Book News|ブックニュース

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シミルボンで『特攻の拓』や『陰陽師』についてコラムをかきました

ここ数日はシミルボンで連日、コラムを公開していました。

bukkominotaku


性悪説ヒーローコミックスをいくつか。
https://shimirubon.jp/columns/1684967




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さいきん「このマンガがすごい!WEB」で執筆した記事『淡島百景』ほか


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人間を拒絶する映画。ザック・スナイダー作品を楽しむために『人間から遠く離れて』(佐々木友輔、noirse著)

今回ご紹介するのは、ダメな映画監督として多くの映画ファンから軽蔑されているザック・スナイダーを、敢えてとか逆に、といったような構えなしに正面から評価して論じる人間から遠く離れて


人間から遠く



本書は、このブックニュースで過去に連載をしていた佐々木友輔さん僕もたびたび寄稿している同人誌『ビンダーの共編者でもあるnoirseさんによる共著(まえがきをnoirse、あとがきを佐々木、本文はほぼ交互にほぼ同量を分担)です。

この本に関しては先日、東京五反田にあるゲンロンカフェで『イメージの進行形』の渡邉大輔さんと佐々木友輔さんによるトークイベントが開催されまして、僕も見に行ったので今回はイベントの感想も交えてご紹介します。

批評家の佐々木敦さんが以下のように書いているにも関わらず、全体的におとなしめのトークだったなという印象を個人的には抱きました。


トークイベントの内容が「おとなしめ」なものになっていたのは、登壇した2人に対するとある批判が事前にツイッターで提示されており、2人がそこに適確に応答することができなかったということが問題だったように見受けられました

2人に対する批判というのは、批判というよりもほぼ「批難」なのですが、福尾匠さんによるものです。福尾さんは『アーギュメンツ#2』という特殊流通の媒体に佐々木友輔作品を論じた文章を寄せている研究者です。



もっとも、批判ないし批難が的を射たものであれば友軍砲撃どころか長い目で見たら援護射撃にもなるわけで、安易な肯定よりもよっぽど生産的だということになります。

なお僕の立場を明らかにしておくと、僕は一部の佐々木友輔作品を最大限評価したいと考えており、渡邉大輔さんのお仕事については映画論ではなく映像の条件を論じる書き手として高く評価していて、今回の『人間から遠く離れて』についてはそのような、従来型ではない映画を論じるためのつゆはらいとして読むに値すると考えています。福尾さんが佐々木さんと渡邉さんの「最近の仕事」をどのように評価していようと、『人間から遠く離れて』で提出されている「ものの見方」や「語り方」は擁護されるべきである、という立場です("「速度の映画」での超人的な速度と人間的な速度との擦過への着目は興味深い"という留保の方が、批評の効果としての理論のダイナミズムよりも重要なのではないか、少なくとも「批評のダイナミズム」の欠落を重視するあまりに、興味深い着眼点を軽んじるようなことがあってはならない、と考えています)。

もっともザック・スナイダーの映画が万人向けのものではないいびつな作品であることが多く、そのためにそのいびつな美点を擁護しようとする『人間から遠く離れて』もまたいびつなものになってしまうことや、単にそれだけにとどまらず、擁護の仕方にもいびつさがあるために、本書がいっそういびつな論考になってしまっていることもまた認めざるを得ません。 そのいびつさすら僕は擁護したいと考えており、その「いびつさ」こそが福尾さんの指摘する渡邊さん的問題つまり「最新の哲学潮流の批評への適用」の問題へつながる道筋だとも考えているのですが、そのためにはまず本書の表題から議論しなければなりません。

人間から遠く離れて。佐々木友輔さんはこの書名を「神は人間から遠く離れてはいない」というキリスト教系の言い回しのパロディであると言っていますが映画ファンであればこの文字列を見て思い浮かべるのはむしろゴダールがベトナム戦争に反対する企画でベトナムへ行かずに撮った作ベトナムから遠く離れてや、今回のトークイベントで渡邉さんがたびたびその名前を口にした蓮實重彦の小説評論集のタイトル小説から遠く離れてでしょう。佐々木友輔さん自身も言っていたとおり、「遠く離れて」シリーズとでもいうべき様々な例があります。佐々木友輔さんが、あるいはザック・スナイダーが、それとも読者が、人間から遠く離れているのかどうかの問題ではなく、人間とのあいだにあるかもしれない距離へと注意を向ける、そんな書名であることをまず前提とする必要があります。

