融通がきき難い傾向がある。

 

 学習障害(LD)

・読む、書く、計算するなどの能力のうち、いずれかに支障をきたす。話すことは普通にできるのに、極端に読めない、話したり読んだりはできても、なかなか文や文字を書けない、話したり読み書きは普通にできるのに計算はできない、あるいは非常に遅い……といった傾向が小さい頃からずっと続いている。一つだけではなく、複数の分野で支障があることもある。ADHDなどと併せて見られることも多い。

 

 知的障害(精神発達遅滞)

・全般的な知的能力に遅れがある。

 

 発達性協調運動障害

・うまく走れない、ハサミが使えないなど、運動や手先の作業に困難をともなう。手先の作業などが極端に不器用で、手足の連動したような動きや別々の動きがしにくく縄跳びなども苦手に感じたりもする。自閉スペクトラム症(ASD)や注意欠陥多動性障害(ADHD)などと併せて見られることも多い。成長して大人になると日常生活には支障がない(少し不器用な感じは残る)程度に改善することが多い。

 

 

 ただ、ここに列挙した説明を見ただけではピンとこない方も少なくないかも知れません。小さい子どもはだいたい落ち着かなかったり集中力が続かなかったりするものですし、普通の大人でも感情的な人は結構いるからです。けれども、発達障がいかも知れない……という判断は、同年齢の他の子どもたちと比べても落ち着きのなさや集中力のなさ、衝動性が際立っていて、その状態が成長していっても年齢に応じた改善があまり見られなかったりする場合は注意が必要です。また、こだわりが強すぎて融通がきかず、日常生活において相手との関係で極端にトラブルが多かったりする、といったような通常の定型発達の子たちとの比較において極端な差が長期にわたって目立つ場合に注意する必要がある、ということになります。

 星野さんも指摘していますが、同じ「発達障がい」や「ADHD」という言葉でくくったとしても、それぞれのケースは人によってその差はまちまちで、複数の障がいを併せ持つ場合も少なくありません。ただ、感情のコントロールがし難かったり、授業中など常識的に考えれば集中しなければならない時にうまく集中できない(集中する「ふり」すらもできない)ような場面が多くみられたりします。また、相手の様子や表情から相手の思いや感情をうまく読み取れなかったりする、ことがらやトラブルの背景となる事情を想像することが苦手だったりするといったことからコミュニケーション能力に難があり、他者との関係をなかなか上手に結べなかったりするケースが多いようです。それに、普通の感覚では気にならないようなところで強いこだわりを示したりする場合も多いように思われます。

 それから、聴覚や視覚的記憶などある種の感覚的な部分では一般の人々よりも優れている場合があります。逆に他の感覚では普通の子よりもかなり鈍感であるようなこともあります。感覚がどこか非常に鋭敏だったり鈍感だったりするところがあるのです。例えば聴覚が鋭敏である子どもの場合は優れているがゆえに他の子が聞こえない音が耳に入ってきたり、他の子が自然に無視してしまうようなことが無視できなかったりもします。そしてそのために他の人が無視しているところや無視できることにこだわってしまったり、逆に集中できなかったりして困ったりイライラしたりすることもあるようです。

 過去においては、一部では普通の子たち以上に優れている面があったり日常のことはそれなりにこなしたりすることなどから、育て方(特に母親)が原因だとの誤解があり、家族や学校などから母親が責められることが少なからず見受けられたようです。けれども、最近の研究で、脳内の微細な傷や神経のつながり難さなどが原因らしいということが分かってきています。また、遺伝的な要因や環境ホルモンなどの影響なども指摘されています。

