ぼちぼちいこか/伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会

サークルぼちぼちいこか/伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会 の事務局ブログです。例会の案内、講演の原稿や印刷物に寄稿した原稿、不登校ひきこもり関係の情報、三重フレネ研究会やフレネ教育関係の情報やレポートなどをアップしていきます。

カテゴリ: 心理・カウンセリング

@2007年に県内のPTA連合会に依頼され行った講演です。当時は、ホワイトカラーエグゼンプションを導入しようとされてましたが、現在の働き方改革法案も、その杜撰さにおいては同様です。他者の意見を聞かず、人権を尊重することのない言動がいじめを生み出します。その意味で、現在でも通用する内容もかなり含まれているのではないかと思います。
 

 
いじめにどうとりくむか

はじめに

 
いじめ……どこでも起こり得るもの

・犯人探しで責任を押し付けあうよりも、どう改善していくかが大切

 

 
いじめはいつでも、どこでも起こります。ニュースでは、日本の学校現場でのいじめやそれに関わっての自殺が取り上げられ、大変な問題になっていますが、実はオーストラリアやアメリカなどでも大きな問題になっていますし、タレントとして日本で活動しているアグネス・チャンさんも香港でいじめられた体験を自分自身の著作の中に書いてあったりもしています。日本の大人社会においても職場でのセクハラやパワハラ、あるいはリストラという名の首切りを目的とした無視や仕事を与えないなどの陰湿ないじめが数多くあります。また、過去にも学校生活においてそれなりに【いじめ】はありました。


例えば、ここにいる私自身も、小学校の頃、毎日いじめられていた時期がありました。発端は、クラスのある男の子が持ってきたギンヤンマが死んでいたのを、私が踏んだという言いがかりをつけて、数人で責めてきたことでした。もちろん、私は知らなかったし、誰かがそれを見ていたわけでもありません。それから毎日のように学校でいじめられるようになりました。そのいじめは、三、四ヶ月は続いたのではないかと思います。


けれども、私には彼らとは別に友達がいましたし、算数や国語の勉強も彼らよりはよく出来ました。当時は「となりのトトロ」の時代よりも少し後、大阪万国博覧会の少し前の頃でしたから、子ども社会・特に男の子たちの間では虫取りの技術や早く走れること上手に泳げることなど、外での活動がみんなの中では高く評価され、勉強など日常生活ではあまりたいしたことはありません。それに私自身は外で遊ぶよりも本を読むことが好きでしたから、外での活動は他の男の子たちよりも不器用でした。それでも、何かしら彼らよりも上だ、と自他共に認めることのできるものがあることが支えになって、何とか和解することができました。


その後、いじめていた中の一人がひどく担任の先生に叱られ、他の子が寄り付かなくなったことがありました。しかし、私は一人で彼の家に遊びに行ったり彼と一緒に勉強をしたりしていました。後になって、彼や彼の家族にとても感謝されていたらしいことを聞いたりもしました。今は、彼は同窓会の役員、私は同窓会の会計をやっていることもあり、そうした経験を持つ他の同級生たちも含め、皆に信頼され、とても仲良くやっていますが……。


とにかく、いじめは、一人ひとりの人間の心の弱さが根本の原因です。特に、心が弱い人間ほど、自分よりも弱いと考えている相手をストレスや些細な理由でいじめます。そして、それによって、自分の弱さを他者の目からも、自分自身の目からもごまかしているのです。もちろん、そんなごまかしは、本当に心が強い人には通じず、見破られてしまいます。その意味で、本当に心が強い人はいじめなどしません。その必要がないからです。でも、ご存知のように、本当に精神的に強い人はなかなかいません。だから、いじめはなかなかなくならず、いつでも、どこでも起こり得るものなのです。

 
特に、子どもの時期は、精神的に充分に成長しておらず、ちょっとしたきっかけでいじめが始まり、それが一気に暴走してしまう場合がままあります。ただ、あくまでも成長途上ですから、それを、大人の関わりによって一つの、単なる一過性の「事件」にしてしまい、関係した子どもたち一人ひとりの心を強くし、成長させていくための【良い経験】にしていくことが大切なのではないでしょうか。


事実関係を可能な限り明確にし、原因をある程度はっきりさせる必要はあるでしょう。けれども、それを「犯人探し」に終わらせてしまっては、絶対に子どもたち一人ひとりの【良い経験】にはできません。大人としての責任の取り方…はある程度必要でしょうが、それよりも子どもたちのために関係者が協力し合って【未来】を考える契機にしていくことの方が大切ではないかと思います。

 

 

1、  いじめと不登校


・いじめが不登校の直接の引き金になることも少なくない

・一つの事例

 

 
さて、私は伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会の事務局と三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会の創立から関わっている世話人をしています。また、その関係で、昨年末からいじめ電話相談ネットワークの一員にも名を連ねています。不登校やひきこもりの問題と、会が発足してから数えただけでも七年ほど関わっていることになります。実際は、大学の卒業論文で夜間中学を取り上げ二週間に一度は大阪の夜間中学に通っていた時期もありますから、それも考え合わせれば二十年以上の関わりになります。

 
そして、その相談を振り返ってみると、いじめが不登校やひきこもりの引き金になることも少なくありません。一つだけ、その事例をあげておきましょう。

 
ある高校で、一人の生徒がいじめられました。一度や二度ではなく、長引いたので、やがて家族にもわかりました。中学校からの友達も心配して声をかけてくれたようです。もちろん、家族は学校に訴えたのですが、簡単には解決しません。結局、その生徒は学校に行かなくなりました。中学校の先生方が支えてくれてはいたようですが、高校の担任の先生の動きは鈍く、学校長は体面を気にするだけで、いじめられた子の立場に立って話を聞く姿勢は見られず、その生徒は家族とも相談して退学するという選択をしました。

 
彼は、高校には不信感を持ちましたが、家族や中学校の先生や友人たちがきちんと支えていたので、大人や人間に対する不信感を持つには至りませんでした。もちろん、精神的には苦しんでいましたので、すぐに新しい活動へと進むことはできませんでした。いじめや退学という経験の中で、精神的な疲れもあったのでしょう、半年ほどあまり外へは出ませんでした。


しかし、家族は彼を理解し、支え続けました。半年ほどして知人の紹介でアルバイトをはじめました。すべての時間ではないにしても中学時代の友人も一緒でしたし、何よりも職場で可愛がられたようで、次第にアルバイトの時間も長くなり、バイト先の先輩と遊びに行ったり、その先輩のところに泊まったりもするようになって元気を取り戻しました。そして、アルバイトでお金をためて、そのお金で自分の好きな美術関係の専門学校に行く…という目標を持つようになりました。現在は、その目標通りに、名古屋でアルバイトをしながらその学校に通っているようです。

 

 

2、  いじめについて


・なぜ、いじめが起きるのか

   被害者の心

   加害者が意識している場合/意識していない場合

   周囲の子どもたちの姿勢

   大人の姿勢

 


ここで、【いじめ】そのものについて、もう少し詳しく考えてみましょう。昨年からずっといじめに関係するニュースが続いています。そして、最初に触れたように、【いじめ】そのものは今の日本の学校だけに多発している訳でもありません。しかし、今の子どもの間での【いじめ】が昔以上に被害者の心に深い傷を残す可能性が高いことに気づいている大人はそれ程多くはありません。そして、加害者や周囲の子どもたちの心にも悪影響を及ぼしてしまうことを理解している大人はさらに少ないのではないか……と思われます。ある意味では、【いじめ】はその被害者や加害者だけの問題ではなく、彼らを含めた子どもたち全体の問題なのです。


それを考えれば、「うちの子はいじめられていないから…」とか「うちは関係ないから…」といった態度でいては、子どもに対する大人としての責任を果たしてない…ということになり兼ねません。直接、いじめたりいじめられたりしていなくても、知っていながら周りで見ているだけの場合だってあるのです。それが、子どもの心の成長に悪い影響を与えるとしたら、親として、教師として、大人として放置してはいられないと思います。

 
今の子どもたちは兄弟姉妹や地域の異年齢の子どもたちの間で遊んだりけんかをしたりする経験が以前よりもずっと減少しているために、全体的に対人関係のストレスに対する耐性(がまん強さ・うたれ強さ)が弱くなっています。そのため、少しのことで暴発したり、自信を失ったりする不安定なところがあります。それが、いじめ問題に悪影響を与えるところがあるのです。だから、逆に、《一つの事件》を、大人たちの適切な関わりによって、子どもたち皆の【良い経験】にしてやれるように導くことができれば、子どもたち一人ひとりの心の成長につなげられます。そのような関わり方が可能となるように大人たちも協力し合い、力をつけていくことが必要ではないかと思われます。

 
少し話が逸れました。いじめ関係の中での子どもたちの心について考えてみましょう。

 
まず、いじめられた側の子の心について。特に、いじめを長期間にわたって受けた子どもは心に深い傷を負っています。私は、大学四年生の頃から五年ほど、被差別部落にある児童館の館長さんの努力でスタートした【子ども村】に参加した経験があります。一週間の間に、何人かの他の大学生たちと地域のお寺に泊まり、皆で協力して、地域の小・中学校の子どもたちと一緒に遊んだり、勉強を教えたりしていました。その時に子どもたちが良く言っていたのが「どうせ俺はあほやもん」という言葉でした。家で、学校で、そう言われ続けることによって、自分は勉強が出来ないのだと思い込み、勉強する意欲そのものを失っていたのです。それが、一週間の大学生たちの励ましの中で、その言葉を否定する力が生まれ、実際に勉強に少しずつ取り組めるようになり、今までどうしても出来なかったことがわずか数日で出来るようになっていきました。逆に言えば、否定的な言葉や対応がどれ程子どもたちの心を傷つけ、意欲や自信を奪っているかが実感できた出来事でした。

 
長期間いじめられ続けた子どもも同じです。自分に自信を失い、意欲を失って、自分の存在そのものが意味のない、つまらないものに感じられ、他者と接するのが怖くなるのです。
DV…パートナーによる暴力などでも構造は同じで、被害を受け続けることにより、自分が取るに足らない存在だからこそいじめられ、暴力を受けるのだと信じ込んでしまい、悲惨な日常を受け入れてしまうのです。そうなってしまうと、自分も周りの人も信じられませんから、いじめや暴力が理不尽であり、自分が被害を受けているのだというSOSを発することもなかなかできません。そこまで心が傷ついていると、被害者からの発言を得るのは本当に難しいのです。「なぜ、言えないのか」という疑問の、一つの答えになろうかと思います。

 
次に、いじめる側の心についても考えてみましょう。実は、いじめる側には、それをいじめだと意識していない場合と、意識している場合の二つがあります。


意識していない場合は、それに気づかせることで状況はかなり改善されるものです。とても仲の良い友達同士の場合でも、時には相手をからかうことがあります。からかわれた方は、多少、嫌な思いやバツの悪い思いをしますが、場面が変われば逆になるような場合はお互い様で、関係を深めるちょっとしたアクセント、お寿司のワサビのようなものです。けれども、からかいが一方的で、ずっと続いているようなら、それは「いじめ」になっていくのだ…ということを周りの大人が教えてあげればいいのです。


それと共に、生活や勉強の中でムシャクシャしたり、イライラしたり、ストレスをためたりしていることはないかを考え直してみるように仕向けてやるといいでしょう。大人だって、ストレスがたまったりイライラしたりしていると、他の人をからかったり、イライラをぶつけたりするものです。成長期の不安定な子どもは、大人よりもストレスには弱いでしょうし、自分の心を見つめなおす力も十分には育っていませんから、あまり深く考えずに、つい周りの子どもにあたってしまう。それが、本人も気づかないうちに「いじめ」になってしまうこともあるのだ…ということです。それを意識させ、同時にストレスやイライラと上手に折り合っていけるように周りの大人が手助けしてあげられると、「いじめ」も消えていくでしょう。


意識していじめている場合は、もう少しやっかいなことになります。その場合は、過去にいじめられた経験を持っているか、他の場でいじめや虐待、耐え切れないようなストレスやプレッシャーを受けて深く傷つき、心が荒んでしまっているからではないか…と思われるからです。他者を大切にできないことは、実は、自分がかけがえのない大切な存在であると実感できていないこととつながっています。自分が大切な存在だとは実感できないからこそ、未来も何も関係ない、今さえ良ければ良い…ということになり、今のイライラやストレスを発散するために弱いと思われる人間をいじめたり、自分が面白おかしく生きるために弱い相手に圧力をかけて思い通りに動かそうと考えたりしているからです。


だから、大人の側でいじめそのものを強制的に止めると共に、実は深く傷ついて荒んでいるその子自身の心ときちんと向き合い、しっかり関わってあげながら、その子自身も、他の子もかけがえのない大切な存在であることを実感させていくような息の長いサポートをしていくしかないでしょう。時間はかかるでしょうが、それこそ、その子が立ち直り、人間的に成長していくのに必要なことなのです。


それから、意外と目が向かないものですが、周りのいじめを知っていながら止めようとしない子どもたちにもいじめの悪影響は及びます。「ドラえもん」で言えば、ジャイアンがノビ太をいじめているのを見て知っているのに、止めようとしない静香ちゃんも問題なのです。学校で作文を書かせれば、ほとんどの子どもが「いじめはいけない」「いじめは悪いことだ」と書くでしょう。けれども、誰も止めない。どうしてなのでしょうか。


以前、中学校で公民の授業をしていたとき、平等権を教える際に「帰ってきたウルトラマン」の「怪獣使いと少年」のビデオを見せたことがあります。沖縄出身のシナリオライター・上原正三が脚本を書いているもので、冒頭から中盤にかけてひどいいじめのシーンが出てきます。子どもたちばかりでなく、町中の人々が少年をいじめるのです。パン屋へお金を持っていってもパンさえ売ってくれません。たった一人、とぼとぼと帰ろうとする少年に「うちはパン屋だから」と言ってパンを手渡したパン屋のお姉さんを除いて……。それを見た後の感想で、一人の女の子が「私は、パン屋のお姉さんのようにはできません。それをしたことで、今度は、自分がいじめられるようになるかも知れません。それが、とても怖いからです」という感想を書いてきました。これが、子どもたちの正直な声なのです。


いじめが悪いことだと思っていてもそれを止められない、という体験を積めば、子どもたちはどうなるでしょう。悪いこと、不正があっても、声を上げられない大人に育ちます。その結果、悪はどんどん社会にはびこり、地域社会は荒れ、すさんでいくでしょう。自分の子どもを、自分の受け持っている子どもを、そのような大人に育てたい、荒れてすさんでいる地域社会で暮らさせたい、そんなことを望んでいる方はいるでしょうか。一人もいないと思います。

 
しかし、いじめを止めに入ったら周りの子どもたちも同調してくれる、先生も周囲の大人も助け、支えてくれるという信頼があれば、一人でも止めに入ることはできます。そのような信頼関係、実感を、子どもたち一人ひとりの心に育てていくことが大切なのです。

 

 

3、  どうケアをしていくか


 ・いじめられている子

 まず、守る/登校させないことも一つの選択   心のケア 生活のケア 学習のケア

  ・いじめている子

   自分の行動の意識化   不安やストレス、いじめや虐待などの問題はないか

  ・周囲の子

   いじめを許さない集団を作る   ひとりではなく皆と止める

  ・大人の協力体制

 

 
さてここで、【いじめ】に対してどう向き合い、どのように対応していくかについて、もっと詳しく考えてみましょう。先ほど簡単に述べたものもありますが、具体的にどう考えてどう行動していけば良いかを知りたいというのがお集まりの皆さんの思いでしょうから、あらためて述べることは特に大切なことであると思ってお聞き下さい。


教育相談の中で何度も言った経験がありますが、最初に手を打たなければならないのは、いじめられた側の心身の安全と安定の確保です。これは、【いじめ】が分かった時点で、何をおいても最優先に手を打つ必要があります。早急に、その「いじめ」の現場から保護するのです。学校でいじめがあるなら、学校を休ませる……というのも
1つの選択肢になります。「現場」から引き離して保護することによって、いじめられていた子を落ち着かせるのです。つまり、緊急避難の選択としては「不登校」もその1つになり得ると考えてください。

