2010年02月28日
ベーシックインカムの前にやるべき普通のこと
一見喧嘩しているようにも見えるが、生産性を大して高めない労働の価値を見直すべきだという見解は両者とも一致している。ベーシックインカムの実現可能性と実現に向けてのプロセスに相違があるわけだ。
ベーシックインカムが制度として実現可能かと言うと、ただの決めの問題なわけで、可能である。財源も単純化すると二つしかない。所得税の増税か国債の増発だ。
日本の場合、所得税には増税の余地があるし、ユーロ圏の様に財政規律が制度上厳しく制限されているわけでもない(いざとなればゼロ金利赤字国債である政府発行貨幣も可能)ので、強権が発動されればむしろヨーロッパよりも導入は容易にも思える。しかし、日本の財政と、日本人の税に関する考え方の未熟さを考えると、新しい再配分制度に至る思考転換とチェンジマネージメントのステップを飛ばすことはできない。
国債増発や政府発行貨幣による財源の解決について、楽観派は国債が国内で消化されていることを根拠に、破綻はあり得ない、どんどんやれと宣う。(Wikipediaの貨幣発行益の項目書いた奴、アホだろ)永久に自転車操業ができるならば理論的に国家財政は破綻しないが、それは国債ないしは貨幣の引き受け手である銀行、ひいては個人預金があってのことである。貯蓄率の低下が始まっている上に、利息で税収が食いつぶされている現状に目を向ければ愚論であることは明白だし、こんなことを言うケインズ派のバカ学者の言うことには一言も耳を貸してはいけない。
次世代からの「前借り」は、現状がゼロであるならばベーシックインカム導入を前提に検討に値するが、日本にとっては論外である。
増税の場合はどうか。その前に日本人が日々不満をたれている生涯負担について、その感覚が妥当なのかをヨーロッパを例にとって考えてみる。
僕が住んでいるフランスとドイツの税制と社会保障は似通っているので、大雑把に列記するとこうなる。
・消費税は20%弱、食品等の軽減税率で5%強。国家財政の約半分は消費税でまかなわれている。
・消費税は生産者から最終消費者に渡るまで、付加価値が付く毎に課税され、最終消費者以外は徴収した税と支払った税をインボイスで相殺できる。日本も建前はそうだが、タックスインボイスが確立していないため、取りっぱぐれと不公平がある。
・独身の場合、収入の半分は所得税と社会保障費で持って行かれる。日本に比べてかなり重い。
・社会保障は名寄せされた番号で管理されている。税は個人に毎年発行されるステータスカードが課税の根拠になる。
・法人税は日本よりも低い。また、起業家に対する税モラトリアムがある。
・医療と教育は基本的に無料。育児手当も手厚い。
・失業保険と生活保護を組み合わせることにより、長期にわたる失業状態でも生きていける。
・国家財政と医療・年金財政は問題はあるものの、日本より健全。
日本に比べ、個人の負担が大きく、個人に収入をもたらす企業の負担は軽いことがわかる。
ドイツの政権与党(しかも最近選挙が行われた)が打ち出した所得税減税政策に対して、ドイツ国民の大多数はなんと反対している。この減税は決して金持ち優遇というわけでもなく、一般の給与労働者への恩恵が高いにもかかわらずである。個人の税負担減よりも、財政赤字が拡大して社会が回らなくなってしまうことを危惧しているのである。この想像力と、自分たちの力で国を動かし、制御しているという成熟した社会感覚は、一朝一夕には真似できないにせよ、日本人は見習うべきである。
制度も民度も、ここまでできていているヨーロッパが、ベーシックインカムを導入できないという現実を軽く見るべきではない。
公平性の高い消費税の増税と制度のスリム化、徴税コストの全般の削減を行うこと、これはベーシックインカムを導入する前に来る「普通」になるための施策である。これを行った上で再配分の指向をウェイト型からフラット型へ梶を切るのがベーシックインカムであり、所得税の増税を財源に給付額が決定されるというプロセスである。
従って税負担増をハナから頭に入れていない堀江氏の論拠は貧弱といわざるを得ない。
僕は両氏ともに好きなので、無駄な嬲り合いはやめて欲しい。
2010年01月26日
日本人の歪んだ正義と倫理観
脳死臓器移植において、親族を優先できるという世界をどう見渡してもあり得ないシステムを構築してしまったわけである。あきれるのは、それを問題視する論評がほとんどなされないことと、親族を優先することがあたかも美徳であるかのごとく考える日本人の精神構造である。
僕は、脳死臓器移植に明確に反対する立場であるが、今回の河野太郎の独善的な思いこみによって主導されたいわゆるA案の採用は、日本の社会成熟度にも現行の臓器移植ネットワークのシステムにも全く適合性がないばかりか、臓器売買も助長しかねない極めて危険な法案である。
