図書館のねずみ

南アルプスの伏流水を使った香り高い珈琲を啜りながら、じっくりお気に入りの本が選べる本好きのためのささやかなサロン、ブックギャラリー&カフェ風信。現在は店舗移転の為、日々奮闘しております。書店では扱っていないような古書、絶版文庫を集めています。

2010年11月

山王台主人・烏水

前回は烏水の話が出たので、もう少し西戸部に住んでいた紀行文〜山の作家・小島烏水について書きたい。

開港から明治にかけての野毛周辺は、古地図を見ても官舎ばかりが目立つ落ち着いた街並みだ。
表通りには宿屋、錦絵店、古書店、茶舗などもあるが、ところどころにしもた屋も混じった大佛次郎の回想のように「どこかのんびりした静かな町」だったようだ。
烏水の回想には、浮世絵店で有名な酒井好古堂も当初はこの野毛で古書や浮世絵を売る店を出したという。(明治7年)

ヨコハマの役人のうちでも、特に波止場の運上所(税関)に勤める役人たちは野毛山周辺の西戸部や、野毛町、老松町に多く住んでいた。
烏水の家も父親が税関に勤めていたので、この界隈に住み、戸部小学校・老松小学校へ通った。
この山王辺りは自然がかなり残っている地域で、冬ともなれば白い富士山が望まれた。
後の富士山好みの烏水の源泉が見える。
また、歩けばすぐそこの東海道程ヶ谷宿(現在の保土ヶ谷)も、江戸時代の面影を色濃く残しており、ここから戸塚宿―藤沢宿と立派な松並木の続く街道を少年期から良く遠足したという。
後年、彼の代表作「浮世絵と風景画」(大正13年)を生むことになるのも、この山王台(山)という土地が大いに関係していることが分かる。
幕末のベアトの東海道の写真には街道沿いの藁葺き民家や空を包み込む位に育った松並木が見られて、当時のメインストリート東海道の美しい景観を見ることができる。


松並木


ベアトの撮った写真には次のような文章が付されている。
「この立派な街道は広く、平坦でよく管理されている。あちこちで、英国のいなかの道のように美しくすばらしい景色が見られる。道の両側にワラぶき屋根の家が連なったりして変化もある。・・・」
車も馬車も通らない、木かげのある街道の快適さは英国人でなくとも、現代の日本人でも充分想像できる。

ベアト幕末日本写真集

少年時代の烏水は(久太)は、一里塚の大榎木や旅籠屋、遊女屋、旧本陣(軽部)屋敷もまだ残っている程ヶ谷宿と、広重の東海道五十三次の風景そのものをイメージできる最後の時代に育った。
富士山―東海道の宿場―浮世絵風景版画研究―紀行文―山の文学という烏水の道ができた。

紀行文作家として名が知られるようになる明治30年代、横浜文壇の三羽烏は伊勢町の山崎紫紅(新体詩)、野毛町の磯萍水(小説)、そして西戸部の烏水(紀行文)。
(いずれも戸部小学校出身、烏水は老松小も)
当時の横浜では文芸誌もいくつか出て、文芸の盛んだった時代を彷彿されるが現在まで名が残り、作品がごく一部ではあるけれど読めるのは烏水だけになってしまった。
彼の代表作「日本アルプス」(全四巻)は明治43年から大正4年刊。
この本は美術品のような豪華版の大冊だが、烏水の山岳紀行の主なものは岩波文庫として今でも読むことができるのが幸い。

日本アルプス


烏水の伝記的研究は近藤信行「小島烏水 山の風流使者伝」(創文社・昭和53年刊)という秀れた成果がある。

小島烏水


近藤氏がたびたび訪れたという山王台の主人の家(西戸部898番地)は、その後取り壊されてしまったようだ。
ここで日本山岳会の創立に向けて山仲間と集い、ウェストンの訪問を受けた歴史的な家だったが。

烏水の全集(大修館書店・1979年刊)も中央図書館に開架してあります。
同図書館では29日より、戦後ヨコハマの文学サロンの趣があった画廊喫茶「ホースネック」の牧野イサオ氏の回顧展示が始まります。

〔横浜書林・錦誠堂〕尾崎富五郎のこと

前回は三渓園や県立フラワーセンター大船植物園の菊花展が23日で終了ということもあって、「野毛の菊見」を入れてしまったが、今回は前々回のつづき、野毛にあった・錦絵店・版元「佐野冨」こと錦誠堂・尾崎富五郎について書きたい。

横浜開港間もなく、弁天通りには「師岡屋」「金港堂」が江戸から移ってきたが、錦誠堂は少し遅れ、明治になってから独立して(佐野喜からの暖簾分けか?)、横浜村への入口となる野毛に店を構えたようだ。
五葉舎万寿老人「改正新版横浜案内絵図」(明治三年)や「官許横浜案内絵図」(同年)に初めて、野毛・佐野屋富五郎の名が見える。
この頃から最晩年の傑作「横浜真景一覧図絵」(明治二十四年)まで、「銅版横浜地図」を除くと、木版による横浜地図一筋に生きた職人肌の顔が浮かぶが、異なった顔も見せている。

