すべての映画監督の中で、僕がいちばん新作を期待している人物、佐々木友輔。「映画」の手法に対する「安易だ」という批評を問い直す真摯な揺動メディア論を世に問い話題になったので名前をご存知の読者も多いでしょう。また、先日Book Newsでも取り上げたみんなの空想地図の著者「地理人」こと今和泉隆行氏に、自作映画の地理設定を依頼したりもしています。その佐々木監督に今回は「現在のハリウッド映画の楽しみ方」についてご寄稿いただきました。

佐々木監督は、「すごい映像」から語り始め、映画を見る人物の身体と視覚の問題へと議論を進めていきます。長文になったため、前後編に分けて掲載します。後編の掲載は明日を予定しています。




============================================

 映像はすごかった。
 ハリウッド映画についての感想や評論を読んでみると、しばしばこの言葉に出会います。残念ながら、それに続けて「……けど、ストーリーは平凡だった」「メッセージ性に乏しかった」といった否定的な言葉が続く場合が多いのですが、でも「映像がすごい」というのは、じつはそれだけでとてもすごいことなのではないでしょうか。

 これだけたくさんの映像が氾濫しているいま、単純に「すごい」と感じられるものに出会えるというのは、とても希有なことなのです。せっかく「映像はすごかった」と感じることができたのだから、その部分をもっともっと味わうことができるはず。そのような思いから本稿を書くことにしました。この文章が、映画館で過ごすあなたの時間にわずかでも新たな楽しみを付け足すものになれば嬉しいです。


(1)過剰で危険な速度の誘惑

 「底が抜けてしまった。」そう感じた最初の映画が、マイケル・ベイ監督が2007年に制作したSF映画トランスフォーマーでした。





 2000年代初頭から中盤にかけてのハリウッド映画には、どうも煮え切らない視覚的な抑制がありました。それがたんなる流行だったのか、あるいはテロへの配慮などがあったのかは分かりません。

 「何でも有り」なはずのVFXが、妙に節度をわきまえていた。もちろん『マトリックス:リローデッド』の増殖するエージェント・スミスや、『スター・ウォーズ・エピソードⅡ』の俊敏すぎるヨーダといった例外もありましたが、その他の多くの作品には、何かに躊躇っているような重苦しさがつきまとっていました。それはもしかしたら、わたしが映画を見始めた頃(そして映画監督になりたいと思うようになった頃)に観た『ジュラシック・パーク』や『スターシップ・トゥルーパーズ』の記憶を美化しすぎて、「現在」のハリウッド映画を過小評価していただけのことかもしれません。

 しかしマイケル・ベイは、そんな重苦しい空気も、わたしの美化された記憶も、まるごと一瞬にしてぶち壊してしまったのです。

 『トランスフォーマー』の最大の見所は、その「速度」にあります。自動車やトラック、戦闘機から、二足歩行のロボット(正確には機械の肉体を持った生物)へと変形し、戦闘を繰り広げるトランスフォーマーの映像は、どの動きも速すぎて、こちらの目や脳の処理速度が追いつきません。

 ゼロ年代プラスの映画という本の中のコラムで、藤田直哉氏は映画とゲームの体験の質の違いについて触れ、映画の優位性のひとつに「ゲームがプレイ性を失わずには追随できないであろう映像のスピードと質と量の快楽」を挙げています。




 『トランスフォーマー』はまさにそのような映画の長所を最大限に活用した作品と言えるのではないでしょうか。呆然としながら画面を眺めているうちに、さっきまでトラックだったはずのものがいつの間にか別のかたちに変わっている! いつの間にかカメラの視点がまったく違う位置に移動している! 気がついたらもう戦いは終わっている!……というように、観ているはずなのに何を観ているのか分からないような、映像に振り回されて、すごい勢いでに宙にぶん投げられてしまうような、そんな映像体験がそこにあったのです。

 こうした体験を、まるでジェットコースターのようだ、アトラクションのようだと言って説明してしまうことは簡単です。しかしそのような体験が、ほとんど視覚と聴覚への刺激だけで実現されているのは恐るべきことです。このからだは変わらず、上映前と同じ客席の上にある。

