2020年01月26日

フェア・チャンス ジョシュ・ラニヨン/冬斗亜紀訳

Fair Chance by Josh Lanyon
モノクロームロマンス文庫2020年1月
FBI特別捜査官×大学教授(元同僚)

ジョシュ・ラニヨンのAll's Fairシリーズの2作目「フェア・プレイ」の感想をエントリーしてから既に5年がたっているということを確認して、私はびっくりしている。
この年になると、4年や5年はつい昨日のことだ。

Fair Play」は、2014年11月に原書で読んで感想を書き、その後、2016年に冬斗さんの翻訳が出た。
そして、2017年3月に完結編としてこの「Fair Chance」が出て、これも頑張って原書で読破したものの、よく分からないところが幾つかあったので、翻訳を読んでから感想を書こうと待っていたら、なんと!途中でラニヨンの別のシリーズ「アートシリーズ」の刊行が始まり、しかも2冊続けて出て、「フェア・チャンスはどうなる?」と焦っていたところ、3年たってやっと出たのである。

「アートシリーズ」もFBIもので(年の差カップル)、こちらも面白くて、実はこの「フェア・チャンス」とも少しだけリンクしていることに、翻訳を読んで初めて気が付いた。
刊行の順序としてもアートシリーズを挟んでいるので、この順番で読んでほしいということだったのかと思う。
アートシリーズを読んでいなかったら、「サム・ケネディって誰?」ってことになっていただろう。


(以下、1作目も含めてネタバレ全開です)

グース島のエリオットの家でタッカーと同棲を始めて1年近く、2人は相変わらず意地を張り合いながらも(恐らくタッカーの忍耐とやさしさのおかげで)仲良く暮らしている。

そんなとき、タッカーの突然の失踪。
それをエリオットが、ほぼ単独で捜索・救出するという、エリオット、あんたがヒーローの巻である。

お互いを信頼しているはずだったのに、エリオットはパニックになり、もしかしてタッカーには何か秘密があったのでは?裏切られたののでは?という疑念にさいなまれる。

そんなわけない。
多くの仕事を抱えた野心あるFBI特別捜査官が黙って消えるはずない、事件に巻き込まれたに決まってる。
そこでフックになっているのが、週末を実母に会いに出かけたタッカーが、エリオットには日曜日に戻ると言っていて、上司には月曜の夜に戻ると言っていた小さな嘘。

この謎は、私には最初から読めていた。
恐らく、多くの読者に見当がつくだろう。
エリオットだけが、どれだけ自分がタッカーに愛されているかがよく分かっていない。

You're my priority.

くぅ〜と思って、原書にマーカーしていたタッカーのセリフ。
冬斗さんの翻訳では、「俺が一番大事なのはお前だ」。

こういうことを、ベッドの中でなくてもはっきり口に出して言うことができる、それがタッカーという男。

3作目は、タッカーの魅力大増量編。
捜査会議での登場シーンでは、「ヴェルサーチのオーダースーツにグレーのシルクタイ、靴はイタリア製ハンドメイド」と描写されている。
タッカーって、そこまでおしゃれな男だったっけ?と、確認のため1作目を手に取ったら止まらなくなり、一気に再読してしまった。
(「オーダーメイドのダークスーツ」という描写はあるが、そこまで細かく描かれてはいない)

そうそう、1作目は失踪した学生を探す話だった。
失踪した子の親たちの、「黙って消えるはずがない」「何かあったはずだ」「絶対に生きているはず」という悲痛な焦燥を、エリオットは元FBIとして冷静に受け止め、最悪の想定をし、実際最悪の結果を見ることになる。

そして今回は、エリオット自身が失踪者の家族として、刻一刻と最悪の結果の可能性に近づいていく焦りに身を置くことになる。
エリオットは、最初こそパニックになったが、けなげにも正気を保ち、持ち前の粘りでタッカーを捜索する。そこはさすが元FBI。
そして誰の助けも借りず(厳密には犬の助けで)、たった一人でタッカーを救出する。

まず救援を待てよ、エリオット」「その膝でその穴に入るか、エリオット」と言いたくはなるけれども、ここはエリオットが愛するタッカーを自力で救出しなければならないところなのだ。