20170831_ベトナム



20170831_小説から遠く離れて



映画と映画監督と、論者と読者にとっての、人間からの距離への注意が喚起される、ということなのですが、いや、そもそも人間とは何なのでしょうか。トークイベントの質疑応答で、僕は主に渡邉さんに対して「人間をまず定義して欲しい」と尋ねました。渡邉さんはこの面倒な質問に対して簡潔に「人間とは蓮實重彦である」とやや茶化して回答してくれました。かつて人間と映画との関係は、支配するか支配されるかという立場の強弱の違いとして語られてきました。そこで映画と対立する存在として人間に代入されるのは、つまり蓮實重彦のような態度であったということでしょう。

ここで肝心なのは渡邉さんが単なる映画論者ではなく、テレビやビデオ、スマートフォンなどの非映画的とも呼ばれるデバイスでの映画鑑賞をも想定に入れつつ、むしろ映画的とは言われない様々な映像を論じようとしてきたという背景です。福尾さんは渡邉さんと佐々木友輔さんに向かって「なぜ映画なのか」という問いを投げていましたが、むしろ「なぜ映画ではないのか」が語られるべきであり、「なぜ人間ではないのか」が語られるべきではないでしょうか。

今回のトーク会場となったゲンロンカフェは、哲学者・批評家の東浩紀が運営している場所です。東浩紀はかつて、精神分析家のジャック・ラカンの「鏡像段階」論と、古典的な映画論であるヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』の同時性に着目し、人間の精神が「鏡を介して成立する」という議論と、鏡ではなく「映画のスクリーンで成立する」という議論がすれ違い、かつ並存してしまう状況を論じました。

鏡や映画を、たとえば「人間をうつすもの」として一旦捉えるとして、しかし同時に「人間ではないものをもうつすもの」としても捉えるように考えてみましょう。ひとは、鏡にうつる自分や家族の姿を見ることで「自分もまた人間であると感じる」ようになり、映画に現れる人々の姿を見て「彼らこそが人間である」と思うようになるのだとしたら、同時に鏡に人間ならざるものの姿を見たり、映画に人間ならざるものの姿を見ることもあるはずです。人間が成立する条件は同時に、人間ではないものの成立の条件にもなる。

東浩紀は、ラカンの鏡像段階論的な発想の基礎に、ハイデガーの「現存在」をめぐる議論の構成と同じものを見てとります。かつてハイデガーは、「(人間から区別されるような)動物」とは「○○である」ことしかできない存在であり、これに対して人間は「○○として」存在することができる者であると主張していました。鏡や映画の話をここに引きつけて書くならば、ひとは鏡にうつる誰か「として」振る舞い、映画に登場する何か「として」振る舞う人間となっていく(逆に言えば、それを認めないことによって、あるいは受け入れられないことによって、人間ではないものにもなっていく可能性がある)。いわば人間化のプログラム、人間化の回路とでもいうべきものがある、と論じたのです。

最初期の主著だった『存在論的、郵便的』でハイデガーおよびラカン的な人間観を批判的に継承発展させたジャック・デリダの思想を論じた東は、ほぼ同時期の試論「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」において、この人間化のプログラムあるいは人間化の回路が複数併走し、回路が複数であるがために人間化が失敗する状況を考察していました。