そして、国会でまともに審議すらされなかった「親族優先」という運用が、後からガイドラインという形で定義付けされていくという、この国が法治国家であることすら踏み外した暴挙である。
なぜ親族優先がそこまで問題なのか。理由を列挙する。
- 移植医療は待機患者順列の公平性が前提で初めて成立する。
- ドナーとレシピエントの匿名性は、臓器売買を阻止する最後の壁である。
- 確保した臓器の迅速かつ的確な配達が阻害される。
- そもそも人間が「脳死状態」になる確率は極めて低い上に、そのタイミングで親族が移植臓器を必要としているという確率はもっと低い。
- そのゼロに近い偶然を作り出すためのストーリー作りが正当化される。
- 脳死状態を確保するために、終末医療患者がICUを使う可能性が発生する。
- もともと曖昧な判定行為に、恣意を挟む隙を与える。
- 虐待か否か、自殺か否かの判定をする仕組みがない。
- 臓器移植ネットワークのコーディネーターへ、確保件数に応じたインセンティブ(スペインなどでうまくいっている仕組み)を付加することが、倫理的に難しくなる。
物事をむやみに複雑にし、かつ悪用される可能性をはらんだ運用をわざわざ付加するのは、日本人の歪んだ正義に迎合するためか?それは政治が制止すべきことである。
臓器移植は私的なものでなく、公的なシステムでなければならないという常識が通用しない日本人独特の倫理観と、それを利用して己の名誉欲を満たそうとした医者が、和田心臓移植を生んだのである。
こんなことをやっていては何度も同じ過ちを繰り返すし、移植医療そのものも、欧米諸国からさらに後れをとることになるだろう。
2009年09月29日
世界はまともな方へ動き出している
Zopeジャンキー日記のエントリ(Zope目的で購読しているが、筆者のリバタリアン志向はやや幼稚な印象を受ける)で、FDPがリバタリアン政党であるとの表記があるが、誤りである。ドイツのリバタリアン政党は緑の党であり、右派リバタリアンを標榜するFDPは言ってみれば公明党のような政党で、右でも左でも見境なく連立を組み、政権参加したがるポピュリズム政党にすぎない。
現に、SPDのシュミット政権時代、前政権から10年におよぶ連立を非常にくだらない理由で裏切り、CDUのコール政権を誕生させた。
しかし、FDPには一人優秀な人材がいる。党首ギド・ヴェスターヴェレである。おそらく彼はヨーロッパの政治家の中で最もメッセージング技術に長けたリーダーである。そして当然CDUのメルケルはドイツ国民から愛されている。SPDのミュンテフェーリングの覇気のなさをみれば、自ずと国民の政権選択肢は決まってくるのである。
この流れは、なにもドイツに限ったことではない。サルコジに対するロワイヤル、オバマに対するマケイン(ペイリン)、鳩山に対する麻生、どこの国でもバカは選ばれていない。
僕の周りのフランス人で、サルコジを好きだという人に一人も出会ったことがない。彼が大統領でいられるのは、ロワイヤルがキチガイすぎるのと、フランスで最も人気のある政治家、社会党ベルナール・クシュネルを一本釣りで入閣させることを選挙前から示唆していたことが大きい。
おそらく、一人で何もできないイギリスのブラウンは、イケメンのデビッド・キャメロン率いる保守党に次の選挙で大敗するだろう。
そうなると、ヨーロッパはすべて右派政権になるので、日本の単細胞評論家はこぞって「ヨーロッパの右傾化」と言い出すだろう。
いいえ、ちがいます。
ただ単に国民がまともな人間のいる政権を選んでいるだけで、それがたまたま全部右だったということに過ぎない。ちなみに、ヨーロッパの中道右派政党は、すべて日本共産党よりも左である。
おおむね出そろってきている各国の新政権(ロシアも含む)は、想像以上に良心に基づいた高尚な目標と、その実現に向けたステップの確かさを持っていると思う。
CO2の25%削減、核兵器なき世界、大いに結構。
根拠の薄い現実主義に毒され、どうせできないというニヒルな態度よりも、世界は変えられるという信念で動く政治が今必要とされているのである。
2009年08月22日
ハト派を失う自民党の進む道
日本以外の先進国は、再配分の度合いで右と左が分かれ、政党の選択肢がある。自由と平等のどちらに重心を置くかである。
日本の場合、この括り方よりも寧ろタカかハトかの軸で分かれており、宗教団体をはじめとする圧力団体が複雑に絡んでいて、集票組織の外側にいる有権者の政治的な志向に対応する明確な選択肢がない。
自由とタカ、平等とハトは連動することが多いので、そのナナメのマトリクスで綺麗に二大政党が出来るのがいいのだが、日本には純然たる自由主義政党が今まで存在しなかった。