2人は間違いなく深く愛し合っている。
タッカーの素敵描写がどんどん増量していくのもエリオット視点だからで、最初は口数も少なく不愛想だったタッカーが雄弁に愛を語るようになったのも、エリオットが自分にぞっこんだという自信を得たから。
家族にも職場にもオープンな関係なので、この2人に男同士という障害はない。

障害があるとしたら、エリオットのいろいろと面倒な性格と屈折した性癖のせいなのだ。

行方不明のFBI特別捜査官を見事に救出したエリオットは、元上司からのFBI復帰の要請を受け入れる決意をして、物語は終わる。

え?
現場に出ない内勤ならFBIにいる意味がないとか、FBIでの仕事はやりきったとか、大学で教える仕事に満足してるとか、これまでさんざん言ってたよね?
あれは自分で自分をだましていたのね。

2人の仲が復活してからのけんかの原因は、タッカーの「お前はもう民間人なんだから事件に関わるな」というエリオットの身を心配しての願いと、「足に障害のある自分はタッカーと対等ではないのか」というエリオットの理不尽なひがみ?の衝突だった。

エリオットの、いったん疑問に思ったことはとことん追求せずにはいられない頑固さと、父親ゆずりの正義感、どっちにしても事件に首を突っ込まずにはいられない性格なら、FBIの身分に戻ってくれたほうが、タッカーとしてもむしろ安心だろうと思う。

さらに、タッカーからのプロポーズに二つ返事でOKする素直過ぎるエリオットには、タッカーも「どこか悪いんじゃないか」と心配するぐらいだが、一度は最悪の結末を覚悟したからこそやっと素直になれたという、面倒な男がエリオットなのだ。

また、当シリーズの魅力的な重要人物、エリオットの父で元フラワーチルドレン、ローランドも相変わらずいいキャラで、前作の事件が原因でエリオットとまた険悪な関係に戻っているのだが、タッカーに負けず劣らすエリオットを愛しているローランドは、誰よりも先にエリオットの異変を察知し、救いの手を差し伸べる(←ここ好きな場面)。

原書で読んでよく分からなかったところは、なぜマコーレーは殺されたのかということと、フォスターがコーリアンの実母だといつ判明したのかというところだが、このあたりは結局、翻訳で読んでもよく分からないところだった。

もっと言えば、なぜ隣人が実母だったという重要な情報がもっと早く明らかにならなかったのかとか、訓練された大男であるタッカーを素人2人で白昼の駐車場から拉致できるものだろうかとか、いろいろあるけれども、ロマンスとして読んでいる私にはさほど重要ではない部分である。

苦難を乗り越えたエリオットが、やっと素直に気持ちを認めることができて、ハッピーエンドなのだ。
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bokaboka3 at 18:28|PermalinkComments(1) M/M小説 

2019年07月12日

12年目の「きのう何食べた?」 よしながふみ

新たな時代のホームドラマ

愛読している大好きな漫画は漫画のままで、アニメ化もドラマ化もしてほしくないというのが、私の本音。

でもしかし、それは無理だということもわかっている。
きょうび、映画もテレビドラマも原作が漫画じゃないほうが珍しい。
歌舞伎でさえ漫画が原作だったりする。

よい作品は映像化されることから逃れられない。

よしながふみの「きのう何食べた?」も、やるなら、テレビ東京の深夜枠でやってほしいと思っていたら、まさにそのとおりになり、しかもテレビをあまり見ない私でも知っている俳優ばかりという予想外の豪華キャスト。

さすがにこれだけ主役級の俳優をとり揃えると、自分のイメージがどうこうを超えて面白いものになる。後半、役者がちょっとやり過ぎになってきて、もっとさらっとやってほしいとは思ったけど、賢二と史朗は内野・西島を逆にしてもいけるとか、内野の小日向で山本耕史のジルベールってのも見たいとか、高泉淳子が史朗の母で梶芽衣子が大先生もありだなとか、脳内キャスティングを楽しみながら12話を見た。

ドラマの脚本は、ケンジとちょっとした摩擦になった史朗の正月帰省から、ケンジを実家に連れていく正月(原作の7巻)まで。原作では、あの帰省からこの帰省まで数年を要していて、それを1年に圧縮してしまったのはちょっともったいない気はするけど、うまくまとまっていたと思う。

