図書館のねずみ

南アルプスの伏流水を使った香り高い珈琲を啜りながら、じっくりお気に入りの本が選べる本好きのためのささやかなサロン、ブックギャラリー&カフェ風信。現在は店舗移転の為、日々奮闘しております。書店では扱っていないような古書、絶版文庫を集めています。

2011年01月

復興小学校のこと(2)

日本では1950年の建築基準法施行後、3階建ての木造校舎は建設されていない。
国は森林資源の有効活用を進めるために、公共建築の木造化への方針を打ち出していたがさらに規制を緩め、山林に囲まれた村や町の3階建ての木造校舎も認める方針を打ち出した。
壁を取り除いたオープンスクール型の教室についても火災実験の検証を始めるという。
国産材普及の一連の動きがやっと現実化してきた。

公立の学校で最初の鉄筋コンクリート造りの校舎は、大正9年の11月竣工の神戸市立須佐小学校とされているが、鉄筋コンクリート建築の発祥地横浜も良く着き12月には寿小学校が竣工されている。
震災後の横浜市は昭和4年頃に、前31校の復興小学校を建てたが、東京とは独立した設計・デザインを導入して各学校の特徴を出している。

東京都にない設計として注目されるのは、横浜の復興小学校すべて(解体中の三吉小学校だけは早く竣工されているので別)に見られるスロープの採用だ。
復興小学校の思い出を語るとき、みな一番に懐かしむのはこのスロープの記憶。
生徒たちは町一番の立派なコンクリート3階建てに誇りをもち、そのモダンなデザインをまぶしく見ていたが、各校まちまちのスロープで遊んだ記憶は鮮明だ。
ソロバンを使って今のスケボーのようにスロープを滑り降りたり、木の手すりもみなが滑り降りたりするのでピカピカになっていた。
南太田小では、手すりが段々状にデザインされていて、滑ることができなかったとか・・・。
スロープ下の靴洗い場の話とか・・・。
(児童昇降口に靴洗い場をつけ、上履き下履きの区別をなくしたという)

スロープ
大鳥小学校のスロープ(「昭和を生き抜いた学舎」より)


横浜市では復興小学校の改築整備が昭和53年にスタート、59年度にはすべて終了している。
旧三吉小学校だけが使われず「廃校」として残されただけだった。
幸ヶ谷小の図書室の柱にはかつての階段が使われ、斬新なデザインの窓や玄関、校門などの一部がそのまま残されている学校もあるという。
昔の職人の仕事が残った部分は、解体中に取り出され、元町小の栗の一本材のスロープ手すりは黒光りのイイ艶が出ていて、何本かに切ってベンチとして今も残っているという。
大岡小のステンドグラスも残されて、新校舎に生かされている。


ところで、日本ビクター創業の地にある第一工場ファサードもまた、解体の方向へ向かっている。
これも横浜市の歴史的建造物に認定されていたのだが、野澤屋同様、認定を解除し取り壊しという。
切り抜き
神奈川新聞より)

隣接する本社への移転も考えたが、移転費1億円が都合がつかないという。
横浜市の歴史的建造物認定はほとんど意味のないものだ。
維持管理費として年間30万円を助成するだけのものらしい。
ビクターのシンボルの犬「ニッパー」が蓄音機に耳を傾けているデザインがはめ込まれ、工場建築としては珍しいファサードの記念碑的デザインが1億円で消えてしまうとは。
もちろんシンボルマークは取り外され、一部保存され、将来的に復元できるように記録を残すとは言うが、またぞろ、規模は違うが三菱一号館と同じか。

ローマの有名な歴史的建造物コロシアム(コロッセオ)の修復に、イタリアの民間企業が小切手で28億円寄付したというニュースもあったが、その落差に驚く。
この建物ファサードは、経済産業省の近代化産業遺産にも認定されているが、日本ビクターは「費用面から保存を断念。苦渋の選択だった」という。
市も認定解除するだけ、「結果的に解除となり残念だ」の一言。
寄付を募るといった運動にはならないのか。
東洋一といわれた1930年完成の蓄音機製造工場のファサードも守る力が、今の日本の企業にはなくなったようだ。