先の太平洋戦争直後、「日米会話帳」なる安直な実用書が大ベストセラーになったように、錦誠堂も新興の版元として得意の木版を使って折本風のお手軽な「外国商通言葉集」や、「横文字独稽古」なる実用書も刊行しているのが面白い。
「ひ=さん」「つき=むうん」「なつ=さんまあ」「あき=あうとむん・・・」などと見える。
独立したての若い尾崎富五郎の意外な顔がのぞく。
野毛三丁目の坂にあった店(明治11年には三丁目二二一番地、晩年は二丁目四十一番地)や尾崎富五郎その人については、小島烏水の記憶しか残されていない。
西戸部に住み、戸部小、老松小出身で、波止場近くの横浜商法学校(Y校の前身に通っていた烏水(久太少年)にとっては、錦誠堂が一番の馴染みの店であった。
「私は市内の数多い錦絵店のうちでも野毛の佐野富というのへ日参した。佐野富の主人は尾崎富五郎といって色の白い眼の細い、いつも角帯をきちんと締めて店に座っている克明な男で、今から考えると文筆の嗜みも多少あったらしく、くどき節という半紙五・六枚の瓦版然たる流行節の本を出版して自分の店に並べてあったのをおぼえている。・・・この人はとうに亡くなったが今でもこの店は横浜最古の錦絵店として残っている。代が替わったかどうかは知らぬが錦絵は確かに石版絵と替わってしまった。・・・錦絵店の番付を見たら、明治十二年刊の出版で金港佳、尾崎富五郎編輯とある。私は又、佐野冨さんの生白い顔を憶いだした。」(浮世絵蒐集おぼえ帳より)

尾崎の残した「改正横浜分見地図」(明治11年)は、桜木町駅プラットホームの階段下に現在の地図と並べて見ることができる。
浮世絵から発達した木版技法の絵地図は玉蘭斎貞秀という天才の手で一気に花開き、明治中期には勢いを無くす。
その最終期の華が「横浜真景一覧図絵」(明治22年)。
この頃2年前に市制施行。
人口12万弱の横浜の黎明期。
今の、中区と南区・西区のごく一部だけ。
前方に港を持ち、野毛山の丘稜から山手の丘に至る足で歩ける街だ。

富五郎最晩年の「風船ノ上ヨリ望シ如ク市中ノ景色名所」を描いた「横浜真景一覧図絵」をルーペで覗くと、市中の木1本もおろそかにしない克明な仕事が見えてくる。
水運都市の橋の名、形も良く分かって楽しい。
野毛では成田山脇の時の鐘や(時の鐘は明治元年から大震災まで横浜市民に時を知らせ続けた)や、崖下の現在の本町小学校にあったガス会社のタンクの形までハッキリ描かれている。

時の鐘


野毛絵地図



野毛浦や鉄道用地の埋立てによって次々と変わっていく野毛周辺の様子は、木版の絵地図によってその変遷がよく分かる。
成田山の下の川と仮橋の雪景色の写真も石炭場として海に囲まれていた名残の水路だということが、各年代の地図によって知れるのも興味深い。

野毛不動雪景色


横浜の古地図は中央図書館のホームページ「都市横浜の記憶」で見ることができる。


先週土曜日の新聞に佐野洋子さんの訃報の記事。
15日には落語本や江戸物の出版で知られる青蛙房主人・岡本経一さんの101歳の死。
「編集者国木田独歩の時代」「『食道楽』の人・村井弦斎」の著者・編集者・黒岩比佐子さんの逝去と続いていた。
佐野さんと黒岩さんは癌のためという。
佐野さんの絵本「おじさんのかさ」「わたしのぼうし」「100万回生きたねこ」や文庫本エッセイと青蛙房本を少し並べて追悼としたい。

菊見の野毛山

明治37年〜大正12年大震災が起こるまでのヨコハマ、丁度今頃10月末から11月中旬にかけて、老若男女、別に風流人でなくともハマの人たちの唯一の楽しみは野澤屋の菊見物であった。
人々は菊の香にさそわれるように野毛坂を上った。

明治末に少年期を野毛で過ごした平野威馬雄の回想でも、「この頃になるとハマッ子たちは野澤屋の庭を思い出す。野澤屋といえば、無料で庭を開放する奇特な人」という印象を書いている。
今の野毛山動物園は、大震災までは野澤屋を興した茂木家の別荘庭園であった。
その頃も評判を呼んでいた東京・団子坂の菊(主に菊人形が有名)を凌ぐ美しさと、ハマッ子作家は自慢する。
行楽の少ない明治の市民にとっては春の杉田の梅見、野毛山・掃部山の花見と並んで、秋の野毛山の菊見は大切なイベントであった。

