『僕のうしろに道はできる』

丸4年以上、計1500日以上毎日更新を続けてきた「ぼくみち」ですが
ぼちぼち切り替えのシーズンかなと考えています。

1日の限られた時間に記事を書く中で
どうしても妥協が強くなってしまうことが、最近の悩みどころでした。
読んだり書いたりが、以前より良くなっていく中で
この文章で満足してはいけないと思うようになったりして。

ばっさりやめるか、週イチぐらいに切り替えるか
そんなことを検討中です。
どちらにせよ、仕事以外で文章を書く習慣は持っておきたい。

いろいろあって、いろいろ前に進んできた。
それは間違いなく読んでくれる人達のおかげで、
今日も元気に生きています。

もっともっと先に行くために、切り替えなくちゃいけない。
そんなことを思ったりしています。


   今日も「ぼくみち」を読んでくれてありがとうございます。
   良くするために、手を離すこともある。
   悪くないって思える文章を、書いていくために。

信じるのには勇気がいる。
信じるってことは、ものすごくアクティブでパッシブなことだ。
だけど、いつだって大事にしたいと思えるのは
信じてくれた人たちだ。
好きになれるのは、好きでいてくれる人たちだ。

親子だって、師弟だって、恋人だって、神様と信者だって
きっとそういうところがある。

100%報われるわけじゃないけれど
お互いに応えたいと思ったときに
それは信頼になるし、力になる。

そんな当たり前のことを考える。
お花や宝石を与えることよりも、全然お金がかからなくて
だけどとっても難しいことだと思いつつ。


   今日も「ぼくみち」を読んでくれてありがとうございます。
   自分が好きなことに対しても、きっとそうだ。
   夢は時間を裏切らない、時間も夢を裏切ってはならない
   って台詞を、ものすごく大切に思ったりする。

作業の内容や、進捗状況、その日のメンタルによって
音楽の有無、耳栓の有無などを使い分けています。

思いっきり作業をするときは、BGMも邪魔になったりするので
耳栓で完全集中を図ったりするわけですが
最近、しずかならいいってワケじゃないことに気づきまして。

上手くいかないときにしーんとしていると
頭の中に、いろんなことばが氾濫します。
それは自分で制御できないものなので、
たいていは感情的でマズいタイプのものだったりします。

外の空気を吸って気分転換をしても、上手くいかないそんなとき。
歌入りの音楽をかける。
なるべく自分の好きな、気持ちいい音楽です。

身体がノリノリになるぐらい、頭の中にその曲を流し込んで
脳内のノイズを、快感で無理矢理打ち消します。
そうすると、無音で唸っていたときより、なんとなく先に進めたりする。

苦しいときに、苦しさを抱えて耐えきることも大切だけど
自分なりに苦しさを打ち消す方法を持っておくべきかもしれない。
外の空気を吸う、ストレッチをする、お菓子を食べる。

ちゃんと集中するのが一番だけど、どうしようもないときは
ふっと顔を上げてみれば、楽しめる方法はいくらでもあるはずだ。


   今日も「ぼくみち」を読んでくれてありがとうございます。
   快感に飲まれると作業そのものができなくなるので
   そこは自分でセーブ。
   セルフコントロールって、TMNの歌にもあるでしょう。

創作活動をしている人には、セルフプロデュースができない人が多い。
そんなはなしを聞きました。

作品はものすごく良いのだけれど
それを周りに宣伝することが苦手。
黙々と作品を作り続ける大人しい人や、
自分の作品なんて……と思う、謙虚過ぎる人。
そのために、大勢の中に埋もれてしまう人が本当に多い。

なぜだろうと考えたときに、
「営業」は「創作」とは違う種類の能力だなと思いました。

なにかを作ることは楽しい。楽しいから始めたし、続けている。
だけどそれを売り込むということは
必ず挫折を味わわなければいけない。
「創作」という「好きなこと」のためなら挫折できるけど
「営業」という「好きではないこと」のために挫折するのは
かなりの体力を使うことだったりします。