 『トランスフォーマー』観賞後にやってくる、目と頭の心地よい(ひとによってはもしかしたら不快かもしれない)疲労感は、映画を観ている最中、この両眼が物理的にぐりぐりと動いていたのだということ、視覚もまた肉体を持っていたのだという、考えてみれば当たり前のことに気づかせてくれます。映画を観ているとき、観客は安全な位置から画面を眺めているのではなく、映像の光を浴び、音に揺らされ、そこで起きている運動に触れられたり撫でられたり殴られたりしている。要するに、身を危険に晒して映画を観ているのだということを、実感として味わわせてくれるのです。

 『トランスフォーマー』以外で、わたしがそのような強烈な光の刺激を経験したのは、たとえばポール・シャリッツやガイ・シャーウィンといった実験映画作家やビデオ・アーティストたちの作品群でした。フィルムの1コマ1コマを別の色で塗り分けたり、直接パンチで穴を開けたりすることで、高速で強烈な光の明滅、フリッカー効果を生み出す彼らの映画もまた、分析的に画面を視ることよりもむしろ、からだ全体に直接作用してくるような、魅惑的ですが危険極まりないフィルムです(こうした効果は以前「ポケモン・ショック」で問題にもなりました)。しかし、フィルムの物質性に注目し、ストーリーや登場人物など様々な要素を削ぎ落とし、幾何学形態や色彩の明滅が延々と続くミニマムな映像によってある種のトランス体験を生じさせる彼らのフィルムに対して、『トランスフォーマー』の速度は、様々な位相にある具象的な運動が、それぞれが独立しつつ、ひとつの画面上にかさね合わせられた結果として現れてくる点において大きく異なっています。では、その様々な運動とはいったいどのようなものでしょうか。



※非公式


 まず、トランスフォーマーが変形する運動があります。そのシーンでは、私たちのよく知る自動車やトラックのかたちが大胆に折れ曲がったり、回転したりする大きな運動を軸として、そこに大小様々なパーツがせり上がってきたり、分裂したり、埋没していったりを繰り返していきます。さらに、無数の変形の同時展開だけでも目で追うのが大変なのに、その運動は他のトランスフォーマーとの戦闘や飛行、走行といった動作と平行して行われます。そうなってしまえばもはや、何かどうなって変形したのか、どのパーツがどこに移動したのかを正確に把握することは困難でしょう。

 また、激しく動き回るのはトランスフォーマーだけではありません。ビルの破壊によって飛び散る破片や粉塵、爆発や燃え上がる炎、戦場を駆け回る人びと、カメラに差し込んでくる光といったものが、画面全体の運動をさらに複雑なものにします。どれかひとつに焦点を合わせようとすると、別のものが見えなくなってしまう。しっかりと見ようとすればするほど、画面全体で何が起きているかが分からなくなってしまうのです。




※非公式




 そしてそこに、カメラワークの運動が加わります。アメリカでは「ベイ・ヘム」と呼ばれているというマイケル・ベイの特異な撮影スタイルはこの映画でも存分に発揮され、カメラは上空や地面スレスレ、ビルの狭間などあらゆる角度からトランスフォーマーに突進し、その周囲を回り込みながら変形シーンを映し出します。高速で移動するカメラがトランスフォーマーの蠢きを超至近距離から映し出すさまは、さながらオールオーバーの抽象画のようです。またここでも実験映画を例に出すならば、「動く抽象画」とも言われることのあるスタン・ブラッケージのフィルムを想起したりもします。ブラッケージの作品では、フィルムに直接貼付けられた蝶の羽や葉っぱなどの具象物が、1フレーム毎に次々と入れ替わっていくことによって抽象化されていきますが、『トランスフォーマー』もまた、機械の塊や自動車やビルといった具象的な物体が高速で動き回ったり変形したり砕け散ることで、画面全体がトランスフォームしていくように見えるのです。