 
次に、いじめられ続けていると、自分の存在に対して自信を失い、「いても仕方がない」「生きていても仕方がない」などという自己否定感につながる思いに取り付かれてしまっている場合が少なくありません。ニュース等で報道される遺書の中身にこのような言葉が入っているのを見かけることが少なからずあるのはそうした理由からです。だから、周囲が、「あなたはかけがえのない存在なのだ」ということをきちんと伝え、自信を回復させていく手立てを取る必要があります。それも、早急に取り掛かることが要求されます。本人が好きなことに関わる活動や続けて取り組めるような活動を通じて、「やりとげた」という実感と、周囲からの肯定的な評価が積み重なってくると、少しずつ自信も回復し、自己肯定感も出てきます。けれども、いじめられている期間が長いほど、自信や自己肯定感を回復させるのは大変で、時間もかかります。場合によっては半年や1年ですまないこともあります。それでも、愛情を持って辛抱強く接していくことが大切なのです。

 
学校を休んだりしている場合はもちろん、そうでない場合も学習面での遅れも気になるところです。だから、ある程度精神的に落ち着いてきた段階で、学習面でのサポートをしてあげられれば一層良いと思われます。割と真面目なタイプが多いでしょうから、本人としても、学習の遅れは多少なりとも気になっているでしょう。ただ、その時に、ブランクの期間のすべての学習内容に意識を向けさせ過ぎないように注意する必要はあるでしょう。すべての子が、すべての学習内容を完璧に分かっているわけではありません。だから、出来ることから少しずつ積み上げるように、小さな目標を設定して、それを少しずつ確認しながらクリアしていく…という形で学習を続けられるようにしていけばいいのです。積み重ねた時間とクリアした量がやがて自信につながり、自己肯定感になっていけば、他の面にも積極的になれる場合も出てきます。本人に「こんなにやらなければいけないのか…」という思いを持たさないように、そして「ああ、ここまでできるようになったんだ」という実感が持てるように接していくことが大切なポイントとなるでしょう。

 
それから、当然のことながら、加害者のケアも大切です。
1つは、いじめだと気づいていないケース……。先ほども述べましたが、遊びのつもりでからかい続けていることが「いじめ」になってしまっていると本人たちが気づいていない場合は、それを教えてあげる必要があります。友達関係の中でお互いにからかい合うのは時々見かけられることですが、それが一方向で続いてしまっている場合は「いじめ」になるのだと強く認識させなければならないでしょう。自分がからかい続けられる立場だったらどんな気持ちになるかをきちんと考えさせ、相手への共感を育てていく。同時に、からかい続けている背景には、何らかのストレスの発散である場合も少なくないので、その原因を見つめ直し、改善できることは改善していけるようにサポートしてあげることも必要ではないかと思われます。家や学校でのその子の生活を見つめ直し、大人としてその子との関わりの中でできることを、その子の心に寄り添いながら考えていけると良いのではないでしょうか。

 
しかし、「いじめ」だと知っていながらやっている場合は、いじめている子どもの心の闇は深く、いじめそのものを止めるにも、その子どもをサポートしていくにもより一層きめ細やかな対応が必要になります。恐喝や悪質な暴力行為など刑事事件に発展してしまうような深刻な「いじめ」になっていくような可能性もありますので、場合によっては警察など法的な介入も含めて、まず強制的に「いじめ」を停止させる手立てが必要になります。ただ、子どもである以上そこまで精神的に荒廃してしまっている背景に目を向け、立ち直っていけるような丁寧できめ細かいサポート体制を周りに作っていかなければならないでしょう。時には、心から信頼している人間がその子どもの周囲にいないこともあります。そのようなケースでは、他者との関係作りや、その子の居場所作りから始めていかなければならないし、当然、時間もより一層長くかかるであろうということも覚悟しておく必要もあるかも知れません。

 
もう
1つ、周囲の子どもたちに対するケアも大事になります。「いじめ」そのものを許さない雰囲気を作ることによって、関係は豊かになっていくものです。だから、子どもたちの集団を「いじめ」を絶対に許さないものに変えていくことは、子どもたち1人ひとりのこころを豊かに育てていくこととつながっているのだ…ということを大人たち自身がしっかりと心に刻んでおく必要があると思うのです。

 
確かに、
1人で行動を起こすのは大変かも知れない…ということは共感しつつ、それならば他の子どもたちと一緒になって「いじめ」を止めるアクションを起こせるようにする、という方向に導いていくことが大切でしょう。具体的には、他者、特に止めてもらえそうな相手に事実を伝えることから始め、やがては、その「場」でも、「いじめ」を制止できる仲間や関係を育てていく……ということになるのではないかと思われます。

 
例えば、「ドラえもん」を例に考えてみましょう。ノビ太がジャイアンにいじめられている時に、静香ちゃんや出来杉くんが止めれば、いじめは止まるのです。けれども、スネオが止めても多分止まらないだろうし、返ってスネオがジャイアンにいじめられる危険性は高いでしょう。だから、スネオはジャイアンのいじめを止めることはできません。でも、スネオがいじめを止めたら静香ちゃんや出来杉くんが必ず一緒に止めてくれると信じられたら、スネオもいじめを止めることが出来るようになるのではないかと思われます。


実際、子どもから「クラスの子がいじめられている」ということで相談を受けた事があります。その時には、まず、そうやって言えた事を褒め、それから、言ってきた子どもたちにも確認して、私から担任の先生に伝えることにしました。加えて、本当は、その場で止めてあげられると一番良いけれど、1人では難しいなら、仲の良い友達と一緒に止められると良いね…という話をしました。それができなくても、誰か信じられる大人に話して、何とかいじめを止めさせるように動くということはとても大切だ…という話もしておきました。もちろん、時間をかけて丁寧にやっていかなければならない事ですが、いろいろな形で子どもたちを支えてやるような努力を積み重ねることが大人としての責任だろうと思います。

 
そのために必要なのは、大人の協力体制です。「犯人探し」や「責任逃れ」で時間を浪費してしまうと、肝心の子どもたちの心がより深く傷ついてしまいます。当事者や周囲の子どもたちの立ち直りや人間関係を深める経験としての「事件」にしていけるように、家庭と学校、地域の大人たちの力を結集していけるような体制を作っていけるようにしていく努力が大人の側にも必要ではないかと思います。

 

 

4、  大人社会の問題

・大人社会にもいじめはある

・地域や学校との連携

・家族の時間

 

 
さて、いじめについていろいろ述べてきました。が、お気づきの方もおいでだと思われますが、実は、今まで述べてきたのは「子どものいじめ」に限定しての話になります。けれども、実は大人社会でもいじめはあり、場合によってはより陰湿で悲惨な事例もあります。リストラという言い方で行われた労働者削減の嵐が吹き荒れた時期には、「これがまともな大人のすることか」とやった人々の神経を疑うような陰湿・悪質なものがありました。また、パートや派遣労働者の待遇や扱いについては、いじめとしか言いようのないものも見かけることがあります。実は、大人社会にもいじめや差別、弱者切捨てが横行しているのです。

 
私の関わっている事例では、就職まで何の問題もなくきちんとできた人が、会社での人間関係や仕事を通じて人間不信に陥り、ひきこもりになってしまった、という例もあります。それを考えれば、「いじめ」は子どもの問題に矮小化してはいけないのです。

 
日本における現実社会の矛盾が、弱い立場にいる人を追い詰めています。自殺者が三万人を越えて高止まりなのに、なかなか有効な手立てが講じられないのはどうしてでしょうか。サービス残業と言い方を変えて、不法な賃金不払い労働がごまかされている現実を考えれば、ウツや自殺が減らないのは、ある意味では当然なのです。

 
そうしたことも含めて考えると、日本における現実社会の矛盾が、弱い立場の子どもたちに投影され、事件となって噴出していると言えるのかも知れません。子どもたちの「いじめ」事件が多発する背景には、大人の心の荒廃やゆとりの喪失、「いじめ」の蔓延が考えられるのです。よく考えてみてください。大人に、子どもたちを十分にケアできるような時間的なゆとりがどれだけあるかを…。アメリカで起きたコロンバイン高校での射殺事件の加害者の母親は何時間もかけて職場に通い、一生懸命働いても貧困から抜け出せず、生活費を稼ぐための労働に追われて子どもたちと過ごせる十分な時間がとれない状態でした。


具体的な事件としての「子どものいじめ」は、大人として対処してあげなければならないでしょう。しかし、それだけではいじめは減っていきません。自分自身が「いじめ」に関わっていないか、「いじめ」を許していないか……ということを、子どもたちばかりでなく大人自身もきちんと見つめ直し、自らの行動を修正し、社会を変えていく努力を続ける必要があるのではないでしょうか。おかしくなってしまった大人社会もまた、大人の責任で共生と弱い立場の存在への共感に満ちた社会へと変えていく努力が必要だろうと思います。

 
例えば、1日の労働時間の目安とされる
8時間は、1日の3分の1になります。3分の1を労働に、3分の1を家族と共に過ごす時間や地域の人々と過ごす時間に、そして残りの3分の1を休息に充てることが出来れば、学校や家庭との連携や地域の中での連携はずいぶんしやすくなるのではないでしょうか。そして、十分な連携に支えられて育つ子どもたちは、心豊かな大人に成長していけるのではないでしょうか。

 
けれども、そう簡単にいかない「現実」は確かに存在します。でも、今、私ができる、多分あまり無理をしなくても続けられることが、何か必ずあるはずです。小さなことでも、お互いに支えあって出来ることを探し、みんなで子どもが健やかに育つような学校や地域社会を作っていければいいのではないかと思います。


@ 3年程前に紀宝町の社会福祉協議会の依頼で講演した原稿です。
 
 

 

はじめに

 

 
9月に入って、紀宝町の社会福祉協議会さんから、105日に、ひきこもりについての講演をしてほしいということでご案内をいただきました。不登校やひきこもりの問題については、大学の卒業論文で夜間中学を取り上げた時点から数えれば30年、三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会の設立の準備段階から数えても15年になります。生計のための職業としているわけではありませんが、それなりに長い時間かかわり続けている問題でもあり、また、本格的に臨床心理学を学ぶきっかけにもなった問題でもあることから、まとめてみるのに良い機会でもあろうと考えてお話をお受けしました。

 
不登校・ひきこもりの問題は、私が関わっている二つの家族会【三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会】(三重県・考える会/現在は【つぅの会】に改組)および【伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会】(サークルぼちぼちいこか/志摩
& 子ども未来会議/伊勢)においても、今までとは少し様子が変化してきています。不登校よりも、学校を出てからの自立や就労の問題に参加者の意識が動いてきているのです。初めは「不登校」だった本人が高校を卒業し成人式を終える例がいくつも見られるようになり、親の方も歳を重ねていることから自然にそうなっていくのですが、全国的に見てもその傾向ははっきり出てきています。そして、特に高齢化の進む地域においては、親と本人の高齢化によって、ひきこもりを抱える家族では深刻な問題が生じるであろうことは容易に想像できます。

 
例えば、家族を支えていた親の収入の減少、親の介護の問題、当事者本人の対応力や生活能力の問題、働き口の数や働き方のバリエーションの数とサポート機関との距離といった就労の問題、さらに就労が困難で家庭の収入も多くないケースでの福祉につなげる問題など、実に様々な問題があります。それらいずれもが、本人のコミュニケーション力をはじめ、衣食住に関わる日常生活の能力の問題によって、家族と本人を深刻な事態に陥らせかねない可能性は決して低くありません。

 
そこで今回は、特に、ひきこもりに焦点を当てていろいろと考えていきたいと思います。

 

 

ひきこもりとは何か

 

現在では、「ひきこもり」という言葉は様々な場で耳にするようになってきています。例えば、私は文芸同人誌の編集をしていることもあって、時々「自宅にひきこもって小説を書きたい」と考えることがありますが、もし、それが実現したとしても、それはここで問題にしようとしている「ひきこもり」とはちょっと違います。私が小説を書く目的でひきこもったとしても、他の人に特に迷惑をかける訳ではないし、私という人間をよく知っている人たちなら、「ああ、またやってるな」と思う程度で、それが何かの病気ではなく特に問題にする必要はないからです。今ここで私たちが問題にしたいのは、その状態が続くと、本人にとっても家族にとっても、そして社会にとってもプラスにならないであろう「ひきこもり」のことです。

このような「ひきこもり」について、『社会的ひきこもり』(斎藤環/PHP新書)の著者で精神科医の斎藤環さんは、次のように定義しています。

 

   (自宅にひきこもって)社会参加しない状態が6ヶ月以上続いている。

   精神障害がその第一の原因と考えにくい。

・なお、【社会参加】とは、就学や就労をしているか、家族以外に親密な対人関係がある状態を指す。

 

つまり、「ひきこもり」そのものは、風邪や花粉症といった病気ではなく、単に状態を表わす言葉であるということなのです。実際、うつ病や統合失調症でも、いわゆる「ひきこもり」状態になります。そんな場合は病院にもかからずに放置しておくと症状が悪化して自殺願望が強まったり、幻覚が出たりして、より危険な状態になりますが、逆に、きちんと病院に受診して治療を受けると、最近は効果のある薬もいろいろ出ていますので、改善することが多いのです。

 
したがって、病の症状の一つとしての「ひきこもり」なのか、斎藤環さんのいう社会的ひきこもりなのか、という判断が重要になります。病の症状の一つとしてのひきこもり、あるいはその疑いがある場合は、急いで医療につなげる必要があるということです。けれども、カウンセラーでも精神科医でもない普通の人にとっては、その辺りの判断はなかなか難しい。一方で、周りが焦ってしまってエネルギーの切れた状態の時に無理をさせると関係がこじれてしまう。その辺の判断の目安として、斎藤環さんは
6ヶ月という期間を設定しているわけです。

 

私自身も、斎藤環さんの判断は妥当だと思います。学校に通っている年齢での「ひきこもり」は、不登校の中の一つのパターンということになります。ひきこもらないで、外で遊び歩いての不登校……などというようなケースもありますから、一つのパターンということです。しかし最近では、学校時代はきちんと通えていたのに仕事に就いてから突然ひきこもってしまうこともある。うつ病や統合失調症とは違う場合でも、さまざまな「ひきこもり」がある訳です。

 
例えば、個性的であるため、周囲とおりあうのに疲れてしまったような場合は、ある程度、自我の強さを併せ持つことも多いので、しばらく休んだ後エネルギーを蓄えて自分から動き出す場合も少なくありません。その場合は、とにかく、安心して休める「場」の確保が大切です。家庭や家族、恋人や親友などがそうした「場」となり得ますし、趣味が共通な人々の集まりなどもそうした「場」となるので、安心してひきこもれる「場」を保証してあげられるようなサポートができると良いでしょう。そしてこの場合は、ある程度ひきこもった後、エネルギーを蓄えて、自ら動きだすことも少なくありません。

 
実際、私の関わった例でも、いじめを受けて不登校になっていたけれど、しばらくしてから知人の紹介でアルバイトを始め、職場でかわいがられてエネルギーと自信を取り戻し、好きなアニメ関係の道へ進んでいった子がいました。私は、直接その子と接することはありませんでしたが、家族会の中でずっとご両親の話を聞き、時にはアドバイスもして、間接的に見守り続けました。そういう「場」があることで、お母さんが不安定にならず、落ち着いて対応していきましたので、家族の中で暴力が出ることもなく、自らの道を見つけて進んで行きました。

 
このように、当事者本人を支えるというだけでなく、家族……特に母親を支え、孤立しないようにする、というのも大切なサポートです。私たちが組織して活動している家族会
(三重県・考える会、子ども未来会議、サークルぼちぼちいこか)などは、直接当事者をサポートするのではなく、母親や家族をサポートすることで本人の周囲を安定させ、安心してひきこもれる「場」をつくるのを支援するのを基本としています。私自身は塾をしていますし、カウンセリングも専門的な訓練を積んでいますので、本人がそれらの会の例会に顔を出せば、学習の相談でも心の相談でも可能な範囲で応じていますが、基本は「家族会」ということなので、家族の支援を中心とした活動を続けています。