静かに黙々と作り続けて、誰かに認めてもらう。
認めてもらうために、作る以外の動きをする。
どちらも簡単なことじゃない。
メディアに出ないことで、機会を失う作家もいれば
メディアに出過ぎて、作品のイメージを損なう作家もいる。

もし自分の創作が「遊びじゃない」のなら
今やっていることをもう一度考える必要があるのかもしれない。

アピールすることに、何かを作ることに、逃げていないか。
だいたいの人は、それを指摘されても気づかないし、変えられない。
変えられるのなら。必ず何かが変わる。


   今日も「ぼくみち」を読んでくれてありがとうございます。
   セルフプロデュースができるのも、周りに良いマネージャーがつくのも
   本人の人柄なわけだけど。
   自分のそのどちらかを持っている人を、考えたとき
   少なくとも卑屈な人はいない。
   これが好きだといいながら、なんか生命力っぽいものが出ている。

物事には「見えない部分」がある。

ネジを外す前のバイク。蓋を開く前のクッキーの缶。
扉を開ける前の部屋の中。包帯をほどく前の腕。
シュレディンガーの猫ちゃん。

今こうして見ている、「まえ」の反対側には
あなたが見ていない、「うしろ」がある。

見ていないなら後ろは真っ暗かというと、そうではなくて
たぶん明るいし、普通に世界が存在している。
だけど、見るまで分からない。
あなたが見なければ、その世界は存在しないのと同じだったりする。

見えないものが気になる。
人間である限り、その呪縛からは逃れられない。
人間関係に疑心暗鬼になること、暗闇にオバケがいるんじゃないかと思うこと。
見えないことに対する不安が、それらを生み出していく。

だからどうというわけじゃなく、そのことに気づくかどうか。
別に気にしなくてもいいのだけれど。
見える部分以上に、見えない部分と一緒に暮らしているということ。


   今日も「ぼくみち」を読んでくれてありがとうございます。
   別に恐がらせようってワケではないのです。
   だけど、見えない部分がある。
   右左、後ろ。背中、脚の裏、お尻の下。
   気になり過ぎると、生活できなくなるけれど。
   あるんだなぁ。見えないけど、あるものが。

愛車の中型バイク SUZUKI ST250 。

後輪側にサイドバッグをつけるために、ウインカーの移設を行いました。
バイクを本格的にいじったことはなかったので
ネットの記事を見て、ドキドキしながら作業。
想像以上に上手くいったので、とっても満足です。

今のアパートにはバイク置き場がないので、実家でカスタムをするのですが
向かいの家に住んでいるおばさんが様子を見ていまして。
熱中するのは本だけじゃないのねぇ、なんてことを言われました。

ぼくが昔からよく本を読むことは、おばさんもよく知っていて
本の中身が気になるように、
いろんなことが気になってやってみたくなってしまうのね、と。

ちなみにその家のおじさんもバイク乗りで
いろいろ分解してしまうみたい。
ストーブやオーブンも開けてしまうみたい。
(さすがにぼくはそこまではしない)

大人になると、だんだん新しいことに挑戦するのが億劫になるけど
たぶんこれからも、気になることがたくさんあると思う。
自分には関係ないって取捨選択してしまうこともあるだろうけど
「気になること」「やってみる気持ち」を忘れないでいたい。


   今日も「ぼくみち」を読んでくれてありがとうございます。
   ネジを回す。ケーブルをつなぐ。
   スイッチを入れると、チカチカ光る。
   何かが組み合わさって、何かができている。
   それはたぶん、それはすごく楽しいことだ。

テレビか何かで観たのですが、ある芸人さんが
役者に向いているかどうかをカウンセラーに見てもらったとき
人格形成がしっかりしていないので苦労するだろうと言われていました。

