Book News|ブックニュース

人文系・コミック・音楽から雑学など、出版系イベントからマニアックな新刊情報まで、「本」にまつわることはなんでも扱います。

近代的メディア装置のズレ、不気味なものがリアルに立ち上がる『地獄は実在する 高橋洋恐怖劇傑作選』

今回ご紹介するのは高橋洋恐怖劇傑作選『地獄は実在するです。監督脚本最新作『霊的ボリシェヴィキ』が現在公開中の高橋洋氏の代表作『女優霊』(中田秀夫監督)や『蛇の道』(黒沢清監督)などのシナリオのほか、編集者の岸川真氏との対談も収録されています。


じごく


僕はホラーは苦手意識が強くてずっと避けていたのですが、最近のラブクラフト人気の影響もあって『リング』から見直していたところにタイムリーな刊行。「霊的ボリシェヴィキ」というキーワードを武田崇元から借用するセンスといい絶対に只者ではないと思っていたのですが、稲生平太郎氏とのプロジェクト「映画の生体解剖」のインタビューで語っていた演出論などではブレヒトからオリヴェイラまで出てくるガチ具合。映画『霊的ボリシェヴィキ』は、鑑賞直後は「よくできた作品」というていどの印象だったのですが、鑑賞後に帰宅しているあいだに細部を思い出すにつけ「あのシーンはなんだったんだろう」と各シーンの説明がつかなくて確かに鑑賞したばかりの自分の物語体験に亀裂が入って崩壊していくような感覚を味わうことになりました。スプラッター的なショックではなく、そう、まさにこれが「ホラー(恐怖)」だと思い知らされたものです。


本書に収録されている『女優霊』や『蛇の道』、『インフェルノ 蹂躙』、そして本書には収録されてはいないが高橋が脚本を手掛けたヒット作『リング』にも共通する点として近代的なメディア機械が不気味さや恐怖を生み出す装置としてされているということが挙げられます。『女優霊』は映画のフィルム、『蛇の道』と『リング』ではホームビデオ、『インフェルノ 蹂躙』は盗撮のカメラや盗聴マイク。


本書の編集者であり、巻末で高橋氏と対談している岸川真氏は対談を「不気味なもの」という概念に触れるところから始めています。この「不気味なもの」は精神分析学の始祖であるフロイトの論文で扱われているのですが、フロイトがこの概念について「人間の精神には複数の回路があり、その回路どうしのあいだに生じる時間的な齟齬」に着目していたことを思い出してから本書を読むと、フロイトが人間の精神の内部で生じている回路のズレとして認めた不気味なものを、高橋は近代的な装置によって更に可視的にされたズレによって強化されるものとして描こうとしているように感じられます。


岸川氏と高橋氏の対談では、高橋氏の育った家や、普請道楽だった曽祖父が日曜大工であちこち増改築した家での奇妙な体験が語られています。「不気味なもの」はもとのドイツ語ではウンハイムリッヒなのですが、この単語に含まれる「ハイム」の部分は英語ではいわゆる「HOME」つまり日本語でいう「いえ」のこと。近代的な装置による回路のズレの原点に、生活空間いや生活の回路におけるズレがあったのかもしれないと思わされる内容でした。これは『女優霊』における「二階」、『インフェルノ 蹂躙』における隠しマイクや隠しカメラ、『リング』における「井戸」、『蛇の道』におけるさまざまな蓋のモチーフなどを思い出すと、より一貫したものとして理解されるのではないでしょうか。

『霊的ボリシェヴィキ』を観て考えたのですが、「霊」とか「異界」あるいは「地獄」というのはいわゆる「死後の世界」ではなく、このような回路のズレによって文字通り立ち上がりかけて消えてしまう、痕跡だけあるようなないようなものなのかもしれません。


じごく






===================

【ナガタのプロフィールはこちら】

 

無人島に持っていく1冊のことなんか考えないでいい。殺されそうなときに何を思い出すかが問題なんだ。『収容所のプルースト』(チャプスキ著)

