今回は佐々木監督、賛否両論(僕の観測範囲ではアンチ多め)の作品『マン・オブ・スティール』を全力で「受け止め」る議論を展開しています。個人的には、アーキテクチャによって過視化した『ダークナイト』のバットマンの問題と、生まれつき「視え過ぎてしまう」スーパーマンのこの問題を、どう佐々木監督が結びつけて考えるのかが気になりますが、それはまた別の機会に。




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 (1)世界を小さくすること

 2011年に観た『トランスフォーマー:ダークサイド・ムーン』は、わたしの知るかぎり、世界でもっとも過剰な速度を持つ映画でした。しかし昨年、いよいよそれを超える映画に出会うことができました。それが、ザック・スナイダー監督が「スーパーマン」を実写映画化したマン・オブ・スティールです。

 第一に、この映画では『ダークサイド・ムーン』以上にヴァリエーション豊かな運動と速度に触れることができます。2D版だと魅力が半減してしまうので、できれば大画面&3D版を観賞してみてください(家庭での観賞なら、ソニーのヘッドマウントディスプレイ HMZ-T シリーズがオススメです)。『G.I.ジョー』のように強化スーツに頼らずとも、生身のからだのまま速く、強く動くことのできるスーパーマンの縦横無尽な飛行、はためくマント、戦いの中で互いに打ちつける、吹き飛ばす、飛び跳ねる、叩きつけるといった動きを見せ、躍動する身体。登場人物たちに負けじと駆け回るカメラワークが引き起こす、『特攻野郎Aチーム』の戦車落下シーンのような水平感覚・平衡感覚のかく乱。激しい戦闘によって揺れかたむき、砕け散り、削りとられ、崩れていく建築物。ワールドエンジンと呼ばれる装置によってふわりと宙に舞い上がり、地面に叩き付けられ、ひしゃげていく自動車や瓦礫の山——。前回紹介したいくつかの映画の達成を踏まえつつ、さらなる過剰さをそなえた『マン・オブ・スティール』の映像に、きっとマイケル・ベイは心底悔しがっていることでしょう(現在制作中と言われている「トランスフォーマー」シリーズの四作目に期待が高まります)。




 映画の序盤に印象深いシーンがあります。詳しくは後述しますが、スーパーマンはクリプトン星からやって来た異星人で、母星での名はカル=エル、地球ではクラーク・ケントという名で暮らしています。そんなクラーク/カルは幼い頃、周囲の人びとと自分との違いに戸惑い、怯えていました。クリプトン人の特殊な眼は、扉や壁の向こう側まで透かして見ることができ、人間を見つめれば、レントゲン写真のように骨格や心臓が脈打つ様子まで見えてしまいます。時計の針の音がうるさく響き、他人の心の声が勝手に頭のなかに入ってきてしまう。そんな、見えすぎ、聞こえすぎる状態に耐え切れなくなった彼は、学校の掃除用具置き場に立てこもり、「世界は大きすぎるよ」と不安を口にします。すると、それを聞いた彼の地球人の母親が、「小さくしたら?」と優しく語りかけるのです。
「私の声に集中して。海にポツンと浮かんだ島だと思うの。見えた?」
「見えた。」
「じゃあそこまで泳いで。」

 そして終盤、自らの使命を悟り、地球を守る決意をしたクラーク/カルは、とてつもない速さで空を飛び、あっと言う間に地球を一周し、地上と宇宙と自在に行き来してみせます。ただひたすら速く飛ぶことで、母がかつて言った言葉を現実化し、ほんとうに世界のスケールを小さくしてみせるのです。世界を小さくする——そんな、言葉の上でだけ可能に思えるような表現が、目に見える具体的な映像として描かれたことに、わたしはとても驚き、感動しました。

 このように、『マン・オブ・スティール』の過剰な速度は、ただアクション・シーンを盛り上げるためだけにあるのではありません。それはクラーク/カルというひとりの人物を軸にして語られる、地球人とクリプトン人という、異なる世界に生きる二つの種をめぐる物語と、より深く、密接に結びついているのです。


 (2)わたしたちはどこまでよそ者を受け入れられるのか

 先にも触れたように、後に地球人から「スーパーマン」と呼ばれることになるクラーク/カルは、クリプトン人の生みの親と、地球人の育ての親という、二組の両親を持っています。クリプトン星の滅亡を悟った両親が、まだ赤ん坊だった彼を宇宙船に乗せて地球へと送り出し、不時着した彼を見つけた地球人の夫婦によって育てられたのです。強大な力を持つクラーク/カルは、地球での父親に「まだ能力を人に見せてはいけない、人類はまだそれを受け入れることができない」と言われ、不満を抱きながらもその約束を守り、陰ながら人びとの命を救ってきました。しかし、クリプトン人の生き残りであるゾッド将軍が地球に現れたことをきっかけにして、クラーク/カルは自らの正体を地球人に打ち明け、敵ではないことを示した上で、地球に入植して地球人を根絶やしにしようとするゾッド将軍を迎え撃つ。これが『マン・オブ・スティール』のおおざっぱなあらすじです。