それはつまり、役に引っ張られすぎてしまうということらしい。
確固たる自分があれば、さまざまな役をやっても、
もとある人格に戻って来ることができる。
しかしそれがない状態でいろんな役をやると、私生活に影響が出てくる。
ということだったらしい。

ぼく自身も、書いているものに引っ張られることはある。
書くときも読むときも、感情移入するようにしているので
そのキャラクターがどんどん自分に入ってくる。
そりゃあもう、考え方や口調が、日常生活に影響を及ぼすレベルで。

ひとつのものを好きになりすぎると、苦労するとよく言われます。
場所も考え方も、次々とリズミカルに変えられたほうがいい。

とはいえ、役者にも作家にも、いろんなやり方がある。
向き不向きも、やり方も、きっとひとつじゃない。
続ければ何かができる。そんなことを思ったり信じたりもする。
どうしようもなければ場所を変えるけど
それは、人事を尽くして天命を待つみたいな
やることをやってから、だ。


   今日も「ぼくみち」を読んでくれてありがとうございます。
   感情移入ができないと、ものすごく書きづらい。
   入り込めなかったものを読み返すと、首を傾げるような内容だったりする。
   それはつまり、自然ではないから、説得力が欠けてしまうのだと思う。

「傘の形状は何年も変わらない」という話を聞きました。
たしかに傘を差している江戸時代のなどを見てみても
持ち手から放射状に骨が広がった、円形の傘が使われています。
三角や四角の傘はないし、21世紀の今になっても
「手に持つ」スタイルは変わらない。

おなじように、トイレットペーパーのロールもそうらしい。
何年前からトイレットペーパーがあるかはしらないけど
ホルダーに芯を挿し込んで、手でガラガラガラガラやる。
自動水栓が出てきたり、手指乾燥機なんかが出て来てるのに
トイレットペーパーだけはウィーンと出てこない。

他にもいろいろあるかもしれない。
パソコンも電話もどんどん変わるけど
ぜんぜん変わらないものが、世の中にはたくさんある。

これ以上ないぐらい、ぴったりしっくりなもの。
どうすればそれを作れるか、それになれるか。
そんなことをなんとなく考えています。


   今日も「ぼくみち」を読んでくれてありがとうございます。
   逆に、ビジネスチャンス!と考えて
   その定番の裏をかこうとする人もいるかもしれない。

なんか自分で、よく食べるし、よく寝るなーって自覚がありまして。
基本的に何か飲み食いしてる。
眠いと我慢できずに、しゅーーってちょっと電源が切れます。
起きたらまた元気に動きはじめます。
仕事で徹夜することはあっても、朝起きて、夜は眠ります。

おかげで基本的に、風邪もひかずに元気。
ごはんが美味しい、寝るのがうれしい。
それがぼくの幸せの基準かもしれない。

おなかがプニプニしないように、気をつけないと。


   今日も「ぼくみち」を読んでくれてありがとうございます。
   衣食住を気にしない(気にしなくてもいい)人もいると思う。
   だけど、ぼくは気にしちゃうというか
   美味しく食べて、良く眠るために、今日も楽しく生きている。

仕事仲間の影響で、某アイドルアニメに足を突っ込んでしまいまして
うーん、こりゃあすごい。
ここ数日、思いのほか元気をもらっています。


アイドルに限らず、女の子を使ったコンテンツでは
「私かわいいでしょ!」とか「セクシーだから見て見て!」とか
いろんなものがあるけれど
あまりこっちにグイグイ来られると、困ってしまう。

それはつまり、集中できなかったりするからで。
全身で楽しむとか、感動するとか、応援したいとか
自分は釣られているんだなぁという意識があると
素直に乗り切れなかったりする。