今回ご紹介するのは収容所のプルースト。先週ご紹介した哲学者の三浦俊彦氏による『涼宮ハルヒの憂鬱』アニメ版におけるいわゆる「エンドレスエイト」事件を扱った論考『エンドレスエイトの驚愕』に関連して、ぜひ本書を紹介したいと思ったのですが、先週はその余裕がありませんでした。


前回を前半、今回を後半として読んでいただけたら幸いです。さて、この『収容所のプルースト』、どんな本かといいますと、第二次世界大戦の端緒とされる1930年代末の独ソ両国によるポーランド侵攻によって捕虜となったある将校が、収容所でおこなったプルーストについての講義を書籍化したものです。こう書くとかなりあっさりとしていますが、まずこの収容所、氷点下40℃から45℃にも達する極寒の地にあり、著者とその講義を聞いていた人たちを含むこのときの捕虜たち数千人から一万数千人いたと言われていますが、生き残った数百人をのぞいて、何千人もの人々の消息はまったくの不明となっています。

IMG_1855


本書の著者であるジョゼフ・チャプスキは、ポーランドで知事や大臣も輩出する名門貴族の家系に生まれています。本人もパリに長く住むなどの経験があり、要するに上流階級の教養人です。第二次世界大戦前の、歴史的に非常に複雑なことになっているポーランドで上流階級の教養人がどのような人生観をもつのか、21世紀に暮らす極東の島国の庶民であるところの僕には知るよしもないわけなのですが、しかしこのチャプスキが不運にも極寒の強制収容所に囚われることになり、そして読者にとっては幸運なことに、そこでチャプスキが「1冊の参考書すらなしに」記憶だけで行った「講義」が数千人の彼の同胞たちとともに消滅することなく書籍化され、翻訳され刊行されたのです。


本書の「訳者あとがきにかえて」にも書かれているように、よくあるあの質問「無人島に1冊だけ持っていくならば何にする?」というのがありますよね。本書は、1冊も与えられずに無人島どころか雪に埋もれ、思想や言論の統制される敵国の収容所へと投げ込まれた人が語った言葉の記録です。僕が本書を『エンドレスエイトの驚愕』と併せて紹介したいのは、「エンドレスエイト」が幸せな夏休みを気が遠くなるような回数くりかえすなかで「記憶」の残滓が蓄積して登場人物の意識を圧迫したというところで繋げたいからです。


確かに先週、僕は「人類に三浦俊彦がいてよかった」と書きましたし、多くのアニメファンに『エンドレスエイトの驚愕』を薦めました。そこに偽りはありません。しかし、「エンドレスエイト」でヒロインの涼宮ハルヒが繰り返し夏休みを生きようとしたこと、何度も「リセット」される無名の夏休みの記憶たちと、極寒の地を凍えて繰り返し絶望し、何の記録もなしに消えていった人々のなかから届けられた本書にいわば刻まれた「記憶」とが無関係とは思えないのです。


チャプスキが愛し、繰り返し思い出したプルーストは『失われた時をもとめて』のなかで、彼が傾倒したイギリスの思想家ジョン・ラスキンの発言を引用しています。ラスキンは『ヴェネツィアの石』などでゴシック建築の美しさと、近代化の進む当時のイギリスの産業とを対比し、「人間らしさ」が失われつつあると主張していました。画一的な工業製品を繰り返し製造することに従事させられる大量の現代人と、稚拙であっても心を込めて手仕事をする中世の職人という対比です。プルーストは、ラスキンの言葉を自作に引用するだけではなく、その全集のフランス語訳も手掛けています。というか、その全集の翻訳のあとで、小説を書き始めるわけです。


ラスキンは、中世の職人たちの素朴な創意工夫をこそ美しいものだと主張しました。本人はとうてい素朴などではなく、むしろ洗練の極致にいたプルーストは記憶とその再構成のなかにおそらく彼なりの素朴さを追い求めました。『失われた時をもとめて』が、辛辣な批評と悔悟にみたされながらも輝いているのは、愛というものの実在をほとんど否認していたプルーストが記憶とその再構成つまり追憶の仕事においてそれをある意味で回復しうると信じていたからだろうと思います。