もちろん、遺伝がすべてではありません。最新の研究では発達障がいには複数の遺伝子が関係していて、環境の違いによって発生を促す遺伝子が覚醒したり、発生を抑制する遺伝子が働かなくなったりすることがあるということです。そのようなことから、置かれた環境によっては普通の人には出来ない素晴らしい仕事をする場合もあり、発達障がいだから問題だ、ということではないのです。モーツァルト、ニュートン、ダーウィン、エジソン、アインシュタイン、チャーチル、ルイス・キャロル、エリック・サティ、太宰治などは今の診断基準であれば発達障がいの範疇に入ると考えられているようですし、俳優のトム・クルーズも文字を読む能力に問題を抱えているLDであるとのことです。

 とは言っても、実際にそのような子どもたちと接している家族にとっては、特に基本的な知識がない場合は「育てにくい子」と感じる場合は少なくないでしょう。また、学校で接する教師にとっても、「教えにくい子」と感じられる場面もそれなりにあることだと思われます。けれども、それなりに知識を得て、一般の定形発達の子どもたちにはOKでも彼らにはマイナスとなる対応を避けながら根気強く接していくと、根は優しく素直な性質を持っていることも多いので、独特の才能を開花していくことにもつながっていきます。

 また、子どもが発達障がい圏の可能性があると感じられる場合には、家族の中に発達障がいもしくはそれに近い方がいる場合はけっこうあるようです。その場合は視野が狭いとか、衝動的だとか、感情のコントロールがききにくいといったような特徴を持つ場合が少なくありません。そのような時には、対応に気をつけないと相手との関係を悪化させてしまうことがあるので、家族の気持ちに寄り添いながら孤立感を感じさせないように話をしていくと良いでしょう。家族の方も発達障がい圏の場合があることを頭に置きながら丁寧に対応すれば子どもの家族との関係を悪化させずにすみます。

 

 

 

2、 発達障害と不登校・ひきこもり

 

冒頭で、不登校・ひきこもりの相談の場において「発達障がいかも知れない」と感じるケースがあることを述べました。何らかの発達障がいという条件があり、しかも周りに気付かれずに不適切な対応が続けられると、本人が意識しているかどうかは別として、周りから「困ったヤツ」と見られたり軽んじられたりいじめられたりし続けることが多くなります。そしてその結果、その言動や性格形成、精神的な成熟・成長にマイナスの作用がもたらされ、さらなる問題行動や精神的な疾患に至る場合が少なくありません。

例えば、やさしく分かりやすい記述でADHDについてまとめベスト・セラーになった『のび太・ジャイアン症候群』という本の著者である司馬理英子さんは、その著書の中でADHDが対応のまずさによっていじめや不登校にいたるケースが少なくないことを指摘しています。

司馬さんは、ADHDを多動性や衝動性が強く出る方のタイプを【ジャイアン型】、不注意が優勢でぼうっとしていて積極性の乏しい方のタイプを【のび太型】とニック・ネームをつけて分かりやすく説明しています。そして、【ジャイアン型】が環境の中で自己肯定感を失って他者への不信を増幅し、反抗的・攻撃的な行動パターンを繰り返していくと反抗挑戦性障害や行為障害といった人格障害に発展するような二次障害を引き起こし、いじめっ子になってしまうケースがあると言います。

一方、【のび太型】は引っ込み思案で攻撃に対しても言い返したり反撃したりできないためいじめられっ子になったしまうケースも少なくないようです。また、【のび太型】では普通の定形発達の子であれば不安を感じても自らを励ましながら乗り越えていく課題に足がすくみ、動けなくなってしまう形で不登校やひきこもりにいたったりする可能性があるということです。

他にも、【のび太型】【ジャイアン型】を問わず、集中力が続かないために練習量が不足して学習についていけなくなり、不登校へと至るケースもあるそうです。また、【ジャイアン型】で学校への不満や周囲に対する不満を問題行動や非行へとエスカレートさせてしまい、不登校へと至るケースもあるようです。(司馬理英子 『のび太・ジャイアン症候群』 主婦の友社 より)

