図書館のねずみ

南アルプスの伏流水を使った香り高い珈琲を啜りながら、じっくりお気に入りの本が選べる本好きのためのささやかなサロン、ブックギャラリー&カフェ風信。現在は店舗移転の為、日々奮闘しております。書店では扱っていないような古書、絶版文庫を集めています。

2010年10月

開港横浜の絵地図を見る


野毛は野毛坂近辺を除いて険しい崖が続き海に臨んでいたから、野毛浦を埋め立てる前は、神奈川宿方面からは船便があるのみ。
安政6年、開港に合わせ、東海道青木村のはずれから海に沿ってヨコハマ道が作られ、戸部で保土ヶ谷宿への道と合流、山を切り崩した切り通し道ができたことによって野毛坂へ繋ぐことができた。
切り通しのある場所は神奈川奉行所があり、野毛の狭い土地は役人の官舎で埋まっていたようだ。
開港してからも税関の官吏宿舎が次々と増えていく。

慶応元年頃の増補改版「御開港横浜之全図」には、野毛浦の内海を挟んで、対岸にあった弁天社の象の鼻と呼ばれた砂浜から架設の橋が長く伸び(280間・幅3間)、姥ヶ岩の前を通って野毛の岬にショートカットしている。
野毛から波止場まではかなりの短縮になる。

橋


この弁天通の由来となった洲干弁天社(横浜村の鎮守)の貴重なグリーンスポットも、野毛浦の埋立てが終わるといくつも橋が架かり、松林と海の景観で名所になっていた価値を失い、松ノ木数百本を売りたてて移転してしまった。

開港から明治20年代頃まで盛んに出版された木版による横浜地図を見ていると、横浜の変貌が手に取るように分かって面白い。
安政6年の一玉斎の地図には、未だお台場は姿を見せていない。
当然権現山は神奈川宿に高い姿をとどめているが、万延元年1860年頃の一蘭斎の地図にはもう台場は完成して権現山は削られ台地のようなものになっている。

ごんげん山
                   (この山が権現山)


お台場からごんげん山
            (灰色に突き出ているのがお台場で、右に権現山があった)


元々、地図や浮世絵の出版は日本橋付近の江戸書物問屋や本屋の独占状態だったが、開港と同時に横浜に進出した新栄堂(本町通り2丁目)、師岡屋(弁天通5丁目)が幕末期から明治初期に秀でた地図を発行しているのが分かる。
特に明治に入って熱心に地図を出版したのが、野毛に店を持つ「佐野富」こと錦誠堂・尾崎富五郎だ。(晩年は冨五郎となっている)

尾崎の店は明治の番地入り地図によると、当店を出て野毛坂どおりの向かい側中ほどにあったようだ。

野毛

場所は3丁目184、3丁目97、3丁目221番地と色々変わるが、みなこの近辺だ。
野毛町の丁目区分は現在も明治と変わらないが、番地の付け方はめちゃくちゃで分けが分からない。
現在でも郵便や宅配便は苦労しているようだ。
錦誠堂にたどり着くまでに時間を掛けすぎてしまった。

野毛の錦絵店そして版元としての錦誠堂のこと、また、左手絵図描きの名人・尾崎富五郎の七十代になった最晩年の一世一代の傑作「横浜真景一覧図会」については次回へ。

山手公園をのぞく


あまりの暑さに8・9月はほとんど花を付けなかった洋種アサガオが、この冷え込みで10月には狂ったように咲き出した。
毎朝、落ちた花を片付ける日々。

元町に野暮用があったので、山手公園をのぞいてきた。

洋式公園


ここはご存知のように日本のテニス発祥の聖地、また日本初の外国人用洋式公園として名高い。
特に文化財保護法による国指定の「名勝」に指定されているのが、由緒あるその歴史を物語る。
テニス好きには市が管理するコートもあって、カード予約で使用可能。