原作は料理がメインで、すべてのレシピに材料と分量が明記され、読者が実際に料理を再現できる実用漫画でもあるのだが、ドラマではそこはかなり省略されていて、その分エピソードが強調されたため、気が付いたことがある。

これって、ホームドラマだったのね。
毎回ご近所や友人とのちょっとしたエピソード、あるいは史朗の家族とのエピソードを描きつつ、何があっても一緒にご飯を食べている2人は、やっぱり一つの家族の姿である。

「標準世帯」と呼ばれる夫婦と子ども2人の家族は、いまや全世帯の5%以下とも言われ、一番多いのは単身世帯という今の時代に、あえて男2人世帯のホームドラマが人気俳優によって作られ好評を博したということは、日本のホームドラマ史(?)にとって何か意味のあることかもしれない。

12年の歳月

私にとって、ドラマ化されてよかったことの一つは、前から一度通して読んでみようと思ってなかなかできなかった1巻から15巻までの一気読みができたこと。そしてドラマ化されたおかげで、作者のインタビューも多く取り上げられ、あらためてこの作品の意図と位置を確認できたこと。

連載開始は2007年、その年の11月に単行本の1巻が発売されている。
「きのう何食べた? 2007年11月22日刊

12年前といえば、小学生が成人し、高校生が30歳近くなるだけの時間だけど、とっくに成人済みの私にはそれほど大昔の感覚ではなく、毎年1冊か2冊出る新刊を発売日に買って読み、新しい料理など試してるうちに気が付いたら12年たってしまった感じ(当ブログには6巻まで当時の感想を書いてます)。

だけど、2019年時点で一気に12年分を読み返してみると、やはり12年はそれなりの年月だと思う。
2007年当時、男同士の同棲カップルの話が青年誌に連載されるというのはかなり斬新だったはず。LGBTという言葉もまだ一般的ではなかったが、今では、同性愛を「禁断の愛」などと言おうものなら、炎上するぐらいのところまで世の中は進んでいる。

今回の人気俳優で地上波でのドラマ化ということについて、「おっさんずラブ」の成功例もあり、また、原作の「12年も連載されている人気漫画」という裏付けもあり、「ゲイカップル」を扱うハードルは12年前と比べると格段に下がっていたと思われる。

ちょっと古いBLを読むと、「普通の会社員だと結婚しないと出世できないから云々」ってのがよく出てきて(本作の中にもある)、だから弁護士と美容師という設定なのだろうが、2019年現在の日本ではそういうことはほぼないと思う。

個人的な知己を見ても、一部上場会社を独身で定年まで勤め上げた男性は何人もいらっしゃいます。
それは、人権意識が向上したというよりは、終身雇用制が崩れて、会社が社員の結婚まで面倒みきれないという側面が大きいと思う(あるいは、そもそも独身だと出世できないというのは思い込みだったのかもしれない説、またはむしろ生涯未婚率の上昇が問題になっている件)。

もう一つ、一気に読んで感じたことは、この2人、すごく愛し合ってるんだなあっていうこと。
日本人だから、日常で「愛してる」なんて言わないし、キスもハグもしない。
だけど、お互いに相手を「大事にしている」ということを、言葉でも行動でも常に表現している。つまり、愛し合っているってことよ。

そもそも、この話、筧史朗43歳、矢吹賢二41歳が一緒に暮らし始めて3年目というところからスタートしている。
今読み返しても、これは実によく練られた始まりだと思う。

一緒に暮らして3年もたてば、最初はいろいろあったとしても落ち着くところに落ち着き、2人とも40過ぎて交際当初の生々しさは良くも悪くも薄れ、恋人というより家族に近くなっていく、そこからのスタートだった。

ドラマの初回にもなったエピソードである、#3での、ケンジのアウティング(この言葉も当時は知らなかったが)事件が、2人の最後の大きな衝突で、これ以降は「出ていけ」とまでのけんかはしていない(はず)。

連載開始から1年後、単行本では2巻の#9で、2人が付き合い始めて同棲するまでの経緯がさらっと描かれる。
特別に何か大きな障害を越えた大恋愛でもなく、大人のお付き合いから自然と同居への流れで、史朗は、何度も「タイプじゃないんだけど」と心の中で言うし、佳代子さんに「意外と大事にしてるよね」と言われれば、「今さらイチから恋愛するのはめんどうなんだ」てなことを言うけれども、本当のところ、ケンジをとても大事にしている。