全ての政党は再配分を主張し、その先が財界・農民に行くのか、給与労働者に行くのかによって政党が成立していた。ひどいのは、再配分の色が強い北欧やフランスやドイツが、消費税をはじめとする世代を問わない徴収で財源を確保しているのに対して、日本の場合、財源は赤字国債、つまり将来の世代の労働力を担保に再配分を行っていることである。
一方、今回の選挙では古賀誠が何とか残れるかというくらいで、自民党ハト派の多くは消滅するだろう。みんなの党(僕はこのネーミングが大好きだ)という微妙な受け皿があるので、早く移れば良かったのだろうが、支持団体的にもタイミング的にも難しかっただろう。
この集団は、後藤田正純、野中広務、宮沢喜一など、なんともいやらしい政治家が多いが、自民党長期独裁政権が50年も続く中、ある意味、日本の平和は彼らの日米同盟支持・海外派兵反対のフックによって守られてて来たのではないかと思う。
民主党は前原誠司や松原仁など、松下政経塾出身のタカ派を粛正して、死に体の自民党に合流させるといいだろう。今回アタマ数的にはその辺を切っても足りるくらい議席を伸ばすだろうし、どうせ残しておいても爆弾になるだけだ。特に松原仁は、僕が住んでいた東京第3区選出(比例復活しているが)で、平等・ハト派に軸足を置く僕にとって全く選択肢が示されなかった嫌な経験がある。
また、消費税をとっとと20%に引き上げ、欧州型社会主義系政党へ移行すべきだ。
タカ派を集結させ、自由主義を明確に打ち出し、公明党を切り捨てた自民党は、恐らくそれなりの支持を集めるのではないかと思うが、如何だろう。
2009年05月31日
不況下のヨーロッパの実際

日本の経済評をWebを通して読んでいる限り、「ヨーロッパは日本よりもひどい」「失業問題が深刻」など、日本はまだマシ的な記事が多いのだが、誤謬があると思う。実際の景況感はフランスにいる限り、一年前とさほど変わったと感じることはない。
失業問題はもう数十年来の問題だし、特にフランスにおいては、もう問題とも思われていない感すらある。ドイツでも、金融の街フランクフルトをのぞいて、国民生活に大きな影響が出ているような光景は目にしない。
いっちょ噛みの経済評論家が、「輸出に依存していたドイツは、この不況で燦々たる状況」などと嘯いているが、ドイツにとっての「輸出」とはなんぞや、ということが解っていない。
ドイツの最大の輸出相手はフランスであり、フランスの最大の輸出相手はドイツなのである。EUの域内貿易が半分以上を占めている貿易国と、アメリカと中国への依存が強い日本とを同列に考えてはいけない。しかもドイツは、すでに消費が回復し始めているポーランドをはじめとする東欧諸国への貯金が多い(銀行でなく、工場と人材教育)。
フランスの調子が相対的にいいのは、
- アメリカへの輸出額がもともと少なかったこと(フランスの自動車はアメリカで売られていない)
- 金融規制が強かったこと(フランスの銀行の大半はこのご時世でも黒字である)
- 労働者保護のコミットメントを外資系企業にも強いていたこと(ソニーやキャタピラーの首切りが他国ほど思うようにいかない)
- 内需および域内消費を志向した産業構造を作り上げていたこと(原子力エネルギー、農産物、薬品、消費者保険など)
が挙げられる。
なによりも、金融バブルに浮かれていなかった(激しい住宅バブルは起きなかった)締めるところは締める国民性が、落差を緩和している。
イギリスは問題だ。
ロンドンの郊外のホームセンターは、住宅バブルの崩壊で軒並み倒産。倒産セールをするも、客は来ない。道端に停まっている高級車には、For saleの張り紙が目立つ。金融以外の産業を切り捨てていったこの国に、明るい未来はそうそうやってこないだろうという空気がある。輸出産業が皆無なだけに、ポンド安もインフレ要因にはなれ、なんの恩恵も生まない。
フランス流社会主義は長いことバカにされ続けてきたが、レッセ・フェールをもう一度と意気込んでいたサルコジのトーンダウンと結果オーライをみるにつけ、民主主義における友愛の要素を再認識する今日この頃である。
2009年04月21日
林真須美は無罪放免されるべきである
次の選挙では、この男を罷免すべきだな。
「やっていない」と主張している被告に対して、反省を求めるという結果ありきの審理。司法というのはなんたるものか小学生の社会科からやり直した方がいい。
この裁判の問題は、状況証拠のみで死刑判決を出してしまった、おおよそ近代国家の裁判とは思えない判例を残してしまった点である。
例え林真須美が極悪人で本当にやっていたとしても、証拠の積み重ねで事実を明らかにする過程を経ずに死刑するくらいなら、放免した方がよっぽどマシなのである。それが推定無罪の原則というものだ。
なにか、日本は本当に恐ろしい方向に向かっている気がする。ホントに、日本人と中国人は死刑が好きだなぁ。
2009年04月16日
その後、イッタイどうするのか?