 ただし、この映画での「スーパーマン」の立場は少々複雑です。そもそもゾッド将軍が地球にやってきたのは、クラーク/カルのとったある行動が原因でした。無自覚ではありますが、彼が地球に居たことが結果的に人びとを危険に晒してしまったのです。また、地球全体の滅亡は免れたとはいえ、彼とゾッド将軍の戦闘は、ひとつの都市を壊滅させるほどの被害を与えてしまいました。ここでは、どれだけ地球人を守ろうとしても、やはり彼はあらゆる意味で地球人を超えてしまった存在なのだということが露呈しています。同等の力を持つ敵と戦おうとすれば、手加減をすることはできず、周囲に配慮して戦うことも難しい。彼が全力で空を飛び、手足を動かすだけで、多くの人びとを傷つけ、危険に晒すことになってしまうのです。彼の地球での父は、それを知っていたからこそ、力を隠すように言ったのでしょう。たしかにこれだけの犠牲を出してしまっては、とてもヒーローとは呼べない。ふつうに考えれば、地球人は彼の存在を受け入れられるはずがありません。

 しかし別の見方をすることもできます。そもそもクラーク/カルは、神でもなければヒーローでもありません。つい最近まで、自らの出自を知ることもなく生きてきたひとりの若者であり、地球への亡命者なのです。そのように考えるならば、彼は地球人を救う側ではなく、むしろ地球人に救われる側なのではないでしょうか。ゾッド将軍に投降を呼びかけられたとき、クラーク/カルは教会を訪れて、神父に悩みを打ち明けます。
「ゾッド将軍は信頼できない。問題は、地球人も信頼できないことです。」

 そう言って返答を待たずに立ち去ろうとする彼に、神父はこう答えます。
「まずは信じてみることです。信頼関係はあとから築かれる。」

 この言葉を聴いたクラーク/カルは、自ら投降し、地球人に身を委ねます。そして地球人のほうもまた、半信半疑ながらも彼を受け入れることを選択する。もちろんそれは簡単なことではなく、最後まで地球人の心は信頼と疑念とのあいだを揺れ動きます。けれども神父は、「まずは信じてみること」、すなわち「われわれを信じよ」というメッセージを発しました。兵士たちも戦闘の中で「この男は敵じゃない」と認めました。こうして地球人は、自らの誇りをかけてクラーク/カルを信頼し、守り抜く責任を負ったのです。

 映画のクライマックス、ニューヨークに現れたゾッド将軍が、地球をクリプトン人にとって最適な環境に変える(そうすると地球人には住めない環境になる)装置ワールドエンジンを起動させ、それを止めるために地球人とクラーク/カルが協力して戦うシーンは、星と星の衝突であり、文化と文化の衝突であるといった様相を呈してきます。わたしがこのシーンを観て思い浮かべたのは、漫画『テラフォーマーズ』にでてくる「125万種以上の生命の炎が燃え盛る『地球』を嘗めんなよ」という台詞でした。この戦いは一見すると、クラーク/カルも含めたクリプトン人が地球人の都市を一方的に蹂躙しているようにも見えますが、少し見方を変えれば、都市が彼らを受け止め、包み込もうとしているようでもあります。いや、ひとつの都市に留まらず、地球という惑星全体が揺さぶられながらも、その攻撃を受け止め、地球人や異星からの亡命者を守ろうとしているように見えてくるのです。それはさながら、クリプトン人と地球人双方の子どもとして生まれたクラーク/カル=スーパーマンをあやす、揺りかごのようです。

 もしも「スーパーマン」をヒーローや救世主と捉え、彼が地球を救うのが当然という立場からこの映画を見るならば、たしかにこの都市の破壊描写は許しがたく、度がすぎたものに見えます(わたし自身、ウッと引いてしまう場面が少なからずありました)。けれども、クラーク/カルという亡命者を地球人が救う物語として観るならば、『マン・オブ・スティール』は、よそ者を受け入れるためにひとはどれだけ痛みを引き受けられるのか、また、どれだけ痛みを引き受けるべきなのかという問いを観客に投げかける映画であるようにも見えてきます。


 (3)異なる速度に触れる

 さて、そろそろ画面と速度についての話に戻りましょう。『マン・オブ・スティール』では、このような、地球人とクリプトン人という二つの種の問題が、物語だけでなく映像面でも表現されています。言いかえれば、それぞれの見ている世界の違いが、異なる二つの速度によって描き出されているのです。ひとまず、その二つを「地球人の速度」と「クリプトン人の速度」と呼ぶことにして、もう少し具体的に説明したいと思います。

 第一に、「地球人の速度」は、クラーク/カルや他のクリプトン人の運動速度に「追いつけないもの」として現れてきます。たとえばゾッド将軍の部下と地球人の兵士たちが戦闘を繰り広げるシーンでは、まるでアニメ「ドラゴン・ボールZ」でモブキャラたちが実力者同士の戦闘を固唾をのんで見守っているときのような描き方がなされています。地球人たちは、超高速で移動するクリプトン人の速度を目で追うことすらできず、一瞬の残像を見ることしかできません。それは観客も同じで、あまりにも速い画面の動きについていけず、置いてきぼりにされて、ただただ呆然とするしかないのです。