 
それから、同じ「ひきこもり」の形であっても、年齢相応の自我が十分に育ってなくて、楽な方に流れてしまい、ひきこもってしまうような場合もあります。自我の未熟さがちょっとしたストレスに遭って普通の人以上にダメージが残り、疲れてしまうような場合です。こちらの場合は、当初は安心して休むことも大切ですが、自我の未熟さが安易な方向に流れてズルズルいってしまう危険も無きにしもあらず……なので、自我を育てるようなサポートも大切になります。というのは、あまり休みすぎると、その居心地の良さに安住してしまい、自らの意志で次のステップや自分を成長させる道に進もうとしないこともあるからです。そうなると、悪い意味での退行や精神的な病につながっていくこともあります。そうさせないためには、日常生活の枠組みや家庭での仕事・家事での役割分担、計画をきちんと守り、結果を出すことで自尊心を育み、自ら選択・決定する体験を重ねて自我を強化していくようなサポートができると良いと思います。

 
以前、事故が起きて問題となった戸塚ヨットスクールでも、日常生活の枠組みを外から強制的にではあっても作っていたことから、条件によっては改善した子もいたということでしょうが、合わない子の場合のリスクが大きすぎますので、私としては本人の現状や現実を無視して、あまりに外から強圧的に強制していくやり方はお勧めできません。

 
また、いじめやトラブルの背後に発達障がいが関係していて、その結果、深く傷ついてひきこもってしまうようなケースも見られます。その場合は、うつや対人恐怖などの重い症状がでることもあるのですが、根本にある発達障がいへの対応をきちんとしていないとなかなか状況が好転しないことが多いようです。

 
ということで、発達障がいについても少し触れておきましょう。主なものとしては
ADHD/注意欠陥多動性障がいとアスペルガー症候群(最近では、専門家の間では自閉症スペクトラムと呼ばれることが多くなっています)LD/学習障がい、発達性協調運動障がいといったものがあります。その中でもADHDとアスペルガー症候群が双璧でしょう。両方あるいはそれ以外も含めた複数の特徴を兼ねた人もいますが、いずれにしても対人関係に問題を抱えやすい傾向があり、周囲の対応がよくないと、ひきこもったり問題行動となったりうつ病や反社会性人格障害などの病に発展するケースも見られます。それから、t定型発達…いわゆる普通の人よりもアルコールやパチンコあるいは薬物などの依存症になりやすい場合もあるので、注意が必要です。また、ある種の感覚が特別に過敏であったり、過鈍であったりすることも多く、聴覚が鋭すぎて机を運ぶ音が耳に触って掃除ができなかったとか、視覚が鋭くて部屋を明るく感じすぎるためサングラスをかけないと仕事ができなかったというような例もあります。

 
ADHDについてはドラえもんのキャラクターにちなんで、不注意で集中がしにくいけれどわりと穏やかな「のび太型」と感情の起伏が激しく衝動性のある「ジャイアン型」に分けている研究者(司馬理英子『のび太・ジャイアン症候群』主婦の友社)もいます。昔は、ADHDは子どもだけのもので大人になれば治る……という考え方がほとんどでしたが、最近では、大人になっても骨折やインフルエンザなどのけがや病気ように完治はしないことが分かってきています。つまり、完全にそうではない普通の人と同じになるというのではなく、日常生活はだいたい普通のように送れるように見えても、周囲の対応によってはADHDに特有の見方や感じ方、言動によってトラブルが起こる可能性は完全には消えない、ということです。ADHDの人たちは、他者との関係を結びたいという思いはあるのですが、他の人の感情や空気を読むことが苦手で、そのことが対人関係のトラブルにつながってしまうことが少なくありません。

 
アスペルガー症候群については、自閉症スペクトラムという新しい専門用語の中にある「自閉」という言葉によって多少想像がつくように、あまり他者との関係に意欲を示さない傾向があります。幼稚園や小学校で、あまり他の子どもたちと関わりを持たず、一人で極端に好きなことだけに没頭していることが多いような子どもは、アスペルガー症候群の可能性があります。他者との関係にあまり興味を示さないので、当然、他者の感情や空気を読む必要性をあまり感じていません。知的能力が高いもしくは普通くらいのことが多いので、学校時代は成績の良さが幸いして問題視されず有名大学に進学するケースも少なくないのですが、就業時に他者とのトラブルが顕在化して、うつ病やひきこもりになってしまう例が見られます。

 発達障がいについての詳しい話は、丁寧にしていくとそれだけでも2時間や3時間は軽く超えてしまいます。詳しくお知りになりたい方は、文庫や新書など手に入れやすい本もたくさん出ていますのでそれをお読みいただくと良いかと思います。また、伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会のブログ「ぼちぼちいこか」には、以前私が講演した発達障害についての原稿もupしてありますので、そちらをお読みいただいても多少は分かっていただけるのではないかと思います。今日は、他にもお伝えしなければならない内容がたくさんありますので、この辺りで切り上げさせていただきます。

 

 

ひきこもり支援の方向性

 

このように、「ひきこもり」という言葉でひとくくりされている状態であっても、実は、様々なケースが考えられるのです。うつ病や統合失調症などの精神的な病が疑われるケースでは、少しでも早く医療機関につないでいくことが大切です。そして、治療や投薬によって症状が安定してきたら、それから、生活習慣の再構築や社会参加、就労(可能であれば)といったステップを踏んでいくと良いでしょう。その際、福祉との連携も大切です。作業所での活動や就労が困難な場合でも、福祉とつながっていくことで生活を安定させ、クォリティー・オブ・ライフ/生き方の質を高めていけるでしょう。

 
発達障がいが疑われるケースでも、医療や福祉とつながることは重要です。特に障碍者福祉手帳等の取得によって障碍者枠での就労が可能となる場合もあり、本人たちが安心できる「場」……居場所づくりと、家族や当事者本人を孤立させないような様々な支援が大切でしょう。

 
精神的な病や、発達障がいの可能性が少ないと思われる場合でも、家族とのつながりがぎくしゃくしていたり、他者との関係を結ぶことに気おくれを強く感じていたりする可能性はかなり高いと思われます。したがって、支援としては、家が安心していられる「場」になるように環境を整えること……辺りから手を付けると良いのではないかと思います。そして、本人の状態が落ち着いてきたら、家事などのきちんとした役割分担によって、本人の生活力を回復させながら、ボランティアなどの社会参加や就労への道筋を探っていくと良いでしょう。就労を最終目標とする場合は、自動車運転免許の取得も、特に交通の便があまり良くない地方の場合は大切なステップとなります。免許を取るための勉強は、だいたい、中卒程度の学力が基準になっていますし、取得すれば運転免許証は身分証明書としても使用可能になります。何よりも、就労が可能となる地域が拡大しますので、就労のための重要なステップとして自動車運転免許の取得はきちんと位置付けておくと良いでしょう。

 
こうした流れについては精神的な病や、発達障がいであっても医療との連携によって状態が安定すれば、生活の改善や作業所通い、アルバイトや就労につなげていくことも可能となるでしょう。私のカウンセリングの師匠…実は日本でのユング派の巨人、河合隼雄先生の弟子でした…が関わった事例でも、薬やカウンセリングで状態を安定させた精神疾患を持つ方が就労したという話を聞いております。適切な治療を継続しながら安定していけば、普通の人と同じように日常生活を送ったり就労したりすることが可能になる例もあるということなのです。

 
その際に、あせりは禁物です。一足飛びに正規雇用などという無茶は望んだり期待したりしない方が良いでしょう。正規の就労に家族がこだわった(その影響で本人も無理をした)ために何度も離職を繰り返したような例もあります。週一のアルバイトから、週三日、そして週五日…といったような感じで少しずつ身体と心を慣らしていくような形でステップを刻みながら自信をつけていくことが大切です。また、農業や林業、漁業など自然に近い所で身体を使う仕事は、続いてくれば、本人の心身に良い影響を与える場合が多いことも付け加えておきましょう。

 
一方で、こうしたステップを進んで、自立・就労まで行きつけない人も、残念ながら存在します。知的能力なども含めると、自立・就労までは困難だと判断せざるをえないケースも出てくるのです。その場合は、何とか生きていけるようにきちんと福祉につないでいく必要があります。

 
自立や就労が困難であると思われるのに、それにこだわって勉強をさせられたり様々な訓練を強制されたりするのは、ほとんど、いじめや虐待に等しい行為だと考えて下さい。ここには、様々な方がいらっしゃると思いますが、今の生活の中で、毎日チェコ語の本を読めるようにするための勉強を2時間するように強制されたらどうでしょうか。よほどチェコやチェコ語に興味がある、あるいはチェコ人の配偶者や恋人がいる人でない限り、1日で嫌になるでしょう。基本も何もない中で、あるいは理解や技術が十分進んでない中でそれを強制されるのは大変苦痛なのです。

 
だから、就労まではとても無理だろう……ということであれば、作業所は可能か……とか、家事はきちんとできそうか……とか、何とか能力を発揮させ、伸ばせるような可能性を探しつつ、死なずに生きていけるように福祉へつないでいく必要があります。障害年金や生活保護、様々なデイ・サービスなど、家族の方に万が一のことがあっても生きていけるような工夫が必要となります。

 
例えば、数年前、北海道や東京、埼玉などあちこちで孤立死事件が相次いだことがありました。生活保護を受けられる条件にありながら、世話をしていた家族の突然死によって世話や介護を受けていた人も死んでしまう、という事件です。背景に、生活保護バッシングなどによって手続きを躊躇したり、誤解したりして、SOSの声を出しにくかった事情もあるようです。しかし、逆に、きちんと福祉とつながっていれば死ぬことはなかったのではないか、と思われるケースも少なくありません。

 
自立・就労を目指すのが基本だとしても、それが難しい場合の対応についても、きちんと考えておく支援が大切です。孤立させず、必要に応じて福祉や医療につなぎやすい環境をつくる。地域全体にそうした努力が必要であり、それは公的な機関や組織にすべて「おまかせ」するのではなく、一人ひとりも、何らかの形で関わり、つながっていけるような形が理想なのです。自分が何かできる時には、その【何か】をして、逆に、それをしてあれば、もしもの時には【何か】のサポートを受けられる。そんな形に、少しでも近づいていければいいのではないかと思います。

 

 

さまざまなひきこもり支援

 

大まかな方向性については先に述べた通りですが、民間でできる支援……ということで考えた場合、当事者や家族がより良い方向に状況を改善していくのを支援するには、多くのことが考えられます。それについても少し考えてみましょう。

 
まず、誰でも、今すぐにできることがあります。それは、ひきこもりについて今より少しでも多く理解を深める努力をすることです。これは、その気になれば、誰でも、たった今から実行できる「支援」です。そしてそれは、様々な支援の根本にあるとても大切な事なのです。何故かというと、別にひきこもりに限らず、自分が何かで深く悩んでいる時にその相談をする(あるいは愚痴を言う)相手は、それを理解し共感してくれそうな相手を選ぶからです。そして、悩みを理解してもらえたり苦しさや辛さを共感してもらえたりしたら、ずいぶん気持ちが楽になります。

 
これは、「ひきこもり」問題でも同じで、「ひきこもり」についての理解の深い人が相手であれば、本人や家族も、知らない人や関心のない人に対してよりもずっと話しやすくなります。こうしたことは、本人や家族を孤立させないということにつながる、とても大切な支援です。不登校・ひきこもりに限らず、家族会や当事者会がいろいろあります。発達障がい関係では「あすぺ・えるでの会」などがけっこう有名ですが、北朝鮮拉致被害者の家族会はマスコミにも度々登場している《家族会》です。いずれの場合でも、家族や当事者という同じ立場の人が集う「場」ですから、どんな話をしても理解し共感してもらえる可能性は高くなります。そこが《家族会》や《当事者会》のいいところであり、家族会や当事者会の存在そのものが、問題を抱える家族や当事者の孤立を防ぐのです。

 
安心して話ができ、共感してもらえる「場」が存在することは、精神面の安定に関わるとても大切なポイントです。精神的な安定は、心の余裕を生みます。心の余裕は視野を広げ、また様々な対応にも余裕を生みます。そうした余裕が、生活のゆとりや当事者をとりまく環境の変化につながります。そしてそれは、状況を改善していく土台となるのです。また、同じ問題を抱えていても、一人ひとりがその問題に向き合って関わっている時間や経験が違いますので、知識や情報の交流という意味でもプラス面は大きいのです。

 
私が関わっている【三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会】や【伊勢志摩不登校・ひきこもりを考える会】もこうした家族会の一つです。だから、理解を深める……ということから発展する支援の形としては、家族会や当事者会のサポートをしていく……ということが一つは考えられると思います。

 
それ以外にも、様々な支援が考えられます。というのは、立ち直っていくステップの中で、それぞれの段階において必要な支援、というものがあるからです。

 
当事者本人が深く傷ついて、それをどうすることもできないような段階では、まず安心して十分に休める「場」が必要です。そして、その「場」となるのが、たいていは家族・家庭です。それに加えて、本人と何らかの形で接触が可能なのは、家族、特に母親……の場合が非常に多い。けれども、当然、母親や家族には理解のない親族や近隣の人々の心ない言葉などを投げかけられているケースも多く、精神的に負担がかかっています。だから、心ないうわさや中傷、無理解な言動に母親や家族がさらされるとさらにストレスや負担が拡大することになります。それは結果として本人への対応の悪化に直結していきます。ですから、その家族を孤立させずにサポートする「場」があれば、本人の周りにいる母親や家族が安定し、本人への対応に余裕が生まれて、本人にとって家庭や家族が安心して十分に休める「場」となっていきます。ただ、発達障がいやうつ病、統合失調症の可能性も当然あるわけですので、いつでも医療や福祉へつなげられるように、家族の周りでサポートしてあげられると良いでしょう。

 
三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会(
2018年現在は【つぅの会】に改組)は、そうした家族を支える家族会としてスタートしました。私自身が参加した時は、「教育」の専門家として入ったのですが、相談を受けていく中で臨床心理学やカウンセリングの理論やノウハウの必要性を痛感しました。そこで、まずは独学で、その後専門的なレクチャーや訓練も受けて臨床心理学やカウンセリングを学び、対応できることも増えて、現在に至っています。が、民間ボランティアとして考えれば、精神医療の専門医や病院を教えてあげたり、福祉の窓口について教えてあげたりするだけでも大きな助けになります。特に初期には、家族は、本人への対応で手いっぱいで、そうした情報を調べる心の余裕も時間もないことが多いからです。

 
教育や心理、福祉の専門的な知識を持っていたり、つながりを持っている人は、時間の許す範囲で、「当事者の会」や「家族会」を作ったりサポートする側に回ったりすると良いのではないかと思います。伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会でも、いせ若者就業サポートステーション(サポステ)のスタッフが参加してくれています。専門的な知識や情報の持つ意味は大きいのです。

 
本人が動き出した段階では、本人が無理しすぎない程度に、様々な活動に参加しやすい環境を整えることが大切です。活動に参加して、「まあまあ、うまくいったかな」という実感を持てるようになると、それが自尊心の回復や自信につながって、次の活動へのエネルギーとなります。この「まあまあ」というのは、結構大切なポイントになります。というのは、本人に完璧主義の傾向がある場合が多いので、「完璧に出来ない」と「ダメ」ということになって、逆に自信や意欲を失ってしまうことも少なくないからです。そうした注意は必要ですが、様々な参加しやすい活動やイベントを続けることも、民間や周りでできるサポートということになります。ボランティアに誘ったり、様々な活動や日常の場面で、本人があまり負担にならない程度に挨拶をしたり話しかけたりすることが大切です。

 
ひきこもりの期間が長引くと、他者と接するのが不安になったり怖くなったりするものです。その気持ちは、言葉の通じない外国の空港や港に一人で降り立ち、周りに知人が一人もいなく連絡を取る術もない状況を想像すると理解しやすいかも知れません。たぶん、それでも平気で動ける人はあまりいないでしょう。それとまったく同じではないにしても、ひきこもりの当事者はそれによく似た不安や恐怖を感じていると考えてもらったらいいと思います。

 
10年ほど前の話ですが、私がタイのチェンライ空港を離れる時、荷物の中にあったお土産のお茶の箱が機械の検査にひっかかり、荷物の開示を求められてことがありました。私は笑顔でOKして鞄を開け、中のお茶の箱も開封しようかと尋ねたところ、係の人も笑顔になって、それには及ばない、と言い、さいごに向こうから日本語で「アリガトウ」と言われ握手をしてもらいました。笑顔や挨拶は、「自分があなたの敵ではありません」と相手に伝える大切なメッセージなのです。けれども、逆に顔をこわばらせて黙ってしまえば、相手に不信感を与えます。チェンライ空港で私がそのような対応をしたら、多分、ややこしいことになっていたでしょう。

