図書館のねずみ

南アルプスの伏流水を使った香り高い珈琲を啜りながら、じっくりお気に入りの本が選べる本好きのためのささやかなサロン、ブックギャラリー&カフェ風信。現在は店舗移転の為、日々奮闘しております。書店では扱っていないような古書、絶版文庫を集めています。

2010年01月

花月園や花香苑、三笠園の跡は残っているのか?

東京近郊のリゾート、別荘地の変遷を追ってみると次のようになる。
鶴見・生麦→磯子・杉田・富岡→金沢文庫・八景→鎌倉・逗子→湘南・大磯→小田原・箱根→湯河原・熱海。
このうち、最初の鶴見・生麦は大正から昭和初期まで、丁度、花月園で一番勢いのあった平岡廣高・権八郎の経営する時代で、近くには花香苑や三笠円もでき、様々な民間のフラワーパークが近郊に出現した時期だ。
江戸から、続く園芸文化がまだ勢いのある時代で、鶴見からの行楽は、昭和9年の臨港バスの登場で、三つ池〜上遠ボタン園〜師岡ショウブ園〜桃の花咲く綱島温泉(東横線は大正15年に開業していた)や大倉梅林ルートが出来上がっていた。
(海のきれいな!扇島の海水浴場に行くルートも。昭和5年に本山前から扇島まで開通)

この日本初のユニークなテーマパーク・花月園はパリ近郊のブローニュの森の遊園地をヒントに考え出されたらしいが、和風の茶屋文化を取り入れたところが、花柳界に生きる平岡夫妻にとってはごく自然な成り行きだったと思われる。

花月園花壇2

(大正期の花月園の花壇・開港資料館蔵)

さて、花月園や花香苑、三笠園の痕跡は少しは残っているのだろうかと思って、生麦の山側を歩いてきた。
根の道といわれる線路沿いの道から急な坂を上る。
道沿いは立派な石垣を持つ家もあるが、家々はほとんど新しくなっている。
古い家は梅の古木と大谷石の石垣がたよりだ。
それと形の良い小さめの松の古木が残っている家も少しあるが、丘の上はビッシリ新興の住宅地となっている。
最上部には花月園競輪場のスタンドがそびえているが、花香苑の残したものは皆無。
それらしきものは大谷石の石積みだけ、社宅らしいビルが建っているが、この辺りだろう。
近くの坂沿いには門を構えている古い家が2、3軒、このうちの一つが前田青邨旧宅らしいが特定できず。
この辺りからは東京電力のツインタワーやベイブリッジが良く見え、大正時代には青い海と横浜の港を往き来する船や白砂青松の生麦の海岸が一望できたと思われる。

競輪場開催日の花月園を裏門から入り、はずれ車券が散乱するサツバツたる光景の中を入り口方面に下りていくが、昔の花月園を偲ばせるものはこれまた皆無。
駐車場億の古い階段やコンクリートの基礎の一部、急な坂道にはエスカレーターが動いている。
この辺りがそのまま花月園名物、大すべり台があったところか?
坂には吉野から取り寄せたサクラの古木が少し残っているだけだった。

滑り台

(大正期・「大山すべり」・開港資料館蔵)

岸谷方面も歩いたが、地形だけが三笠園の場所を示している。
最高地点の花月園競輪場の裏から谷のようになった現在の岸谷公園がショウブ園のあった三笠園の中心。
この辺りもビッシリ住宅が並び、何の風情も面影もない。
自然美で人を呼んだ花咲く園は想像もつかないほどの変わりよう。
かつて大正のオリンピック予選会がおこなわれたという房野池あたりは市民子どもプールとなっている。
二つ池と合流して海にまでつながっていた川もなくなっている。
この辺りは、昔は海苔を干していた。
海苔栽培を生業としている家が何軒もあったことなど夢のようだ。
幕末の生麦の貴重な文献「関口日記」によると、生麦から開港地野毛浦には船便が出来て、かなりの物資や人々が開港地に繋がっていたことが分かる。

生麦駅に向かう帰り道、和菓子屋三笠屋が閉店になっていた。
この辺りには珍しく大きめの和菓子屋さんがあると思っていたが、三笠園と関係があるかどうかは、分からない。
雅な茶屋があった三笠園には、近くに和菓子屋があってもおかしくはないが・・・?
花月園にも子育て饅頭の店が並んでいたように。

結局、1枚も写真を撮ることなく、帰路につくこととなった。


花月園のこと(2)

鶴見線・国道駅のデザインや臨港デパート、鶴見臨港線・鶴見駅のドーム型ホームや駅舎・京浜でパートの計画から、京浜第2国道と今井賢次設計の響橋の完成までの、昭和初期のモダン都市TURUMIと東洋のマンチェスター大鶴見駅構想には興味深いものがあるが、とりあえず今回は「花月園」の続き。