 最後にもうひとつ付け加えておくと、脱力感たっぷりなマイケル・ベイのギャグセンスも、映画全体の速度に貢献しているのではないでしょうか。そのぐだぐだな笑いは観客の心身を弛緩させ、緊張を解きほぐし、高速で展開するアクション・シーンとのあいだに大きなギャップをつくりだします。(『黒子のバスケ』で黄瀬涼太が、身体能力で敵わない青峰のチェンジ・オブ・ペースを模倣=コピーするために、あえて自らの最低速度を遅くすることで最高速度との振れ幅を大きく見せかけるように)。その振れ幅によって、いっそう観客の体感速度は増すのです。このことは、作中に幾度か挟み込まれるスローモーションのショットにも言えるでしょう。そこで重要なのは、映像がゆっくりと流れているその時間自体よりもむしろ、再び速度が通常に戻る瞬間に生じる加速感覚のほうなのです。


 (2)『トランスフォーマー』以後

 『トランスフォーマー』が他の映画作家や製作会社に強いインパクトを与えたのか、あるいはこの映画の制作を可能にしたVFX技術がもたらした同時代的な傾向なのか、2000年代の後半には、『トランスフォーマー』が開けた穴に飛び込んでいくようにして過剰な速度を持ったハリウッド映画が次々と現れました。わたしはそうした映画を貪るように観てきましたが、なかでも印象に残っている作品をいくつか取り上げてみたいと思います。

 ひとつめは、『トランスフォーマー』と同じパラマウント社が製作したG.I.ジョーです。この映画は全体を通して観るとどうも散漫で、終盤のクライマックスも今ひとつ盛り上がりにかける印象でした。けれども中盤、パリでのカーチェイス(?)が非常に素晴らしく、わたしはそのシーンを観るために何度も劇場に足を運びました。




 さて、「カーチェイス(?)」と書いたのは、追跡劇を繰り広げる二者のうちの一方が「車」ではないからです。より正確には、紆余曲折を経て特殊部隊「G.I.ジョー」のチームに参加することになったふたりの兵士が、ぶっつけ本番で全身に強化スーツを装着させられ、特殊な化学兵器を盗み出したテロリストの車を全力で「走って」追いかけるというシーンなのです。




 このように書くと、1991年に制作された『ターミネーター2』でバイクを走って追いかける最新型ターミネーター「T-1000」の姿を思い浮かべるひともいるかもしれません。けれども『G.I.ジョー』が面白いのは、走っているのがロボットやサイボーグのような完全な機械ではなく、あくまで人間であるということです。

 そこでは、強化スーツが実現する速度と、それに包まれた人間自身が持つ速度のズレが視覚化されています。彼らは、想像を超えた力で一気に加速するスーツの速度についていけずに、よろけたり、転んだり、ねじれたり、建物や車に激突してしまったりする。またそれだけではなく、何とか障害物を避けて意図どおり走ったりジャンプしたりする動作のなかにさえ、スーツの速さに追いつけない身体の遅さ、重さというものがはっきりと感じられるような運動が描き出されているのです。

 こうした運動は、人体のトランスフォーム感覚を引き起こします。彼らの着る強化スーツはトランスフォーマーのように大きく変形することはなく、基本的には人間のかたちを保っているのですが、
(1)標的を追って前方に駆け抜けていこうとする運動、
(2)スーツに追いつけない肉体の重さが下へ引き降ろそう、後ろへ引き戻そうとする運動、
(3)障害物を避けるためにからだをねじり曲げる回転運動

などが混ざり合って、観客の目にはまるで、人体がぐねぐねとトランスフォームを繰り返しているように見えてきます。変形無しの変形を成し遂げたことによって、『G.I.ジョー』は『トランスフォーマー』の速度に別の可能性を付け加えたのではないでしょうか。