 
ところが、長くひきこもっていると、こうしたことが分かりません。また他者に対する恐れや、自分が上手に対応できなくて相手を怒らせてしまったり相手に嫌われてしまったりする不安や恐怖でいっぱいで、黙ってしまったり、顔をこわばらせて固まってしまったり、逃げ出してしまったりするような対応になるでしょう。自分の心の中の不安や恐怖しか考えられず、その対応が逆に相手に不信感を与えたり怒らせたりするなどということは、まったく思いいたらないのです。

 
だから、このような「不審な対応」をされたとしても笑顔を失わず、挨拶をしたり声掛けをしたりする対応を続けることも一つの支援になります。また、身近な話をできる人が、笑顔での挨拶や、ちょっとした言葉のやりとりそのものが、「私は敵ではないよ」というメッセージを伝えていることを、教え、行動で示していくと良いでしょう。それと並行して近所の人々や顔を合わせる機会のある人々にも挨拶や声掛けをしてあげると良いということを伝えていくと良いでしょう。そうした対応は「あなたの敵ではないよ」ということばかりでなく、「あなたを気にしているんだよ」というメッセージにもなっているのです。

 
当初は、先に述べた通り、本人の顔がこわばったり、何も反応を返してこなかったりする場合も少なくないかもしれません。それは、本人がどう対応していいかわからなかったり、間違った反応をしてしまうことを恐れていたりする場合がほとんどで、悪意や害意を持ってそうしていることはまずありません。だから、そうした反応に怒ったりせずに、にこやかで穏やかな対応(挨拶や声かけ)を機会があるごとに続けてあげられると良いと思います。本人は、コミュニケーションに自信を持っていないことが多いし、その結果としてコミュニケーションの機会が極端に少なくなっています。だから、挨拶を交わすだけでも、コミュニケーションの機会を提供していることになるのです。それもまた、大切なサポートです。

 
人間の能力は、使っていないと衰えるものが少なくありません。私は一時期タイの女性と結婚していたのですが、彼女が帰国していたときは時々タイ語で手紙を書いていました。離婚した後は、タイ語を書く機会がないため、現在、ほとんどのタイ文字を忘れてしまっています。ひきこもっている期間が長い場合でも、様々な知識や能力が低下していることが少なくありません。一方、就労に際して必要な知識や能力もあります。ところが、長期間ひきこもっていると就労に最低限必要な知識を忘れていたり、必要な技術や気配りなどが低下していたりするのです。伊勢のサポステのスタッフによりますと、就労に際しては最低限小学校5年生程度の学力が必要だ、と言います。だから、当事者に勉強を教えたり、学習につきあってあげたりするのも周りでできる重要なサポートです。また、本人に教えられなくても、同じ部屋で一緒に別の勉強をする形を取っても良いと思います。本人は自動車の免許取得の勉強、お母さんは簿記の資格の勉強……というのもアリです。自分だけが勉強しているのではない、と思えば、そのことが勉強する上での励みにもなります。

 
それから、就労に際してのサポートについても触れておきましょう。家族も本人も、精神的に焦っていると、一足飛びに完全な正規雇用を目指すかも知れませんが、ほとんどの場合、それは困難です。起きられない、長時間同じことが続けられない、など、体や心が短期間で正規雇用に対応できないことが多いからです。だから、作業所や短期間・短時間のパートやアルバイトなどで体や心を慣らし、徐々に働ける時間を長くしていって安定した雇用につなげていけると良いかと思います。

 
その時に、夕方いつも、あるいは一日おきにでも、おじいさんの畑仕事を手伝う……というような、お金につながらない労働から始めても良いでしょう。その前段階として、風呂の掃除に責任を持つ、とか火曜と金曜の夕食は作る、といった家事の分担をして、それを守らせ、責任を持たせるというようなことも良いかと思います。本人にとって簡単すぎる課題だと、達成感や自信につながりませんし、難しすぎる課題だと続きません。続かない時は、課題設定に問題がある、という方向で考えて、本人と一緒に適度な課題に修正すれば良いでしょう。

 
このようなことをベースに考えると、ここでの支援についても、いろいろなことができるとお分かりになるでしょう。まずは、作業所やパートやアルバイトの形で働ける場を確保すること。それから、働き口での経営者やそこで共に働いている労働者が本人への理解を深めてお互いが働きやすい環境を整えるサポートをすること。そして、就業だけではなく、続けるために、本人の悩みを聞いたり、トラブルを解決したりすることを目的として、定期あるいは不定期に本人と関わり、支援を続けることなどです。

 
だから、作業所などの働ける場を作ることも支援だし、パートやアルバイトの形も含めて、労働者として雇用することも支援となります。また働き口を紹介するのも支援ですし、働いている中での悩みを聞いてあげたり、トラブルになった時にサポートしてあげたりするのも支援です。それから、家以外でも安心出来る「場」を提供することも支援となります。それから、トライアル雇用など就労に関わる様々な制度もあるので、そうした知識を伝えたり、手続きを教えたり、サポートしたりする支援の形もあります。

 
また、きちんとした就労までは無理な場合でも、本人に何ができて何ができないかを、本人と支援者や家族がきちんと確認し、出来ないことをカバーする制度につなげるのをサポートすることも大切な支援の一つです。条件によっては難しい場合もありますが、きちんと手続きをすれば障害年金などを受け取ることも可能になる場合もあります。そうした様々な制度につなげるのも大切な支援の一つです。

 
もちろん、これらをすべて、一人の人や一つの組織でする必要はありません。というより、一人の人や一つの組織で行うのはまず無理です。自分あるいは自分たちができることが何かを考えると同時に、それぞれのつながりを深め、たくさんのネットワークで支えていける体制を作っていけると良いでしょう。

 
以上、簡単ではありますが、私が知る範囲でのおおよそ重要と考えられることは話をさせていただきました。知ること、そして出来ることからやっていくということ、さらにその「出来ること」をつなげて、ネットワークで支えあっていければ少しずつ改善していけると思います。

 

                                   〔完〕

 

 

 

主要参考文献

 

斉藤 環  『「ひきこもり」救出マニュアル』〈理論編〉&〈実践編〉 ちくま文庫

司馬理英子 『のび太・ジャイアン症候群』  主婦の友社

加藤進昌  『大人のアスペルガー症候群』  講談社+α文庫

岩波 晃  『大人のADHD』        ちくま新書

岡田尊司  『パーソナリティ障害がわかる本』 ちくま文庫

鍋田恭孝  『子どものまま中年化する若者たち』 幻冬舎新書

雨宮処凛  『14歳からわかる生活保護』(14歳の世渡り術シリーズ) 河出書房新社

 

ビジョンとステップ

 

 

はじめに

 

以前から伊勢志摩地区での相談や亀山の会、三重県・考える会での発言の中で、ビジョン(将来的な目標)とステップ(それに向かって持続的に努力可能な短期的課題)について何度も触れてきましたし、2年ほど前にも再度まとめましたが、その重要性は現在も変わらないと感じています。不登校問題ばかりでなくNEETひきこもりの就業と関わっても、このビジョンとステップの考え方はとても大切です。というのは、当事者である本人にとっての具体的な課題としてのステップという視点ばかりでなく、家族をはじめ周囲で支える人々の具体的な課題としてもステップを考えていく事は、様々な意味で重要な事を多く含んでいます。ちょうど《のブログ》のサービス提供終了のため、伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会の事務局blogを切り替えなければならなくなりました。そんな中で、現時点での私の考えを今一度整理して、以前の文章に加筆や訂正したのがこの文章です。ということで、ビジョンとステップについて丁寧に考えてみようと思います。

 

 

 

一、    ビジョン…将来的な目標

 

21世紀に入り、民主党政権になって1年足らずで鳩山政権の崩壊から管・野田政権を経由して自公政権に戻りましたが、安倍政権になってからの逆行ぶり無法ぶりは目を覆いたくなるような惨状です。沖縄の米軍基地移設問題では当事者である県民・市民の選挙や集会で示され続けている結果よりもアメリカ軍を大切にするような言動ばかりで沖縄の民意や日本国民の利益、日本国憲法の規定よりも政権維持に執着しているとしか見えません。また、尖閣列島や北方領土に関わる外交でも醜態が何度も繰り返され、データ改ざんによる帳尻合わせや嘘とごまかしによって現実の課題に向き合おうとしない無能な政権によるビジョンのない政治が続いています。けれども、家族や周囲に不登校やひきこもりの問題をかかえている私たちは、小泉純一郎の以降の権力維持のために国民の利益を侵害し続ける悪質な政治業者たちのように言動をもてあそぶような時間的・精神的余裕はありません。当事者のために、今、必要なものは、将来に向けての納得でき、努力する気力を失わせないような希望です。それが、本人と家族や周囲の人々の中で明確になれば、努力する方向が見えてくるからです。そうした意味でのビジョンについて…本人のビジョンとそれを支えようとする家族のビジョンについて今一度考えてみたいと思います。

 まず、当事者本人について考えてみましょう。不登校・ひきこもりの問題で苦しむ当事者の中で少なからず見受けられるのが「どうせ私なんか…」という否定的な思いです。それは、1つには自分に対する自信のなさと将来に向けての展望が見えてこない事による焦りや苛立ちに由来するケースが多いと考えられるからです。したがって、ある意味では自信や希望という問題がはっきりしてくれば、精神的にも落ち着きを取り戻し、目標に向かって努力するための第1歩を踏み出す事が可能となると言えるでしょう。そして、可能な範囲での努力を確実に積み上げていく事がさらなる自信につながり、自己肯定にもつながっていくと思われます。

 でも、自信や自己肯定の問題は、実は不登校や引きこもりとはまったく無関係に見える「普通の人」にとっても、けっこう重要な成長・成熟面での課題になっている場合が少なからずあります。授業中に携帯電話でメールをしたり、大人に怒られるような事を繰り返したりする「元気な高校生」たちの中にも、自分の夢や希望が見えない苛立ちから反抗や非社会的行動を繰り返す者がけっこう多いからです。

高校生たちばかりではありません。その意味では、どこかの国の政治のトップを勤めている安倍総理などもそうした例に当てはまるかも知れないのです。国の将来に対するビジョンも何もないがゆえにまともな説明も出来ず、「丸投げ」や「感情的な言い逃れ」あるいはその場しのぎの「嘘」を繰り返す言動はその表れである可能性があります。国の将来ではなく「権力維持」のための「自分の決定」に固執し、状況が変化してもそれを認め改めるという事ができず(改めれば権力の座から滑り落ちるという恐怖感があるからかも知れないが…)、自分の権力を守るという目的だけのために、NHKをはじめとするマスコミに圧力をかけて失敗やオトモダチの悪行や無法行為を隠蔽し続け、矛盾が露呈している方向へしゃにむに周囲を強制して進んでいこうとするように見えるからです。この様な行動を見ても、「現実認識能力」を持たない彼の「現実」やその頼りなく信頼に値しない力量が浮かび上がってくるように思われます。

こうした例からも分かるように、ビジョンを持つ事はかなり大変です。それは、人間関係に問題を抱えている不登校や引きこもりに悩む当事者にとっては「普通の人」以上に重い……と感じられる「大変さ」かも知れません。その「大変さ」を意識しつつも、私はやはり「ビジョンを持つ事が大切である」と伝えたいのです。その上で、付け加えたいのは、何も「完全無欠」の変更のきかない「ビジョン」である必要はない、という事です。

ビジョンや希望を探すキー・ワードは「自分の好きな事」あるいは「自分が穏やかな心で取り組める事」であろうと考えられます。例えば、花に囲まれていると落ち着く……というような人は、それを生かして何かをする事を考えればよいでしょう。そうした生活を続ける中で、華道から日本文化の研究へ進んでいくかも知れないし、園芸から農業への道を選択するような場合もあるかも知れません。とりあえずの方向性を決めて、それにそった活動や勉強を続けていく中で自分の中に見えてくるものがあるのです。地道に続けられる活動や勉強が、自分の心を安定させ、力を育てていき、自信と自分を取り巻く世界に対する信頼感を回復させます。その中で新たな道が見えてきた場合は、ビジョンを修正していけば良いのです。

そうした発想は、ある意味では周囲の人々、特に家族においても同様です。とは言っても、正直な話、家族の立場からすれば、それなりに自立して、地域の中で社会生活を営んでいけるような力を身につけ、将来的に自立していければ良いと考えれば、取りあえずは十分ではないかと思われます。

何も、本人が接触する、あるいは出会うすべての人と上手に関係を結ぶ必要はありません。それに、世間一般と比較して飛びぬけた収入や地位を望むような「押し付け」は、真摯に不登校やひきこもり、NEETの問題と向き合い、その現実から多くを学んだ人たちとは無縁の考えだと想像できるからです。

しかし、大切な家族や関わりを持つ相手の事を真剣に思っていれば、「それなりの自立」という実体は必要だと考えるでしょう。自分たちの暮らす地域社会で、多少不器用ではあっても、それなりに生活を維持していければ、それは「自立している」と見てもかまわない、とたいていの人は考えるからです。だから、非常に大まかな表現になるが、当事者の「それなりの自立」という事は、家族や周囲の人々にとって、当面のビジョンとなり得るのです。

何も、東京へ行っても札幌へ行っても、パリやバンコクへ行っても、すぐに自立できるような能力が普通の人間に必要なわけではありません。必要なのは、自分が暮らす地域で、周囲の人や自分にとって大切な人との関係をきちんと結びながら、家族トータルとして経済的にもやっていけるという確信が持てることが「それなりの自立」の中身だと考えて良いでしょう。

そのように肩の力を抜いて考えると、精神的にも日常的にもゆとりが生まれてきます。時間の経過の中で「ビジョン」は微妙に変化していっても良いでしょうし、当事者の「現実」が変化していけば、当然「ビジョン」そのものも変化してきます。それを前提に、周囲のサポートもその変化に合わせて変えていけばよいという事になります。

ゴールという意味ではなく、当面、高卒の資格を取ることを目標として設定すると仮定しましょう。当事者の現実を見つめていけば、通信制・定時制・高卒認定試験など様々なルートの中で、当事者の個性やその時点の力量から考えて何とかなりそうなルートが見えてくるかも知れません。

それに伴って、生活面、学力面、体力面、対人関係面など、様々な課題もまた見えてくるでしょう。どこから手をつけ、どこを後回しにし、それぞれについて誰から、どのようなサポートが受けられるのか。それらの点は状況によって異なるでしょうし、また変化もするでしょう。そして、場合によっては「高卒の資格」を必要としないルートに進む事になるかも知れません。けれども、きちんと取り組み、一歩ずつ歩みを進めていった結果の変更であれば、それはそれでかまわないのです。大切なのは自分で考え、決断・決定した上で、納得して努力を積み重ね進んでいく事なのですから。

就業についても同じです。長期間ひきこもってしまっているような場合には、他者と挨拶をするだけでも不安や恐怖を感じる場合が少なくありません。そのような場合に最初から8時間毎日働くような就業はよほどの好条件と幸運が重ならない限り、まず不可能です。とすれば、少しでも他者との関係を結ぶような訓練がまず必要でしょうし、その上でパートやアルバイトを経験しながら少しずつ就業する時間を増やしていって、その先に毎日8時間の就労という目標を設定しなければ、一足飛びには無理だろうと考えられます。

だから、それぞれの状況や個性に合った方向性、それが必要な「ビジョン」が大切なのであり、それはまた、状況の変化に合わせて修正していけるものともなるのです。短期的な「結果」に拘ったりせずに、じっくり、そしてゆっくりと歩みを進めていくという覚悟と決意が、結局は状況を好転させていく事につながっていくでしょう。まずは、そのような気持ちで日々の努力を続ければ良いのです。

 

 

 

二、    「居場所」と現実

 

 ビジョン……それは未来への夢を描く力、と言えるかも知れませんが、それはまた自分を精神的に支える「居場所」の存在と、自分自身の現実をきちんと見つめる能力によって支えられているものです。