それから、ストレスに耐える力が、同年代の定型発達の子どもたちよりも弱いという特徴もあります。そのため、一般の子たちが何とか折り合いをつけられるような出来事であっても、発達障がい圏の子どもたちは深く傷付き、また立ち直るのによけいに時間がかかってしまう、というようなことになりかねません。そうした特徴も、普通の定形発達の子どもたちよりも不登校・ひきこもりになりやすい要因と言えるでしょう。

 

 

 

3、 教育の発想とカウンセリングの発想

 

ところで、発達障がいにどう対応していくか、ということについてですが、実は、医療的な対応とカウンセリング的な対応、そして教育的な対応では微妙に考え方が違います。非常に極端な言い方をすると、医療的には「生きている」ことが目標、カウンセリング的には周りと「適応」できるようにすることが目標、教育的には高校にいける程度の「学力・能力」をつけることが目標……などということになるかも知れない、という事です。

どうサポートしていくか、という観点から見れば、「生存」も「適応」も「学力・能力」も、それぞれ大切なポイントだとは考えられますが、状況によって、医者とカウンセラーと教師の判断が違う……ということが出てくる場合があります。ただ、それは、それぞれの立場で真剣に対応しようとする結果でもある訳です。

例えば、フレネ教育の仲間が特別支援学校で生徒と関わっていた時の実践で、教師として「外」/色々な他者と関わっていける力を身に付けていって欲しい、という考えである程度自由に動ける子どもたちのクラスとほとんど寝たきりの子どもたちのクラスとの交流を積極的に進めようとしたことがありました。が、医療的な立場からは寝たきりの子どもたちの安全面を考えるとかなりの不安があったようです。そのため、当初はその実践に対して否定的な声も上がったそうです。それでも、その教師は諦めず地道に本人たちやスタッフとの交流を進めていきました。そうして様々な形で交流が進められた結果、双方の子どもたちの感情の発達の面や心の教育の面で大きな効果があったようです。

それから、こんな例もあります。教師の側からすれば、先のことを考えれば「せめてこれだけのこと」はできるようになって欲しい……という思いから多くの課題を出して練習させようとしました。ところが、集中力が続かず、一度教えられたこともなかなか身に付かないような状態ではその課題の量がプレッシャーになり、精神的にしんどくなって、勉強や学校がいやになる……あるいは頭痛や腹痛などの症状が出てしまう、というようなケースが見られるのです。

 悪意はなく、真剣にその子のことを考え、何とか良い方向に……と願っていても、その専門的な知識や立場によって、「ここまで」という目標設定は違ってくることがあります。だからこそ、様々な立場で接する人たちの連携の有無が大きなポイントになってくるのです。そのためには、親でも先生など周囲のサポートをする立場の人でも、1人で抱え込まないことが重要になります。孤立したまま悩まないで、SOSの声をあげるというのも大切なことなのです。

 

 

    

4、 対応のポイント

 

さて、子どもが不登校やひきこもりの状態になった時、人間関係のトラブルが原因のひとつである可能性がありそうな時は、発達障がいの可能性もある、ということを心の隅に入れておく方が良いでしょう。その上で、「発達障がい」について知る努力をすると良いかも知れません。というのは、発達障がいではない不登校やひきこもりの子に対する対処方法として正しいことが、発達障がいの子にとっては不適切な対処となる場合もあるからです。一般の定型発達の子にとっては「心のエネルギーが弱まっている間は待つ」というのは適切な対応の1つです。けれども、それは本人が自由に決断するということにつながっているので、選択することや決断することが苦手なある種の発達障害の子にとっては混乱のきっかけになる可能性もあるのです。

そうしたことから、子どもの現実をよく見極めることも大切です。というのは、発達障がいといってもそのくくりは大まかなものですし、同じように「ASD(自閉スペクトラム症/アスペルガー症候群)」という診断を受けたとしても、子どもによって、その差は千差万別です。だから、今の時点で 子どもにどのようなことができて、何が出来ないのか、どんな時にトラブルをおこしやすくなるのか……というようなことを知っておくことも大切です。

