今回ご紹介するのは、2015年に邦訳が刊行された動いている庭です。本書を今回取り上げるのは、本書と同名の映画が池袋のロサ会館で上映されているからです。映画『動いている庭』は、書籍『動いている庭』の著者でありフランスの高名な造園家・作庭家のジル・クレマンを追ったドキュメンタリーです。映画の話はひとまず横に置いて、まずは書籍の紹介から。

 

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本書のタイトルにもなっている「動いている庭」とは、著者であるクレマン氏が自宅に作った庭のこと。というか、この庭を作るためにほぼ廃棄されていた土地を見つけて、そこに住むことにしたという場所。クレマン氏が「荒れ地」と呼ぶのは、人為的な秩序からはずれてしまったような土地のことです。しかしクレマン氏は「荒れ地」は人為が敗北したところなのではなく、「そこに庭をつくれるのではないか?」と考えます。本書は、ひとつにはその具体的な記録であり、同様のコンセプトで作られたいくつものほかの「庭」についての紹介です。

 

無数のスケッチ、地図、そして美しい多様な植物の写真たちが散りばめられている、というよりも文章とほぼ同量に収録されており、読みながらまるでクレマン氏に「庭」を案内されているような気持ちになります。巻末には「植物リスト」があり、そもそもそれぞれの「庭」ごとに植えられた植物についての解説が書かれているので、植物の名前からも、庭の方からも検索することができます。本書は序盤にクレマン氏の哲学的とも詩的とも言える世界解釈が開陳され、そのままその解釈から導かれた作庭方法というか、植物たちに対する采配が綴られていき、最終的に壮大な「惑星としての庭」というイメージにまで到達します。

 

 

「動いている庭」予告編 from texsite on Vimeo.

 

さて本書と同名の映画の方は、植物学にも詳しい研究家肌のクレマン氏の自宅に作られたそのまま「動いている庭」と名付けられた広い「庭」の1日と、クレマン氏が日本に来て日本の庭を眺めたり、イベントに出演して語る内容などをまとめたもの。映画が本書の解説になっているというわけではありませんが、クレマン氏の哲学を駆け足で理解するのにとってもお手軽です。「庭」のようすをたとえば1年とか数年がかりで追うとなればまた別の雰囲気になり、それはそれで興味深いのですが、本作で撮影されたのは監督が「庭」を訪れたたった1日分。しかし「庭」はとても多彩な表情を持っており、クレマン氏に案内されているととても1日の出来事とは思えませんでした。

 

クレマン氏じしんの魅力も素敵なのですが、やはり「庭」の素顔に触れられるのもありがたい。なにしろ、書籍のほうに収められている美しい写真の数々は、基本的にはそれぞれの植物たちがもっとも美しい瞬間、もっとも美しい季節に撮影されたもの。映画のほうには、たとえば花がみな落ちてしまった場所が撮影されています。時期によって表情を変えるという「動いている庭」の本質を、ある意味で端的に示しているのではないかと思いました。

 

庭園史について書かれたわけではない本書の内容からは少し離れてしまうけれど、本書を読んで考えたことを以下に少し書いておきます。庭というものはクレマン氏が指摘するように「囲われた土地」を指すものです。それは、本書の重要な概念的な背景をなす「内と外」の二律背反というかパラドックス(ズレ)こそが庭であるという主張を支えています。この「囲われた土地」あるいは「内と外のパラドクス」というのは、外部のカオス(エントロピー)と内部のコスモス(秩序)が混じり合う緊張関係そのものでもあります。クレマン氏はそれを「荒れ地」などの概念で語るわけですが、これを本書で言うところの「惑星という庭」というイメージに取り込むとき、人間社会あるいは都市というものがある種の「荒れ地」として現れてくるのではないか、そう考えることも可能なように思いました。

 

そもそも都市の原型とは何かという考古学的な問いがあります。都市の起源は、たとえば砂漠のオアシスだったのではないか、以前とある会合で出口治明氏にお目にかかったときに出口氏から伺ったテーゼです。クレマン氏の「エントロピーと秩序のパラドクス」は、砂漠のなかの逃げ水の周りに束の間あらわれるオアシスを囲って栄えたかもしれない始原的な都市の姿と重なっているような気がしてくるのです、

 

現代ではもっぱら住居の設計ばかりが仕事だと思われがちな建築家ですが、その本業とは人間の生活の設計であり都市のプランを建て人間の社会を「建築」すること。そうであるとすれば、庭園を、人間社会のメタファー以上のものとして「造営」していくことはいささかも突飛な発想ではない、と言えるのではないでしょうか。

 

庭園と人類史について考えるときにもうひとつ想起したいのは、本書の補遺でアラン・ロジェが触れているとおり、18世紀のイギリス庭園における二律背反の問題です。これは日本でも高山宏氏が繰り返し言及しているテーマであり、高山氏が絶賛したイギリス風景式庭園の美学でも展開されていた問題です。ここで言うイギリス風景式庭園というのは、ほぼ極限まで端折って言ってしまえば、いわゆる幾何学的なフランス・イタリア式庭園に対抗するようにしてイギリスで発達した「自然趣味」の庭園のことです。