2005年後半から2007年後半にかけて空前の利益を上げた日本の自動車産業は、このまま永遠に消費拡大が続くと思ったのか、巨額の設備投資を行ってきた。2007年に至っては4兆円の経常利益に対して3.2兆円の設備投資額である。設備投資額については新規固定資産で算出しているので、一部ソフトウェア資産等も勘定されるが、そのカネを研究開発、従業員(工員)の給与、株の配当に廻していたらこんな悲惨な状況はそこそこ回避できたのではないかと思う。
定額給付も、地デジや環境対応車補助金も、政府発行紙幣も、やった後でイッタイどうするのかを考えた方がいい。いずれもただの覚醒剤である。
エネルギーを前借りして目の前の仕事を片付けるのはいいが、その後、量を増やして打ち続けるか、禁断症状に震えるかのいずれかしかない。延々と増発され続ける赤字国債を見れば解るように、日本は適量をコントロールして楽しめるスマートユーザーではない。
こと政府発行紙幣については、実質、日銀を回避したゼロ金利赤字国債に他ならない。過剰設備が不況の根底にあるので、100兆円くらい発行してばらまいたとしてもそうそうインフレにはならないだろう。だがその多くは将来不安から貯蓄に回り、円と国債の信頼度を削るだけに終わる。一回ならまだいいが、どうせ一回やったら二回も同じと、何度もやるだろう。
通貨というのは、基本的に国有資産と徴税権を担保にしたボンドである。狡いのは、債権者が現世代で債務者が次世代であること、そして相互理解もないまま一方的に貸借契約が強制されていることだ。
成毛氏は「次世代に赤字国債というツケをまわすか、壊滅した経済を残すか、」というが、どっちにするか次世代に問うならいいが、勝手にオトナが前者が良かろうとするのは納得がいかない。ワカモノとコドモ達は、早く円を捨てて海外に出られるよう準備をするべきだ。壊滅した経済で苦しむのはオトナだけでよい。
というか、量的緩和を中心とした金融政策以外に、諸外国に比べて長い設備の減価償却期間を短くするような会計法規改正や、リース契約規制の緩和など、予算も無しに明日からでも出来る景気対策はたくさんあるのに、やろうともしない東大クンらは何なんだろう。あと、ドイツの財政規律に文句を垂れるションベンタレ。フランスじゃ、本気で笑われれるよ。
2009年04月08日
伊藤園がひどい商品を出している件
2009年03月21日
全日空の労組はもっと本気出せ
ライブドアのトップページに出てくるテーマブログ。今日は全日空のストについて。総じて、利用者に迷惑かけんな、くそが。的な論調である。本当に低脳にも程があるというか、なぜ日本ではスト権についての理解が進まないのだろうか。
僕的には、このスト、気合いが足りなすぎると感じる。時限ストであり、出口を探ると言うよりも、出口が決まっている中で儀式的にやりましたというのが見え見えだからだ。
やるならば、無期限で、ゴールデンウィークまで視野に入れた減便をカードとして持っておくべきだ。
フランスでは、ご存じの通りよくストが起こる。そしてたまに、企業や国が潰れるような洒落にならないゼネストなんかもあったりする。主体は公務員や国営企業(国鉄、エールフランスなど)の労働組合で、理由の多くは既得権を守るためのあまり褒められたものではないのだが、逆に言うとストが出来る身分の人達が正面を切ってストをやるから、概ねストの支持率は高い。あまりむちゃくちゃな理由でストをやると、今度はストに反対するストが発生するという、もうワケのわからない状態になったりもする。
ワールドカップやカンヌ映画祭期間中にストやっちゃったりと、とにかく顰蹙ものなのだが、しかし考えても見て欲しい。資本主義国において、人口構成のほとんどはプロレタリア(自分の労働力を資本家に売るしか生活手段がない人々)なわけで、ゼネストというのは労働者が奴隷化されないための手段なのである。
2005年前後の景気回復期に、莫大な内部留保を抱えていたトヨタやキヤノンの労組は、適切な分配を主張しただろうか? そして今になってゼロ回答をハイそうですか、仕方ないですね、このご時世ですし、といってストもなしにあっさり受け入れるのが美徳なのか?
そして搭乗者でもないのにこの全日空のストに「迷惑だ」とか「こんな時期に」とか言い出す人々。確かに迷惑千万に間違いないし、その場にいた搭乗者なら声を大にして、くそが、と言っていいだろう。しかし、「いやなら辞めればいい」とかストの権利自体を否定するのは民度が低すぎると言わざるを得ない。ヴォルテールの書簡集でも読んだ方がいい。
労使は協力しながらも、常に緊張関係を保っていなければならない。黙って働け、的な権利の主体性を持たない労働形態では、インドや中国に勝てるわけがない。必要なのは、生活の質を最大化する為の労使双方の知恵である。
2009年03月05日
東京中央郵便局を文化財なんて言う人には呆れる
また、建築学者や政治家が妙なロビー活動までやり出す始末。河村たかし、結構好きなんだけどな。。
あの建物、はっきり言ってかび臭いの一言である。シンプルなモダニズム建築だとか、聞いて呆れる。石造りならば、100年経ってなんぼだろう。僕が住んでいる家は築200年だ。
まぁ、隣の赤煉瓦駅舎(あれもアムステルダム中央駅の劣化コピーだが)のレプリカ的保存は観光資源としてわからんでも無いが。
ヨーロッパには似たような建物が文字通り腐るほどあるが、たいてい内装はリノベーションがされていて、外見からは想像が付かないような近代的なオフィスだったりする。内装もそのままに、下品な超絶長距離カウンターとテーブルを並べたあの郵便局は、言ってみれば日本の勘違いの代表作である。
大成建設がやろうとしている、外壁の一部を保存するやり方は、特に通りに面する景観の規制が厳しいブリュッセルでよく使われる手法で、外皮一枚残して鉄骨で補強し、その裏で工事をやっている現場を目にする。極めて妥当なやり方だろう。
三流文化人や建築家は、もっと世界を見た方がいい。そのうち安藤忠雄の下品な打ちっ放しコンクリート建築まで、文化財とか言い出すんだろうな。
2009年02月18日
なぜそんなに大麻を目の敵にするのか?