昔ブログで、「色気は暴力みたいなところがある
という話をしましたが、たぶんそういうことだ。

そういうアピールがうれしくないかっていうと、
そりゃあもちろん、うれしいときもあるけれど
何かを大切にしたいと思うときに、それだけじゃいけないと感じる。

細かいことが気にならないぐらい、
感動的な世界にどっぷりハマれるとき。
心からこの子を応援したいと思えるとき。
人は何かに熱中するのかもしれない。


   今日も「ぼくみち」を読んでくれてありがとうございます。
   どんなコンテンツも、ファンの人達はそんな細かいこと気にせずに
   とにかく楽しくてうれしいから、盛り上がるのだろう。
   一期一会。それもきっと、その人だけの巡り会いだったりする。


ぼくはたぶん誰にでも優しいのだけれど、
優しくしてくれた人、信じてくれた人には、特に優しくしたい。
だいたいそんな感じ。

人の心は見えないし、考えていたらキリがない。
信じられないと、恐怖にかられて言葉にしちゃう。不安で黙っちゃう。
だけど信じるってことは、盲目になるってことじゃないくて
信じるからこそ、自分の意思で言葉にしたり、黙ったりできる。

優しくするのは、なかなか難しい。
ナチュラルにできるときと、できないときがある。
正義みたいなものを持ち続けるのは、すごく体力がいる。

だからこそ、それを持とうとしている人や
自分にとってのそれを信じてくれる人を、裏切るわけにはいかない。
そんなことを思ったりもする。
毎回完璧にできるわけじゃない、という予防線を張りつつ
だけど、できることを磨いて、さらにできるようになる。

自分と、自分以外の誰かを信じるということ。
それはものすごくパッシブでアクティブなことで
いわゆる生命力ってやつが要るのかもしれない。


   今日も「ぼくみち」を読んでくれてありがとうございます。
   世の中は甘くない、だけじゃない。
   甘かったり苦かったり、辛かったり油っこかったり
   いろんな味があって、食べ飽きない。

慣れてないのに、慣れてると言われることがあります。
本やテレビで見た内容を、見よう見真似でやってみるとき。
それはつまり「こういうものだと思う」という行動原理。
ヒーローが弱気を助け強気を挫くのを見て思う、
やりたい、やりたくないではなく、義務感にも似た使命感。

「何が正しいか」が決まっていれば
そこに自分を当てはめるのは案外難しくない。
しかし素直なこと、真面目なことが歓迎されない世界では、
そうじゃない場面でボロが出ます。

だからと言って、それを刷り込んだ何かを憎んだり
自分に合わない環境を嘆いたり。
それだけでは状況は好転しない。
自分には何が合っているか、何が合わないのか。
それを選ぶことが、大人っていうことなのかもしれない。


   今日も「ぼくみち」を読んでくれてありがとうございます。
   ぼくはヒーローが好きだし、これからもそうだと思う。
   真面目だって言われるけど、不真面目な部分も多い。

「嫌いになるために好きになったんじゃない」
「好きになるために好きになったんだ」

昨日書いたそんなことについて、なるほどそうだよなと
ひとりで納得していかます。
楽しく生きたくて好きになって
我慢できないようなことがあっても、
好きだから大切にしたいと思えるのが好きだ。

ぼくにとって「好き」は大切なエネルギーで
好きなことを好きと言いたいし
好きなことをしている人を応援したい。
それは昔も今も変わっていない。
大人になっても、なくさないでいたい考え方。

だけど不思議なことに、人の好きを素直に喜べない人もいる。
ぼく自身もそうなってしまうことがある。
誰かの好きをdisっているときは、
自分の好きが上手くいっていないときだ。

そんな気持ちに負けない。
自分の好きは自分のもので、誰にも渡さない。
大事な人達の好きを守る。
そんなことを漠然と考えています。


   今日も「ぼくみち」を読んでくれてありがとうございます。
   好き嫌いを、誰かのせいにしない。
   人に惑わされない、自分だけの好き。
   それがあるからこそ、誰かを応援したいと思える。

ブドウ味のジュースやアイスが好きでして。
本物のブドウとはだいぶ違う
紫の着色料の味がするアレでございます。
昔からなーんか好きで、
紫の飲み物食べ物を見ると気になってしまいます。