テニス


歴史ある「レディーズ・ローンテニス・クラブ」も形を変えて今も生きていて、外国人は少なくなってしまったが、まだ活動中。
このテニスクラブの前には[テニス発祥記念館」があって、当時のラケットや、古い写真を見ることができる。
この春にはウインブルドン会長がここを訪れ、日本最古の会員制クラブ「横浜インターナショナル・テニス・コミュニティ」のメンバーと親善試合をして交流したそうだ。
ウインブルドンでテニス競技が始まる少し前、明治3年(1870)には山手公園が作られたので、名勝指定だけのことはある。
横浜公園(明治9年開園)のできる数年前のこと。
クリケット場もテニスコートもできた横浜公園では、Y校テニスクラブの会員との日本初の公式国際試合が記録に残っている。
その写真がテニス発祥記念館に残されている。(Y校の勝ち)

当初、しゃもじ踊りと噂になったテニスも、すぐ近隣の女学校フェリス、共立、紅蘭(現・双葉学園)などの体育授業に取り入れられ、普及していった。
明治末には横浜のほとんどの女学校や旧制中学校に普及していったようだ。
明治43年には、第1回テニス大会(県立高等女学校・現・平沼高校)が開かれている。

テニスと並んで有名なのは、この公園のヒマラヤ杉の古木。
日本で最初にインドからヒマラヤスギを導入した生き残りが今も健在。
YITCのクラブハウスの背に高く聳え立っているのがその古木。
ヒマラヤスギは、洋風建築と共に全国各地に広がっていった。
学校の庭には必ずヒマラヤスギがあって馴染み深い木だ。
中央図書館にも、新館ビルができる前には何本もあったが、現在は道路わきの1本だけが残っている。

最近、横浜市の公園課はメタセコイアの巨木がお気に入りのようで、当店近くの小公園にも、伊勢佐木町入口(3丁目)にも、植えられている。
樹形が乱れのない円錐形で横に広がらないのがお気に入りの理由か。
ほとんど管理の必要もなく、ただ高く伸び、排気ガスにも強いようだ。
野毛本通りのコブシの木が次々と枯れ始める中、公園のメタセコイアの木は元気が良い。

ところで、ビール工場跡地(スプリングバレー)にも寄ってみようかと思っていたが、道を間違えて妙香寺の境内に入ってしまった。
ここにはブラスバンド発祥の記念碑が建てられている。

吹奏楽


山手公園は元々このお寺の土地にできたもの。
公園ではフラワーショーも開かれていたが、、野外音楽堂ではイギリス軍楽隊による演奏会も盛んだったようだ。
明治2年、薩摩藩は30名の若者たちを妙香寺に泊めて、イギリス式軍楽を学ばせた。
僅か4ヵ月後には立派な軍楽隊ができ、山手公園で日本初の野外演奏会が開かれたという。

モダン都市ヨコハマ

昭和初期、関東大震災から復興したヨコハマが港や伊勢佐木町を中心に活力を取り戻した頃のことを知るには、恰好の展覧会が開催中。
「モダン横濱案内」展・横浜都市発展記念館(2011年1月30日まで)
同チラシには、吉田初三郎「伊勢佐木町通り」の絵ハガキが使われている。

伊勢佐木町絵ハガキ

モダン都市にふさわしく洋風化した昭和10年の夜のイセザキ通り入口を描いている。
この絵ハガキは、復興記念と称して山下公園全面を使って開催された一大イベント「横浜大博覧会」(昭10・3月26日〜5月24日)の記念絵ハガキの一枚だ。
他にも正門ゲートを描いた絵ハガキもあるが、このゲートは開会後、イセザキ町の入口ゲートとしても使われたらしい。
7年後にはこの鉄製門は名誉の供出となった。

大博覧会


昭和初期は女性の社会進出の時代。
この頃、横浜にもバスガールが登場。
横浜市電にもモダンな制服の女子車掌が評判になっている。
いずれも美人ぞろい。
電話交換手、タイピストもあこがれの女性の職業だが、何といっても驚くのは夜のイセザキを飾るカフェ、ミルクホールの数と白いエプロン姿の女給さん達。
当時70万(昭8)都市横浜の中心地の女給は4千人を超えるとか。
ダンスホールも映画館も多い。
ジャズの横浜と唄われるのもこの頃。