野毛の菊


現在は三渓園で見られる秋の菊見物の楽しみは、当時の色町・永楽町にあった神風楼でも有名だったようだ。
豪華に飾られた菊に外人たちも驚いたことだろう。
当時の絵ハガキがそれを伝えている。

神風楼の菊


また、野澤屋と並んでもう1箇所、神奈川から少し郊外に出た川和の菊も有名であった。
ここの菊栽培は江戸から明治・大正・昭和初期まで盛んに行われていた。
当時の外国人たちにも有名で、アメリカの女性ジャーナリストで紀行作家E・R・シッドモアの「日本・人力車旅情」〔原著1891年・訳書・有隣新書(昭和61年刊)〕に、松林圃〔中山家)を訪れた驚きが素直に描かれている。

人力車

「小さな丘の上にある黒塗りの門をくぐって、むしろを掛けた小屋が何列も並び、貴重な菊を保護している。花は縦列にきちんと置かれ、兵士のように一様だ。そのてっぺんは、大きな乱れ咲きの巻き上がり花弁が、のびのびと広がって満開の花がふんわりとかたまったようになっている。ライラック色、ピンク、バラ色、あずき色、茶色、黄金色、オレンジ、黄色、純白など、ありとあらゆる色合いに濃淡をつけたもの・・・。」
シッドモアはここで、黄色い花のサラダを賞味して、芸術そのもののご馳走に感動している。

花好きの外国人たちの観光コースはもう一つ。
横浜植木のガーデン。
ここについては、またの機会に。

書きたいことがたくさんあって、今週書くはずだったことが、また、伸びてしまった。

日本野球の聖地「横浜スタジアム」

古の悠然たる大国の品格など微塵もなくなったゴロツキ国家・中国の傍若無人の振る舞いの危うさに、横浜APECの前に何も言えない千石民主党。
それを見透かしたドロボー国家・ロシアの時代錯誤の横暴ぶり。
領土のことなど一度も考えたこともない、千石(?)内閣は右往左往。
検察庁特捜部のデタラメぶりが露呈したと思ったら、今度は警視庁公安部の文書ネット流出、そして、ダメ押しの尖閣沖ビデオのネット流出。
危機管理のほとんどない甘々の国・日本。
よく言えば鷹揚国家・日本。
自民党だって政権にいれば勇ましいことは言えないはずと、国民のストレスは溜まるばかり。
領土問題ばかり考えているロシア、中国に翻弄される日々は続く。

中国市場がちらついて何もいえない民主党政権も情けないが、横浜ベイスターズも情けない。
毎年圧倒的な!?最下位も情けないが、ドラフトで斎等佑樹獲得に手も上げなかったことが、情けない。
みすみす5分の一の確率の交渉権を放棄したことが分からない。
横浜スタジアムを満員にしたいという思いは球団フロントには少しもないし、オーナーのTBSにも皆無のようだ。
球団は横浜誕生の森永・明治屋、不二家、崎陽軒、キリンビールなどの企業共同体や市民が持って、集客にに力を入れるべきだと思うが・・・。
お金のない横浜の林市長にも発言力はないし期待できない。
ただ、球場使用量を少し安くするというのみ。

珍しく早慶戦が注目を浴び、神宮球場は満員になった。
もちろん50年ぶりの同率決勝戦ということもあるが、プロドラフト入りの早稲田3選手、特に斎等人気のタマモノだろう。
せっかく獲得した新人の筒香もやっと最終戦だけ出した(ホームラン!)、球団フロントからして人集めには興味がなく、内川一人だけのただ弱い球団のままファンを減らしていくのみでは情けない。

昔のハマの早慶戦の熱狂振りは夢のまた夢。
戦前はプロ野球より早慶戦の人気が高かったようだが、横浜の横専とY専の試合は市民も巻き込んで熱かった。
(弘明寺の横浜工業専門学校と南太田の横浜商業専門学校(Y校)のこと)

Y校野球

写真の昭和9年横浜公園球場(後のゲーリック球場→平和球場→横浜スタジアム)も超満員。
試合後は不二家と明治屋に分かれて、夜遅くまで祝勝・残念会が続いたという話は有名。
指定店ではビールは無料だったというが・・・。

元々日本で野球が始まったのも横浜、最初の国際ゲームも横浜公園内のクリケット場と伝えられている。
(明治29年)
横浜スタジアムは日本野球の聖地にあるのだから、球場満員御礼の熱気を取り戻したいのが市民の願い。



野毛の錦絵店・錦誠堂主人・尾崎富五郎の続きを書く予定でしたが、また、次回へ。


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