どうしてかなーと思っていたら、たぶん
子供の頃にその起源がありました。
じーちゃんばーちゃんの家の近くに駄菓子屋があって
そこでいつもアイスを買っていました。

バニラアイスの中に、ブドウの紫のソースが入っているやつ。
それを考えると、いろいろ思い出す。
鬼太郎が好きだったから、ホラーに目覚めたのかな。
笑うせェるすまんがすきだったから、ダークなのが気になるのかな。
アンパンマンが好きだったから、キレイゴトを言うようになったのかな。

もっと遡ったらいろいろあるのかもしれないけど
昔好きだったものは、今でもぼくに影響を与えている。
ずっと好きでいられることって
ものすごくうれしいことだな、と思いつつ。


   今日も「ぼくみち」を読んでくれてありがとうございます。
   そうなんだよな。
   失うのが怖くて手に入れない。別れが怖くて出会わない。
   そんなことが大人の世界にはたくさんあるけれど。
   嫌いになるために好きになったんじゃない。
   好きになりたくて、好きになったはずだ。

久々に、オールナイトで仕事をしてみました。
最近どうにも筆が乗らなかったのですが
夜中、誰もいない時間に集中してみたら、
案外進んでびっくりしてしまった。

だけど、反動がすごかったりするので
あんまり多用はできないかなと思います。
体調崩したら、プラマイゼロになっちゃうし。

天才と呼ばれる人たちは、作業に没頭するタイプが多いらしい。
その時間は人(あるいは自分)に気を遣うよりも
しっかりと自分の目的に突っ走れたりするらしい。

ぼくは結構、他人が気になるみたいで。
いろんな心配ごとが頭の中を駆け巡ると
にっちもさっちもいかなくなってしまう。

集中できるということは、それだけ充実しているということかもしれない。
やっていることに自信と誇りを持って
面倒なことを考えずに集中できる。

そんな時間が、どんどん増えたらいいなと思う。


   今日も「ぼくみち」を読んでくれてありがとうございます。
   この仕事に就いて、まるまる1年になる。
   前に進めているな、と思うときもある。
   なかなか上手くいかないな、と思うときもある。

なんとなく、昔書いた小説を読み返してみたら、そりゃあ面白くて。
これ書いた人すげーな、なんて自画自賛したりして。
こんなに才能に溢れるぼくを埋もれさせてるなんて
世の中はもったいないことするなぁと思いつつ。
よく考えてみると、「自分が読みたかったもの」を書いているのだから
当然と言えば当然なのかもしれない。

他の人が書いたものを読むときも
こりゃあ完敗だ。してやられた。と思うときがある。
料理で言えば、何がすごいかわからないけど
とにかく自分で作ったものよりも、無難で美味い、みたいな。

「お店に並ぶもの」の中でも
高級レストランのフルコースから、
ランチやってる個人店の定食みたいなものもあるけれど。

たぶん多くの人が読んでみて、「良い」と思えるもの。
それはつまり、自己満足ではない作品。
違和感なく、人の心に寄り添える自然な作品。

そんなものができるまで、何度でも作らないとなって。


   今日も「ぼくみち」を読んでくれてありがとうございます。
   このブログは既に自分のために書いているんだけど
   どっかで調整できるのだろうか。
   それとも、何かしらの意味を人に与えているのだろうか。

パソコンに向かって書くのが仕事なので
1日の大半は屋内にいるわけで。
そんなときになんとなく外に出ると、「空気がおいしい」と感じます。

なんだろう。透き通ってる、ってわけじゃない気がする。
花粉症の人は知ってのとおり、花粉的なものが飛んでいるだろうし
そりゃあ道路沿いでは車の排ガスだって埃だって舞ってるだろうし
道行く人の声が聞こえる。いろんな日常の音が聴こえる。