 不登校の場合は主に「学校」の中での関係に問題を抱えていると思われますが、引きこもりの場合は「周囲」を取り巻く関係で深く傷ついているために関係をほとんど閉ざしてしまっている、という状態であると考えられます。

 その意味では、先へ進む以前に、傷ついた心を癒す「居場所」の構築が最優先の必要事項となります。ここで言う「居場所」とは、単なるスペース(空間)という意味にとどまらず、その場における人間関係をも含めます。自分自身の悪い部分や嫌な部分も含めて丸ごと受け入れてくれる人がいる「場」、「良い子」を演じ緊張し続けなくても良いその時の「ありのままの自分」でいられる「場」、疲れきった自分を無防備にさらけ出しても危険のない「場」、ゆっくり心身ともに疲れを癒す事のできる「場」……。それらが、1人の人間にとっての「居場所」です。そして、多くの人間にとってその最も大切で基本的な「居場所」と信じられているのが「家族」であろうと思われます。

 ここで、1人ひとりが自分自身を振り返ってみると良いかも知れません。「家族」が自分にとっての「居場所」となり得ているか、そして他の家族にとってはどうか……と。皆が「家族」を大切な「居場所」だと感じているように思われる場合はそれで良いでしょう。けれども、そう感じられない誰かがいるように思う場合は、それを少しずつでも改善するために自分が出来そうな事を併せて考えてみましょう。無理なく、続けられる小さな努力……。必ずしも、引きこもりの当事者のみではなく、お父さんやおばあさんに対しても何か考える必要があるかも知れません。

表面に出ている誰かよりも、実は隠れている誰かの抱える問題が、状況を変えていくきっかけとなる場合があります。そして、隠れている誰かの問題への取り組みの方が簡単で取り組み易かったりもします。その結果、隠れていた問題を解決した誰かが、やがて大きな支えとなってくれたりもするのです。最初の努力は、無理なく続けられる小さなものかも知れません。けれども、そうした「小さな努力」を積み重ねて、家族全員の「居場所」を再構築することにつながっていくのです。それが、「周囲の人」に出来る第1歩ではないか、と思われます。

 しかし、注意して欲しいのは、すべてを「家族」で背負う必要はないと言う事と、誰もが「居場所」を複数持てる方がより安心・安定して、他の事や新しい事に取り組んでいけるという事です。

 私自身を振り返って見ても、実は、たくさんの「居場所」に恵まれている事に気づきます。家族はもちろんですが、他にも文学の関係で「青い鳥」という「居場所」があります。フレネ教育研究会や三重フレネ研究会も大切な「居場所」の1つです。鳥羽子どもの本の会や、鳥羽国際交流ボランティアの仲間たちもいます。志摩市国際交流協会の日本語教室という場もあります。美味しいウィスキーとカラオケを楽しむ常連として通う店も安心して楽しめ、くつろげる「居場所」かも知れません。私は、それらの「居場所」に様々な形で支えられながら、教育実践や文学、不登校ひきこもり問題や外国人への日本語教育に取り組み続ける事が出来るのです。

 そして、新しい「場」は、自らが心を開き、関係を続け、深めていく中で「居場所」となっていくことも少なくありません。1人で悩んでいないで、まず、扉を叩く事で、扉は開かれるのです。そして、そこでの出会いが新しい道を開いてくれるということにもつながっていくでしょう。

最初は、その場にいて話を聞くだけの関わり方でスタートしても、「お父さんも連れて参加しよう」と考えたり、他の人の話を聞いて「私のところでは、……でした」というような形で体験を語り、少しでも参考になれば……と心を砕くことが出来るようになったりしていくかも知れません。それらのすべてが、関係を深める行動であると同時に、「居場所」を作っていく事にもなっていったりするのです。

 子どもの不登校や引きこもりで悩んでいたお母さんが、例えば、不登校ひきこもりの家族会に参加したとしましょう。そこで悩みを話す事で、自分の考えや行動を再確認できるし、経験者や助言者からのアドバイスを聞く事も出来るかも知れません。それによって不安が小さくなれば、同じ様に参加しているけれどもまだ心のゆとりを持てない様な誰かのために自分の体験を話してあげられるようになるかも知れないでしょう。そうなった時、そこはそのお母さんにとっての「居場所」となります。「居場所」が増えれば、精神的にも安定してくるし、精神的な安定は他の人への接し方の変化につながっていきます。そこに「居場所」としての「家庭」の変化・「家族」の変化の第1歩につながる何かが生じているのです。

 心が安定してくれば、今まで見ようとしなかった「現実」、気づく事を恐れていた「現実」を見つめる強さが生まれてきます。アルフォンス・デーケンは、癌などの不治の病に直面した時の一般的な反応について、現実否認・怒り・悲しみ・孤独などを味わう場合が多いと述べています。が、そうした怒りや苦しみ・悲しみを乗り越えて自分の運命を受容出来た人は新しい希望を見出し、豊かな生を全うしている、という事を指摘しています(A・デーケン『死とどう向き合うか』 NHK出版 1996年)。この場合は病や死に直面したケースでの反応と展望ですが、こうした【現実否認・怒り・悲しみ・孤独・そして現実の受容】という一連の経過とその立ち直りの過程は、不登校や引きこもりに悩む当事者やその家族にも、ある種、共通するものがあるように思われます。

 例えば、誰かが不登校や引きこもりになったと仮定しましょう。当事者である本人自身も、どうしてそうなったのか分からない場合が少なくないので、苦しみ、怒り、荒れ、同時に「誰も分かってくれない」という孤独感にさいなまれる事がけっこう多いでしょう。しかし「学校へ行けない」とか「外に出られない」という現実をまず受け入れれば、その中で、今できる事と、今はまだ出来ない事、これからの一生の中で時間がかかっても出来るようになりたい事などがだんだんと形になってはっきりしてくるでしょう。そこまでくれば、「今やれる事」を積み重ねていく中で、徐々に自分の力を伸ばし、周囲の人々や社会との関係性を再構築していけるようになっていくと考えられます。

 家族の立場からも同じような事が言えます。子どもが不登校や引きこもりになった時、多くのお父さんやお母さんはその「現実」を受け入れられず、怒り、苦しみ、当事者を責めたり、あるいは周囲に相談出来ずにひた隠しにして孤独感にさいなまれ、「なぜ家の子だけが……」と思い、苦しんだり悲しんだりする事が多いのではないでしょうか。そして、「なぜお前は……」と本人を責めたり、「お前が甘やかすから……育て方が悪かったから……」とお母さんだけに責任を押し付けたりする場合も少なくないように思われます。その結果、お互いを信じられなくなり、「家族」が「居場所」としての機能を果たせなくなってしまいます。「現実」を受け入れるのは大変な作業ですが、それから逃げている限り苦しみは続く場合が多いのです。

 けれども、子どもが不登校や引きこもりになってしまったという「現実」を誰かが受け入れ始めた時、「家の子だけではない」という事が分かってきます。そして、周りには敵ばかりではなく、理解し、手を差し伸べてくれる人や「場」がある事も見えてくるでしょう。そうなれば、「家族」や「学校」が本人の「居場所」となり得ているかどうかを確認出来るし、その中で、「今、自分がやれる事」もだんだんと見えてくるようになると思われます。

 いずれにしても、「居場所」を確保し、「現実」を受け入れていく事で、ゆっくりとではあるが確実に歩みは進み始めるのです。そして、本人なりの、あるいは本人を支える家族の人それぞれ独自の、これからの「ビジョン」と、「今すぐにやれる事」や「もう少ししたら出来るようになるかも知れない事」が見えてくるようになります。これらが「ステップ」すなわち(短期的な課題・目標)なのです。次に、これについて詳しく検討してみようと思います。

 

 

 

三、    ステップ…短期的課題(当事者について)

 

 今まで「現実」を受け入れる事が「ステップ」につながっていく事を述べましたが、この「ステップ」についても「ビジョン」と同様にそれを必ずしも固定的に考える必要はない、という事を記しておきましょう。と言うよりも、「現実」は常に変化するものである以上、「ステップ」は方向性さえしっかりしている限りは「ビジョン」以上に状況に応じて変えていけば良いものなのです。

 まずは、当事者本人の「ステップ」について考えてみましょう。

 例えば、高校卒業の資格を取るために、定時制や通信制の受験を考え始めたと仮定します。本人の「現実」として中一から学校へ行ってない状況があるとしたら、中1の勉強を始める事が取りあえずの「ステップ」となり得ます。しかし、問題を解いてみたら、まったく分からない……という「現実」があったとしたら、例えば分数計算から良く分かっていなかったというような新しい「現実」が見えてきます。それを本人が受け入れられない場合は「わからない」「集中できない」といって逃げたり、自分をごまかしたりする事もあるかも知れません。あるいは「どうせ自分はできないのだ」とやけになって勉強そのものをやめてしまうような場合も少なくないでしょう。けれども、新しい「現実」を本人が受け入れられたら話は簡単になってきます。そう、中1の問題と「現実」の間に、《分数計算をできるようにする》というさらに細かい「ステップ」を追加すれば良いのです。

 と、このように文章で書けば簡単に思えるかも知れません。しかし、決して必ずしも簡単にはいかない場合も少なくありません。私が高校で数学を教えていた時でも、こちらが観察していれば〔分数の計算のところでつまっている〕ことか分かっていても、本人がなかなか「分からない」が言えないために、結局、授業そのものが止まってしまう場合が何度もありました。「分からない」の一言が出れば、その時点から例えば分数の計算まで含めた説明をしていけるので授業も進むし、本人以外の分数計算の分からない生徒にとってもプラスになるのですが、それが出ないためにただ時間だけが過ぎていったのです。その背景には本人のプライドやその他、様々な心理的な問題がいろいろとあるのですが、とにかく、まずは「分からない」と言う……ただそれだけの簡単な「1歩」がどうしても踏み出せないのです。

 自分の能力が不足している事を認めるのは辛い事です。そして、点数主義や能力・成果主義の環境に傷つけられて不登校や引きこもりになってしまったような場合は、「分からない」「出来ない」が、単なるその場での周囲からの否定的評価や自己否定にとどまらず、いじめや攻撃のきっかけの1つになった場合も少なからずあるように思われます。そのような経験が積み重なっていれば、簡単に「分からない」「出来ない」が言えなくなってしまうのも当然であろうと思われます。

 しかし、考えてもらいたいのは、人間という存在を評価する場合に、点数主義や能力・成果主義は、たくさんある評価のうちの1つに過ぎないという事です。そして、社会の中には、それ以外の様々な視点で人間を見るちからを持った人が少なからず存在します。その様な人々と出会い、関係を深めていく事で、道は開けてくるのです。

 それからもう1つ、「分からない」「出来ない」というのは、現時点での事であって、その「現実」から目をそらさずに必要な努力を続ければ、やがて、「分かった」「出来た」と言える可能性がある、という事も事実です。週刊少年ジャンプで連載されている『ぼくたちは勉強ができない』(筒井大志/単行本は現在4巻まで集英社より発売中)というマンガの主人公の唯我くんは、彼が関わる苦手教科に関しては壊滅的に点が取れない女の子たちを責める周囲の人々に対して反論し、「今できないとしても、いつまでもできないとは限らない。もっと長い目で見てほしい」と女の子たちをかばい勇気づけながら勉強を教え続けます。だから、「今、分からない」という事実は、決して「分からない人間は能力がなく、価値もない」という事とつながっていないのです。「分からない」という現実を受け入れる心の強さを持つ事が出来るようになれば、そこから「分かるようになる」ためのステップが見えてくるでしょう。そして、周囲の信頼できる人のサポート受ければ、より効率的に学習や訓練を進められるようになっていくのです。

 けれども、引きこもりが続いているような状況がある場合は、その周囲のサポートを受ける事自体に困難を伴う場合があります。そのような場合には、そうした〔人間関係を結ぶのに不安や恐怖を感じる〕という「現実」から出発すれば良いのです。確かに、その「現実」を改善するのは簡単な事ではないかも知れません。しかし、時間をかけて地道に取り組めば、必ずしも不可能なわけではないのです。ポイントは、2つあります。知識と継続できる地道な努力なのです。

対人関係に対する不安や恐怖……というのは、ある意味では感覚・感情的なものなので、知識を持っている場合であっても簡単に直せる訳ではありません。けれども、知識として知っていれば、慌てたりパニックになったりする事は少なく、多少なりとも冷静に自分で対処する事が可能になります。

例えば、私は15年程前の冬、何事に対してもやる気が起きなくなり、また眠りたくない……というような状態になったことがありました。多少なりとも心理学的な知識があった私は、「今、少し鬱状態になっている」と判断し、流れに身を任せる事にしました。つまり、目前に迫った必要最低限の仕事以外はすべて可能な限り先送りをし、夜は身体が疲れて眠くなるまでひたすらTVゲームを続け、音楽(実はかなりの音楽好きで、クラッシックからジャズ、シャンソンやニューミュージック、TVや映画のサントラなど、持っているCDだけでも500枚は下らないのですが)はと言えば、通常はあまり長時間に渡っては聞きたくないと思っている陰鬱な森田童子の歌だけをひたすら聞き続けたのです。そして、およそ1ヶ月で鬱の状態が軽減し、徐々に意欲も回復して鬱状態から抜け出していきました。その結果、1月の終わり頃には普通の状態に回復していたのでした。

引きこもり状態が長引いている場合は、対人関係に対する不安や恐怖感は私の例とは比べものにならない程強いので、こんなに簡単に回復するわけではないでしょう。けれども、多少なりとも心理学的な知識があれば、その知識がない場合よりも自分をコントロールしやすくなります。例えば、「お父さんに毎日挨拶をする」というような持続可能な行動目標を「ステップ」として自分で設定し、それを繰り返していくというようなことです。最初はぎこちないでしょうし、やっていく際の違和感も半端なものではないでしょうが、それを1週間……1ヶ月……半年……と続けていく中で、徐々にお父さんと言葉を交わす時に感じる不安や違和感が小さくなって、やがては知らない間にそれが消えている事に気づくでしょう。

周囲の知識のない人から見れば「そんな簡単な事が……」と思われるかも知れません。しかし、当事者の不安の大きさと日常化する中での解消効果は一般的に考えられているよりも大きいのです。特に、自分1人であれこれと考え悩み続けていると、実はあまり根拠のない漠然とした不安に支配されているケースが結構あります。訳の分からない不安から具体的な不安(例えばM先生に会うと怒られそうで怖い……といったような)を抽出し、具体的な行動を通して(例えばM先生に挨拶したら、ニッコリ笑ってくれた……というような経験が不安を和らげ、消していきます。)改善のための努力を続けるのです。だから、簡単な事でも続ける事が大切だし、必要に応じて「ステップ」は修正していくらでも細かく刻めば良い、という事になります。時間をかけて努力を重ねれば、知らないうちに心の中のどんよりとした重苦しい感じや違和感は小さくなって消えていくでしょう。あせらずに、続けられる努力を積み重ねていく事で、少しずつ周囲との折り合いがつき、崩れてしまっていた周囲の人々や「世界」との関係を再構築できるのです。

そのように考えて、息の長い努力を続けていく事が、結局は、自分の状況を改善する早道となります。あせらず、自分の未来を信じて地道に努力を続ければ、やがて少しずつ理解してくれる人が現れてくることも少なくありません。そしてその先で、「世界」と和解できる日が訪れるであろうと考えられます。

 

 

 

四、    ステップ…短期的課題(周囲の人々について)

 

次に、当事者の家族やサポートをする周囲の人々の「ステップ」についても考えてみましょう。

先に述べたように、当事者の「ステップ」をサポートするように動けば良い、というのが基本ですが、家族や周囲の人に知識や外の世界と本人をつなぐ情報やネットワークを持っていれば、よりサポートは楽になります。そして、周囲の支えやサポートを受けて家族や当事者本人に接する人がある程度の知識を持ち、精神的に安定していれば、本人も安心して自分の当面の課題に取り組めるようになります。だから、当事者本人も大事ですが、お父さんはお父さんなりに、お母さんはお母さんなりに自分自身も大切にするようにしなければならないのです。