何年たっても、クリスマスや誕生日をきちんとやっている、ケチ、いや倹約家なのに、ケンジに対するプレゼントには金を惜しまない。
男同士で法律婚じゃないから気を使っているんだと思っていたけど、あらためて読み返してみると、やっぱり史朗はケンジのことが大好きなんだな。

毎日、仕事から帰ると「超かっこいい(←ケンジ視点)」シロさんの手料理が待っているケンジが幸せなのは、もちろん言うまでもないが、それを当然と思わず、いつもその気持ちを言葉にするケンジは人柄もいいけど賢い人だと思う。

ありふれた日常という大河ドラマ

この2人が、私たちと同時進行で年を取っているということをはっきり意識したのは、シロさんが50過ぎたあたりだったかな。
「大した事件も起こらない、ありふれた日常をていねいに描いている作品」と捉えていたけど、40歳だった人間が10年たつと50歳、50歳が10年たつと60歳になるというのは、誰にとっても大した事件である。

毎日ご飯を食べて、毎年誕生日やら正月をやっているうちに若者は老人になり、やがて去っていく。その時間は誰にも止められないというシリアスな現実を描いている「大河ドラマ」だということに気付いたときは、結構衝撃だった。

最初はゲイっぽく見えるかどうかを気にしていた史朗も、50過ぎて、いつの間にかその辺はどうでもよくなった。年をとるってそういうことよ。
ゲイの一人息子にあれほど手ごわかった母親もすっかり老いて、今や老人ホームに行こうかどうかというところが関心事になっている。

老いた両親の行く道はやがて自分が行く道。仲良く平穏に暮らしている2人にもやがて別れがくる。
連載は続行中でどこまで続くかは分からないが、それだけは変えられない結末である。

クッキング漫画としての充実

最初の頃はともかく、これだけ長きにわたる連載で、次々に新しいレシピが出てくるのは、料理は料理を考えるスタッフが付いているのではないかと、実は思っていた。
これだけ連載を抱えている人気漫画家が、料理なんかしている時間があるはずがないと。

それが、ドラマ化に伴う著者のインタビューで、すべての料理を実作、場合によっては何回も試作して、プロセスを写真に撮って描いていると知り、ちょっとびっくりした。

プロ意識といえばそうだけど、あらためて「愛がなくても食っていけます」(太田出版2005年)ほか、初期の作品を読み返してみると、作者の食に対する執着が尋常ではないということがわかる。
どんなに忙しくても、食べたいものを自分で料理しないと気が済まない人って、確かにいる。
そういう人は、手際も非常によい。

作者は、この作品を描いた理由の一つに、「今日晩ご飯何にしようかなと30分ぐらい考えていることがあるので、それを仕事に還元したいと思った」と語っているが、まさに食いしん坊万歳、レシピ考案、献立、調理プロセスに手間がかかっているという意味でもクッキング漫画と言うべきだろう。

晩酌するわが家は365日居酒屋メニューなので、シロさんの健康的な一汁三菜献立は生かせないのだが、それでもこの作品を見て作るようになった料理はずいぶんある。
でも、料理そのものよりも、料理に対するマインドをシロさんに学んだかもしれない。
つまり、料理をするときは、心の中にシロさんを召喚し、ご飯作るのが嫌だなあとか、面倒だなと思わないことである。

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bokaboka3 at 12:59|PermalinkComments(0) コミック 

2018年04月06日

巨星墜つ

巨匠・剛しいら先生が亡くなった。

ずっと嫌な予感はしていた。

毎回、多くのスタッフで盛大に販売していたJガーデンからの突然の撤退。

多分、富士見L文庫から出た「恋愛事件捜査係 担当官は恋愛オンチ」が(ラノベ以外で)最後の新刊だと思われる。

非BLだがバディもので、明らかにシリーズを想定されて書かれているのに、続きが出ないまま3年。

寡作な人ならそういうこともあろうかと思うけど、多作な作者がこんなに長い間新刊を出さないって、よっぽどのことだ。
でも、自分のことではなく、家族のことかもしれないし・・・などと思いつつ気にかけていたのだが、4月1日に他界されたという公式サイトでの告知を、旅先で知る。