メトロポリタン


復興博の唄も面白い。
「・・・モダン伊勢佐木ネオンに燃えて、恋の灯ともす夜の街、ハマはよいとこ、あの本牧で聞いた春雨忘られぬ」
モボ・モガの闊歩する一番元気な頃の夜の伊勢佐木町通りが目に浮かぶ。
イセブラの休日昼間は、レコードや、洋服や洋食や、パン屋などを見ながら森永キャンデーストアか不二家で一休み。

フジヤ


野沢屋デパートや有隣堂をのぞきつつ、洋画封切り館・オデオン座へ。
昭和11年に改装したオデオン座は正に白亜の殿堂。
じゅうたん、シャンデリアのロビーは洋風文化の象徴。

モロッコ

昭和10年には、馬車道の横浜宝塚劇場も開館し、少女歌劇も女子学生の人気を集めた。
夜はモボ・モガのダンスやジャズの街。
夜の歓楽街イセザキ町は夜の12時まで賑わっていたという。
カフェ文化全盛期。
中国人・アメリカ人・イギリス人など外国人3千人も大きな力。
横浜歌舞伎の撤退で芝居文化は横浜を離れてしまったが、洋風文化は港の復興と共に根付いていった。
その頃の横浜ジャーナリズムも元気がある。
元々、新聞発刊の地盤があったが、昭和初期の「月刊横浜」(昭10)、「グランド横浜」(昭10)、「横浜春秋」(昭4)、「夜の横浜」(大15)、「モダン横浜」(昭11)などの雑誌群が当時の活況を伝えてくる。
それにつけても、ジャーナリズ発祥の地・ヨコハマの雑誌出版文化衰退が悲しい現実。

野毛にちぐさがあった!(ちぐさアーカイブ展)



今年の横浜ジャズ・プロムナードは雨の中。
目玉は、一日早く始まって17日まで続くジャズ喫茶「ちぐさ」の復活。

ちぐさポスター

昭和8年の開店から74年間、ジャズファンに愛されて、惜しくも2007年に閉店、取り壊された「ちぐさ」は、当時日本最古のジャズ喫茶。
特に戦後、昭和20年代から30年代にかけて、一般には仲々手に入らないジャズレコードを聴きに、渡辺貞夫、秋吉敏子、日野皓正らが通ったことで有名。
閉店の日には夜遅くまで常連たちが集い名残を惜しんだ店が、当時の調度品、レコード、オーデオ装置そのまま復活するのは、一時のイベントであっても嬉しい。
壁に飾られたレコードジャケットも奥のあめ色の大スピーカーも懐かしい店内では、コーヒーも飲めます。

復元した場所は野毛に新しくできた中区の文化施設HANA*HANAのビルの中。
戦後から「ちぐさ」と並んで人気のあるジャズ喫茶(バー)ダウンビート(こちらはまだ現役)のすぐ近くですから、お出かけください。
(入場料500円 飲み物付)
ちぐさ跡地はマンションが建ち、小さなプレートだけが残っている。

ちぐさプレート


店主・吉田衛さんは94年に亡くなったが、生前に神奈川新聞に連載した回想記が今では貴重。
「横浜ジャズ物語―ちぐさの50年―」(神奈川新聞社1985年刊)として出版されている。
口絵として本牧チャブ屋、カフェ、ダンスホールのマッチや、記憶をたどったチャブ屋の地図が入っているのが面白い。

「ちぐさ」開店当時には、赤門前に「ブラックバード」、新橋には「デュエット」というジャズ喫茶が既に営業していた。
(昭和4年開店)
また、ちぐさが開店した昭和8年には、渋谷百軒店には「デューク」、銀座には「ブラックバード」、昭和10年には大井町に「スイング」が開店、ダンスホールも続々開業したように、昭和初期のモボモガ全盛の時代の活気が伝わる。

吉田さんの回想で特に重要なのは、前後すぐ、カマボコ兵舎で行ったコンサートの話(笈田敏夫・ナンシー梅木・ペギー葉山・雪村いずみが登場、司会はトニー谷)、そしてピアノの天才・守安祥太郎の回想。
戦後の歴史的なジャズシーン、伝説の「モカンボ・セッションの話は貴重。
伊勢佐木町通りにできた「モカンボ」(昭和20年・植木幸太郎経営)は開店日には花輪が64本ズラリと伊勢佐木町に並び、噂を聞いたアメリカ人も詰めかけたという。
このモカンボの守安を中心とするセッションは20年も経ってからLPとして発売され、スイングジャーナルのゴールデンディスクを受けた歴史的名盤(3枚組み)。