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東浩紀ゲンロンゼロ 観光客の哲学や、そこでも少し言及されていた岡田温司グランドツアーでも紹介されていた、イギリス人貴族が「ヨーロッパ」の起源を辿るためのヨーロッパ旅行、とりわけアルプス越えの崇高な体験や、ローマやギリシャの廃墟の体験を、地元のイギリスでも再生産しようというのが、このイギリス風景式庭園です。そこでは、ヨーロッパの起源にして理想である「自然な」様子を人為的に反復しようとするところに矛盾があります。その矛盾を象徴していたのが絵画でした。当時のイギリス人にとっては、「絵のように美しい」庭園こそが理想だったのです。理想的な自然を描いた絵画のような庭を人工的に作る、という倒錯的な趣味。また、帝国主義時代のイギリスでは、世界中からプラントハンターが集めてきた何千種という植物が、産業革命期の荒んだ人々の心を愉しませると言われていました。もちろん珍しくて高価な外来種を、労働者階級の人々が手に入れることはできません。しかし裕福な地主たちがこぞって珍しい植物を育てる趣味を興隆させたことによって、都市に緑豊かな公園を作るべきだし、庶民も庭いじりを趣味とすることが望ましいとするような思想が生まれたのです。

 

なお脱線の脱線ですが、やはり『ゲンロンゼロ』で「観光客の哲学」を代表する記念碑的な役割を与えられていたガラス張りの「水晶宮」。このガラス張りの建造物という技術は、庭いじりと珍しい植物のために発達した「温室」のために発展していた技術だったのではないかと個人的には考えています。現代の21世紀の高層ビル群の先祖が、南国の植物を愛でたり自慢したりするための温室だったと考えるとちょっと面白いではありませんか。

 このあたりについては、以下の論文がモノスゴク興味深いのでご興味のある方はどうぞ。
近代英国のガーデニングとモラル
http://www.kobe-yamate.ac.jp/library/journal/pdf/univ/kiyo14/14tachibana.pdf



さて、脱線がはなはだしいのでそろそろ話をもとに戻しましょう。このような近代的な社会に対して、人間ごと排除し「自然」を復興させようという過激な思想が20世紀の後半から芽吹いてきます。人間でありながら人間を排斥しようというこの「ディープエコロジー」の一派を、やはりエコロジー的な思想をもっているクレマン氏は批判し、危険視しています。ディープエコロジーは優生思想的であり、植物についても外来種を締め出そうというもの。これに対してクレマン氏は多様性に目を向けます。さきほど触れたイギリス風景式庭園は古典回帰的でしたが、これに対してもクレマン氏は「ノスタルジーではなくエントロピー(カオス)を」というような書き方をしているところから、批判的なのではないかと思われます。

 

クレマン氏は、本書の中でフランスのローカルな気候風土をけっして無視しないのですが、それと同時にやはり植物が「動く」ことにきわめて意識的です。それはひとつの「庭」のなかで植物が移り変わっていくというサイズの話ではなく、国を越えて、大陸を越えて、様々な種が相互に移動しているという惑星規模の話なのです。イギリス風景式庭園では、その庭を歩く人の目を驚かせることが重視されていましたが、季節の中で、そしてこの地球規模の植物の移動の中で、植物に驚くということ、そこに面白みを見出すのがクレマン氏の美学だと言えるでしょう。

 

その非人間的なおもしろがり方と、人間の存在をしかし否定することもない在り方は、最近注目されつつある「ダークエコロジー」のティモシー・モートンの思想にも近いように思われます。(ダークエコロジーと、先述のディープエコロジーは響きが似ていますが、別物です)。

 

darkecology

 

ティモシー・モートンの著作は未邦訳がほとんどですが、「現代思想」誌にその一部が訳出されていますし、今年2018年中には以文社から訳書の刊行も予定されているので、チェックしていきたいところです。新刊ということで言えば、近々森林美学という本も刊行されるらしいですね。風景とも庭園とも多少の位相の違いを持ちながら、この分野も興味深いところです。


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さて、また脱線をしてしまったようです。「動いている庭」がいかに「惑星としての庭」なのか、うまく紹介できているといいのですが。なお、フランス式でもイギリス式でもない庭園として、日本の庭園はどうでしょうか。禅寺の枯山水などのようなフランス式とはまた違った静的な世界観の表現である印象がありますが、禅では静と動は表裏一体。「動いている庭」の思想はけっこう相性がいいのではないかと素人考えを起こしました。宮元健次京都名庭を歩くなどでは、古典『作庭記』をタネ本にして枯山水の起源は庭石であって植物ではないかのように書かれています。大きな岩があってそれを動かせないから、そこを庭にするというような話です。「庭とは、死=他界である」というケレン味ある構えで論じているので読む人を選びそうですが笑。クレマン氏は植物学的な知識が旺盛であり、またヨーロッパでは植民地からプラントハンターが集めてきた植物を愛でる文化があるために、つい「庭」を植物中心で考えてしまいがちです。しかし映画『動いている庭』でクレマン氏が注意を促していたように、書籍『動いている庭』でも印象的な「パイオニア植物」たちの姿にも現れているように、石の下には土壌の水分が溜まり、特定の植物の育成をむしろ促します。「内と外」の二律背反だけではなく、もしかすると植物と岩の二元論、動くもの(種)と動かしにくいもの(土地)のパラドクスも重要なのかも知れません。

 

 

 niwa

 

 

 



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