『収容所のプルースト』がすばらしいのは、単に著者が生き延びた幸運や、著者の驚異的な記憶力と読者の好奇心を次から次へと刺激する巧みな語り口や、非常に美しい装幀だけではありません。かつてラスキンが見出し、プルーストが受け継いだ美しいものに対するある種の信仰(これは、つねに同時代人たちへの深い絶望によって深く彫琢されやせ細ってもいたのですが)が、目を背けたくなるような、とうてい信じられない人類史的な蛮行をすら生き延びて、大陸を越えて翻訳されたということ、このことを書評としては書いて置かなければならないでしょう。読む人が読めば、誰でも、どの1行からでも読み取れることではありますが、文字を書くこと、文字を読むこと、本が作られ、書店でも図書館でもどこかの書斎でも、その本が本棚に置かれて時間を経過していくこととは、そういうことなのだ、ということです。



IMG_1856

※うずたかく積もった雪を思わせる濃い色の帯のしたの表紙は、とぎれとぎれの記憶のように切れ切れに顔を覗かせるマーブル模様。このマーブル模様はヴェネツィア紙と呼ばれる、文字通りヴェネツィアの特産品に特徴的な模様で、かつては高級な装幀の本の装飾に使われることの多いものでした。扉部分にも繰り返されるこのモチーフは、ラスキン・プルースト・チャプスキという記憶の連鎖を物語っているようにも読めます。このデザインは本書を含む、版元の「共和国」のシリーズ「境界の文学」に共通するものなのですが、これは決まりすぎだと思う。超かっこいい。写真が下手で申し訳ない。



===================

【ナガタのプロフィールはこちら】

 

東大教授(哲学者、58歳)が10年前のエンドレス事件を一生けんめい論じている『エンドレスエイトの驚愕』(三浦俊彦著)

今回ご紹介するのはエンドレスエイトの驚愕: ハルヒ@人間原理を考える東大教授にして哲学者(1959年生、御歳58才)の著者が10年近く昔に放映され当時はたいへん話題になったアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の、いわゆる「エンドレスエイト」事件を中心にあつかった一冊です。何十冊と著作がありながら、なんと自ら初めて企画を出版社に持ち込んだという気合の入れようです。しかしアカデミシャンがトチ狂ったという駄本ではありません。

endless


これは涼宮ハルヒ論であり、単なる涼宮ハルヒ論ではなく、エンドレスエイト論であり、しかしまた単なるエンドレスエイト論でもありません。世の中の良い本、面白い本がたいていそうであるように、きわめて変な本です。いわゆる真面目にふざけている本。本書の購入をためらっている人がいたらとりあえず買っておくべし、とオススメしたい内容ではあるのですが、いまさら涼宮ハルヒ…とか、いまさらデュシャン…とか思う人もいるでしょう。

そしてよりによってエンドレスエイト事件です。ほぼ同じ脚本を8週にわたって繰り返し放映するという暴挙に、ライトなアニメファンがこぞって視聴の継続を断念したという事件。本書ではそれを「過激な実験」と表現しています。

視聴者を退屈させるという荒技でありながら、たとえば声優陣は毎回ほぼ同じ脚本を繰り返し演じることになり、制作会社はほぼ全回を別のスタッフが班を分けて制作するなど、ライトファンにとってはほぼどうでもよく「手抜き」にすら見える、その裏側に膨大な労力が注ぎ込まれていた怪事件。それがエンドレスエイトでした。その暴走と呼んで差し支えない行為、そしてその結果うみだされた作品と、視聴者や関係者のあいだにひきおこされた困惑やその後の展開など、語れることはたくさんあります。