平山ビル

このビルの地下にモカンボがあったと思われる。
現在も続く「キャバレー成田」(ここも文化財級か?)が入っている。
守安のライバルは、秋吉敏子、ナイトクラブMocamboの地下には秋吉、渡辺、日野、松本らはもとより、クレージー・キャッツの石橋、谷、安田も出入りしていた。

こうした思い出のジャズメンの貴重な証言も多く、昭和57年から3年間続いた吉田衛の回想記は連載当時から評判になった。
この本、古書価が高めになったので、図書館で借りてください。
各区の図書館には常備されているはず。
当店にも現在はありません。
(乞う買入れ2000円也)
HANA*HANAやDownbeatのお帰りには、当店も近くですから、お立ち寄りください。
ジャズに関心のない人たちには、ドイツ・ビールの祭典赤レンガ「オクトーバー・フェスト~2010」も、今年は長く17日まで開催中。
飲めない人には、年に一度の文楽(青少年センター 11日昼・夜2回公演)を。

歩道のパッチワーク化現象

秋の野毛大道芸が開催中だが、初期の勢いや危険な感じは皆無。
出演者名鑑を見ても、家族向け、若者受けの芸ばかりが並んでいる。野毛大道芸ポスター


初めて登場した屋台のシロモツや富士宮ヤキソバはほとんど売り切ったようだが、小生の店はまるで影響なし。
通りに看板も出せないし、店に入ってくるのは音響ばかり。
閑古鳥の鳴き通し。
パンフレットで唯一面白そうな芸は、昔の縁日では良く見かけた雨細工の動物を作る実演。
店を閉めて見に行こうかな。
これは動物園通りに相応しい芸だから、柳通りではなく、当店近くまで出張して欲しい。
柳通りには8日の夕方から流し芸も始まるし、柳の木には新内流しが良く似合う。
今さらながら、流し芸の音頭とりをした平岡正明氏の急逝が惜しまれる。

さて、野毛坂道通りのヤマボウシの並木は丁度赤い実が落ちる季節だが、どの樹もなんとなく元気がない。
何本かあるコブシの樹もやはり排気ガスに弱いのだろう、この1・2年で枯れ果てる気配。
桜の樹も同様。
樹というものがなくなった鉄製の並木ブロックは悲しい。
植え替えは市の公園課がするのだろうか。
誰もしないのか。

この通りの歩道は丸イスの石もあって、よく考えて作ってあるが、それでも新マンションの水道やガスの工事など始まると、ご覧のようにだんだん破壊が広がっていく。
丸イス

パッチワーク1パッチワーク2















配管工事の後は元通りに復元させるまたはする決まり、または常識は、ここでは通用しないらしい。
近くの日の出町駅から桜木町駅に至る幹線道路の歩道も、苦労して作ったと思われる煉瓦状の石を使った歩道舗装も、この2・3年水道ガス工事のたびにアスファルトが増殖していき、とうとう全面アスファルト化してしまった。

マンホールふた1マンホールふた2











マンホール上の敷石模様が元の舗装の名残り。
マンホールまで気を配っていた歩道は、誰も知られることなく消えていく。

さすがに伊勢佐木町通りや元町通り、海岸通りなどは敷石もきれいに管理されているようだが、観光地でもない街中はこれが現状。
街中で見たくないものはいくつもあるが、この歩道のパッチワークもその一つ。
もっとひどいとアスファルト化の上、アスファルト通しのパッチワークが進み、へこんだ部分は雨の日は水が溜まり歩けなくなる。
真夏の晴れた日は靴をはかないネコ、犬が通れなくなるくらいの高温となる。
無論細いハイヒールは抜け出せなくなる。

街歩きで見たくないものベスト10を書きたかったが、また別の機会に。
関連本はないでしょう。
プロフィール
ウェブサイト
お店のウェブサイト
http://home.netyou.jp/33/fushin/
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