エイプリルフールに亡くなるって、マジですか、先生。
なんちゃって、って言ってください(号泣)。

私は、このブログには剛しいら作品を100本エントリーしている。

これは数としてダントツで、巨匠が多作だったこともあるけど、やはりどれを読んでも面白い、シリアスからトンデモ設定のもの、時代物でもファンタジーでも何でも書けて、「これはちょっとやっつけたな」という手を抜いた・・・いや、リラックスしてお書きになったものでも、「下手な作家よりは上」というアベレージの高さにあったからだと思う。

出会いは、膨大なBL作品群の中でも最も地味な作品と言える「ドラマティックな7日間」だった。

これは、この社会で同性と暮らすことの意味、家族との問題など、同性カップルの日常を描いているある意味珍しいBLで、今読んでも(むしろ今読むべき)普遍的なテーマを描いた名作である。

何の大事件も起こらない、この地味BLを読んで、私は巨匠の確かな筆力を知り、「BLだって(いいものは)現代文学だ」と発見、このブログを始めた。

座布団シリーズ、やってやるシリーズ、ドクター×ボクサーシリーズなど、人気シリーズ以外にも、好きな作品はたくさんある。

そうだ、4年前にシリーズ再開した「かってやるI」で組長になった辰巳鋭二はその後どうしてるのか?
私の大好きな記憶シリーズの奥手な精神科医、如月先生でもう1冊書くようなことを言ってたじゃん(泣)。

座布団シリーズの1作目は、弟子の要のところに初助師匠ががんで死んだという訃報がもたらされるところから始まる。
私の計算ではこのとき初助師匠は還暦を過ぎたあたり。
恐らく、巨匠もそのぐらいの年齢で亡くなられたと推定している。

このシリーズで書かれていたテーマは一貫して、「人間は生きているときより死んでいる時間のほうが長い」だった。

巨匠は、このたび「生きているタイム」を終えて、長い長い「死んでいるタイム」に入られた。
私たちが、繰り返し初助師匠の物語を脳内に呼び出して、その艶やかな生涯を蘇らせているように、この先も巨匠の作品を何度も読み返し、巨匠の世界を蘇らせることだろう。

剛しいら先生、たくさんの素晴らしい物語をありがとうございました。
死んでいるタイムでまたお会いしましょう。

合掌。

bokaboka3 at 10:18|PermalinkComments(0) 剛しいら 

2017年12月22日

摩利と新吾 木原敏江

こんにちは。
お久しぶりです。
前のエントリーから1年半、2017年も残りわずかというところでうっかり出てきましたよ。

ほとんど何十年ぶりかで「摩利と新吾」を一気に再読してしまった。
これが私的に、本年最大の事件ですかね。

トリガーは、今年出た「総特集 木原敏江〜エレガンスの女王」という本を読んだことです。



河出書房新社 2017年10月

かねがね、木原敏江先生は、同世代のいわゆる24年組の中でも過小評価されていると思っていたので、こういった特集本が出て、その長い作家活動が整理され再認識されることは、読者にとっても大変ありがたいことで長生きはするものだと(以下くどいので略)。

とはいえ、「摩利と新吾」は、木原先生の中で私が一番好きな作品というわけではない。
そういえば、「摩利と新吾」の結末ってどんなだっけと思ったのが再読の動機というぐらい、それほど夢中になって読んだという記憶はないのです。

私にとっての木原先生はまず、「エメラルドの海賊」「銀河荘なの」「あーらわが殿」といった週刊マーガレット時代の少女漫画で、それは毎週お小遣いを握りしめて週マの発売日をじりじり待ち焦がれていた子ども時代と、漫画以外の趣味もできた時代との漫画にかける情熱の差だろう。
それか、その後に読んだ「アンジェリク」「夢の碑」のほうを、より愛読していたと思う。

1991年に角川書店から木原敏江全集が刊行されたとき、全集とダブるコミックスは処分してしまっていて、初版で持っていたはずのコミックス版はもう手元にない。
しかもこの全集版で読むのは初めてという(つまり揃えてから20年以上飾っていた)・・・なので、当時の自分がどういう気持ちで読んでいたのかは今となってはよくわからない。