復興小学校のこと

復興小学校の保存・活用が東京でも横浜でも問題になっている。

復興小学校とは、大正12年の関東大震災後、東京・横浜で建てられた鉄筋コンクリート造りの校舎を指す。
横浜に31校、東京に117校できたという。
現在東京では19校が現存するが、そのうち10校がに中央区集中している。
同水準の安全性、耐震性を確保した時代を先取りした設計がなされた貴重な建築群だ。

中央区では7校が現役だが、横浜では既にほとんど建て替えられた。
ただ、1校、旧三吉小学校だけだ。
ここも小学校としての役割を終え、市大医学部として転用されていたが、それも2001年に終え、廃墟と化している。
現役として使われていた本町小学校、石川小学校、吉田小学校、大岡小学校などの校舎が、昭和57・58年ごろ相次いで建て替えられたのは残念だ。
1校だけでも保存活用して残すべきだった。

本町小学校正面
(本町小学校 「昭和を生き抜いた学舎」より)


野毛では老松小学校が中学校として建て替えられた。
これは、建築家芦原義信による意欲的な設計がなされ、建て替えも止むなしといった印象を持つが。
近くの本町小学校も内井昭蔵氏設計の力の入った設計がなされた。
他校も同様と思うが、中学校になった街中の校舎の一つでも活用保存できなかったかという思いは残る。


さて、東京の明石小学校は保存も良く、登録有形文化財として生かすべきだと日本建築学会が評価しているものだが、解体が進行中だという。
新建築が時代の最先端の力の入った設計がなされなければ、建て替える意味はない。
できるだけ外観や内部の優れた意匠を残して、新しくする方法も使って欲しい。
教育委員会はそれだけの意欲があるのか、不明だ。
中央区はもう他に活用・転用した校舎が残っているので、保存の用なしと考えているフシがある。


横浜市の場合、新築当時の昭和6年、「横浜市立復興小学校建築図案」という本を残し、解体時には「昭和を生き抜いた学舎」(横浜震災復興小学校の記録)という秀れた本が作られた事で救われている。
特徴のあるスロープや玄関口のデザインなど残したかった部分も多いが・・・。

本町小学校ホール
(本町小学校玄関ホール扉 「昭和を生き抜いた学舎」より)


(次回に続く)

横浜歌舞伎の時代

かつて東京から横浜の劇場へやってくる人の流れがあったといえば、信じられるかどうか。
戦前の洋画封切館で有名なオデオン座のことではない。川上音二郎や貞奴の旗揚げの地ということもここでは脇に置き、横浜歌舞伎のことだ。

大佛次郎がおそれていたように、明治は遠くなりにけりで、横浜が東京から離れて、横浜の芝居小屋を持ち東京の俳優を呼んで興行していたことを、よほど芝居好きの老人でもない限り知らない。
歌舞伎の出開帳、九代目團十郎、五代目菊五郎、初代佐團次などを迎えた横浜の財力と芸事熱心だった明治の時代。
「実は、そのころ、東京の芝居好きがわざわざ泊りがけや汽車で横浜まで、芝居を見に来たのである。・・・ずっと時代が新しくなって前の帝劇が出来、夫婦役者で類のない名コンビとうたわれた十五世羽左衛門と先代の梅幸とが袖を分かって、同じ舞台で二人の芝居を見られなくなった時期、東京を離れた横浜の劇場では、それが許されて両優の共演が実現された。芝居好きが、これを見ぬのは恥として、わざわざ横浜まで見物がてら人が来たのである。・・・歌舞伎の歴史、劇場史の上で横浜が果たした功績は大きい。・・・」
(大佛次郎「屋根の花」 昭和55年刊より)

松太郎
○市村羽左衛門の出生の秘密を明らかにした里見弴「羽左衛門伝説」(昭和30年刊・毎日新聞)


市村羽左衛門
○同口絵の晩年の羽左衛門ポートレート

当時、歌舞伎の初春興行は1月10日過ぎから始まるので、その前、横浜では一流の役者を招いて、大晦日か元旦に興行を始めるのが常態化して、関東では最初の芝居が横浜からということになった。
これで、横浜歌舞伎は人気が出た。