「レイブ」で大麻吸引、山梨県臨時職員を懲戒免職
この人、日本の法律には何一つ触れていない。大麻を正規の手続きを経ずに所持することは違法だが、大麻の吸引は合法である。
恐ろしいのは、違法な尿検査を警察が行い、結果を職場に伝えているという点である。現行法で逮捕が不可能だから、行政の裁量で社会的制裁を与えるという一線を越えた行為である。人権派弁護士や団体はしっかりサポートしろ。
なぜ、大麻をそうまで目の敵にするのか?別に大麻に害があるか無いかというくだらない議論はどうでも良くて、取り締まり方法と組織に問題がある。
財団法人麻薬・覚せい剤乱用防止センター(「ダメ、ゼッタイ」で有名)という、厚生労働省と警察庁の天下り受け入れ先団体が、密告を奨励し、勝手な法解釈といい加減な調査で違法な取り締まりをバックアップしている。この団体、大麻合法化団体の情報公開請求で、調査をせずに文章を書いていたことがばれている。「調査」に使われたカネが、誰の懐に入っているのか、まったくアホらしくてやってられない。
ちょっと前、ロシアの力士が大麻で追放されたニュースがフランスでおもしろおかしく取り上げられていた。外国人力士が強すぎるから、馬鹿げた方法で排除しているという文脈である。
フランスは大麻についてはわりと保守的な政策を採っているのだが(恐らく近いうちに非犯罪化されるのは確実だろうが)、それでもフランス人の感覚からすると、日本人の大麻に対する過敏さは全く理解できない。
もともと日本人と大麻の付き合いは長く、神事には欠かせない植物である。例えば横綱の化粧まわしは今でも大麻で出来ている。シャーマニズムやアニミズムを文化の根底に据える日本において、これを戦後に規制し、国民の大麻に対する憎悪にも似た感覚を植え付けた占領政策には吃驚する。
僕自身、大麻は好きだが、高い税金をかけるなり、需要を抑制する必要はあると思う。体の害と言うよりも、簡単に言うと「だらしなくなる」からだ。しかし、リクリエーションとしてはアルコールよりも遙かに優秀な嗜好品である。大麻を吸わないで音楽を聴いたって、それは音楽の半分も聞いていないし、大麻無しで19世紀以降の芸術(特にモンパルナス・コミューン出身の画家達)が生まれたとは思えない。
2009年02月11日
通信社のニュースを劣化させる新聞の記事
http://www.47news.jp/CN/200902/CN2009021001000110.html
http://www.asahi.com/international/update/0210/TKY200902100041.html
この事件ほどメディアの取材能力の差が見えてしまったケースも珍しいのではないか。朝日はちょっと複雑な殺人事件を疑わせる社会部ネタにしてしまった。果たして、そんなに簡単な事件だったのかは47ニュースを読んでみると判るはずだ。
47newsは、共同通信のニュースを配信しているだけである。一方、朝日新聞は「海外駐在員」が、「取材」して「記事」を書いている。
このニュースは当然フランスでも大きく取り上げられていて、十数年に及ぶイタリアを二分する論争を巻き起こした物語のクライマックスである。
新聞の役割とは何だろうか。僕は、ニュースの適切な取捨選択と論評だと考えている。しかし現状において、この事件に限らず、新聞の海外配信のニュースの「記事(Articles)」は、通信社の原文を確実に劣化させて掲載している。
では、このニュースに関して、僕が新聞記者だったら、同じくらいの字数でどう書くか例示してみよう。
延命停止のイタリア人女性死亡 「死ぬ権利」さらなる議論へ
交通事故による脳の損傷で17年間昏睡状態にあったイタリア人女性、エルアナ・エングラロさん(38)が、延命措置の中止後、昨晩入院先で死亡した。死亡によって、国会は医師に対してエルアナさんの延命措置を回復するよう先日動議提出された法案の審議を継続するか議論している。
ベルルスコーニ首相は、法案に先だって閣議決定された同様の内容の政令に署名しなかった、左派民主党のナポリターノ大統領を非難し、「彼女は殺された」と語気を強めた。
一方、民主党で、安楽死支持派の上院議員パドゥーカ氏は、「エルアナさんの死は最高裁判決によって勝ち取られた権利であり、彼女と父親が心から望んだ結果である」とし、「父親は法的根拠を得るために、正当な手続きを踏んで14年間法廷で闘った」と、92年に親友の死に立ち会った際に、エルアナさんが家族に語った延命治療に関する遺志の正当性を訴えると同時に、ベルルスコーニ政権が法王庁と市民感情に便乗して、4年前から安楽死の罰則強化に乗り出した動きを強く非難した。
エルアナさんのケースを巡っては政党を超えて賛否が分かれ、個別の事案に対して態度を明確に示さない法王庁の意志の解釈についても、長期にわたって国論を二分する議論が続いている。
バチカンのロザノバラガン保険相は、「主は彼女を天国に快く迎え、彼女をそこに送った人々を赦すだろう」とコメントしている。
朝日新聞に載っているロザノバラガン氏のコメントでは、非常に硬直的なバチカンが印象づけられるが、政治的な介入を自重する法王庁はもっと複雑である。こういった一方の主張のみを裏付けるような発言の切り出し方はいただけない。まぁ、朝日新聞らしいといえばそれまでだが。
この南島信也という朝日のヨーロッパ駐在員は、検索するとどうやら小泉政権のぶら下がりで、誤報を打った人物のようだ。左遷なのか栄転なのかよくわからんが、今頃こっちで遊んでいるのだろう。
間違いなくイタリア語をはじめとする大陸ヨーロッパの言語は話せないだろうし、英語も怪しいのではないかと邪推する。ほとんど事務所に引きこもってロイター配信を秘書に翻訳させて、築地に送っていることが容易に想像が付く。新聞社の海外駐在員というのは、会社にとっても株主にとっても購読者にとっても社会にとっても、百害あって一利無しである。
論評は、僕のような物好きがするべきで、読者は複数の視点からのそういった論評を読めばいいのである。