だけどやっぱり、中よりも外が美味しい。

なんだろう。広がっているからかもしれない。
広すぎる世界に放り出されて、守ってくれるものは何もない。
誰かに見られているはずだけど、たぶん誰も気にしていない。
ひとりぼっちだけど、深呼吸したくなる感覚。

森の中でも、街の中でも。
たとえば見知らぬ土地を訪れたときも。
なんだか「におい」が違うのを感じます。
季節によっても、空気のにおいは違う。

それについて、嫌だなぁと感じることは少なくて。
においってなんだろう。
目で見て、耳で聞いて、肌で触れるのとは別に。
言葉にできないものが、身体の中に溶けて入ってくる感じ。


   今日も「ぼくみち」を読んでくれてありがとうございます。
   春の朝。冬の夜。
   雨上がり。落ち葉の森。焼けた砂浜。
   柔軟剤をまぜて洗ってみた、今日の服のにおい。

この歳になって、ようやく音楽ライブに行くことが増えまして。
ライブと言えば、サイリウム(カラフルな棒状のライト)を
がんがん振り回して応援するものです。

水樹奈々のライブに行ったときは、それぞれがマイソードを持参して
思い思いに振り回していた。

と、思ったら去年のクリスマスの日に行った
福山雅治のライブのとき
遠隔操作で一斉に色が変わる、腕時計型のライトが配られました。
会場のライトと合わせて自分たちの色も一斉に変わり、
一糸乱れぬライトアップに、大興奮しました。
これが時代か、と。
自分でポチポチ色を変える、アナログな時代は終わっていくんだな、と。

しかし。ライター仲間に「ももいろクローバーZ」のファンがいるのですが
そういう装置について、評判が良くなかったと聞きました。

装置があれば、自動的に色が統一されて、
自分勝手に色を乱す人もいなければ
手元を見なくていいので、ライブに集中できる。

しかし、御存知の通り、ももクロのメンバーは5色。
自分の好きな色を振るからこそ、5色のグラデーションが作られる。
そのため、ももクロのライブではサイリウムが主流なのだそうです。

それぞれ混ざり合わない、統一されない意思があって、
だけどそれが、新しい色を生み出す。
そんなことの不思議さを、良さを
なんとなく考えてしまいました。


   今日も「ぼくみち」を読んでくれてありがとうございます。
   ももクロのライブDVDを借りて観てみたのですが
   こりゃあすげぇ。正直、ちょっとももクロを嘗めていた。

カフェで仕事をしていると、色んな人が目につきます。

女子ふたりで店に来て、ずっとサークルのメンバーの話をしていたり。
カップルで隣の席に座って、ずっとくっついていたり。
買物帰り老夫婦が、メニューの内容がわからずに困っていたり。
娘ぐらいの歳の差の女性を、男性が必死に口説いていたり。

世の中にはいろんな人がいて、いろんな人生を生きている。
勝手に見えてしまうもの、聞こえてしまうもの。
見なければ見えない、聞かなければ聞けないもの。

ぼくが見なくても、見えないところで世界は動いている。
当たり前のことなんだけど
急に不思議になる。不思議すぎて、ちょっと不安になる。
自然とおなじぐらい、社会は大きくて
ひとりひとりの時間はまったく重ならない。

ここに座っているのはぼくひとりで
ここで文章を書いているのもぼくひとりだ。

だからどうってわけじゃないけれど
たまにイヤホンを外して、喧噪に耳を澄ませてみる。
画面から目を離して、辺りを見渡してみる。

なんだか圧倒されて、恐くなる。
泣いたり笑ったり、それはつまり、自分という人間とおなじぐらい
ゴチャゴチャした世の中で。
見えるところと見えないところ。そのはざまで生きている。


   今日も「ぼくみち」を読んでくれてありがとうございます。
   見えないところに、何かがいるかもしれない。
   振り返ったら、それはもう見えている。
   見えないところが、未来かもしれない。

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