著者は、この暴走を暴走であると認め、商業作品としては失敗策であったとも認めつつ、この暴走の中途半端さに注目します。無数の解釈を挙げてはみずから論駁する著者の姿は「なんでそこまで…」と呆れるしかないものなのですが、これはこれでひとつのエンターテイメントとして読めるはずです。かつて流行した脱格ミステリを思い出す読者もいるかも知れません。気の短い読者はまず最終章をとにかく読んでみてください。てっとりばやく「あー、なるほどなあ」と思えるはずです。えっ、なるほどと思えなかった?それじゃあそれまでの7章もぜひ読んでみてください。納得できてしまった人は、ではその「納得」の中身をのこりの本文で確認してみてください。400ページ弱の枚数、文字を費やし、思考実験を重ね、アニメ8話ぶん、ライトノベルの短編1本ぶんの作品論を語るということ。

なぜ100ページにも満たない原作短編が、アニメ化の際に8回を使うことになったのか、その意味をどのように「考えることができるのか」。いや、ほとんど無意味と思われ、少なくとも意味不明と言われてきた、失敗と断言すらされるアニメについて、「どのように書くことができるのか」を模索し、提示してみせる。10年待った甲斐があった、日本に東大があって良かった、人類が三浦俊彦を生み出してくれて良かった、そういう一冊でした。

ただ個人的なことを言えば、僕は原作の次元でキョンがすべての元凶だという見解に固執しています。そういうわけで、本書の主張はすべて壮大な机上の空論、いやもともとがフィクションであることを考えるともう「机上の空論上の砂上の楼閣」として向き合いました。それでも面白かった。

『涼宮ハルヒの憂鬱』は、原作もアニメも他作品への言及が多く、原作はシリーズで何作も刊行されているし、アニメも二期にわたっているし、関連商品も多数リリースされているので、それらを網羅しようとすると敷居が高いのは確かなのですが、本書を原作もアニメも未踏破の人が読むとどういう感想を持つのかちょっと知りたいので、そういう挑戦をしてみたいという猛者にもオススメしたいところです。本書本文中で頻繁に原作やアニメの内容を紹介しているので、案外まったく本編に触れていない人でも楽しめるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。


endless



===================

【ナガタのプロフィールはこちら】

 

2018年1月に読んだ本まとめ 思弁的実在論、クトゥルー神話、ぼくのママはアメリカにいるんだ、その他アフタヌーン掲載作の新刊など

今年2018年からは、毎月に読んだ本や読めなかった本について翌月第1週めにまとめる記事を作ることにしました。ということでさっそく1月に読んだ本と読めなかった本についてまとめたいと思います。

_SX321_BO1,204,203,200_


なんといってもこの1月に読んだ本で印象的だったのは青土社のそっち系の雑誌現代思想2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018』(2017年末の発売)と、ユリイカ2018年2月号 特集=クトゥルー神話の世界が印象的でした。『現代思想』の方は、毎年末に出る号で「現代思想」のそのときどきの流行をまとめており、ここ数年はずっといわゆる「思弁的実在論」まわりの紹介が主軸になっていたのですが、その紹介も今回でいよいよ踏み込んできた感じをうけました。というのも、この号では「思弁的実在論」の周辺の紹介が充実してきたように感じられたからです。思弁的実在論は英語圏のグレアム・ハーマン、仏語圏のカンタン・メイヤスーがいわば2軸なわけですが、その周辺に並走する様々な潮流があるわけです。今回の号で取り上げられているロシア現代詩における独特の思弁的実在論の需要のされ方、人類学における新しい動き、現代科学におけるマルチバース、そして加速主義やゼノフェミニズムといった「理論」あるいは「運動」の紹介によって、ハーマンやメイヤスーといった理論家それぞれの姿ではなく、ムーブメントとしての「思弁的実在論」のいわば輪郭が浮かび上がってくるように感じられてきました。