前回書き忘れたが、建築家コンドルの弟子・上遠喜三郎氏が造った大ボタン園が獅子ヶ谷に大正13年開園。
また、大正15年には、大倉山梅園が開園。近くの綱島温泉には春は桃の花で人気を集めたと言う。

新橋花月楼の主人平岡廣高が大正3年に開園させた花月園も、子生山東福寺の広大な土地を生かして次々と施設を拡大していく。
メリーゴーランド、噴水、花壇、豆電車、大滝、野外劇場、乗馬、迷路、スケートリンク、温水プール、ホテル、ボート池、観覧車、登山電車、日本発の専属バンド付きダンスホールなどの大人の施設も加わる。
(佐藤春夫、谷崎潤一郎、久米正雄が常連であった)
前田青邨を審査員とする初の児童画展、山田耕作の演奏会、小山内薫演出の野外劇、鈴木三重吉、恩地孝四郎が関わる日本初の本格的な少女歌劇も行われた。
これら質の高い文化施設造りを手がけたのが、三代当主・平岡権八郎。
この人銀ブラの元祖モダンボーイで画家・銀座の洋行帰り画家や文学者の溜まり場となったカフェ・プランタンを作った人。
(画家・松山省三との共同経営 明治4年)

また、お隣の海の見える料亭「花香苑」の長谷川時雨の弟とは親友であったから「花月園」と「花香苑」は文人墨客のいき往き来する場所であったわけだ。
(時雨の妹・画家長谷川春子の師・黒田清輝は権八郎の絵の先生でもあった)

その隣には日本画家・前田青邨も東京から移り、生麦の海が埋めたてられ空気も汚れてきた昭和14年まで住んでいたという。

生麦駅前に京浜電鉄が分譲地を売り出した大正10年頃のこの地は、白浜青松の別荘地帯であった。
(昨年逝去された画家・熊田千桂慕さんは関東大震災後にこの分譲地に移ってきたことを、「横浜ハイカラ少年紀」に書いている。)
水道はなく、水屋さんが四斗樽で名水(第二京浜国道脇の)を客家に配っていたという。
やがて、キリンビールの埋め立てが始まる。
生見尾村から神奈川県橘樹郡鶴見町となったばかりの頃だ。

金鈴社の画家たち平福百穂、松岡映丘、鏑木清方などがよく花香苑に出入りした。
清方の描いた「花香苑」の絵や花月園のダンス風景が、この辺を良く調べた「花月園秘話 東洋一の遊園地を創った平岡廣高」(齋藤美枝著)で紹介されている。

花月園の絶頂期は大正期と思われるが、昭和2・3年には立派な機関紙「花月園」(月刊)まで出していた。
昭和の大恐慌もあり負債を抱えた昭和8年、京浜電鉄と大日本麦酒に経営権が移るまでの黄金の日々。

【花月園の広告】 
○花木栽培・盆栽販売   ○天然風致大木あり
○貸し別荘・休憩所あり  ○東洋一の大瀑布
○野外劇場 ○眺望絶佳 ○空気清涼 
   ―東海道鶴見花月園ー


風流な鶴見・生麦の地は?

氷点下前後の冬らしい日が続いて、咲き始めた梅の花も蕾を硬く閉ざして寒さに耐えている。
昔の人(江戸〜明治)は、今よリずっと風流な生活を楽しんでいたような気がする。
街の郊外には梅林や桜並木、菖蒲園などを造って、俳句や歌の会など、よく催して楽しんでいる。
東海道を下ると梅屋敷、蒲田の菖蒲園、杉田の梅林、金沢近くにも菖蒲園、熱海の梅林は横浜の絹商人・野澤屋の元祖茂木家が造ったもの。
鶴見に鎌田の菖蒲2万6千株を移植して、横浜の生糸商・山崎積蔵が「三笠園」と、いう自然公園を大正10年に開園している。
藤棚4つも作った本格的なものだ。
また、野毛山の絹商人・原家邸では秋の菊の季節には菊花展を開いて、庭園を市民に開放している。
節税(脱税)にやっきになっている現代の金持ちとは、えらい違いようだ。

鶴見・生麦辺りは海に近く、東京近郊では一番手軽に自然を楽しめる行楽地だったようだ。
別荘や茶屋、料亭なども多く作られている。
綱島の温泉地も近くにあるし。
建築家の西条軍之助は、鶴見・諏訪坂の邸に当時は珍しい西洋草花を集めた庭園(3千坪)や温室を作って公開している。

また、近くの遊園地のはしり「花月園」は、チルドレンパークや少女歌劇団ばかりでなく大人の行楽地として、花壇、菖蒲園、桜の花見、五重塔、紅葉狩、渓谷を楽しむアステチック、貸し別荘なども備えた本格的なものであったことを、最近出版された「花月園秘話 東洋一の遊園地を創った平岡廣高」(齋藤美枝著)で、初めて知った。

079_5_01花月園
(花月園鳥瞰図 1925(大正14) 開港資料館蔵)