『存在論的、郵便的』ではこの失敗については、対面のコミュニケーションと電話のコミュニケーション、そして手紙でのコミュニケーションの併走が喩えとして紹介されています。対面のコミュニケーションでは露見しづらいが、ある重要なことを手紙で送りつつ、それが届くよりも前に電話で話してしまうような事態。相手の姿ではないものが見えている状態で、相手の声だけが聞こえていて、そして肝心なことは何処かで遅延している。そのような「距離」が無視できないほどに大きな存在感をもって現れている状況にある人。「デリダ的な人間」と言ってしまうといかにも奇矯な存在を思い浮かべられるかも知れませんが、ここまで典型的ではないにせよ、このようなコミュニケーションの分割と伝達の部分的遅延による欠落、バラバラに到達するメッセージによってメッセージの原型が歪み変形する経験、親しいはずの誰かとのあいだに避けがたい距離を感じる経験は、多かれ少なかれ現代的な多くの人に共通しているものではないでしょうか。

東自身は批判的ですが、アイデアとしては小説家の平野啓一郎『私とは何か』で提唱された分人主義のリアリテイと、このデリダ的な人間観はほぼ同じです(このリアリティを前に楽観的に受け入れるかどうか、その選択を人間が受け入れることができるのか、というのが争点だと考えるべきでしょう)。

東は「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」のあと『動物化するポストモダン』を発表します。そこで提示されたデータベース消費という構造は、封印されたはずの「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」で触れられていた「at interface value」というシェリー・タークルの概念とセットになった人間観とパラレルな構造を持っています。

サイバースペース論者の1人だったタークルは、「話を額面通りに受け取る」という意味の「at face value」という表現を捩って「at interface value」という言い方を提示しました。これは、インターネットのモニターなどのディスプレイに表示された対象を、「背後に何かがあるもの」としてではなく、そのままの存在として受け取る感じ方・考え方です。これは先日のトークイベントで渡邊さんが言及していたポストインターネットアートの一群に含まれるデジタルディスプレイによるインスタレーションの解釈にも重要なアイデアです。そしてそれは、近年やはり巷を騒がせているフェイクニュース、ポストトゥルースの問題にも極めて親和性の高い考え方であることも思い出しておいてください。

一般に近代的な人間は、つまり現代における「普通の人」は、何かを目にした時にその「背後に何かがある」と考えるのが妥当であり、その背後を感じるのが普通だとされてきました。先ほどの鏡の像についても、その背後に何かがあるということは大前提だと誰もが思っていた筈です。鏡を鏡だと考えることのできない人、映画やテレビやPCやスマホのモニター上の何かをそれ自体で存在していてその背後に何も存在しない(中の人などいない)と考えてしまう人は、近現代の一般的な常識を欠落させた人だと言われてしまうのです。

これに対して「at interface value」な人々は、テレビモニターやチャットのタイムラインの「向こう側」の何かに注意を向けることがありません。『動物化するポストモダン』では、アニメやゲームの登場「人物」いわゆる「キャラ」に容易に感情移入するオタクたちを、あえて「動物」と呼んでいました。「鏡を鏡だと考えることができない」「中の人などいないと考えてしまう人」は、愚かしいだとか幼稚であるというだけではなく、いわば時代遅れだと思われるはずですが、実際のところはかつてないディスプレイの増殖と普及の結果として、いちいちその背後を疑っていられなくなっているというきわめて現代的な状況が原因なのかも知れません。

それはさておき動物と言えば、『存在論的、郵便的』の影響を強く受けながら登場した哲学者の千葉雅也のドゥルーズ論『動きすぎてはいけない』では、東とはまた違った角度から、ある種の動物性が擁護されていました(第9章 動物への生成変化)。しかし本稿では、渡邉大輔さんの『イメージの進行形』が直接に参照した濱野智史『アーキテクチャの生態系』にも触れておきましょう。

『アーキテクチャの生態系』は、東とともに当時のメディア環境を分析していた濱野による解説書で、東がいわばラカンの鏡、ベンヤミンの映画、デリダの手紙と郵便と電話、タークルのコンピュータネットワーク、そしてオタクたちにとってのアニメとゲームというメディアごとの人間観を提示して見せた態度を、より(当時の)最先端の技術に引き寄せ、かつ精緻に分析しようとしたものでした。

渡邉さんの『イメージの進行形』は、この『アーキテクチャの生態系』をさらに視覚論的に展開したものとして読むべきものですし、最近のsnow論も本来は(と言って良ければ)そのような企図のもと書かれたと考えることができる。