eureka



ユリイカの特集のほうでは、TRPG発になる近年の日本におけるにわかのクトゥルー神話ブームから新訳、そしてあらためて諸外国での現状が広く深く紹介されています。個人的にはアメコミにおけるクトゥルー神話の表象のされ方を紹介している森瀬氏の文章と、補論でクトゥルーネタの絵本を複数紹介している大久保ゆうさんの文章が特に興味深く思えましたが、先述のとおりそれだけに留まらない、とても良い特集でした。上述の『現代思想』にもたびたび名前が登場するハーマンのきわめてキャッチーな「怪奇実在論」についての論考も収録されていますが、これをどれくらい、またどのようにシリアスに受け止めるのかというのは哲学界隈よりむしろ文芸評論あるいはもっと広くコンテンツや文化一般を論じる広い意味での思想家の課題といってもいいんじゃないかと思います(無視する自由は、そりゃもちろんあるんでしょうけど)。

51QE5QYcRvL


小説で印象的だったのはグレッグ・イーガンのシルトの梯子です。書かれていることが半分以上わからないのにもかかわらず、ところどころ像を結ぶ登場人物たちの言動や、彼らが目にする光景が、まるでハリウッド映画のようにわかりやすく「エモい」。そのエモさに励まされてなんとか読了するわけですが、いったい自分が何をわからなかったのかもよくわからない、とにかくどのようにして自分がこの世界(現実世界、イーガンの世界の双方)についてわからないのか、ということだけ、まるで壁に手を当てているようによくわかるという、不思議な読書体験ができる1作でした。

イーガンのような「わからなさ」によるインパクトとは真逆にあると言えるのが、「N」さんによる電子書籍
ハッピーエンドはほしくない。『物語なんていらない』というエントリで、ツイッターなどで話題になった人物の手になるとおぼしき小説。文化系トークラジオLifeの書評系トークイベントで海猫沢めろん氏がプッシュしていたので読んでみたのですが、中盤の紀行文のところは個人的には非常に冗長に思われたものの、概ね楽しく読める完成度の高い作品でした。ドロドロした葛藤や怨嗟をあまり書き殴らず、プラグマティックとも言えるドライさ、軽やかさでもって自身の半生を実に淡々と書き連ねている。紀行文のところは冗長なだけでなくいわゆる貧乏観光であちこちをちょっと眺めては去るという根の浅い観察しかないために他の部分から明らかに浮いてしまっているのが残念でした。タイトルにあるように「ハッピーエンドはほしくない」というのはややドヤ顔で書きつけられているものの、おそらくこの書き手は(かりにフィクションのなかにしか存在しない人物だとしても)、海外旅行を自費でまかなえるだけの資金を稼ぐ技術力と英語力を身に着けるだけの行動力を手にした時点でいわばもうハッピーエンドの時空に入ってしまったように僕には見受けられました。

以下はBook Newsで取り上げた本です。
この地獄を生きるのだは、『ハッピーエンドはほしくない』とセットで読んで欲しい1冊。『ハッピーエンド~』のNさんが飄々とホームレスになりバックパッカーになり、帰国して優秀なプログラマーとして働くのに対して、『この地獄~』の著者はひたすら不器用です。世代の違いや、生まれつきの世渡りの才能、気質の違いがあるとはいえ、どちらも死を目前にするところまでいってなんとか日々を生きるところに戻ってきているところは共通点です。

「日々を生きる」という点に着目し、それを書きつけることこそ文学のひとつの王道なのだとしたら、その世界的な代表選手はやはりプルーストだと言えるでしょう。もっともプルーストはその「日々を生き、それを書きつける」ということそのものへ目を向け、生きることと書きつけることとの乖離、距離、剥離をいちどに把握しようとした人物でもありました。そのプルーストの試みを、後代の哲学者や思想家がどのように読み解いたのかをまとめているのが
土田知則現代思想のなかのプルーストです。