わからないけど、それほど好きではなかった理由は、やっぱり、「これでは摩利がかわいそうではないか」という気持ちだったと思う。

だがしかし、その後成立したBLというジャンルにおいて、「幼ななじみの親友に密かに恋愛感情を抱き続け、打ち明けて嫌われることを恐れてぎくしゃくする関係が、なんだかんだあって二人は結ばれてハッピーエンド」というような作品をおなかいっぱい読んだ今読むと、摩利は全然かわいそうじゃないと思うのだ。

知らない方のためにざっくり説明すると、「摩利と新吾」は明治末期の旧制高校の寮生活を舞台にした青春群像劇で、スタートは学園ものです。
摩利と新吾は父親同士が親友で、赤ん坊のころからの幼ななじみ。いつも二人一緒で「おみきどっくり」と呼ばれている。

余談ですが、神棚のない家で育った私は、「お神酒徳利」というものを当時は見たことがなく、二人の仲の良さを「おみきどっくり」と言う日本語表現を、木原敏江先生で学びました。閑話休題。

摩利は新吾に対して恋愛感情を抱いていて、二人が高校を卒業して欧州留学あたりからは、恋愛か友情かという二人の苦悩が軸になり、物語もだんだん耽美寄りになっていく。

摩利の気持ちを知った新吾は、大好きな親友の摩利のためなら何でもできると思って一度は受け入れる決心をするのだが、やがてどんなに頑張っても自分は異性愛者で、摩利は性愛の対象ではない事実に気が付いてしまう。

これって、なかなかに現実的な話だよね。
どんなに大切な親友でも、性愛につながるかどうかには大きな壁がある。
そこを割と簡単に(というか最終的には)飛び越えるのが、BLというファンタジーなのであるが。

新吾は苦しみながらも、ついに「どんなに努力しても恋人にはなれない」と告げる。
「知ってたよ」と答える摩利。

鷹塔摩利という人は、美形で頭もよく大金持ちの子息で、男女ともに求愛者が山ほどいるスーパーキャラである。だけど、この世で一番好きな新吾の愛だけ得られない。
なんと不憫なやつ・・・と、昔の私は思ったけど、あれから幾星霜、私も摩利たちよりも長く生きて、今はそうとは言えないと思うのだ。

特集本で、木原先生は、思いがけない長期連載になったけど生涯ベストフレンドという結末だけは最初から決めていたと語っていた。

明治時代のことだから男同士の関係には寛容だけど、良家の惣領息子同士、子孫を残すことは義務で、恋が結ばれたからといって具体的にどうやって添い遂げらるというのか。

長い人生、恋愛の成就だけがすべてではない。
摩利の人生も、自分の思いどおりにならないことが一つあったおかげで、より人間らしく生きられたと思う。(夢殿先輩もね)

それに恋人同士にはなれなかったけれど、二人は決別したわけではなく、生涯の親友として死ぬまで心で結ばれていた。
摩利も人生のどこかの時点で、これでよかったのだと納得したと思う。

しかし、「摩利と新吾」は1977年から1984年の連載で、連載開始から実に40年(!)を経ているというのに、今読んでも、読み始めたら止まらないこの面白さはどうしたことだ。

明治時代が舞台だから古さを感じさせないというのもあるけれど、時代ものであっても、作品はその時代の価値観を反映するものだ。
でも、「やっぱ昔の漫画だな〜」と感じさせる部分がほとんどない。

むしろ、昔読んだときより時代考証の正確さや、庶民から両家の子女、芸者に至るまでの着物の描き分け方がすごいとかが理解できるし、また後半、二つの世界大戦と関東大震災の歴史的事実を分かりやすくコンパクトにまとめる手腕は誰にもまねできるものではないと思う。

というより、今の漫画家が明治時代の話を描こうと思っても、こうは描けないだろうと思う。
もちろん、平成生まれの漫画家で江戸時代を緻密に描ける人もいる。
でも、この当時、明治時代は時代劇ではなかったのだ。

これが描かれた40年前は、明治末期の高校生、つまり「摩利と新吾」の世代がまだ多く生存していて「明治は遠くなりにけり」とか言いながら強い影響力を持っていた。
作者の祖父母は明治生まれのはずで、明治という時代は遠いけどまだつながっていた。