現実をよく見極め、それを受け入れることは、言葉にするのは簡単ですが、けっこう難しいものです。以前、死と向き合うことをテーマにした話を聞いたことがあります。上智大学の教授であったアルフォンス・デーケンが、癌などの不治の病で死の宣告を受けた人の心の動きについてキュープラ・ロスの分析を紹介していました。自分の死という「現実」を前にして、多くの人はまず「なぜ自分はこんな運命に見舞われなければならないのか」と怒り、「そんなことあるわけが無い」と否認し、あるいは「まじめになる」とか「熱心な信者になる」といったような形で神や運命と取引しようとしたりするが、やがて現実を受け入れることにより心の平安を取り戻し、残りの人生を有意義に生きることができるというのです。ところが、キュープラ・ロス自身は、自分自身の死を前にして「受け入れる」ところまではいかず「怒り」の段階に留まったまま死を迎えた……というような話も聞いています。

自分の死……とまではいかないまでも、自分自身が発達障がいである……とか、自分の子どもが発達障がいである……という「現実」は、大人でも簡単には受け入れられない場合があります。また、受け入れるにはそれなりに時間も必要となる場合も少なくないようです。けれども、やはり「現実」を受け入れることで先に進むことが出来ます。それなりに、覚悟を決める/腹をくくる必要はありますが、それによって道も開けてくるものです。

さて、自分自身や子どもが発達障がいであることを受け入れることができれば、「本人の現実」を理解することが出来るようになってきます。その上で、得意なことや理解できること、苦手なことや限界(ここまでは出来るがこの先は難しい、あるいは非常に時間がかかって本人には負担が大きいというようなこと)を意識すれば、こうすれば良い……ということも見えてきたりしますし、やれることも少しずつ見つかってくるものです。

例えば、ADHDで集中できない子がいるとしても、あらゆることに対して1秒も集中できない……ということはまずありません。数学の計算問題の練習で1時間集中してやることは出来ないかも知れませんが、自分が「できそうだ」と感じられる問題なら15分程度なら集中できるかもしれません。観察によってその辺りを見極められれば(それこそ「現実」を受け入れることの1つです)、毎日15分練習をする……という目標設定をして、続けられるような工夫をすればいいのです。

あるいは、1人では集中できないならば、やっている間は大人(見守る人)が横にいてあげれば20分集中できるかも知れないのです。それから、実年齢よりも少し精神的に幼い感じがけっこうあるので、中学生くらいでも、シールや「よくできました」などのかわいい感じの判を押したりすることで「できたこと」を目に見える形で残してあげるとやる気を維持しやすい場合もあります。

 他にも、学校では、学級の席は窓側や廊下側の後の方などでは気が散りやすいので、なるべく先生に近い前の席に置いてもらう方が本人は集中しやすくなる……というようなこともあります。それから、感情のコントロールが出来難くなりやすい傾向があるような場合は、教卓の下とか保健室とか、本人が怒りの感情に支配された時にクール・ダウンできるようなスペースをうまく確保してもらうことでトラブルが少なくなったりもします。

 対応する側も感情的になってしまって大声で叱ったりすると余計に反発したり、逆に極端に萎縮してしまって何もできなくなってしまったりすることもあります。大人の側もすぐに対応を変えるのは難しいのですが、意識していくことで、あまり良くない対応が徐々に減っていきますし、それと比例して子ども本人も落ち着いてくる……ということにもなります。ですから、周囲の大人の側も、まず、自分の出来そうなことから意識して、続けられそうな対応をしていくことが大切です。そうしていくことで、少しずつ本人も周りも変わっていけるのではないかと思います。