他方で佐々木友輔監督作品は、おそらく東的な文脈を踏まえることなく、ただの同時代性によって手紙、メール、フェイクドキュメンタリーを扱ってきました。何気ないやりとり、思いつめた告白、何らかのメッセージが込められた遺留物。佐々木友輔さんの(良質な)作品には、人間が「人間ではないただの痕跡」から、どのようにして再構築されうるのか、あるいはその再構築がいかに困難であり、往々にして失敗するのか、そして人間とは呼び難い別の何者かになってしまうのか、が描かれてきました。その過程で、郊外の、誰も見向きもしないようなゆるキャラ未満の何かや、カメラそのものへの愛着が生じてくる。その愛着は、もはや対象の擬人化による近親性に根差す愛着などではなく、むしろその映像を観る者が知らぬまに対象の非人間的なものとの「距離」を飛び越えてしまうことによる愛着だと言えるのではないでしょうか。この場合、佐々木作品を観ている人こそが「人間から遠く離れ」る経験をする、のです。

これに対して、今回の議論の端緒をひらいた福尾さんの『アーギュメンツ#2』所収の論考「映像を歩かせる」では20世紀哲学における映画論のひとつの金字塔『シネマ』の著者でもあるドゥルーズ的な用語を使いながら、 佐々木友輔作品と彼の論考が整理され直されるものでした。

福尾さんは、「映像を歩かせる」の冒頭での整理において次のように述べています。

映像が行き来するのは、主観と客観という二極のあいだではなく、物体と身体という二極のあいだである

これは複数挙げられている論点の1つに過ぎませんが、この「主観と客観」から「物体と身体」へという極点のシフトは非常に重要です。福尾さんは触れることを避けているようですが、佐々木友輔作品に頻繁に見られる人間ではないものへの愛着とは、人間やそれに準ずるもの同士の間で交わされる主客の極の愛情ではなく、むしろ撮影者や観客といった存在のもつ身体と画面内にある物体との境界が曖昧化し再構築されようとする感覚だからです。

さて、ようやく『人間から遠く離れて』に戻ることにしましょう。本書に収録された『バットマンV,スーパーマン』論において、佐々木友輔さんはブレッソン『ジャンヌ・ダルク裁判』を引き合いに出しながら、次のように書いています。長くなりますが、クリティカルな箇所です。

モデルは演技を捨てることで、それにつきまとう「自己」への意識をも排除し、ただ話し、ただ動くだけの自動運動に身をまかせる。こうした自己放棄によって俳優は一種の死を迎えるが、その空になった身体(メディウム)は、スクリーン上で他のイメージとモンタージュされることで新たな命を与えられるだろう。フロランス・カレを記録した映像に、カレ自身でもなければジャンヌ・ダルクでもない、イメージとして自立した何者かが受肉するのだ。
紛うことなきハリウッド大作である『BvS』は、本来、非演技を志向してなどいないだろう。しかし「スーパーマンの実在を信じる」スナイダーの破天荒な映画制作は、登場人物の内面や心理を重視するメソッド演技の規範から不可避的に逸脱していく。神にもなぞらえられる存在の心理をただの人間が想像することなど不可能であり、それゆえスーパーマン役のヘンリー・カヴィルは、コミックを予型として、そこに描かれたヒーローの行動や身振りを反復するほかない。さらにはCG・VFX合成のためのグリーンバックが役柄への没入を妨げ、ますます彼の非演技を際立たせるだろう。こうして「俳優」カヴィルは正しくスーパーマンであろうとすればするほど「モデル」へと接近し、あの何を考えているのか分からない、ぽかんとした「顔」を浮かべることになるのである。
(中略)人間は生身のままではヒーローになれない。カメラで記録された身体に、実写映像とはまったく異なる論理で描画されたCG・VFXが合成されることによって、はじめてその人物は超人的な力を得る。スクリーンに映し出されたスーパーマンは、人間の俳優とフィクションのキャラクター、映画とコミック、実写映像とCG・VFX(アニメーション)といった複数の二重性を同時に生きる者であり、人間の子であると同時に神の子でもあるイエス・キリストと相似形をなしているのである。
この「複数の二重性を同時に生きる者」が重要です。劇的な文章にするためか、「人間の子であると同時に神の子でもある」キリストと相似形云々と書かれていますが、これはいったん忘れましょう(重要なのは信仰ではないからです)。生身のままではヒーローになれない人間が、どのようにしてヒーローになるのか、いや、ある「人間」を生身でなくするためにはどのような方法がありうるのか、それがここに書き留められていると読むべきではないでしょうか。