 個人的には『G.I.ジョー』ほどのインパクトには欠けるものの、特攻野郎Aチーム THE MOVIEにも見事なシーンがありました。




 やはり紆余曲折を経て、空の上でアメリカ空軍の無人機から攻撃を受ける羽目になった「Aチーム」のメンバーは、乗り込んだ軍用機に積まれていた戦車に乗り込み、間一髪のところで脱出します。空中に放り出された戦車は当然のことながら一気に落下していきますが、なんと彼らは戦車の主砲を地上に向けて繰り返し撃ち、その反動で減速し、最終的にはパラシュートを開いて湖に不時着して見せるのです。




 まさに荒唐無稽としか言いようのないシーンなのですが、ここでの見所もまた、複数の運動がぶつかり合い、絡み合うことによって起こる効果です。
(1)鈍重な鉄塊が勢い良く落ちていく運動と、
(2)なにもない空間へ向けて主砲が火を吹き、僅かなあいだだけ重力に逆らって鉄塊を浮き上がらせようとする運動。

この二つの運動が衝突したときに起こる空気の震えと束の間の浮遊感が、眼を通してからだ全身に伝わってくるのです。

 もうひとつ、「トランスフォーマー」シリーズの続編についても触れておきたいと思います。マイケル・ベイは、一作目で達成した速度を、当然のように二作目、三作目にも継承・発展させました。




とりわけ圧巻なのが、三作目である『トランスフォーマー:ダークサイド・ムーン』のクライマックス、あらゆるものを掘削しながら移動するワーム型のトランスフォーマー(ドリラー)が、高層ビルの上階に隠れた人間たちを襲うシーンです。




 そこでは、先に述べたようなトランスフォーマーの変形・移動と縦横無尽なカメラワークに加えて、倒壊するビル(=登場人物と観客双方にとっての足場)の傾きによる水平感覚・平衡感覚の揺さぶり、砕け散るガラス片や舞い散るオフィスの書類、転げていく机や椅子、落下する事務用品といったものが、それぞれのかたちや重さ、性質に応じて、異なる速度・異なる軌道を描きながら画面を覆い尽くしていきます。

 また本作が、シリーズ初の3Dであることも重要です。3Dで奥行きが強調されることによって、上述した様々な運動の関係性がよりいっそう複雑化することももちろんですが、それだけではありません。わたしは、3Dがもたらす最大の効果は、画面全体を分析的に見つめることが出来なくなる点だと考えています。3D映画の観賞後、何を観ていたのかよく覚えていないような、ぼんやりと夢を見ていたような気分になったことがあるひとは多いのではないでしょうか。3Dでは、画面全体に焦点を合わせることが難しく、ある対象をじっくり見つめると、2D以上に別の箇所の印象がぼやけてしまいます。そして、ぼやけてしまうこともまた、新たな画面の運動のひとつとなるのです。そう、ここでの3D効果は、「トランスフォーマー」シリーズの画面を凝視しようとすればするほど全体が見えなくなっていく特徴をますます強める働きをしており、それによって、一作目や二作目をはるかに超えた画面全体のトランスフォーメーション感覚を引き起こすのです。この作品においてはもはや、トランスフォーマーは単に作中に登場する生物の名称であることを超えています。画面に映っているものすべてがトランスフォーマーなのだ! この世界はすべてトランスフォーマーなのだ!と言いたくなるような映像体験を、マイケル・ベイは見せてくれるのです。


こちらの記事もあわせてどうぞ

学術的な魔女っ子論 須川亜紀子『少女と魔法』 サリーからプリキュアまで:Book News


 

佐々木友輔 プロフィール


映像作家・企画者。映画制作を中心に、展覧会運営や書籍出版などあれやこれやに手を出して活動中。
映画最新作は長塚節のを翻案した『土瀝青 asphalt』(2013年)。主な著作にfloating view "郊外"からうまれるアート(編著、トポフィル、2011年)がある。
茨城と手ぶれ映像と媚びてないゆるキャラが心の支え。
==================================

「Book news」では出版系のイベントからマニアックな新刊情報まで、
本に関する情報を収集して紹介しています。
↓お問い合わせはこちら↓
nagata.nozomiあっとまーくgmail.com

twitterアカウント(@n11books)でもときおり呟いております。