 また、出来ないことに時間をたっぷりかけて人並みにしようとするよりも、出来ないことはある程度までで諦めて、出来ることを伸ばしていくような形で接していくことも大切です。例えば、計算が苦手ならば、ある程度の基本的なことができるようになったら、後は「電卓を使っても良い」ということにして計算で苦しむ時間を少なくし、長所を伸ばしていくような「勉強」の仕方やスケジュールを考えてあげるような配慮は、本人のやる気を損ないませんし、また集中力や意欲も出てくると思います。精神的にも、将来のことを考えても、興味や長所を伸ばす工夫をしていけると良いでしょう。

 それから、コミュニケーションがなかなかうまくいかない……という困り感がある場合、挨拶や対応などの基本的なことを【スキル】(対人関係の技術)として教え込む……というのも1つの方法です。挨拶をしてニコッとするだけで相手は悪い気はしなくて良い気持ちになるので挨拶が大事なんだ……と教えてあげる。あるいは、自分の思っていることばかりしゃべっていても相手にも都合があったり様々な感情があったりするのでトラブルになることがあるから相手の話をよく聞いてから自分が話すように心がけるとトラブルが少なくなる……というような形で話をしてあげる。そのような繰り返しの中で、本人が納得して心がけるようになれば、かなりトラブルも減ってくるでしょう。

また、子どもが小さい場合は、親が相手の子どもや親に、「こんな話し方をするけど悪気があるんじゃなくて、他の人の気持ちが分かり難いところがあるので許してあげて、気をつけてあげて」と声をかけたりフォローしたりすることで相手の様子や対応もずいぶん変わってきます。そんなサポートもしてあげられれば良いかもしれません。また、ある程度成長して、就業ということになった場合には、職場の人に理解してもらうということと本人としては仕事において自立をしていけるようにすることを強く意識させることも大切です。初めてのことは身に着けるのに時間がかかることが多いので、1度や2度の説明では覚えられなくて周囲にサポートしてもらうことが必要になります。その点を職場の人に理解してもらうと同時に、「聞けば良いけれど、いつまでも聞き続けるのは良くなくて、やがては自分一人でできるようになっていく」というのが働くために大切である、ということも本人に強く意識させることも大切です。サポートを受けながら自立していくということです。

 いろいろと述べてきましたが、今、私が整理して伝えることができるのはこれくらいです。ただ、けっこう多くのことを述べてきましたので「あれも、これも…そんなにしなければならないのか」と感じた方があるかも知れません。しかし、大人ではあっても人間であり神様や仏様ではないので、1人であれもこれも完璧にしようと考えてしまってはすぐに疲れてしまい、やがて何も出来なくなってしまうでしょう。そのため、場所や相手を選ぶ必要はありますが、弱音を吐いても良いのです。

 それに、完璧にできなくても、他の人たちがフォローしてくれるような形を作れれば問題はありません。だから、1人で抱え込んだり、一人でやらなければいけないし誰も分かってくれないというような考えを持って孤立しないことがとても大切です。自分で意識して出来ることを続けながら、他の人々といっしょにやっていければ良いと思います。

 

 

 

最後に、杉山登志郎さんの『発達障害のいま』での記述を参考に、発達障がいの診断上の新しい分類について紹介しておきましょう。アメリカのDSMという診断基準の、近々出るであろう第5(DSM-V)WHO世界保健機関の作成している国際的診断基準(ICD)でも、以下のような形で整理されるとのことです。

 

 

1グループ…精神遅滞、境界知能など

【精神遅滞】

標準化された知能検査でIQ70未満、それに加えて適応障害がある。

・幼児期に言葉の遅れ、歩行の遅れなど全般的な遅れがあり、学童期には学習は通常の教育では困難で学習の理解は不良。しかし感情の発達は健常児と同じである。青年期は特別支援教育を受けていない場合は学校への不適応がみられ被害者的な意識や思い込みが強くなってうつ病になることもある。

【境界知能】

標準化された知能検査でIQ70以上85未満。

・幼児期には若干の軽度の遅れが見られるだけだが、学童期には小学校中学年頃から学業成績が不良となりやすくばらつきも多い。青年期ではそれなりに適応する者が多いが、不適応が著しい場合は不登校などの形をとることも多い。第2グループ(自閉症スペクトラム)の併存症として認められることも多い。