だから、登場人物がちゃんと明治の人の価値観で動いている。
例えば、新吾が「体験」のために遊郭に行くとか、摩利が跡継ぎを残すためだけに女中に子どもを産ませるとか、今の感覚では、ちょっとそれってどうなのということもちゃんと描かれている。

武家や貴族、芸人や商人、それぞれの身分の違いによる価値観の違いも明確で、こんなに背骨のしっかりした作品だったんだなと今あらためて思う。

目が大きく主役が花を背負っている木原先生の絵柄は、当時としても古典的で(吉田秋生のような美大卒の漫画家もすでにデビューしていたし)、それでちょっと損をしていたかもしれない。

そしてやはり、この作品がのちのBLに与えた影響は、思っていた以上に大きいと思う。
特に1980年以降、同じ雑誌に山岸凉子の「日出処の天子」(これもまた報われないやつ)が連載されていたことを考えても、数年後にBLというジャンルが生まれるのは必然だった。

「摩利と新吾」は1984年2月、「日出処の天子」の連載は1984年4月に連載が終了、その時点で「LaLa」の購読をやめた私は、その後しばらく漫画をあまり読まなくなった。

なので、ふと気が付いたらBLというものが市場に現れていて非常に驚いたわけだけど、確かに根っこはつながっている。

「摩利と新吾」は今、電子書籍kindleで全巻読めます。



白泉社文庫 1995年

平成ももうすぐ終わろうとする今、明治どころか昭和も遠くなりにける今こそ、久しぶりに読み返して、BLの祖父母を確かめてみるのもよろしいかと思います。

それでは、ハッピークリスマス&よい新年を!

★★追記(2019年5月31日)★★
やはり、「もう一度摩利と新吾が読みたい!」と思った人が多かったようで、2019年4月から6月にかけて河出書房新社から「摩利と新吾完全版」全5巻が刊行されています。
A5判という大型サイズで、連載時のカラーページを再現、新規に木原先生のインタビューも収録と、1巻2250円も決してお高くない豪華な内容となっています。
もう処分しちゃったけど、電子書籍じゃ駄目なのという方はぜひご検討を。
私ですか?
欲しい!と一瞬思ったけど、木原敏江全集、大島弓子全集、山岸涼子全集だけでもかなりのスペースを取っていて、さらなる保存版はスペース的に無理です・・・。



bokaboka3 at 09:56|PermalinkComments(0) コミック 

2016年08月16日

遠回りする恋心 月村奎



新書館ディアプラス文庫 2016年8月

大学生(20)×大学生(20)

2004年からBLを読み始め、はや12年。
(8か月ぶり突然の更新ですが、気にしないでください)

BL全般が好きというよりも、好きなBL作家を追いかけてずっと読んできただけなんだけど、ここにきて、好きな作家さんたちの出力に陰りが出てきている(と感じる)。

たとえどんな筆力があったとして、BLという約束事の多いジャンルで、10年以上書き続けるのは、相当きついことだと思う。
いや、書き続けること自体はできるとしても、新鮮な面白さを常にキープできるかというと・・・

量も質も一定レベルで、このジャンルにおいて大量に書いたという意味で、巨匠・剛しいらが突出していると私は思っているけど、さすがに寄る年波で(?)近年はペースダウン。

他にも、健康上の理由で長期離脱中だったり、非BL方面に進出したり、あるいは、誰とは言わないが、量的には書き続けているが、明らかに質が落ちているベテラン作家・・・。


そんな若干寂しい気がするBL小説界で(あくまで個人の感想です)、最近の月村奎の意外なポテンシャル(失礼)が光っている。

月村さんも、「エンドレス・ゲーム」が1996年だから、20年選手の大ベテラン。

しかも、自分で「金太郎飴作家」と開き直っているように、大体似たような話を書き続けている。

ファンタジーも書く、ヤクザの出てくるアクションものも書く、時代ものもアラブものも書くというわけではなく、ほぼ現代の等身大の舞台でBLを書き続けて20年。

それで一定のクオリティーの作品を書き続けているのは、ちょっとすごいことではないか。
いや、それってすごいよ、と最近思い始めている。

もちろん、似たような話でも面白いのは、こまやかな人間描写が優れているからなんですが。続きを読む

bokaboka3 at 09:55|PermalinkComments(1) 月村奎