puru-suto

もう1冊、Book Newsで取り上げたのは、冒頭で書いた『現代思想』にも関連論文が収録されているドイツの俊才マルクス・ガブリエルによるなぜ世界は存在しないのかです。たねあかしをしてしまえば、ある意味で哲学的な独特の限定をされた「世界」および「存在」の概念を提示することによって、書名にある「世界が存在しない」ということを論証しつつ、しょうじきそんなことはどうでもよくて、むしろ重要なのはいわゆる科学的な現実だけが現実ではないということを論じるための地平を開き保証する準備という側面のある本です。内容のわかりやすさもさることながら、読みやすい文体、手に取りやすい価格、そしてずっと喧伝されてきた「天才若手哲学者」という売り文句によって、年始の人文出版界に「ばか売れ」という明るい話題を提供していたことは記憶に新しいですね。

mamaman


いちおう児童向けのバンド・デシネに分類されるであろうぼくのママはアメリカにいるんだは、非常に美しい作品。あらすじだけ非常に雑に紹介してしまうと、母を喪ったらしき少年が、家族やほかの身近な人からそれを知らされず、むしろ旅行中だと言われている状態から、真実を明かされて呆然とするというまでの短い期間に起こる、ちょっとした出来事を淡々と描くものです。いわゆる『現実」が不確定な状況で、父親や弟、祖父母や旧友、隣人たちとのコミュニケーションのなかでさまざまなに浮かび上がる不穏さや、見せかけの優しさ、そしてそれに動揺する自分の弱さや、希望にすがりつきたいという無邪気であけすけな想像力、そういったものに対する透徹した冷たいが共感に満ちた視線。そういった要素を、マンガ的ディフォルメとデザイン的な省略・強調によって実に洗練されたかたちに落とし込んでいる。ドラマチックなストーリーを求める人には物足りないかもしれませんが、これぞバンド・デシネという力がこもった良作だと思います。

マンガについては、藝大受験を目指すそこそこ秀才で努力家の高校生を主人公に、実際の作品を作中に取り込みながら、受験絵画のテクニックや心構えをスポーツマンガのように描く『ブルーピリオド』、大学デビューで外国語や文化的なウンチクを付け焼き刃で披露することで友人関係や恋愛関係を築こうとする主人公と、その主人公に張り合う後輩女子を描くポスト『げんしけん』的な作品『知ったかブリリア』、そして架空の世界で航空力学や地政学的な描写を淹れてリアリティを出しつつ、虚栄心だけで町を守るために命を賭ける戯画化された主人公たちを描く『シンギュラリティは雲をつかむ』などの比較的あたらしい作品が好調な月刊アフタヌーンで、とうとう『それでも町は廻っている』の石黒正数が新連載を始めたことが一番のニュースでした。

アフタヌーン勢では、五十嵐大介『ディザインズ』は、かつて同誌に連載されていた遠藤浩輝『EDEN』、都留泰作『ナチュン』の最新版という枠組みで捉えているのですが、それだけに留まらない、さすがの表現力で画面を眺めているだけでもゾクゾクします。その『EDEN』の作者だった遠藤浩輝が連載している『ソフトメタルヴァンパイア』は、ファンタジーあるいはホラー的な存在として表象されがちな吸血鬼を、遠藤流のリアリティをもった不死者として造形し、その世界観のなかで未来まで続く時間的なスケールを見せてくれるのが楽しい。もちろん、元素をあやつる能力者たちのバトルもケレン味がきいています。


印象に残った本とアフタヌーン勢について書いただけでけっこうな分量になってしまった。読めなかった本についても次月以降は触れていきたいと思っております。それでは2月もどうぞよろしくお願いします。


===================

【ナガタのプロフィールはこちら】

 

『失われた時をもとめて』をもとめて、を、もとめて!?『現代思想のなかのプルースト』土田知則著

今回ご紹介するのは、土田知則現代思想のなかのプルーストです。仏米の文学と思想に関する訳著の多い著者による、おそらく2冊目のプルースト論。論者の出生順に並んだ、ベンヤミン、バタイユ、バルト、レヴィナス、ド・マン、ジラール、ミラーらによるプルースト論を著者がさらに論じる、というやや入り組んだ構成。

puru-suto


当のプルーストはもちろん、それぞれの論者ごとにも複数の多重構造があるので、本書に収められている論考は多重に錯綜する無数の層を行ったり来たりするものになります。

この無数の層を支える、いわば物理的な高層ビルを支える鉄筋コンクリートのような「仕組み」として本書から抽出されるのは、たとえば第1章でベンヤミンが見つけ出す「靴下」のイメージだと言えるでしょう。

