2004年10月16日

丸橋伴晃「きら★めき」展

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B.P Private Exhibition 3rd

丸橋伴晃「きら★めき」展


kirameki_c_o 2004.10.16 Sat.-11.14 Sun.
会場:BOICE PLANNING
土日のみオープン 12:00-20:00 (初日のみ15:00-)
入場料無料
主催/企画:BOICE PLANNING

関連イベント
10.16 Sat. 17:00-20:00 オープニングパーティー
10.30 Sat. 18:00-21:00 居酒屋「丸の部屋」
11.13 Sat. 18:00-21:00 BAR「Maru's Room」

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「高尚なエロスではなく、清潔で謙虚なエロを追求する丸橋伴晃の姿勢に共感する」
山下裕二


 私はこれまで、丸橋伴晃の作品を、二点買っている。
 一つめは、暗闇の中の赤い光の残像をブローニー版のフィルムに定着したもので、これには注文をつけて、ライトボックスに仕立ててもらった。書斎の奥にしまい込んであるから、しばらく見ていないが。
 もう一つは、キャビネ版にプリントされた、女子高生の写真。安っぽい額に入れられたその写真には妙な愛着があって、いまもこの原稿を書いている机のすぐそばに置いてある。値段がいくらだったか忘れてしまったが、ワイン一本分ぐらいだった。いい買い物をしたと思っている。
 たしか、相模原で丸橋たちが共同運営しているボイスプランニングのアトリエを訪れた際、発作的に買ったんだと思う。ギャラリーで作品を買っても、引き取らないことが多くて、わがコレクションのほとんどはいろんな倉庫に眠っているのだが、このチープな体裁の「作品」は、その日に持って帰った。以来、手許に置いてある。
 ありがちな制服を着た、女子高生。モデルは丸橋が予備校で教えていたときの教え子だというが、それにしても、なんと凛々しい肖像か。この写真を買ったとき、たしか丸橋とこんな会話をした。

「この子、いいよねえ・・・」
「そうっすか・・・」
「いやあ、この写真、実用的だよ・・・」
「え、まじっすかあ・・・」
 
 私はこの写真を見ながら、単なるエロオヤジになりそうになった。相模原から家に帰って、この写真を見ながらオナニーしようかと思った。マジで。
 でも、この写真をあらためて書斎に置くと、一見「実用的」かと思った私のエロ心はシュルシュルとしぼんで、妙な言い方だが、「ただ美しい画像」として、長く手許に置いておきたいと思うようになった。この写真でオナニーするということは、丸橋伴晃の芸術を冒涜する行為ではないかと思うようになった。ちょっとおおげさか・・・。
 さて、それから二年ほど経っただろうか。つい最近、この展覧会に出品される作品の画像が、メールで送られてきた。私が持っている写真も、別のバージョンで並べられるらしい。他にも、バス停に立っている玄人っぽい女性とか、喪服の群像とか、丸橋ならではの「清潔で謙虚なエロ」が追求されていて、私はそんな彼のセンスがたまらなく好きだ。
 そういえば、数日前に、東京都現代美術館で「パリ・国立ピカソ美術館所蔵 ピカソ展ーー躰とエロス」という展覧会を見た。「またフジ・サンケイ・グループお決まりのピカソ展かよ〜」などと思いながら出かけたのだが、展覧会自体は堅実な構成で、シンプルな展示も気持ちよかった。
 でも、ちょっと待てよ・・・。ピカソ展の括りは「エロス」なんだけど、私が大好きな丸橋の作品から想起する言葉は、「エロス」ではなく「エロ」だ。「エロス」の方は、毛むくじゃらの男根が、これまた毛むくじゃらの女陰に、ぶすっ、と射し込まれていたりする絵なんだけど、こちらは立派な美術館の収蔵品で、それをありがたく日本に持ってきて展示してある。で、丸橋の、私がオナニーを思いとどまった清潔で謙虚な「エロ」は、相模原の屋根裏にひっそりと展示される。
 まあ、「エロス」と「エロ」の違いなんて、この極東の島国で思いっきりドメスティックに育った私のささやかなこだわりなのだが、ホンモノのエロジジイであるピカソは、はたして丸橋が撮った女子高生を見て、どんな反応をするんだろうか・・・。
 などと思いをめぐらせていたら、つい最近本屋でたまたま見つけて買った、開高健著『ピカソはほんまに天才か 文学・映画・絵画・・・』(『中公文庫』一九九一年初版 初出は一九八四年の『芸術新潮』)という本に、こんなことが書いてあった。

「これまでに何人かの日本人の画家や評論家に私的な会話の席で、むきつけに(しかし言葉は丁重を心がけて)、ほんとにピカソはいいと思うか、そう感じたことがあるか、もしそうなら技術なのか色価なのか、何がいいのかと、たずねたことがことがある。たいていの場合、眼を伏せるか、そらすかであって、確信こめた断言体で、イエスと答えかえしたのは一人もいなかった。もう一種の答えは、これまた一つのパターンと化した気配があるが、あれだけ一生つづけて変貌に変貌というのはちょっとできることではない、たえまなく自己を創造し、そのあとあとからそれを破壊し、つねに一点に安住することを拒みつづけるのはやっぱり何かあるんだよ、ナ、というのだった。」

 「ピカソはほんとに天才か」ではなく「ピカソはほんまに天才か」という関西弁のタイトルで、ピカソからは「放射能を何ひとつとして感じさせてもらえない」という、腹を括ったドメスティックな実感を表明する彼に、私は共感する。西洋的な知性をかなりのレベルで身につけながらも、なおもそう言い放つ開高は、すごいと思う。
 毛むくじゃらの男根が、ぶすっ、と射し込まれているピカソのドローイングよりも、北関東で思春期を過ごした少年が女性に注ぐ密やかな欲望を、うんと謙虚な姿勢で、美しい画面に定着しようとする丸橋の写真の方に、私はよほど共感する。
 開高健もそうだったんじゃないか。「ほんとに」と「ほんまに」の違いは、「エロス」と「エロ」の違いなんだと、勝手に思っている。

平成十六年九月二十三日稿
 
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