本書は佐々木監督によるスナイダーという個人の礼賛ではなく、たまたま「スナイダー」と呼ばれる監督職の人物を「モデル」に見立て、その現代ハリウッド大作的な制作方法を結果から逆算して見せることで、非演技ならぬ非ハリウッド性が見出せるという提案がここにあるのではないでしょうか。先ほど「重要なのは信仰ではない」と補足しましたが、ここで「神」や「ヒーロー」が問題になっているのは、それは単に「神やヒーローが生身の人間では演じられない」からにほかなりません。神やヒーローといった、いわば上方への超越が論じられているために、佐々木監督が無邪気にその超越性を肯定しているように思われるかも知れないのですが、本書には「超越は上方向のみに限る」というような記述はない筈です。

生身の人間(俳優)がいたはずで、しかし作品においては生身の人間ではないものがうつしだされる。それはどのようにしてか。これを問い、また答えることは、すなわち人間から距離をとる方法の提示にほかなりません。これは、ハイデガーからラカン、デリダを経由して東、濱野、そして渡邊さんもおそらく議論しようとした問題、「なぜ人間と人間のあいだは遠く離れてしまうのか」いや「人間と人間のあいだの距離はどのようにして人間を非人間にしてしまうのか」という問題に繋がっています。

今回のトークで渡邊さんが最近の哲学の潮流と本書の関連付けを行おうとしていたのかどうかは定かではありませんし、実際のところ両者を結び付けるような話は出ていなかった(出ていたとしても結びついていなかった)のですが、今回の批判者である福尾さんが期待するような「理論と批評」の関係を可能にするような下地というのは、上記の理解が誤っていなければ、そう悲観するべきことではないように思われるのですが、読者諸氏にとってはいかがでしょうか。

人間から遠く



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さいきん「このマンガがすごい!WEB」で執筆した記事『太郎は水になりたかった』ほか

ここ最近「このマンガがすごいWeb」に書いた記事です。いずれもオススメの作品です。

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8月1日は「水の日」 『太郎は水になりたかった』を読もう!
http://konomanga.jp/guide/120694-2


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東京で散歩をするなら是非とも読んでおきたい『帝都公園物語』

今回ご紹介するのは『帝都公園物語』

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本書の冒頭で触れられているとおり、かつて「空虚な中心」と呼ばれた皇居が日本の首都である東京の真ん中にある。公園というのは、その都市の「中心」「真ん中」にある空虚な場所のことだと言っていいでしょう。本書は、主に日比谷公園、新宿御苑、明治神宮などのの歴史を紐解きながら、東京の過去へと踏み込もうとします。

本書の書き出しは第二次大戦、太平洋戦争後に公園として解放された皇居外苑について。 皇居外苑は狭義では皇居前広場を指しますが、この皇居前広場が日本という「想像の共同体」にとってどのような意味を持っていたのかについては原武史が言及していたのを思い出します。ともあれ、皇居はかつて江戸城であり、その周囲には大名屋敷が立ち並んでいました。江戸の土地の八割は武家の土地であり、彼らの大半は参勤交代制度のために諸地方から集まってきた人々だったのです。

明治維新直後に、江戸は内戦状態に陥り多くの武家は地元に帰り、広大な屋敷が方々に残される形になりました。本書は、それらの武家屋敷跡が公園になっていく様子を様々な資料をもとに、きわめて読みやすい語り口で説きつつ、それぞれの事業に関連した何人もの人物を紹介し、その道すがら彼らが動かした日本と東京の歴史を様々な角度で開陳して見せる一冊です。


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