ツツジ、フジ、モミジ、そしてサクラの名所として、花見には7万人の人出があったという夢のような話。
競輪場と化した今では、開催日でも数千人の人出だろう。
風流などはどこへやら、殺伐とした光景に変わっている。

先日、最初で最後と思われる展覧会があった長谷川時雨の料亭「花香苑」も、そのとなり山にあり、文人墨客を多く集めた鶴見・生麦・花月園については、また次回に書きます。
戦後、花月園が閉園した昭和25年に作られた、名門競輪場も今年3月には閉鎖らしいので、昔の花月園の残跡がどのくらいあるのか確かめにいって、また、ご報告します。
そのときは現場写真も公開予定。


またぞろ腹が立ってきた。

またぞろ腹が立ってきた。

明けましておめでとうございます。
前回は、有馬記念・必殺の三連単は見事に外れ、反省の寝正月。
1着・2着は当てていたのだから、3着に有馬温泉の女将のお薦めどおり、前回3着馬エアシェイディを入れておけば、1万8千円のお年玉が転がり込んだのに・・・。
まだ若くて調子を落としている三歳馬ははずして、歳を取っても元気いっぱいの八歳馬を取るのが常道でした。

それはさておき、正月に前から気になっていた井上ひさし「ボローニャ紀行」を読んでいたら、だんだん腹が立ってきた。

ボローニャ紀行


無論、井上ひさしさんにではなく、「野澤屋ビルを壊してもかまわぬ。早く、何でもよいからお店を開店させてくれ」と目先の利益優先に自分の首を絞めている伊勢佐木1・2丁目商店会の人たちや、それに引きずられて文化財指定をすぐ解除した新市長林文子さんに対してだ。

もう伊勢佐木町は99%滅んでいて、ギンブラ・イセブラと並び称されていた時代は夢のまた夢。
米軍の占領が長かった不幸もあったが、もはや地方の○×銀座にも及ばないほどの差をつけられ、もう見限ったと思っていたが戦火の空爆に耐えた数少ない建物(ヨコハマ繁栄の功労者、茂木家の唯一の遺産)まで見捨てる神経とは・・・。
それも、2階建てのバラック建築のために!

例えば、北イタリアの中都市ボローニャの市民の誓いの一つは、「街の中心部の歴史的建造物と郊外の緑は市民の宝である。この二つはあくまで保存し、維持しよう」と、ある。
古い建物は外観はそのまま、内部は改造して新しい目的のために活用する。
その際、古い建物が果たしていた役目をしっかりと受け継ぐ。
そして街を賑やかに活気付ける。
この精神がボローニャ方式だ。

人口38万人のボローニャには美術館や博物館が37、映画館が50、劇場が41。
そして、図書館が73ある。
女性問題に関する立派な図書館、2万冊の専門書と20万点のポスター・パンフレット・70万点の映画資料を持つ映画図書館、そして写真図書館、グラフィック図書館など。
みな、ヨーロッパでも有数の図書館だ。
そこに世界中から研究者、若者たちが集まってくる。

ボローニャは大学の街、セリエAのサッカーチームを持つ街(かつて中田英寿がいた)、独特の立派な回廊をめぐらした街、また、生パスタの美味しい街とは知っていたが、こんなに奥深い街とは知らなかった。
以前、生パスタ目的でボローニャに途中下車したことがあるが、昼間からパスタを食べさせる店はなく、ザネッティのエスプレッソを大広場で飲んで、すぐパトヴァの世界一古いカフェへ向かってしまったのは、いかにももったいないことだった。
その半日のボローニャ行きでも、崩れそうな赤レンガの斜塔と見事な回廊(これは街を大きく広げないで、若者たちを受け入れる苦肉の作で、アーケードの上は部屋になっている)と、街の小さな広場でBONSAIを売っていたのが妙に印象に残っている。

なにしろ、ボローニャ方式は街をやたらに大きくさせないことが注目点。
どんなに成功しても、店や工場を大きくさせない。
発展する企業ものれんわけして大きくせず、分割していく。
それでも足りなくなれば郊外へ移す。
過去の蓄積はきちんと生かして、むやみに規模は広げない。
古い建物を壊さずに、現在の用途に合わせて都心を再生する。
街の中心部には古い外観のまま図書館やミュゼ、劇場、映画館を集めて空洞化を防ぐ。
車を締め出して、街歩き好きのイタリア人たちがウインドウショッピングを楽しめる街づくり。
ホームレスの人たちに市営バスの車庫を与え、街の清掃センターにしてモノと人の再生を図る・・・等々。

この「ボローニャ紀行」は林市長が真っ先に読むべき本だった。
帯に「イタリアの街から世界の在りかたを考える」とあるが、そのまま横浜に当てはまる話ばかりだ。
もう一度ボローニャ方式を繰り返す。
「歴史的建造物は壊さない。もちろん外観も変えない。しかし、内部は市民の必要に応じて思い切り変えて使おう」
この都市再生の考え方は世界中に広まっているのだが・・・。

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http://home.netyou.jp/33/fushin/
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