「崇高な」何か、その何ものかの「崇高さ」、それは何なのか。政治や宗教、あるいは文化的な場面で「崇高」という言葉を目にする機会は現代に生きる人々にとって珍しいことではありません。

もちろん普段の家庭生活やビジネスシーンで崇高について語るなんてことはまず無いでしょう。しかし、ちょっと特別な場面になら、すぐに「崇高」という言葉には出会ってしまう。政治家の演説、美術や音楽を評する言葉、フィクションのキャラクターが抱く理想、「崇高なもの」に出会わないようにする方が難しいくらいです。

今回ご紹介する崇高の修辞学は、古代ギリシャから20世紀のアメリカにいたる哲学の歴史の中で「崇高」がどのように語られてきたのかを辿る試みです。

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冒頭で「崇高なものに出会わない方が難しい」と書きましたが、例えば政治家の発言においては安倍首相は演説で「崇高な理念」に言及しています。他方で、最近ちまたを騒がせているアメリカのトランプ大統領は、歴代の大統領たちと比べて「崇高な理念」を掲げないという点で特殊だという分析もあります。

アートの世界では、たとえば国立新美術館で開催された大規模な「アンドレアス・グルスキー展」のレビューのタイトルに「〈統御された崇高〉」という表現が見られます。音楽に関しては、とりわけクラシックの演奏の評価に「崇高」という言葉がよく使われています。

ビジネスでも、ビジネス書ならば松下幸之助が「人間とは崇高にして偉大な存在である」と断言したりしています。

言葉とは、使われる場面によってその意味合いを大きく変えるものなので、ここでいま挙げた「崇高」が全て同じ意味を持つとは考えられません。では、これらがまったく別々のことを意味しているのか、というとこれもまた違うと言うべきでしょう。ここの意味合いは独立しているとしても、同じ表現を使っている以上、重なったり、影響がうかがえるという可能性は大きいのです。

『崇高の修辞学』は、先ほど書いた通り哲学の文脈における「崇高」の概念の歴史を追うものですから政治家や市井の人々の言葉遣いとはかけ離れていると考えたくなる読者がいても不思議のないことです。しかし例えば「経営の神様」と呼ばれる松下幸之助も、その著書で哲学者カントの思想を引用しているなど、明確に関係が認められる場合もあります(松下幸之助のカント理解が哲学的に妥当であるかどうかはこの際いったん横におきます)。

さて、『崇高の修辞学』は大きく分けて3部構成になっています。

古代から中世、「崇高」という概念が哲学の中枢においてどのような重要性を与えられてきたのかを振り返る第I部。

近代になり、カントのような大哲学者たちが現代にまで大きな影響を及ぼすに至ったその思想の中に「崇高」の概念をどのように取り込み位置付けたのかを辿る第II部。

そして現代になり、「崇高」がどのように論じられているのかを紹介する第III部。

すべてを通して読むことで、「崇高」という、人の身では到達できないかもしれないほどの「高み」を目指す概念が、書名にもある「修辞学」というきわめて人間的な技術論と深く結びついたものだということを理解することができます。

本書のもとになった論文「修辞学的崇高の系譜学」は、そのまま本書の内容を指し示していると言えるでしょう。ここでいう「修辞学的崇高」とは、第II部で扱われるカントが論じて、現代の哲学においてもほぼ決定的な説得力を持っている「美学的崇高」と対比的に扱われる概念です。

カントはその主著のひとつ『判断力批判』において、同じく第II部で扱われるボワローとパークの思想を継承して「崇高」を「美」と対立するものと定義しました。曰く、「生を促進する感情を直接的にともない、したがって感覚的な刺激や構想力の遊動と一致しうる」という「美」が積極的な「快」であるのに対して、「崇高」はそのような積極的な快ではない「消極的な快」「間接的な快」である、というのです。

「崇高」を「美」の対比で捉えるカントの崇高概念は、「われわれの感性的経験」に関わるものだという前提が重要です。カントは『判断力批判』において文字通り「修辞学」を攻撃しており、先行するボワローやバークの崇高論からその修辞学的性格を剥ぎ取ろうとしていたとも言えるでしょう。

現代の崇高論において支配的な影響力をもつカントの思想から議論を始めずに、本書が古代ギリシャから話を始めているのは、カントの崇高論がいわば「修辞学的崇高」を批判していたことを提示するためなのです。カントが否定し、その崇高論から排除しようとした「修辞学的崇高」とは何なのか。それを知ることは、「崇高」をより深く理解することです。

そもそも弁論術や雄弁術とも訳される修辞学(rhetoric)は、「聞き手の魂を効果的に誘導するための技術ないし小細工」として古代ギリシャにおいても批判されていました。その代表的なものがプラトンによる批判ですが、カントもその伝統を踏襲し、「重要な事柄に関して人間を機械としてある判断へと傾ける術」「この技術は、国家がみずからの破滅へと急ぎつつあるときに、そして真の愛国心が消滅したときに栄えるような、退廃的な技術である」と考えていました。

そもそも古代ギリシャにおける修辞学、とりわけ本書でもたびたび言及されるロンギノスの『崇高論』は、聞き手を魅了し感動を与えるような言語活動一般の「崇高さ」を論じていました。本書はロンギノスが「技術」について論じていたわけではないことを強調しています。

一般に「雄弁術」「説得術」と訳される修辞学において、技術ではないが聞き手を魅了し感動を与えるもの。それがロンギノスが論じた「崇高」であり、カントが「美」と対比しつつ論じた「美学的崇高」とは別の「修辞学的崇高」なのだ、と言えるでしょう。

本書は古代、近代、そして現代という、2000年以上の時間的スパンのなかで、いわばこの「聞き手を魅了し感動を与える言葉の使い方」の、「美」でもなければ単に「技術」とも言えない側面を丹念に追いかけます。

本書を読むことで、たとえば誰かの話を聞いて感動したり、何かを読んで魅了されるようなときに、そこで「崇高」を感じて思考を停止することなく、それが何なのかを見つめ返すことができるようになるかも知れません。そしてそれは、多様化するメディアが増殖して人々の視野を覆い尽くし、記憶も思考もそれに圧倒してしまいがちな現代の状況にあって、なお考え続けるためにまさに必要な態度のような気がします。