不登校や引きこもり問題に取り組むに当たって「子ども本人が1番傷ついている。だから、子どもを1番大事にしなければならない」と言われる場合があります。それは確かに正しいし、それを貫ける精神的な強さを親や周囲が持ち得ている場合はそれで良いでしょう。しかし、大人であっても、すべての人が精神的に強い訳ではありません。大人の側が、そうした「子どもが1番」を貫けない「弱さ」を残している場合も決して少なくない……というのが、親をはじめとする大人の偽りの無い「現実」なのです。その意味では、自分の親や大人としての「弱さ」という「現実」を見つめ直して受け入れ、それから出発して、実行可能な「ステップ」を1つひとつ着実に刻んでいく……というのが、最も現実的な対応となります。

家族の誰かが不登校や引きこもりという状況になってしまった場合、それが数日や数週間、あるいは数ヶ月といった短い期間で改善する事は、実はあまり多くはありません。けれども、時間をかけてサポートを続ければ改善する可能性は高いし、その苦しみを乗り越えた当事者は精神的に大きく成長し、今までよりも強く、そして優しくなれるのです。

だから、本人の未来を信じ、息の長いサポートを続ける事こそが大事になります。逆に、親を始めとする周囲の大人たちが「本人が1番大事だから……」と、自分を殺して無理の多いサポートをしていると、結局は周りがすぐに燃え尽きてしまって息切れし、後が続かなくなるのです。サポートが消滅すれば本人の心もより不安定になるし、家族も含めた状況はより悪化する可能性が高くなります。その意味で、自分自身の弱さも含めた「現実」から出発する事は、自分のためというだけではなく、長い目で見れば当事者にとってもプラスになる事なのです。だからこそ、親や家族の1員である自分自身も大切にしなければならない、という事になります。もちろん、その際にはある場面・場面で当事者の要求と自分自身の「現実」とがぶつかり合う場合も出てくるでしょう。けれども、その中でお互いに折り合いをつけ、関係を良い方向に持っていく努力をする事は、当事者にとっても大切な経験となり得るのです。

そうした意味で、親や周囲の大人も「現実」を受け入れながら、続けられる努力を重ねれば良いと考えられます。そして、今の時点で行っている対応や努力が続けられない(あるいは非常に負担に感じる)ならば、それは、自分の「現実」をきちんと見つめきれていない可能性が高いという事です。そのような場合、実は話はあまり難しくはありません。もう1度「現実」を見つめ直せば良い、というだけなのです。

そしてその時には、すべてを1人で背負う必要はありません。他の家族や、信頼できる友人や知人・仲間にサポートをしてもらっても構わないのです。そうやって、「現実」を見つめ直せば、親や家族としての「自分」の新しい「ステップ」が見えてくるでしょう。それに合わせて、今の時点の努力を、長く続けられるものに修正していけば良いのです。

その際に、親や家族としての思いを伝えていく事も大切であるという事になります。それが、親としての自分・家族としての自分を大切にする事にもつながってくるのです。本人と自分、どちらかではなく両方ともが大切であり、自分にとっても当事者本人にとっても、自分自身とお互いの存在そのものがかけがえのない存在なのです。

しかし、そうした「思い」を伝える際には、解決を焦って《イベント》を企画しないように心がけた方が良いでしょう。何かをきっかけに状況が好転する事は確かにあるのですが、安易な「きっかけ」を周囲の大人の側が周到に考えて用意しても、当事者本人に見透かされたりして、返って状況が悪化する事も少なくありません。それよりも、日常的な努力の積み重ねの過程で起こる《アクシデント》が、本当の意味での「きっかけ」となる確率が高いのです。

サポートを地道に続けていけば、機が熟した時に《アクシデント》が起こる。その時を逃さずに、そうした《アクシデント》を当事者本人が自分の力で越えていけるようにサポートしてやる事が大切になります。例えば、今までがんばっていたお母さんが体調を崩して動けなくなったことがきっかけになり、当事者本人が動き出す、という例はよく聞きます。それは、体調を崩すというのは大人の側が意識的にそう仕向けた《イベント》ではなく《アクシデント》だからです。

その際に必要なのは「焦らずに待つ」という心の姿勢と、小さな事でも愛情を持って見守り続ける粘り強さです。このような努力と配慮を続けていれば、ゆっくりとでも、確実に歩みは進んでいきます。それを信じて、自分の能力・体力・時間の可能な範囲で続けられる事をしていけば良いだろうと思われます。

とは言っても、地道に努力を続ける事は確かに苦しいものなのです。けれども、正しい努力を続けていれば、必ず、手を差し伸べてくれる人が出てくるということは、実は、経験的にも数多くの例があるのです。確かに、今もまだ、苦しく辛いかもしれません。しかし、この文章を読んでいる人には、少なくとも1つ以上は、共に考え、サポートしてくれる人や「場」が存在している筈です。10年前にはなかったけれど、今は存在する「場」も、いくつかあるでしょう。その意味では、環境も少しずつ変化してきているのです。小さな努力でも、それを積み重ねていけば、いつの間にか出来るようになっている事があります。

「ぼちぼちいこか」

この言葉を、私のこの小文を読んでいただいたすべての方に贈りたいと思います。

 

〔完〕

*この文章は、発達障がいの方を念頭に置いたものではなく、定形発達の方を前提に考えてのものです。そのため、発達障害の方には当てはまらない、あるいはそのままではかえってよくない場合も出てきます。発達障がいの方には、過去の出来事の背景や未来のことに対して想像することや自分で決定することが苦手だったりする場合がみられるからです。長期的な目標と短期的な目標を立てて短期的な目標を達成する過程を続けながら長期的な目標に向かって進んでいくという趣旨は共通していますが、発達障がいの診断を受けている方、あるいは発達障がいの可能性や傾向がありそうに思われる方は、発達障がいについて書いてあるものを参考にしてください。


 

発達障がいと不登校・ひきこもり

 

 

 

はじめに

 

 不登校・ひきこもりの相談の場で家族の方から話をうかがっていると、当事者の発言や行動の様子などから、もしかしたら何らかの発達障がいも関係しているのではないか、と感じることが時々あります。また、学校の現場の様子から、あくまでも個人的な感触ではありますが、発達障がい圏の児童・生徒が以前に比べて増加している傾向があるようにも思えます。そこで今回は、発達障がいということをベースにおきながら不登校やひきこもりの問題について考えてみたいと思います。

 

 

 

1、 発達障がいとは何か

 

十数年前から、「発達障がい」という言葉を目にしたり耳にしたりする機会が多くなりました。私自身もカウンセリングの勉強の中で発達障がいについて何度も学びましたし、学習支援教員として発達障がい圏の子どもたちと実際に接したり直接指導したりするという経験も持っています。ところが、言葉そのものは学校や保育の現場ではそこそこポピュラーにはなっていますが、十分に理解が進んでいるとは言えず、一般社会でも発達障がいという言葉は目や耳にする機会は増えましたが、発達障がいについての理解はそれほど進んでおらず、誤解や偏見がトラブルにつながる状況があります。

十年程前にもこんなことがありました。伊勢市内にある行きつけの喫茶店のカウンターで紅茶を飲んでいた時、たまたまある会社の重役と話をしていたら、「こまった社員がいて…」という話になり、配置転換をした途端にトラブルが続出したというのです。もう少し詳しく話を聞いてみて、どうも発達障がいらしい特徴があると感じました。そこで、1人でもくもくとやる決まった仕事はとても丁寧でしっかりやれていなかったかを尋ねてみたら、配置転換の前はそういう仕事できちんとやれていた、という事でした。それが、営業の仕事に回った後、トラブルが続出したということだったので、その社員はASD(当時の言い方ではアスペルガー症候群)のような発達障がいの可能性があり、人間関係を調整するのが苦手である可能性が高いから、できれば元の配置に戻して能力の発揮できる仕事をさせれば本人にとっても会社にとってもプラスになる、という風に話をしました。

また、志摩市内の行きつけのショット・バーでも以前話をしたことのあったお客さんに話しかけられ、少し会話をしているうちに「困った従業員がいて…」という話になりました。これまた詳しく話を聞いてみると、気は良いんだけど集中を持続して仕事を続けたり、資格取得のための勉強がなかなかうまくいかなかったり…ということでしたので、不注意の方のADHD系の発達障がいの可能性かあるように思われました。そこで、そのような人たちに対する接し方としての注意やサポートの仕方について話をしました。

発達障がいの子どもたちはここ15年程前くらいの文献でも一割程度は存在していると書かれています。実際に学校現場で子どもたちと接していると、クラスに数人程度は発達障がいもしくはそのボーダーラインの少し上くらいにいる子ではないか……と思われる子はいますし、私自身の実感からしてもそれは増加傾向にあるようです。だから、ごく普通の日常的な仕事の中で発達障がいの傾向のある人たちと接する機会はあって当然なのです。それでも、きちんとした知識を持って接すれば何でもないし、かえって発達障がいの人が、その対人関係面の不器用さと引き換えに持っている優れた能力を発揮して素晴らしい業績を上げる可能性もあるのです。ところが、それを知らずに接しているとお互いに嫌な思いをするし、内外でトラブルが頻発することにもなりかねません。

現在、発達障がいについては、サポートする施設や学校や当事者・その家族の間でこそ多少は理解され始めていますが、一般の人にはまだまだ理解が進んでいないのだ、ということを、私はこれらの体験から実感しました。ただ、学校や当事者、その家族の間でも十分理解されているか、ということについても、実際はかなり心もとない状況です。

例えば、7,8年前でしたか、知人から連絡があり、知り合いの人が「子どもが、発達障がいだ」と言われたが、どうしていいか分からずに途方に暮れている……という電話がありました。そこでその後、その人にあって発達障がいについての説明をし、いくつかの気をつけることや、今後の対応などについて1時間ぐらいかけて詳しく説明をしてあげました。そして、このような例は、決して特別な例だとは言えないと感じられるのが現状です。

では、発達障がいとは何なのか。あいち小児保健医療総合センターで長く子ども達と関わり『発達障害の子どもたち』や『発達障害のいま』(いずれも講談社現代新書)の著作で発達障がいについて分かりやすく整理してくれている杉山登志郎さんは20117月にでたの『発達障害のいま』の中で《発達凸凹》という言い方をしています。これは、対人関係を中心に一般の子どもと比較して未熟・未発達な面がある一方で、一部の感覚が非常に優れていたり、興味のある分野での集中や記憶が優れていたりする例が少なからず見られるからです。また、心療内科医で『発達障害に気づかない大人たち』などの著作で有名な星野仁彦さんも『発達障害を見過ごされる子ども、認めない親』(幻冬舎新書)をはじめとして、発達障がいについてわかりやすく整理した本をたくさん出版しています。杉山さんや星野さんの本を参考にして発達障がいについて整理してみると、だいたい以下のようにまとめられます。

 

 

注意欠陥・多動性障害(ADHD)

  注意が散漫になりやすく、落ち着きがない、あるいは集中力がない。感情のコントロールがきかない、計画性がない、などの特徴が見られることも少なくなく、衝動的な行動を起こす場合もある。司馬理英子さんは、その著書『のび太・ジャイアン症候群』の中で、ADHDではこれらすべての特徴が見られるのではなく、感情のコントロールがききにくく活動的だが衝動性の強い、いわゆるジャイアン型と、集中力の維持が困難でぼうっとしているように見えることが多い、いわゆるのび太型など大まかに分けてもいくつかのタイプがある……と述べている。

 

 自閉スペクトラム症(ASD

・自閉症、かつてはアスペルガー症候群(AS)と呼ばれたもの   を含めた言い方で、他者との関係において相手の立場に立って考える想像力の発達が十分でないなどの根本的な障害が共通し、スペクトラム(連続性)があることから名づけられた。特徴としては、人の感情が理解できないため対人関係がうまくいかない、人との会話が成り立たない、コミュニケーション能力が乏しい、興味や関心を持つ範囲が限定的、こだわりが強いなどが見られる。話をしている相手や周りの人たちの思いや感情、気持ちを想像して思いやる力やその事柄やトラブルの背景や未来予測を想像する力が同年代の子どもや人たちよりも未熟で、言葉の裏にある真意や感情を感じ取ることが苦手であるために皮肉や比喩を言葉通りにストレートに受け取ってしまったりする傾向がある。自分の好きなことや興味のあることには素晴らしい集中力を発揮し、好きな教科の勉強では普通の同級生たちよりも優れていたりするが、対人関係や突発の出来事に際しての融通がきき難い傾向がある。

 

 学習障害(LD)

・読む、書く、計算するなどの能力のうち、いずれかに支障をきたす。話すことは普通にできるのに、極端に読めない、話したり読んだりはできても、なかなか文や文字を書けない、話したり読み書きは普通にできるのに計算はできない、あるいは非常に遅い……といった傾向が小さい頃からずっと続いている。一つだけではなく、複数の分野で支障があることもある。ADHDなどと併せて見られることも多い。

 

 知的障害(精神発達遅滞)

・全般的な知的能力に遅れがある。

 

 発達性協調運動障害

・うまく走れない、ハサミが使えないなど、運動や手先の作業に困難をともなう。手先の作業などが極端に不器用で、手足の連動したような動きや別々の動きがしにくく縄跳びなども苦手に感じたりもする。自閉スペクトラム症(ASD)や注意欠陥多動性障害(ADHD)などと併せて見られることも多い。成長して大人になると日常生活には支障がない(少し不器用な感じは残る)程度に改善することが多い。

 

 

 ただ、ここに列挙した説明を見ただけではピンとこない方も少なくないかも知れません。小さい子どもはだいたい落ち着かなかったり集中力が続かなかったりするものですし、普通の大人でも感情的な人は結構いるからです。けれども、発達障がいかも知れない……という判断は、同年齢の他の子どもたちと比べても落ち着きのなさや集中力のなさ、衝動性が際立っていて、その状態が成長していっても年齢に応じた改善があまり見られなかったりする場合は注意が必要です。また、こだわりが強すぎて融通がきかず、日常生活において相手との関係で極端にトラブルが多かったりする、といったような通常の定型発達の子たちとの比較において極端な差が長期にわたって目立つ場合に注意する必要がある、ということになります。

 星野さんも指摘していますが、同じ「発達障がい」や「ADHD」という言葉でくくったとしても、それぞれのケースは人によってその差はまちまちで、複数の障がいを併せ持つ場合も少なくありません。ただ、感情のコントロールがし難かったり、授業中など常識的に考えれば集中しなければならない時にうまく集中できない(集中する「ふり」すらもできない)ような場面が多くみられたりします。また、相手の様子や表情から相手の思いや感情をうまく読み取れなかったりする、ことがらやトラブルの背景となる事情を想像することが苦手だったりするといったことからコミュニケーション能力に難があり、他者との関係をなかなか上手に結べなかったりするケースが多いようです。それに、普通の感覚では気にならないようなところで強いこだわりを示したりする場合も多いように思われます。

 それから、聴覚や視覚的記憶などある種の感覚的な部分では一般の人々よりも優れている場合があります。逆に他の感覚では普通の子よりもかなり鈍感であるようなこともあります。感覚がどこか非常に鋭敏だったり鈍感だったりするところがあるのです。例えば聴覚が鋭敏である子どもの場合は優れているがゆえに他の子が聞こえない音が耳に入ってきたり、他の子が自然に無視してしまうようなことが無視できなかったりもします。そしてそのために他の人が無視しているところや無視できることにこだわってしまったり、逆に集中できなかったりして困ったりイライラしたりすることもあるようです。

 過去においては、一部では普通の子たち以上に優れている面があったり日常のことはそれなりにこなしたりすることなどから、育て方(特に母親)が原因だとの誤解があり、家族や学校などから母親が責められることが少なからず見受けられたようです。けれども、最近の研究で、脳内の微細な傷や神経のつながり難さなどが原因らしいということが分かってきています。また、遺伝的な要因や環境ホルモンなどの影響なども指摘されています。

もちろん、遺伝がすべてではありません。最新の研究では発達障がいには複数の遺伝子が関係していて、環境の違いによって発生を促す遺伝子が覚醒したり、発生を抑制する遺伝子が働かなくなったりすることがあるということです。そのようなことから、置かれた環境によっては普通の人には出来ない素晴らしい仕事をする場合もあり、発達障がいだから問題だ、ということではないのです。モーツァルト、ニュートン、ダーウィン、エジソン、アインシュタイン、チャーチル、ルイス・キャロル、エリック・サティ、太宰治などは今の診断基準であれば発達障がいの範疇に入ると考えられているようですし、俳優のトム・クルーズも文字を読む能力に問題を抱えているLDであるとのことです。