論評が期待できないとなると、あとはニュースの取捨選択と集約(アグリゲーション)なのだが、新聞のこの機能に至っては、すでに死滅している。
ロイターのサイトをRSSで受信し、自分フィルターをかければ、お節介でバイアスのかかった新聞のフィルターよりも確実に新鮮、公平で漏れのないニュースが受信できる。
本当に、新聞屋は童貞ばっかりでおわっとる。
2009年01月17日
脳死の誤解と問題
皆さんは脳死状態と植物状態の違いが何であるか、明確に説明できるだろうか。僕は脳死患者からの臓器移植には反対の立場である。
もちろん、脳死患者から臓器提供を受けて現在生きている人達が大勢いるので、発言は慎重にしなければならないとは心得ているが、脳死に対する理解がほとんどなされていないことに危惧を覚えるのである。
脳死の真実と、その問題点を列記する。
- 脳死は1950年代以降、ICUの中でのみ発生するようになった、極めて人工的なバイタルである。
脳死臓器移植を推進する人々は、あたかも脳死は昔からあったのだが、最近そういう死があると「発見」されたかのような主張をし、メディアもほぼ検証無しにその主張を垂れ流しているが、誤りである。
脳死はICUの様なバイタルが制御できる設備がない限りは発生しない。「交通事故で脳死」というのは、その患者が救急救命センターのICUに入ることによって起こる。そういう技術がなかった時代には、あり得なかった状態であり、「開発」された死である。
- 脳死判定の目的は、臓器移植と無関係でいられない。
脳死の判定というのは、かなり積極的に判定行為を行う必要がある。
わざわざそれを行う理由は、ターミナルケアに伴う問題(死亡時刻の条件が絡む財産分与や賠償に、レスピレータをはずすまでの時間的な恣意が入るのを避ける)が大きいとされるが、臓器移植の可能性を考慮しない脳死判定というのは存在しない。
もっと大胆に言うと、脳死はそもそも心臓移植を可能にするために考え出された。
- 社会成熟度の問題。
和田心臓移植事件の和田寿郎は、「善意の提供者、患者、医者が同意した、みんな幸せになった。それを止める理由はない」という旨の発言を残している。これは一見真っ当そうな論理だが、一秒考えればおかしいとわかる。しかし、これに似たような主張をする人々は後を絶たない。
善意というのは客観的に判断されなければならない。それがたった三者の閉鎖的な環境でなされることは極めて危険である。提供者が弱い立場にある場合はその環境以外の力が介入しない限り、医者と患者の思うがままになる。
フランスをはじめとする欧州各国が、本人が拒否意志を示さない限り脳死臓器移植を可とする推定同意を採用していることを引き合いに、日本もそうするべきだという人もいるが、医療制度の公平性が高度に実現されている社会(公権力の介入度合いが高い)と、カネによって処置が変わる日本とを同列に考えてはいけない。和田のような人間を生む医療制度と、社会成熟度こそが問題なのである。
- どうしても臓器を手に入れたい人の葛藤。
例えば自分の娘が心臓移植でしか助からず、合法的なドナーが見つかる可能性も極めて低い場合、僕はいかなる手段を使ってでも臓器を手に入れようとするだろう。それは人間として当然である。
臓器は、常に供給が足りない。ICUが日本に1000設備ほどしか無いことからもわかるように、ドナーカード保持者が増えたとしても、提供者が劇的に増えると言うことはあり得ない。「どうしても臓器を手に入れたい人」がいるから、臓器摘出目的の幼児誘拐や殺人が世界で横行しているのである。だれでも「どうしても臓器を手に入れたい人」になり得るし、そういう人を責めることも難しい。
これをある程度でも制御できる強制力と、国民の倫理が必要なのである。脳死臓器移植という大して効果のない供給側の問題解決よりも、需要側の抑制が先であり、それに着手せずに需給双方が増長してドライブするのは、悪夢としか言いようがない。
若干のバイアスはあるが、この本には脳死が移植医療の歴史と共にあることを整然と書いてある。
ドナーカードのどこに印を入れるかは、角膜などの心臓停止後の提供と、脳死状態の多臓器提供は根本的に違う行為だということを自分で調べ、考えてからにしたほうがいい。
2009年01月08日
置き去りにされた友愛と、責任の取れない自己責任
マルセイユのような超ハードなバンリューの事情は知り得ないが、少なくともここに集まってきている人達は幸せそうだ。温かいワインを飲み、美味そうなスープとパンをほおばりながら、みんな笑顔だ。
T���l���thonという日本の24時間テレビに似たイベントがある。今年の募金額はなんと9500万ユーロ以上。120億円を超える。関連のチャリティーを入れると、その倍以上だそうだ。僕は友人家族と幼稚園で屋台をやったのだが、材料費などは全て精算されるため、この額は純益である。日テレが芸能人にギャラを支払って10億円をなんとか集めるのに必死なのとは雲泥の差がある。(僕はそれでもやるべきだと思うが)
そして驚くべきことに、このイベントの毎年の募金額は消費者信頼感指数に反比例する。
Libert���, ���galit���, Fraternit��院兵�由、平等、友愛)。民主主義を発明したフランスは、国民の一人一人がその原則を理解し、何らかの形で実践している。貴族を次々とギロチンに架けていったこの国は、民主主義、ひいては社会主義の本質を、紙の上でなく体験として知っているのだ。
フランスの失業率を取り上げて、したり顔で「こうなってもいいのか」という浅はかな論調を張る人は多いが、上からも下からも手厚いセーフティーネットがあるフランスの失業率と、日本やアメリカの失業率を比較すること自体、無意味である。日雇い派遣で働くくらいならば、働かない方が美徳なのだ。フランス人は失業状態を何とも思わないし、失業者を煙たがる風潮も一切無い。
フランス国民は自由競争を進めるサルコジを選び、古いフランスとの決別を始めた、というのも激しく間違っている。サルコジは、わかりやすく言うと志位和夫よりも左である。
