デイリー牧師ノート

上田昌司が、医学やキリスト教について書きます。(新旭キリスト栄光教会牧師、島本キリスト福音教会名誉牧師、医師、医学博士、現在勤務医です。)健康に関する内容の実施についてはご自分の責任でお願いします。          

人をほめる事は、特別な事である。ほめられると人は意欲が湧いて来る。それまとは
違う人になる。成長する。上達する。力を得る。やる気が出る。
新しいエネルギーが湧いて来る。新しい人になる。そういう研究は、まだあまりなされて
いないのが現状だ。僕は80歳を越してから、人を簡単にほめることができるように
なった。それまでは、ほめたらいいことは分かっていたが、何故かほめることが
できなかった。80を過ぎたら、急におしゃべりになった。その勢いで、人を簡単に
ほめることができるようになった。すると身の回りにいろいろなことが起こってきた。
医院の患者さん達に、これまでなかった奇跡的な病気の治療効果が上がるようになった。
特に糖尿病の患者さんでは、この傾向が著しい。まるで奇跡が起こったような治療効果が
見られるようになった。それまでは、僕は糖尿病の治療を苦手としていた。それが、
奇跡的な改善が見られるようになって、僕が最も得意とする病気になったのだ。
ほめるには、わずかな知識が要る。
「す」の付く言葉を多用する。
「すごい」「素晴らしい」「すてき」「するどい」「すき」
こういう言葉が、どれほど人を動かすか。感動させるか。心だけでなく体の状態まで
簡単に変わってしまうのだ。まさに奇跡の世界だ。

老人病と若い人たちの病気の違いは顕著である。
まず「鍛えつつ生きればボケず‣老いぼれず」という標句にあるように、
老人病は基本的に使わないから使えなくなる病気である。鍛えないから弱ってしまう
病気である。最近僕は礼拝でも、気持ちよく歌えなくなった。声が出ないのだ。高い声が
特に出しにくい。やはり歌うことが少なくなって、声が出しにくくなってしまったのだ。
甲状腺機能は正常だが、声帯が伸びてしまって、高い声がすっと出ない。昨夜一人で
50曲ほど歌って鍛えたが、毎日10曲程度歌って、声帯を鍛えたい。今は右の耳も
鍛えているし、鍛えるところが、徐々に増えて来る。加齢とは、老化とは、
当然のことながら、怠け癖が付くことだ。毎日の朝のお勤めのように、日々の予定の中に
組み込んでやるようにしないと、気が向いた時だけやっているようでは、
あちこちに支障が生じる。耳も目も弱って来る。足腰も脳も弱って来る。
声帯も弱って来る。胃腸も弱って来る。
老人病は、使わないから衰える病気で、若い人たちの病気と原理的に異なる。
だから鍛える方法が分かれば、鍛えながら生きれば、治って行く病気である。
「ボケぬ法・会話・音読・歌・楽器」
「ボケぬ法・計算・手書き・読書・筋トレ」
高齢になると、意欲や気力が衰えてくるから、ついつい何もせずに食べて寝ていると、
どこもかしこも弱って来る。寝たきり老人になってしまう。だから介護も鍛える事を
怠ってはならない。耳の鍛え方や目の鍛え方などは、まだ十分に確立されていない。
若者と同じような生活をするということが、大事である。毎日学校へ行くか、会社や
勤務先へ行って、勉強か仕事をする。今のデイサービスがこれである。生涯現役をやって
おれば、デイサービスへ行く必要がない。僕は84歳だが、医師として毎日診察を
しているし、高齢者介護施設へ勤務もしている。午後の時間だが、毎日会話し、頭を使い、
歩き、坂道や階段を上っている。こういう生活を死ぬまで続ければいいわけだ。
これだけやっていても、声が出しにくくなったり、耳が衰えてきたりする。
体の各部位の鍛え方を確立しなくてはならない。それが老人病克服の道である。
老眼鏡をかけたり、補聴器をかけて、はい終わりではいけない。鍛えて治す方法を
確立しなくてはならない。まあ製薬会社は老人病の薬を研究しているだろう。
老人病には原理がある。使わないから衰える。機能低下だ。厳密にいえば、病気ではなく、
機能低下だ。だから鍛えて治すのが原則だ。気力も根性も弱っているから、
どこもかしこも鍛えねばならなくなって、もうお手上げ状態の人も多い。
老人病は、自分で作った病気であり、原則的に鍛えれば治る病気である。
薬で治そうとするのは邪道だ。鍛えるためには、根性が要る。気力が要る。























医者になってあと2年ほどで60年となる。この間、色々な病気を治す努力をしてきた。
医者だから当然のことだけれど、なかなか思うように治らない病気にも出会ってきた。
世の中は、色々なからくりがあって、医者でも知らない世界がある。知識も色々あって、
知っていても言っていい知識と言うべきでない知識もある。世の中は、医学だけで
持っている訳ではない。根本的には、農業が生きるための食物を生産してくれている。
医学的には、正しい知識も、農業を破壊してしまうような知識は、公表しないで、患者に
診察室で1対1の閉鎖空間で伝える事にしている。我々は今人類の歴史の中で最も豊かで
充実した時代に生きている。そういう世界を創り出してきたということだ。
多くの失敗を繰り返しながら、ようやく今のような時代に達することができた。
まだまだ完全ではないが、自分が生まれてから今までの84年間を振り返って見ても、
今が最もいい時代だ。食物が店頭に溢れ、その店も日本中に展開している。
人間は、多くの人が一か所に集まって共に生きる方が、ばらばらに生きるよりも
いい社会を築くことができることを見てきた。それで地形が許せば、できるだけ大きな
町を築こうと努力してきた。僕は京都という町で医学という大事な技術を修めて、
大阪の地方都市で開業した。地方都市は、自分のような個人的な医院を
多く必要としている。一人の医師が地域社会に貢献できるのはせいぜい50年ほどである。
自分は来年で50年だ。この間7年だけ息子がやっていた時期がある。息子は48歳で
癌になって亡くなった。それで僕が77歳で2度目の開業に踏み切った。
70歳で息子に医院を譲って、老人ホームの管理医師になった。二度目の開業に踏み切った
時、老人ホームの管理医師は辞任した。だが経営者の方達のご配慮によって、地元の
町に出来た施設で午後の時間、老人ホーム医としての勤務も復活した。施設医の仕事も
僕の得意とするところであって、ナースと力を合わせて、日本でも稀に見る医学的に
充実した施設を創り出していた。その仕事を投げ出したことに無念さを感じていた。
そう言う僕の心を知ってか、地元に同じ法人の施設を建てて僕を採用してくださった。
それから5年になる。歩いて通勤しながら、勤務してきた。施設も順調に行っている。
僕の医院も、若い医師に週1日助けてもらい、何とか現代医学から落後せずに来ている。












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