 とは言っても、実際にそのような子どもたちと接している家族にとっては、特に基本的な知識がない場合は「育てにくい子」と感じる場合は少なくないでしょう。また、学校で接する教師にとっても、「教えにくい子」と感じられる場面もそれなりにあることだと思われます。けれども、それなりに知識を得て、一般の定形発達の子どもたちにはOKでも彼らにはマイナスとなる対応を避けながら根気強く接していくと、根は優しく素直な性質を持っていることも多いので、独特の才能を開花していくことにもつながっていきます。

 また、子どもが発達障がい圏の可能性があると感じられる場合には、家族の中に発達障がいもしくはそれに近い方がいる場合はけっこうあるようです。その場合は視野が狭いとか、衝動的だとか、感情のコントロールがききにくいといったような特徴を持つ場合が少なくありません。そのような時には、対応に気をつけないと相手との関係を悪化させてしまうことがあるので、家族の気持ちに寄り添いながら孤立感を感じさせないように話をしていくと良いでしょう。家族の方も発達障がい圏の場合があることを頭に置きながら丁寧に対応すれば子どもの家族との関係を悪化させずにすみます。

 

 

 

2、 発達障害と不登校・ひきこもり

 

冒頭で、不登校・ひきこもりの相談の場において「発達障がいかも知れない」と感じるケースがあることを述べました。何らかの発達障がいという条件があり、しかも周りに気付かれずに不適切な対応が続けられると、本人が意識しているかどうかは別として、周りから「困ったヤツ」と見られたり軽んじられたりいじめられたりし続けることが多くなります。そしてその結果、その言動や性格形成、精神的な成熟・成長にマイナスの作用がもたらされ、さらなる問題行動や精神的な疾患に至る場合が少なくありません。

例えば、やさしく分かりやすい記述でADHDについてまとめベスト・セラーになった『のび太・ジャイアン症候群』という本の著者である司馬理英子さんは、その著書の中でADHDが対応のまずさによっていじめや不登校にいたるケースが少なくないことを指摘しています。

司馬さんは、ADHDを多動性や衝動性が強く出る方のタイプを【ジャイアン型】、不注意が優勢でぼうっとしていて積極性の乏しい方のタイプを【のび太型】とニック・ネームをつけて分かりやすく説明しています。そして、【ジャイアン型】が環境の中で自己肯定感を失って他者への不信を増幅し、反抗的・攻撃的な行動パターンを繰り返していくと反抗挑戦性障害や行為障害といった人格障害に発展するような二次障害を引き起こし、いじめっ子になってしまうケースがあると言います。

一方、【のび太型】は引っ込み思案で攻撃に対しても言い返したり反撃したりできないためいじめられっ子になったしまうケースも少なくないようです。また、【のび太型】では普通の定形発達の子であれば不安を感じても自らを励ましながら乗り越えていく課題に足がすくみ、動けなくなってしまう形で不登校やひきこもりにいたったりする可能性があるということです。

他にも、【のび太型】【ジャイアン型】を問わず、集中力が続かないために練習量が不足して学習についていけなくなり、不登校へと至るケースもあるそうです。また、【ジャイアン型】で学校への不満や周囲に対する不満を問題行動や非行へとエスカレートさせてしまい、不登校へと至るケースもあるようです。(司馬理英子 『のび太・ジャイアン症候群』 主婦の友社 より)

それから、ストレスに耐える力が、同年代の定型発達の子どもたちよりも弱いという特徴もあります。そのため、一般の子たちが何とか折り合いをつけられるような出来事であっても、発達障がい圏の子どもたちは深く傷付き、また立ち直るのによけいに時間がかかってしまう、というようなことになりかねません。そうした特徴も、普通の定形発達の子どもたちよりも不登校・ひきこもりになりやすい要因と言えるでしょう。

 

 

 

3、 教育の発想とカウンセリングの発想

 

ところで、発達障がいにどう対応していくか、ということについてですが、実は、医療的な対応とカウンセリング的な対応、そして教育的な対応では微妙に考え方が違います。非常に極端な言い方をすると、医療的には「生きている」ことが目標、カウンセリング的には周りと「適応」できるようにすることが目標、教育的には高校にいける程度の「学力・能力」をつけることが目標……などということになるかも知れない、という事です。

どうサポートしていくか、という観点から見れば、「生存」も「適応」も「学力・能力」も、それぞれ大切なポイントだとは考えられますが、状況によって、医者とカウンセラーと教師の判断が違う……ということが出てくる場合があります。ただ、それは、それぞれの立場で真剣に対応しようとする結果でもある訳です。

例えば、フレネ教育の仲間が特別支援学校で生徒と関わっていた時の実践で、教師として「外」/色々な他者と関わっていける力を身に付けていって欲しい、という考えである程度自由に動ける子どもたちのクラスとほとんど寝たきりの子どもたちのクラスとの交流を積極的に進めようとしたことがありました。が、医療的な立場からは寝たきりの子どもたちの安全面を考えるとかなりの不安があったようです。そのため、当初はその実践に対して否定的な声も上がったそうです。それでも、その教師は諦めず地道に本人たちやスタッフとの交流を進めていきました。そうして様々な形で交流が進められた結果、双方の子どもたちの感情の発達の面や心の教育の面で大きな効果があったようです。

それから、こんな例もあります。教師の側からすれば、先のことを考えれば「せめてこれだけのこと」はできるようになって欲しい……という思いから多くの課題を出して練習させようとしました。ところが、集中力が続かず、一度教えられたこともなかなか身に付かないような状態ではその課題の量がプレッシャーになり、精神的にしんどくなって、勉強や学校がいやになる……あるいは頭痛や腹痛などの症状が出てしまう、というようなケースが見られるのです。

 悪意はなく、真剣にその子のことを考え、何とか良い方向に……と願っていても、その専門的な知識や立場によって、「ここまで」という目標設定は違ってくることがあります。だからこそ、様々な立場で接する人たちの連携の有無が大きなポイントになってくるのです。そのためには、親でも先生など周囲のサポートをする立場の人でも、1人で抱え込まないことが重要になります。孤立したまま悩まないで、SOSの声をあげるというのも大切なことなのです。

 

 

    

4、 対応のポイント

 

さて、子どもが不登校やひきこもりの状態になった時、人間関係のトラブルが原因のひとつである可能性がありそうな時は、発達障がいの可能性もある、ということを心の隅に入れておく方が良いでしょう。その上で、「発達障がい」について知る努力をすると良いかも知れません。というのは、発達障がいではない不登校やひきこもりの子に対する対処方法として正しいことが、発達障がいの子にとっては不適切な対処となる場合もあるからです。一般の定型発達の子にとっては「心のエネルギーが弱まっている間は待つ」というのは適切な対応の1つです。けれども、それは本人が自由に決断するということにつながっているので、選択することや決断することが苦手なある種の発達障害の子にとっては混乱のきっかけになる可能性もあるのです。

そうしたことから、子どもの現実をよく見極めることも大切です。というのは、発達障がいといってもそのくくりは大まかなものですし、同じように「ASD(自閉スペクトラム症/アスペルガー症候群)」という診断を受けたとしても、子どもによって、その差は千差万別です。だから、今の時点で 子どもにどのようなことができて、何が出来ないのか、どんな時にトラブルをおこしやすくなるのか……というようなことを知っておくことも大切です。

現実をよく見極め、それを受け入れることは、言葉にするのは簡単ですが、けっこう難しいものです。以前、死と向き合うことをテーマにした話を聞いたことがあります。上智大学の教授であったアルフォンス・デーケンが、癌などの不治の病で死の宣告を受けた人の心の動きについてキュープラ・ロスの分析を紹介していました。自分の死という「現実」を前にして、多くの人はまず「なぜ自分はこんな運命に見舞われなければならないのか」と怒り、「そんなことあるわけが無い」と否認し、あるいは「まじめになる」とか「熱心な信者になる」といったような形で神や運命と取引しようとしたりするが、やがて現実を受け入れることにより心の平安を取り戻し、残りの人生を有意義に生きることができるというのです。ところが、キュープラ・ロス自身は、自分自身の死を前にして「受け入れる」ところまではいかず「怒り」の段階に留まったまま死を迎えた……というような話も聞いています。

自分の死……とまではいかないまでも、自分自身が発達障がいである……とか、自分の子どもが発達障がいである……という「現実」は、大人でも簡単には受け入れられない場合があります。また、受け入れるにはそれなりに時間も必要となる場合も少なくないようです。けれども、やはり「現実」を受け入れることで先に進むことが出来ます。それなりに、覚悟を決める/腹をくくる必要はありますが、それによって道も開けてくるものです。

さて、自分自身や子どもが発達障がいであることを受け入れることができれば、「本人の現実」を理解することが出来るようになってきます。その上で、得意なことや理解できること、苦手なことや限界(ここまでは出来るがこの先は難しい、あるいは非常に時間がかかって本人には負担が大きいというようなこと)を意識すれば、こうすれば良い……ということも見えてきたりしますし、やれることも少しずつ見つかってくるものです。

例えば、ADHDで集中できない子がいるとしても、あらゆることに対して1秒も集中できない……ということはまずありません。数学の計算問題の練習で1時間集中してやることは出来ないかも知れませんが、自分が「できそうだ」と感じられる問題なら15分程度なら集中できるかもしれません。観察によってその辺りを見極められれば(それこそ「現実」を受け入れることの1つです)、毎日15分練習をする……という目標設定をして、続けられるような工夫をすればいいのです。

あるいは、1人では集中できないならば、やっている間は大人(見守る人)が横にいてあげれば20分集中できるかも知れないのです。それから、実年齢よりも少し精神的に幼い感じがけっこうあるので、中学生くらいでも、シールや「よくできました」などのかわいい感じの判を押したりすることで「できたこと」を目に見える形で残してあげるとやる気を維持しやすい場合もあります。

 他にも、学校では、学級の席は窓側や廊下側の後の方などでは気が散りやすいので、なるべく先生に近い前の席に置いてもらう方が本人は集中しやすくなる……というようなこともあります。それから、感情のコントロールが出来難くなりやすい傾向があるような場合は、教卓の下とか保健室とか、本人が怒りの感情に支配された時にクール・ダウンできるようなスペースをうまく確保してもらうことでトラブルが少なくなったりもします。

 対応する側も感情的になってしまって大声で叱ったりすると余計に反発したり、逆に極端に萎縮してしまって何もできなくなってしまったりすることもあります。大人の側もすぐに対応を変えるのは難しいのですが、意識していくことで、あまり良くない対応が徐々に減っていきますし、それと比例して子ども本人も落ち着いてくる……ということにもなります。ですから、周囲の大人の側も、まず、自分の出来そうなことから意識して、続けられそうな対応をしていくことが大切です。そうしていくことで、少しずつ本人も周りも変わっていけるのではないかと思います。

 また、出来ないことに時間をたっぷりかけて人並みにしようとするよりも、出来ないことはある程度までで諦めて、出来ることを伸ばしていくような形で接していくことも大切です。例えば、計算が苦手ならば、ある程度の基本的なことができるようになったら、後は「電卓を使っても良い」ということにして計算で苦しむ時間を少なくし、長所を伸ばしていくような「勉強」の仕方やスケジュールを考えてあげるような配慮は、本人のやる気を損ないませんし、また集中力や意欲も出てくると思います。精神的にも、将来のことを考えても、興味や長所を伸ばす工夫をしていけると良いでしょう。

 それから、コミュニケーションがなかなかうまくいかない……という困り感がある場合、挨拶や対応などの基本的なことを【スキル】(対人関係の技術)として教え込む……というのも1つの方法です。挨拶をしてニコッとするだけで相手は悪い気はしなくて良い気持ちになるので挨拶が大事なんだ……と教えてあげる。あるいは、自分の思っていることばかりしゃべっていても相手にも都合があったり様々な感情があったりするのでトラブルになることがあるから相手の話をよく聞いてから自分が話すように心がけるとトラブルが少なくなる……というような形で話をしてあげる。そのような繰り返しの中で、本人が納得して心がけるようになれば、かなりトラブルも減ってくるでしょう。

また、子どもが小さい場合は、親が相手の子どもや親に、「こんな話し方をするけど悪気があるんじゃなくて、他の人の気持ちが分かり難いところがあるので許してあげて、気をつけてあげて」と声をかけたりフォローしたりすることで相手の様子や対応もずいぶん変わってきます。そんなサポートもしてあげられれば良いかもしれません。また、ある程度成長して、就業ということになった場合には、職場の人に理解してもらうということと本人としては仕事において自立をしていけるようにすることを強く意識させることも大切です。初めてのことは身に着けるのに時間がかかることが多いので、1度や2度の説明では覚えられなくて周囲にサポートしてもらうことが必要になります。その点を職場の人に理解してもらうと同時に、「聞けば良いけれど、いつまでも聞き続けるのは良くなくて、やがては自分一人でできるようになっていく」というのが働くために大切である、ということも本人に強く意識させることも大切です。サポートを受けながら自立していくということです。

 いろいろと述べてきましたが、今、私が整理して伝えることができるのはこれくらいです。ただ、けっこう多くのことを述べてきましたので「あれも、これも…そんなにしなければならないのか」と感じた方があるかも知れません。しかし、大人ではあっても人間であり神様や仏様ではないので、1人であれもこれも完璧にしようと考えてしまってはすぐに疲れてしまい、やがて何も出来なくなってしまうでしょう。そのため、場所や相手を選ぶ必要はありますが、弱音を吐いても良いのです。

 それに、完璧にできなくても、他の人たちがフォローしてくれるような形を作れれば問題はありません。だから、1人で抱え込んだり、一人でやらなければいけないし誰も分かってくれないというような考えを持って孤立しないことがとても大切です。自分で意識して出来ることを続けながら、他の人々といっしょにやっていければ良いと思います。

 

 

 

最後に、杉山登志郎さんの『発達障害のいま』での記述を参考に、発達障がいの診断上の新しい分類について紹介しておきましょう。アメリカのDSMという診断基準の、近々出るであろう第5(DSM-V)WHO世界保健機関の作成している国際的診断基準(ICD)でも、以下のような形で整理されるとのことです。

 

 

1グループ…精神遅滞、境界知能など

【精神遅滞】

標準化された知能検査でIQ70未満、それに加えて適応障害がある。

・幼児期に言葉の遅れ、歩行の遅れなど全般的な遅れがあり、学童期には学習は通常の教育では困難で学習の理解は不良。しかし感情の発達は健常児と同じである。青年期は特別支援教育を受けていない場合は学校への不適応がみられ被害者的な意識や思い込みが強くなってうつ病になることもある。

【境界知能】

標準化された知能検査でIQ70以上85未満。

・幼児期には若干の軽度の遅れが見られるだけだが、学童期には小学校中学年頃から学業成績が不良となりやすくばらつきも多い。青年期ではそれなりに適応する者が多いが、不適応が著しい場合は不登校などの形をとることも多い。第2グループ(自閉症スペクトラム)の併存症として認められることも多い。

 

2グループ…アスペルガー症候群なども含む自閉スペクトラム症

【知的障害を伴った自閉スペクトラム症】

社会性の障害および想像力の障害がある。

・幼児期に言葉の遅れ、視線が合わない、親から平気で離れるなどの特徴が見られ、児童期になると様々なこだわり行動が確認できるようになり学校の枠の理解が不十分なため特別支援教育以外に教育は困難であるが、この頃から親子の愛着が進む。青年期では適応できる者はきちんとした枠組みの中であれば安定しているが、一方で激しいパニックを生じる場合もある。多動性行動障害や気分障害、てんかんなどの併存症が見られることもある。

【高機能自閉症スペクトラム障害】…アスペルガー症候群も含まれる

社会性の障害および想像力の障害があり、知的にはIQ70以上。

・幼児期に言葉の遅れ、親子の愛着行動の遅れ、集団行動が苦手といった特徴が見られ、学童期になると社会的状況の読み取りが苦手、集団行動の著しい困難、友人を作りにくい、ファンタジーへの没頭といった特徴が見られる。青年期では孤立傾向、限定された趣味への没頭、得手不得手の著しい落差といった特徴が見られる。併存症としては学習障害、発達協調性運動障害、多動、不登校、気分障害など多彩なものが見られる。