 一方、こうした地球人の感じる速度に対して、「クリプトン人の速度」も視覚化されています。たとえばクラーク/カルがはじめて空を飛ぶシーンでは、FPS(一人称視点)やTPS(三人称視点)ゲームのように、カメラがクラーク/カルの飛行にぴったりと寄り添い、まるで彼が見ている主観的世界を共に眺めているかのような感覚を味わうことができるのです。

 そして、こうした異なる二つの速度をつなぐ鍵となるのが、作中随所に見られるカメラのズーム運動です。このズームについては、映画を観ていて気になったひとも多いのではないでしょうか。まるでデジタル・ビデオカメラのズーム機能を使ったように、飛来する宇宙船や爆発するビルなどの「見るべき対象」に狙いを定め、拡大して捉える一連のショットは、本作がいわゆるフェイク・ドキュメンタリーとしてつくられているのではないだけに、少々唐突な印象を受けます。ひとによっては、安易なドキュメンタリー・タッチだと批判的な感想を持ったのではないかと思います。

 ではなぜ、ザック・スナイダーはこのような不自然なズームを多用したのでしょうか。そのヒントになるのが、クラーク/カルが遠方から飛来するUFO(ゾッド将軍の宇宙船)を視認するシーンです。あるとき、クラーク/カルの地球人の母親が夜空に浮かぶ一点の光を見つけます。そしてクラーク/カルが母のもとに駆けつけて空を見上げ、驚異的な視力でUFOが地球に降り立とうとするのを確認する——ここで、クラーク/カルの主観ショットにあのズームが使われます。すなわち、ここで明らかになるのは、あのビデオカメラのようなズーム運動は、クリプトン人の見ている世界を映画的に表現したものだということです。そして、これに加えて重要なのは、クラーク/カルがその眼でズーミングして見ているUFOの映像と、別のシーンで、世界中の地球人たちが見つめているテレビ・ニュースに映し出されたUFOの映像が、非常に似通っているということです。

 これはどういうことでしょうか。わたしの考えでは、『マン・オブ・スティール』は、地球人とクリプトン人の見ている世界の違いを、映画という「技術」を通して出会わせるための映画です。すでに述べたように、生身のからだでは、地球人はクリプトン人の速度に追いつくことができず、呆然と立ち尽くすことしかできません。けれども、たとえば自動車に乗ることで、飛行機に乗ることで、地球人もクリプトン人の速度にわずかなりとも近づくことができる。映画もまた同様です。

 わたしたちが、「スーパーマン」という架空の存在が見る主観的世界を共に眺めているかのような体験を味わうことができるのは、まさに観客として劇場に出かけ、3Dメガネをかけて、スクリーンに映る映像に没入することによってなのです。ズーム運動は、こうした、技術による二つの世界の出会いを象徴しているのではないでしょうか。それは、クリプトン人が見ている世界の表現であると同時に、技術の力を借りて生身の人間を超えた者(=スーパーマン!)が見る世界の表現でもあるのです。

 近ごろ創刊された、A2という世界最大サイズの雑誌「アニメグラフをご存知でしょうか。この雑誌のキャッチコピーには「目で触れる」という言葉が用いられていました。420×594mmという巨大な紙面いっぱいに高精細で印刷されたキャラ絵を見つめる経験は、まるで見ることを通してキャラに触れるような経験なのだというわけですが、実際、現物を見ると(触れると)非常に説得力があります。




 この、「目で触れる」という表現の背景には、ヴァルター・ベンヤミンやモーリス・メルロ=ポンティらの議論があるようですが、そのベンヤミンは、映画の触覚性について論じています。彼は、事物の近接視的把握を触覚的、遠隔的把握を視覚的とした美術史家アロイス・リーグルから示唆を受け、クローズアップ・ショットや短いショットの転換に「映画の触覚性」を読みとっていました。この、触覚性と「近さ」を結びつけるベンヤミンに従うならば、あのズーム運動もまた、見ることの触覚性に関わっていると言って良いでしょう。




 さらに、はじめから対象を間近で捉えるクローズアップとちがって、ズーム運動には、離れた場所から対象を追いかけ、それに追いつき、触れるというプロセスが伴います。未知のものに眼差しを向け、その速度に追いつこうとすること。ただ遠くから眺めるのではなく、側に寄って触れようとすること。あのズーム運動には、そのような意味が込められているのではないでしょうか。そしてわたしは、『マン・オブ・スティール』という映画全体に、「この私」であることの物理的限界を超えて、まったく異なる世界に生き、まったく異なる速度を生きる者に触れたいという、ザック・スナイダーの切実な願いが込められているような気がするのです。



 

佐々木友輔 プロフィール


映像作家・企画者。映画制作を中心に、展覧会運営や書籍出版などあれやこれやに手を出して活動中。
映画最新作は長塚節のを翻案した『土瀝青 asphalt』(2013年)。主な著作にfloating view "郊外"からうまれるアート(編著、トポフィル、2011年)がある。
茨城と手ぶれ映像と媚びてないゆるキャラが心の支え。
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