フランスの社会はそんな建前にもかかわらず、ずっと不平等であるのだが、少なくとも日本で言うような格差社会ではない。
持てる者は、一人で金持ちやってるよりも、再配分して底辺を底上げした方が自分も幸せだと本気で思っている。
出自や運など、自分の力でどうにもならないことは、政府と社会がどうにかするしかないと、政治家も国民も本気で思っている。無責任に自己責任を叫ぶどこぞの国の人々のマインドとは違う。
僕は就職超氷河期世代である。そこそこの大学を出てもろくな職にありつけない、または職すらない状況で、いまでもゴミクズのような人生を歩んでいる同世代を数多く知っている。
さらに、都市化と郊外化の過程で、多くの若者は帰る場所を失っている。団塊世代前後の輩は、「うちらの頃はもっと貧しかった」的なことを平気で口走って、あたかも自分らが一番苦労してきたんだと勘違いしているが、帰る場所があったあんたらの頃とは違うのよ。
時代が進むにつれて、人の生活は地域や家族から個人に分解していく。その先にリバタリアニズムを見るのは結構だが、分解の進行に従って国や社会が個人を包摂しないことには、人間らしい生活というものは失われる。
右やら左やらの綱引き以前に、民主主義の重大な要素である友愛を置き去りにしたのが、アメリカと日本なのである。
- ブログネタ:
- 日本の労働者は皆不幸せ? に参加中!
2008年12月24日
腕時計の水平分業
自動車産業におけるトヨタの生産方式というのは、系列に延々と続く労働搾取に立脚していて、氏の言う今日までの栄光がただのまぐれだったというのには、全面的に同意する。
ただ、スイス時計の下りである。あまりにもイメージ先行で殴り書きしているので、正しておきたい。
現在、スイスおよびヨーロッパブランドの時計のほとんどは、ムーブメントを、ブレゲやオメガなどのブランドを擁するスウォッチグループのETAから供給を受けている。いわば腕時計界のインテルであって、その体制はPCの歴史よりも遙かに古い。
ムーブメントから一貫生産するブランドを保有するマニファクチュールといわれるロレックスやパテク・フィリプでさえ、IBMやHPが自社CPUと同時にインテルCPUを使うのと同じく、ETAとゼニスの外部供給を古くから受けている。ましてヒゲゼンマイに至っては、事実上、ニヴァロックス(これもスウォッチグループ)の一社供給である。
はっきり言って、垂直統合型で腕時計を作っているのは、世界でSEIKOただ一社だけだ。(だから聚落したといえるが)
クオーツショック後、スイスの機械時計が復権できたのも、LVMHやリシュモンと言ったラグジュアリーコングロマリットが、ブランドの力と優れたデザインで製品を投入し、それを低コストかつ迅速に生産流通させる水平分業のインフラが支えていたからである。SEIKOとは、サイクルに根本的なスピードの差があるわけだ。
自動車生産の黎明期、フォードは鉄鋼も作っていたわけで、モジュール化と分業化の流れは必然である。トヨタ方式は、有り体に言えば分業化する部品会社を系列で縛って利益を吸い上げるだけの話で、Dellのようなプレイヤーが現れるならば、インテルよろしく、体力と政治力を付けたデンソーはあっさりと供給を開始するだろう。
企業における基幹技術と特許戦略、生産力というのは「会社の都合」でしかなく、コンシューマーに対峙する際の競争力は、最終的に、ブランドとビジネスモデルの二つに集約されていき、現に腕時計の世界では、もう20年以上前からそういう会社が収益を伸ばし続けているのである。
2008年12月21日
ジョン・マケイン 大統領選挙敗北宣言演説 全話字幕
このブーイングが、共和党支持層が自分ちホルホル厨に聚落したことを如実に表しているし、こんな輩の相手をしながら選挙戦を戦わざるを得なかったマケインは、あまりにも不運だ。
この敗北宣言演説で、2年間で初めて彼の心からの声を聞いた気がする。愛国心というのは、こういうことである。
2008年12月16日
アングロサクソンモデルの終わりに

ゲーテを生んだ歴史ある街だが、大戦後の再建はアメリカとユダヤ資本が手がけ、金融都市としての機能を一手に担ってきた。領邦を母体とするドイツの各都市圏は、名だたる自動車会社や重電が分散して本社を構え、なんらか物を生産していているのだが、フランクフルトだけは例外だ。
こうもあからさまに街を歩く人の数が減ると、この街の数十年が、いかに虚影だったのかを見せつけられる。
今年の頭からカネがないのと、信用収縮を嫌気して投機から遠ざかっていたのだが、カネを持っていたらこの数ヶ月で破滅してた。投資によって利益を得られる時代は二度と戻らないだろうし、筋違いなデリバティブ元凶論によって市場規模も萎縮するので投機のチャンスも減るだろう。
金融の崩壊は、アングロサクソン型資本主義がいかに根拠に乏しい資本と与信によって成立していた未熟なシステムであったことを物語る。
カネは言語であって、手ではない。生産のない国は元々生き残れないはずだ。
マルクスが定義した「生産手段が少数の資本家に集中し、一方で自分の労働力を売るしか生活手段がない多数の労働者が存在する生産様式」を地でいっていたのは他ならぬアメリカなわけで、資本家を野放しにして小さな政府という幻想を追求した結果が、自国民の雇用の維持を難しくし、消費者が付加価値の高い生産品に価値や愛着を見いだせないマインドに陥れたのである。
僕がニュージーランド(アングロサクソン国家ではあるが、社会の仕組みは大きく違う)に住んでいた97年から98年、90年代初頭の国家改造の総括が、国民一人一人の意識の中で行われていた。
民間銀行は一つをのぞき全て外国資本に買収され、公務員の数は本当に1/3になった(日本のように外郭化ではなく、事業売却と解雇である)。土地をのぞく物の値段が極端に下がり、失業率は跳ね上がった。
そんな中でニュージーランド人が至った結論は、
"Keep your country working."