靴下が下着戸棚のなかで丸められて、袋であると同時に中身であるとき、それは夢の世界の構造をもっている。そして、この二つ、つまり袋とそのなかにあるものを、一挙に第三のもの、つまり靴下に変えてしまうことな、子供たち自身にとって決して飽きることのない遊びであるように、プルーストもまた飽きることなく、いわば陳列用のにせ物である自我を一挙に空っぽにして、そこに繰り返し、あの第三のものを詰め込んだ。

この「中身」と「袋」という靴下の2つの側面が、まるめられることによって「第3のもの」としてあらわれる、それがたとえばバタイユにとっては文学でありポエジーでもある独特の「悪」の概念や、ド・マンにとっての「アレゴリー」、レヴィナスにとっての「他者」へと、いわば変奏されていきます。

多くの訳著のある著者ではありますが、珍しく独特な日本語を使う(「○○は〜と思念した」など)ため、読んでいて抵抗をおぼえる箇所が少なくありません。しかし長大な『失われた時をもとめて』およびそれに付け加えられた何人もの思想家たちによる注釈を、明快かつ単純な構造でもって横串を通してくれるのはとてもありがたいことです。

著者の見解をそのまま支持するか否かはさておき、プルースト理解、そしてそれぞれの論者の個々の思想、さらにはプルースト理解をとおして並べられた論者たちが織りなす星座、いずれに対してもより深く考えるための端緒として一読をおすすめしたい一冊です。





===================

【ナガタのプロフィールはこちら】

 
最新記事(画像付)


ギャラリー
  • 近代的メディア装置のズレ、不気味なものがリアルに立ち上がる『地獄は実在する 高橋洋恐怖劇傑作選』
  • 無人島に持っていく1冊のことなんか考えないでいい。殺されそうなときに何を思い出すかが問題なんだ。『収容所のプルースト』(チャプスキ著)
  • 無人島に持っていく1冊のことなんか考えないでいい。殺されそうなときに何を思い出すかが問題なんだ。『収容所のプルースト』(チャプスキ著)
  • 東大教授(哲学者、58歳)が10年前のエンドレス事件を一生けんめい論じている『エンドレスエイトの驚愕』(三浦俊彦著)
  • 2018年1月に読んだ本まとめ 思弁的実在論、クトゥルー神話、ぼくのママはアメリカにいるんだ、その他アフタヌーン掲載作の新刊など
  • 2018年1月に読んだ本まとめ 思弁的実在論、クトゥルー神話、ぼくのママはアメリカにいるんだ、その他アフタヌーン掲載作の新刊など
  • 2018年1月に読んだ本まとめ 思弁的実在論、クトゥルー神話、ぼくのママはアメリカにいるんだ、その他アフタヌーン掲載作の新刊など
  • 2018年1月に読んだ本まとめ 思弁的実在論、クトゥルー神話、ぼくのママはアメリカにいるんだ、その他アフタヌーン掲載作の新刊など
  • 2018年1月に読んだ本まとめ 思弁的実在論、クトゥルー神話、ぼくのママはアメリカにいるんだ、その他アフタヌーン掲載作の新刊など
  • 『失われた時をもとめて』をもとめて、を、もとめて!?『現代思想のなかのプルースト』土田知則著
  • 何でも存在すると断言するためのロジック。『なぜ世界は存在しないのか』マルクス・ガブリエル著
  • 何でも存在すると断言するためのロジック。『なぜ世界は存在しないのか』マルクス・ガブリエル著
  • この、どこが地獄なのか。『この地獄を生きるのだ』(小林エリコ著)
  • 2017年を振り返って
  • 2017年を振り返って
RSS購読はこちら