前エントリーの続きです。「医療崩壊」の著者として知られる虎の門病院部長の小松秀樹が日刊工業新聞とMRICに書かれている記事です。



●高齢国家

 08年6月に発表された医療経済実態調査で、病院の経営状況が悪化していることが明らかになった。一般病院は全体として医業収入より医業費用が大きい。医業収入に対する医業収支差額の比率は、05年6月の−2.3%から、07年6月には−5.6%になり、マイナス幅が拡大した。公立病院の経営状況は極端に悪い。07年6
月の医業収支差額は−17.4%であり、多くの自治体病院が崩壊していることを裏付ける。これに対し、無床診療所の収支差額(経営者の給与分が含まれる)は、05年6月の+38.2%から07年6月には+35.8%と若干減少しただけで、病院のような厳しい状況にはない。

 日本の高齢化率(65歳以上の高齢者が占める率)は、05年、20.1%になりイタリアを抜いて世界一になった。世界一の高齢国家にも関わらず、日本の医療費は低い。06年の医療費の対国内総生産(GDP)比は、経済協力開発機構(OECD)30カ国中、21位である(図)。これは、社会保険料と租税が低いことによる。国民が選挙で選択したとも解釈できる。国民は、社会保障サービスの不備を言い立てる前に、日本の租税負担がOECDの29カ国中、下から4番目であることを思い起こすべきである。

 日本では、開業医と病院は診療報酬体系が異なる。日本医師会の中医協における長年の政治活動により、診療報酬が開業医に手厚くなった。総額が決められているので、病院の医療費はとりわけ低く抑えられた。

 医療費の継続的抑制は、1983年の「医療費亡国論」がきっかけになったとされる。厚生省保険局長だった吉村仁氏は、社会保険旬報という雑誌に掲載された短い論文で、このまま医療費が増え続けると、租税・社会保障負担が増大し、日本社会の活力が失われると主張した。吉村論文は、世界の認識と切り離された、検証されていない信念に基づいている。


●医療費亡国論

 当時の中曽根政権は、イギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政権とならんで、新自由主義の色彩が強かった。中曽根政権では行財政改革が最大の課題となった。増税なき財政再建が提唱され、政府の支出が抑制された。国鉄、電電公社、専売公社が民営化された。「医療費亡国論」は中曽根政権の大方針に沿った意見であり、時期を限定すれば、妥当性がなかったわけではない。

 問題なのは、「医療費亡国論」が、医療費抑制の一方向だけで構成され、アクセル、ブレーキ、方向転換などの制御機能を内蔵していなかったことである。その後、厚労省は、現実の認識に基づいた制御を怠り、医療崩壊が現実化するまで医療費を削減し続けた。医療現場に、遵守不可能なルールを押し付けることが、医療費抑制を可能にした。厚労省の細かいルールをすべて遵守できている病院はない。厚労省は病院を常に違反状態におくことで、自らの優位を保った。

 この点で、業界の味方として未だに道路が必要だと主張し続けている国土交通省は、厚労省と大きく異なる。私が15年間勤務した山梨医大周辺では、継続的に道路工事が行われていた。現在、新山梨環状道路という高架の高規格道路が開通間近である。その下にも新しい道路が作られた。横には従来の道路が並走している。建築業界は天下りを受け入れてきたが、経済基盤の弱い病院は天下り先になりようがなかった。厚労省の天下り先の多くは、多額の税金が投入されている公益法人である。

 「医療費亡国論」が説得力を持ち続けたさらに大きな理由は、歴史的に慣れ親しんだ善悪論だったことにある。石田梅岩は日本人の心のふるさととも言うべき思想家である。梅岩が説く質素倹約は日本人の心にしみいる。吉村氏は、「医療費の現状を正すためなら、私は鬼にも蛇にもなる」と語ったという。正義の熱血官僚である。当時、開業医が地方の高額所得者番付の上位を占めていた。医療費亡国論には、開業医に対する吉村氏の嫌悪が感じられる。

 吉村氏の姿は、松平定信や水野忠邦に重なる。江戸時代の三大改革のテーマは財政再建であり、質素倹約が唱えられた。先進的な経済政策で近代日本の先駆者とされる田沼意次も、悪として処罰された。医療費が緻密なデータに基づかず、「勘と度胸」で決められていると学者に揶揄されるような状況も、善悪論がまかり通ってきた理由であろう。


●頭のない巨人

 官僚が大所高所から全体を厳密に認識し、正しい判断を下して、それを実行に移す仕組みは存在しない。彼らには大きな方針を変更する権限はない。前例という惰性に流される。省益が判断を拘束する。責任回避が主たる行動原理のようにみえる。それでも日本の政治は政策面で官僚に頼る。独自に情報を集めて、事態を認識し、総合的に判断する本格的なシンクタンクは存在しない。事実上、日本の行政にチェック・アンド・バランスはない。頭のない巨人が迷走しているのが現状である。





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