だ。

ハイアールのディッシュウォッシャーが全く同じ中国産製品が半額で買えるのに、国内OEM生産品が売れるという現実を目の当たりにしたとき、日本人にこのマネが出来るだろうかと考えた。
自分の消費行動が、最終的に自分に跳ね返ってくると言う想像力は、日本では現実からの距離感がありすぎて掻き立てられにくい。しかしアングロサクソンモデルの終わりに、馬鹿げた似非愛国のポーズではなく成熟した社会観を身につけ、育てていかなければならないのである。
2008年12月07日
国籍はなんぼのものか
国籍というのは手続き上の形式であって、アイデンティティーや帰属意識というのは本人の気持ちの問題だ。
改正国籍法に反対している人というのは、ちょっと日本国籍を買いかぶりすぎだと思う。
国籍は、権利の側面よりも義務の側面が大きい。兵役と納税だ。ただ、多くの先進国で徴兵制は廃止されているし、アメリカ以外の国は、非居住者に所得税や住民税が課されることはない。
権利の側面をみたとき、モナコや中東諸国のような保有者に実弾の利益がもたらされる所、EUやコモンウェルスの様に加盟国内での就労の自由が認められている所、それならよくわかるのだが、日本国籍にどんな特典や特権があるのか、僕の頭では思いつかない。今の段階で日本とフランスの国籍のどちらかを選べと言われたら、迷わずフランスを取るだろう。
多重国籍を条件付で認めるのが世界の流れであるが、それを認めない以上、居住する子供に対して不便をかけない制度を作るのは当たり前のことだ。
子供はいるが結婚が出来ない男女というのは、それなりの理由を抱えている。そんな子供にDNA鑑定を義務づけるというのは、ちょっと想像力のある人ならばどれだけ過酷なことかわかるだろう。
偽装が増える?役所に書類を出せば結婚したことになるユルい結婚制度の日本で、偽装しようと思えば旧制度でも容易に可能だし、偽装してまで取る価値のある国籍ではない。
憂国の国士たちは、いったい何を畏れて、なにを守ろうとしているのだろうか?
2008年09月17日
日本はコメ農家のためにいつまで犠牲を強いられるのか。
ミニマム・アクセス米は、コメの700%の高関税を維持するために義務づけられている制度で、これをやりたくないのならば選択肢は二つ、保護関税を撤廃して常識的な関税にするか、GATT、WTOの枠組みから撤退して、工業品輸出の自由貿易をあきらめるかである。
事故米と言われるマイコトキシンに汚染されたコメは、多くは長期にわたる保管中に発生している。なぜ高いカネを使って長期保管するのかと言えば、米価安定に他ならない。適切に検査した物を速やかに入札にかけて流通させれば、そう問題は起こらないはずである。
また、農薬の許容基準は往々にして輸入障壁のために定められるので、何の問題もなくても、ターゲットにした農作物に関しては基準値を超えるということは普通である。例えば、世界一厳しい基準を設けているドイツの農薬基準に照らせば、日本の農作物は専用の畑を作らない限り、ほとんどアウトである。(しかもEUはドイツの基準に加盟国の基準を合わせようとしているのでさらにやっかいなのだが。。)
なぜ日本は、ことコメに関して自由経済を容認しないのだろうか?日本のコメが本当に美味く、競争力があると思うのならば、常軌を逸した関税は撤廃すべきである。それが出来ないのは非効率で大して美味くもないコメを作っている農家を保護するために他ならない。一度、イタリアのコメを炊いて食べてみたらどうだろうか。僕は日本で売られている米よりも味があって遙かに美味いと思う。価格はキロ1ユーロしない。
いい加減、これ以上コメ農家保護のために日本の経済と日本人の健康を犠牲にするのはやめて、とっととコメの先物市場を開設すべきだ。