 

2グループ…アスペルガー症候群なども含む自閉スペクトラム症

【知的障害を伴った自閉スペクトラム症】

社会性の障害および想像力の障害がある。

・幼児期に言葉の遅れ、視線が合わない、親から平気で離れるなどの特徴が見られ、児童期になると様々なこだわり行動が確認できるようになり学校の枠の理解が不十分なため特別支援教育以外に教育は困難であるが、この頃から親子の愛着が進む。青年期では適応できる者はきちんとした枠組みの中であれば安定しているが、一方で激しいパニックを生じる場合もある。多動性行動障害や気分障害、てんかんなどの併存症が見られることもある。

【高機能自閉症スペクトラム障害】…アスペルガー症候群も含まれる

社会性の障害および想像力の障害があり、知的にはIQ70以上。

・幼児期に言葉の遅れ、親子の愛着行動の遅れ、集団行動が苦手といった特徴が見られ、学童期になると社会的状況の読み取りが苦手、集団行動の著しい困難、友人を作りにくい、ファンタジーへの没頭といった特徴が見られる。青年期では孤立傾向、限定された趣味への没頭、得手不得手の著しい落差といった特徴が見られる。併存症としては学習障害、発達協調性運動障害、多動、不登校、気分障害など多彩なものが見られる。

 

3グループ…注意欠陥多動性障害、学習障害、発達性協調運動障害など

【注意欠陥他動性障害/ADHD

多動、衝動性、不注意の特徴および適応障害がある。

・幼児期には多動傾向、若干の言葉の遅れがあり、児童期になると低学年における着席困難、衝動的行動、学習の遅れ、忘れ物など不注意による行動が見られる。青年期には不注意、抑うつ、自信の欠如、適応がうまく行かない場合には非行なども見られる。併存症としては、反抗挑戦性障害、抑うつ、非行などがある。

【学習障害/LD

知的能力に比べて学力が著しく低いところがあり教科によってのバラつきが大きく、通常の学習では成果が上がらない。

・幼児期は若干の言葉の遅れが見られることが多く、学童期になると学習での苦手さが目立つようになる。青年期になると純粋な学習障害の場合は、ハンディを持ちつつも社会的適応は良好な者が多い。併存症については、学習障害自体が様々な発達障害に併存して生じることが多い。

【発達性協調運動障害】

極端な不器用さが見られる。

・幼児期の特徴は不器用で他の障害に併発することが多く、学童期になると小学校高学年頃には生活の支障となるような不器用は改善される。青年期には不器用であるがそれなりに何とかなる。併存症としては、他の軽度発達障害との併存が多い。

 

4グループ…子ども虐待

【子ども虐待】

子どもに身体的、心理的、性的加害を行う、あるいは必要な世話を行わない。

・幼児期には愛着の未形成、発育不良、多動傾向が見られ、学童期になると多動性の行動障害や徐々に解離症状が発現するようになる。青年期になると解離性障害および非行、うつ病などが見られ、最終的には複雑性PTSDに移行することもある。特に高機能自閉症スペクトラム障害に対する虐待は高リスクで、最も多い併存症は反応性愛着障害と解離性障害である。

 

 いろいろと述べてまいりましたが、今の時点で私が整理できるのはこういったところです。目の前の相手に寄り添いながら、専門家を含めた周りの人々の力も借りて、本人と周りが幸せになれる道筋を一緒に探していければいいのではないかと思います。そのためには頑張り過ぎは禁物です。山もあり谷もあるでしょうし、いつも全力を出し続けていると疲れて燃え尽きてしまう心配もあります。あわてず、あせらず、でもいつまでも止まっていないで、あまり無理をせずに続けていけることを地道に積み上げていけれれば良いと思います。

 

                            【完】

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