 

3グループ…注意欠陥多動性障害、学習障害、発達性協調運動障害など

【注意欠陥他動性障害/ADHD

多動、衝動性、不注意の特徴および適応障害がある。

・幼児期には多動傾向、若干の言葉の遅れがあり、児童期になると低学年における着席困難、衝動的行動、学習の遅れ、忘れ物など不注意による行動が見られる。青年期には不注意、抑うつ、自信の欠如、適応がうまく行かない場合には非行なども見られる。併存症としては、反抗挑戦性障害、抑うつ、非行などがある。

【学習障害/LD

知的能力に比べて学力が著しく低いところがあり教科によってのバラつきが大きく、通常の学習では成果が上がらない。

・幼児期は若干の言葉の遅れが見られることが多く、学童期になると学習での苦手さが目立つようになる。青年期になると純粋な学習障害の場合は、ハンディを持ちつつも社会的適応は良好な者が多い。併存症については、学習障害自体が様々な発達障害に併存して生じることが多い。

【発達性協調運動障害】

極端な不器用さが見られる。

・幼児期の特徴は不器用で他の障害に併発することが多く、学童期になると小学校高学年頃には生活の支障となるような不器用は改善される。青年期には不器用であるがそれなりに何とかなる。併存症としては、他の軽度発達障害との併存が多い。

 

4グループ…子ども虐待

【子ども虐待】

子どもに身体的、心理的、性的加害を行う、あるいは必要な世話を行わない。

・幼児期には愛着の未形成、発育不良、多動傾向が見られ、学童期になると多動性の行動障害や徐々に解離症状が発現するようになる。青年期になると解離性障害および非行、うつ病などが見られ、最終的には複雑性PTSDに移行することもある。特に高機能自閉症スペクトラム障害に対する虐待は高リスクで、最も多い併存症は反応性愛着障害と解離性障害である。

 

 いろいろと述べてまいりましたが、今の時点で私が整理できるのはこういったところです。目の前の相手に寄り添いながら、専門家を含めた周りの人々の力も借りて、本人と周りが幸せになれる道筋を一緒に探していければいいのではないかと思います。そのためには頑張り過ぎは禁物です。山もあり谷もあるでしょうし、いつも全力を出し続けていると疲れて燃え尽きてしまう心配もあります。あわてず、あせらず、でもいつまでも止まっていないで、あまり無理をせずに続けていけることを地道に積み上げていけれれば良いと思います。

 

                            【完】

 
先日、「
3月のライオン」というアニメのDVDを見ました。このアニメの原作マンガを図書館で借りて面白かったから借りてきたのですが、この作品はアニメばかりではなく実写映画も制作されるほどの人気です。中学生で将棋の棋士となった桐山零が主人公ですが、ある時、彼と家族のように接してくれている川上家の次女ひなたちゃんが、いじめを受けた友達をかばったことがきっかけになっていじめのターゲットとなります。それを自分の高校のよく関わってくれる将棋好きの先生に相談したところ、よく話を聞いてやるようにとのアドバイスを受け、とにかく、聞くという努力を粘り強く続けます。

 
いじめはエスカレートし、担任が倒れて休職したことにより学校側も本格的な介入をしていく中で状況は改善しますが、その間、桐山くんは、本当によくひなたちゃんの話に耳を傾けます。川上家で、将棋を教えながら、川のほとりで、ひなたちゃんの修学旅行の時は、対局を終えてから京都に向かって彼女を見つけ出し、話を聞いたこともありました。

 
クラスでの孤立やいじめがなくなって、問題が解決したとき、直接的には何もできなかった桐山くんは「ぼくは何もできなかった」と口にしますが、ひなたちゃんの答えは「そんなことはない」でした。ずっと時間をかけて話を聞き続けた桐山くん、思いや感情によりそってくれた桐山くんと、彼女を肯定して守ろうと努力したおじいちゃんやお姉ちゃんの存在がひなたちゃんの心を支えたのでした。

 
この話を読んでいて、私は「傾聴」という言葉を思い出しました。桐山くんは、「聞く」というよりも「傾聴」/「聴く」ということを自然に行っていたのです。


「聴く」という言葉で思い出すのは、ミヒャエル・エンデの傑作『モモ』という童話です。『モモ』は、『はてしない物語』と共にのちに映画化されましたが、『はてしない物語』を映画化した「ネバー・エンディング・ストリー」とは異なり原作童話を忠実に映像化しているため、原作者のエンデ自身も少しだけ出演しています。エンデは
1995年に亡くなりましたが、その作品は今でも世界中の多くの人々を魅了し続けています。この作品の主人公モモには不思議な力が備わっています。それは、他の人の話を聞くのがとても上手いことです。町の人は、困っている仲間にこんなふうに声をかけます。「モモのところへ行ってごらん」と。 


子どもに過ぎないモモは、お金を持っているわけでも、アドバイスをしてくれる訳でもありません。ただ、素直に、そして一生懸命に聞くだけです。けれども、モモに話し終わる頃には、何か良い考えが浮かんできたり、気持ちが楽になったりするのです。だから、聞き上手のモモは、人々にとってとても大切な存在なのです。

 
さてここで、私たち自身の生活を振り返ってみましょう。自分に、安心して話をすることの出来る家族や友達はいるでしょうか。この人なら、安心して何でも話せる。この人といるだけで、ほっとする。そんな家族や友達や先輩や仲間が一人でもいる人は、もしかすると、とても幸福な人かも知れません。

 
別にアドバイスを受けなくても良いのです。というよりも、下手なアドバイスは、聞いていて腹が立つことだってあります。「そんなことは、分かってる。でも、出来ないから困ってるんだ」と心の中でつぶやきながら、相手の得意そうに始めた「正論」や「自慢話」や「体験」を聞くなどという展開になってしまって、返って不愉快になったり、落ち込んだり……。そんな場合も、結構少なくないのではないでしょうか。そう考えると、ちゃんと話を聞いてくれる人の存在は、とても貴重で得がたいものだということが分かるのです。

 
では、私たちは、自分の大切な家族の、あるいは友達や仲間の話をちゃんと聞くことができているでしょうか。少し話を聞いただけで分かったつもりになって、その「理解」の上に立ち、自分に都合のいい考えを無意識の内に押し付けていることが結構多いのではないかと思われます。いいえ、もっとひどい場合は、相手の話をさえぎり、こちらの意見や都合をまくし立てることもあるのではないでしょうか。

 
どうしてそうなってしまうのか。きっと、親しいから、分かっているから、という無意識の甘えを背景に、あるいは相手との上下関係などを背景にして、相手の気持ちに十分に応えずに、つい自分を主張してしまうのでしょう。特に男たちは、相談をされていると思うと、「現実的」な「解決策」を提示しなければならない、と感じて、相手に対する《感情的な共感》ということを考えず、話を遮って「解決策」を一方的に押し付けようとする傾向が少なからず見られます。けれども、特に不登校やひきこもりの対応に置いて、《感情的な共感》の持つ意味はかなり大きいのです。

 
もちろん、「現実的」な「解決策」も大切です。しかし、本人にその準備ができていない段階でそれを提示しても反発されるだけで先に進めません。特に「押し付け」と本人が感じてしまい、感情的にそれを拒否してしまっては、もしかすると【最善】かもしれない「解決策」を採ることができなくなってしまうかもしれないのです。感情的にこじれてしまっている段階では、「現実」も「正論」も決して相手の心には届きません。それを回避するために、感情的な部分も含めて、耳をすませ、心を寄り添わせていくことが、まずは大切なのです。

 
「現実的」な話や「正論」は、相手が普通の状態
(精神的にも、状況的にも)であるならば、ある程度素直に聞けるでしょうし、多少の感情的なしこりを感じたとしても、そうした部分はお互い様だから、何事も無く過ぎていきます。しかし、相手が切羽詰っていて余裕の無い状態であれば、そうした「普通の何気ない対応」が相手の心を深く傷つけてしまうことが少なくないのです。

 
だからまず、相手が「現実的」な話や「正論」をも含めて、冷静な判断力を発揮できるような状態になるまで、「現実」や「正論」は封じた方が良い場合もあるということです。「機が熟す」という言葉がありますが、環境を整えながらそれを待つ。「感情的な部分の共感」も含めて耳をすます……というのは、その第一歩なのです。自分の子どもや家族というのは、自分の人生の中で特に大切な存在ですから、普通の状態でない場合は、特別に注意を払った丁寧な対応を心掛けたいものです。

 
もちろん、可能であれば、より多くの人に丁寧な対応ができれば素晴らしいと思います。しかし、いつも「特別に注意を払った対応」を全ての人を相手に出来るわけではありません。と言うよりも、人間にそんなことは不可能であり、無理にそうしようと努力すれば確実に自分の心が蝕まれ、おかしくなってしまうでしょう。その意味では「普通の何気ない対応」というのは、そうならないための無意識の安全弁かサーモスタットのようなものなのかも知れません。

 
また、人間誰しも、精神的に余裕のある時には、わりと他の人の話を聞いてあげられるものです。そういう時に、少し「耳をすませてみる」と、「普通」だと思っていた相手が「普通の状態」でないことに気づく場合があります。そして、モモのように誠意を持って真剣に話を聞き出すと、思いもかけなかった事実や悩みや思いが吹き出す事もあります。しかもその内容が聞く側の人にとっては重すぎて何も出来ない事だってあるのです。

 
でも、慌てないで下さい。無理をせずに出来る事……。そう、モモと同じようにただ、真剣に相手の話を聞き続ける事は出来るはずです。心を合わせてそばにいてくれる、そんな人が存在していると実感できる、それだけで楽になる事があります。下手な解釈や場当たり的な解決策を口にしなくても、自分の辛さや苦しさや悩みを理解してくれる人がいると信じられる事が、人に希望を与えるのです。

 
しかし、精神的に追い込まれている度合いが強いと、自分の辛さにしか目が行かなくなり、その中だけで堂々巡りをしてしまい、手を差し伸べようとしてくれる人に対してさえも心を閉ざしてしまったり、イライラや持って行き場の無い怒りをぶつけたりしてしまう場合があります。そんな時には、それでも聞き続けるというのは本当に辛いことかも知れません。特に、不登校やひきこもりになってしまった本人たちは、その状態を自分自身としても簡単に受け入れるのは困難ですから、「普通の状態」だと考えない方が良いでしょう。

 
だけど、少し考えてみて下さい。他の人には出来ないかもしれないけれど、信頼している相手になら、自分の弱い部分を見せることが出来るし、無理を言ったりして甘えることも出来る……ということが人間にはあるからです。

 
そうした事が少し分かっていると、大切な人が自分にとって辛い言動をしても、何とか受け止められる場合があります。必ず受け止められるとは言いませんが、知識として知っていることで、わずかずつでも許容範囲が広がるという事はあるのです。

 
もちろん、何もかもを自分ひとりで背負えるという訳ではありません。と言うよりも、あまり自分ひとりで背負い込んでしまうと、その許容範囲を超えたときの反動が大きく、返って周囲の人に多大の迷惑を及ぼす場合だってあるのです。だから、問題が自分の手に余る場合は、絶対に一人で抱え込まないようにすることが大切です。精神的に余裕がないと周りが見えにくくなるものですが、それでも、落ち着いて周りを見回し、耳を澄ませてみた時、意外なところで、実は手を差し伸べようとしている人の存在に気づくことがあります。そういう意味でも「耳をすましてみる」ことは大切なのかもしれません。

 
逆に、「耳をすます」という意識のない人はどうなるか。日々のニュースで、その典型と言える人達が新聞やテレビのニュース、雑誌の記事などに毎日のように登場しています。そう、安倍総理と与党の中心にいて、違憲・売国の
TPPや戦争法案を成立させ、国民の生活を破壊することを気にせずに自分とオトモダチの利益追求にやっきになっている人々です。他者の意見に耳を貸さず、嘘と詭弁に満ちた言い逃れやごまかしでまともな議論から逃げ、自分勝手な主張を繰り返す人々。その姿がどれほど醜く恥知らずに映るかは、説明する必要すらないでしょう。普通の人なら、まあ、そういった人間もいる……ですむのですが、一国の首相ともなるとわれわれ国民が被るリスクは大変大きなものとなります。東京オリンピック誘致の際の原発事故の「アンダー・コントロール」という大嘘は、ドイツ辺りではかなり問題になっていて、放射能汚染の拡大と対策についての無策と嘘が東京オリンピックの中止につながる可能性も出てきています。また、マスコミの弾圧は、ドイツばかりではなくアメリカやイギリスのマスコミにも取り上げられています。憲法や法治主義をないがしろにする言動は、日本が近代国家ではなく軍国主義独裁国家になりつつあると見られ、テロを呼び込む危険性も高まっています。

 
おっと、話がそれてしまったようです。「耳をすます」ということに話を戻すと、安倍総理と自公政権、そして与党の国会議員たちは、その反面教師と言えるでしょう。あそこまでひどくなくても、相手の話をきちんと聞く姿勢を忘れていないか……と振り返ってみることもできるでしょう。相手の質問や疑問に真摯に応えているか…ということを考えてみてもいいかも知れません。相手の発言中にヤジを飛ばすように、小学生レベルでもまともな子ならしない礼儀作法はほとんどの人はわきまえていると思いますが、相手の発言中に自分勝手な発言をして相手の話を遮るようなことは、ついしてしまっているかも知れません。彼らの言動を反面教師にして、ちょっと自分の「聴き方」を振り返ってみるといいのではないかと思われます。

 
もちろん、知っているすべての人々に対して、すべての時間で「耳をすます」ということは物理的にも精神的にも無理なことです。しかし、せめて自分の身の周りにいる本当に大切な人の話には、毎回は無理としても、それなりに時間を取って、耳をすませたいと思います。毎日の暮らしの中で私の身の周りに大切な人もそれなりにいます。けれども、私自身も聖人君子ではありませんので、精神的に余裕の無いときにはバカなこともしますし、他の人の心情にまで思い至らずに無神経な言動をとったりもします。ただ、そういう場合でも、なるべく自分の心に「耳をすませて」心の余裕を失っていないかどうかを確かめるように心がけようと考えています。

 

 
私の好きなシンガーソングライター、谷山浩子さんが
1990年代に発売したアルバム「銀の記憶」の中に「ひとりでお帰り」という歌があります。その一節には、こんなフレーズが並んでいます。『3月のライオン』の主人公、桐山零くんも、小さい頃に両親と妹を事故で亡くして、お父さんの友人であった棋士に引き取られ、養父の実の子どもたちとのトラブルの中で長く孤独な日々を過ごしていました。その経験があってのひなたちゃんへのかかわり方は、ちょうどこのフレーズと重なりあってきます。

 

きみの今のその淋しさが遠い街の見知らぬ人の

孤独な夜を照らすささやかな灯に変わるだろう

 

自分の辛さや淋しさや苦しみを見つめ、それを超えて生きていこうとする体験が、いつしか出会う誰かの辛さや淋しさや苦しみを和らげる力となるかも知れない。そう考えると、まず自分自身の心に「耳をすませる」勇気が湧いてきます。

 
もう一つ、こんなフレーズもあります。

 

 たとえば夜が深く暗がりに足が怯えても

 まっすぐに顔を上げて心の闇に沈まないで

 

この歌を聴いていると、自分が辛いときでも、他の誰かのために何かをしてあげられる強さを持ちたい……と思います。まあ、なかなかそれが出来ないから、そう思うのでしょうけれど。でも、自分の心に「耳をすませ」、周りの人々の言葉に「耳をすませて」、今よりも少し強く、今よりも少しだけ優しい自分になりたいと思います。

 
3月のライオン』読みながら、エンデの『モモ』を思い出し、それから、こんなことを考えていました。今の自分の力ではまたまだ無理ですが、いつの日か、桐山零くんやモモのように、いつでも、自分も含めたあらゆる存在に対して「耳をすませる」ことができる人間になれたら良いと思いませんか? 少なくとも私は、そう思います。

                                   〔おしまい〕

 

↑このページのトップヘ