さて、この横浜歌舞伎の最初の芝居小屋は「下田座」(後、羽衣座となる)という。(安政6年)
慶応4年(明治元年)には、江戸の名優沢村田之助が下田座でヘボン先生への御礼興行を行った。
(彼は前年、横浜でヘボンから脱疸のため右足切断手術を受けた)
この興行は、坂東三津五郎、尾上多賀之丞なども加わった一大興行となった。
「この興行の観客の中には、はるばる江戸から陸路を駕籠で、海路は便船で、しかも泊まりがけで観劇に来た人も多数あった。」(平松紫香「横浜の劇場史」)という。
横浜の芝居小屋は、明治7年に高島喜右衛門が創った「港座」、ここはガス灯による舞台照明の最初のもの。
明治9年には「蔦座」、明治17年「賑座」、その後明治28年「両国座」から改称した「喜楽座」(ここに市村羽左衛門がしばしば出演した)、新演劇の「相生座」、ハマっ子芝居の「横浜座」・・・といろいろあるが、大正12年9月1日すべて焼失。
(横浜歌舞伎最後の日)興行主松竹は横浜を見限り、撤退してしまった。

絵ハガキ
○明治32年焼失した両国座を改称、翌年再建した「喜楽座」は横浜を代表する劇場となる。

喜楽座以外はほとんど再建されなかった。

当店では、歌舞伎・演劇まで手を出すとこれだけで一部屋埋まってしまうので、戸坂康二さんの本や役者のエッセイを少し並べてお茶を濁しています。

明けましておめでとうございます。

新しい年はウサギ年ということで、ウサギの話題から。
ネコ好きが慰めを求める猫カフェができて人気だというが、次はウサギカフェができたという。
ペットとしてのウサギ人気も近年かなり高まっているらしいから、不思議ではないが。
白毛、黒毛、ぶち、茶色、耳がたれた種類、耳が長くない種類など、いろいろ・・・。

このウサギブームをみてすぐ思い浮かぶのは、幕末〜明治のほんの一時期、幕府の瓦解により禄を失った旗本たちの間で高まったという、ウサギを飼って繁殖させる流行のこと。
このブームは大佛次郎の横浜開化物小説「幻燈」に描かれている。

幻燈


毛色の変わった珍しいウサギ1羽何十両といわれるブームが高まりウサギ番付まで作られていたが、取引する市が停められるや一気に醒めて行ったウサギブームが横浜を舞台に、英語塾、南京街、新聞社、陸蒸気、鉄道馬車、牛鍋、芝居小屋などと共に描かれている。
戦後すぐの新聞連載ということもあり、敗戦を味わった日本人の姿が投影されている。
大佛次郎の開化小説には木村荘八の挿絵が付き物だが、この小説にも名人荘八の挿絵を見る楽しさもある。

大佛の開化物は、戦前の「霧笛」「花火の街」「薔薇の騎士」から、戦後の「幻燈」に続くが、その後幕末小説「その人」(朝日新聞連載・1953〜54年)も横浜が重要な背景として登場する。
これも挿絵・荘八とのコンビだ。
この挿絵も単行本に少し入っているが、当時の新聞連載を集めた切り抜き帖を入手したので、お目にかけます。

その人・切抜き


当時は、このような新聞連載小説を毎日切り抜いて手作り帖にコレクションする人たちも少なからずいて、のんびりした時代があったという懐かしいものだ。
弁天通りや人力車、元町百段の風景やヘボン邸などが荘八タッチで描かれている。
この木村荘八、猫好きで、全集もあるほど自身の画集もエッセイ本も多く残した画家の本は、今でも岩波文庫「東京繁盛記」などは手軽に読むことができます。
挿絵もたくさん入っているので、お楽しみください。

東京繁盛記


当店でも挿絵本の代表作をいくつか置いてあります。
お手にとって眺めてください。
○極楽から来た(佐藤春夫・芹沢銈介画)
○癇癪老人日記(谷崎潤一郎・棟方志功画)
○鍵(谷崎潤一郎・棟方志功画)
○濹東綺譚(永井荷風・木村荘八画)
○幼少時代(谷崎潤一郎・鏑木清方画)
○王様の背中(内田百間・谷中安規画)
プロフィール
ウェブサイト
お店のウェブサイト
http://home.netyou.jp/33/fushin/
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