図書館のねずみ

南アルプスの伏流水を使った香り高い珈琲を啜りながら、じっくりお気に入りの本が選べる本好きのためのささやかなサロン、ブックギャラリー&カフェ風信。現在は店舗移転の為、日々奮闘しております。書店では扱っていないような古書、絶版文庫を集めています。

2011年02月

昭和映画のミューズと江戸っ子作家・松太郎

先の12月28日、高嶺秀子が86歳で亡くなった。
日本映画の黄金時代(昭和20〜30年代)にもっとも輝いていた女優。
木下恵介作品「カルメン故郷に帰る」「カルメン純情す」「二十四の瞳」「喜びも悲しみも幾歳月」や成瀬巳喜男作品「浮雲」「乱れる」「女が階段を上がるとき」・・・、野村芳太郎作品「張込み」などのモノクロ画面の美しいシーンが思い浮かぶ。
(「カルメン故郷に帰る」だけは昭和26年にしては珍しくカラーだった。)

この人、木下恵介の門下のシナリオライター松山善三と結婚して、その初監督作品「名もなく貧しく美しく」にも主演したが、昭和54年木下作品「衝動殺人、息子よ」を最後に映画界からキッパリ引退してしまった。
その後エッセイストとしての高峰はベストセラー「私の渡世日記」をはじめ数々の出版をし、現在でも文春文庫でほとんどの本を読むことができる。
小生、梅原龍三郎などが出てくるエッセイなどあまり興味がないので、お薦めの文庫本としては、川口松太郎からの聞き書きをまとめた人情話「松太郎」を取り上げたい。

松太郎


この本、江戸っ子作家川口松太郎(愛妻はご存知でしょうが、三益愛子)の飾らないキップ(気風)のよい人柄が、べらんめえ口調と共に印象に残る。
明治32年、浅草の今戸の貧しい職人の家に生まれた松太郎。
その頃の今戸は西洋館の1軒もない江戸の街並みそのままだった。
今戸橋も当然、木造。
明治の下町の風景、情景を細やかに描け、芸人や職人の生活・風俗・人情を造作なく描ける作家は松太郎を最後にいなくなった。

川口松太郎作品は、第1回芥川賞受賞作となった「鶴八鶴次郎」(昭和9年作)、新内語りの悲恋を描く「風流深川唄」(昭和10年作)が有名だが、もう一つの代表作「明治一代女」(昭和10年作)も含めて、今では手軽に入手できない。
この3作が入った中公文庫版「鶴八鶴次郎」の復刊希望。
その折には、もう一冊、晩年の吉川英治文学賞を受けた「しぐれ茶屋おりく」(昭和44年)も一緒に復刊してもらいたい。
いずれも中公文庫。(昭和54・55年刊)
鶴八鶴次郎


しぐれ茶屋おりく


松太郎が「rオール読物」に作品を発表する前の修行時代、大震災の東京を離れ、一時期大阪の出版社プラトン社の「苦楽」という雑誌の編集をしていたことがある。
それ以前、14歳のときは、夜店の古本屋をやったり、13歳にして小学校の先生の書生となり居候生活も経験したり、相当の苦労人だ。
しかし、そんな体験から「人情馬鹿」や「信吉」もののシリーズが生まれ、話し上手・聞き上手のべらんめえ松太郎が生まれたようだ。
晩年の松太郎は、レストランでの食事の折などには「もう今後、俺は人に義理を作るのはいやだから、俺の金があるうちは全部、俺が勘定を払うよ」を実践していたようだ。

最後の作品が昭和60年の新聞連載「一休さんの道」(この本は講談社文庫にも入ったが、現在は絶版)。
この作品を3月に書き上げ6月9日に亡くなったという、江戸っ子作家の律儀。
「俺の葬式はいらねえよ。やりたくねえんだ。」
川口の江戸っ子美学を貫いた人生。

ところで、高峰秀子の少女時代の作品「馬」(山本嘉次郎監督・昭和16年)を見たい。
亡くなる2・3ヶ月前に、神保町シアターの「映画の女神・高峰秀子特集」で上映されたようだが、京橋のシネマテークあたりで、再上映を熱望。
「秀子の車掌さん」(成瀬巳喜男監督・昭和16年)も一緒に。

古本屋映画と古本屋本

近頃目立つ新刊書に古本に関するエッセイや古本や自身が書いた本がある。
待ちから古本屋がどんどん消えていくのに、この種の出版は盛んだ。
マンガにも古本屋を舞台にしたシリーズが人気を呼んでいる。
(金魚屋古書店 小学館刊行中) 
無論これは、マンガ専門店の話だから、成り立つわけで、これが普通の小説等を中心としたお店であれば、ウンチク話を聞かされても面白くもなんともない。
先がかすんで見えないほどの書棚をバックヤードに持つ街の小さなマンガ専門の古本屋、名作マンガのウンチク話も交えて、仲々楽しめるシリーズだ。

ところで、映画で古本屋を舞台にしたものはこれまで聞いたことがない。
ちよだ文学賞受賞作品の映画化「森崎書店の日々」(日向朝子第1回監督作品)は、その珍しい例だ。

森崎書店の日々ポスター


今だに古書店が増えている最大の古書街・神保町。
そこの小さな古書店の二階に仮住まいすることになった失意の女性が、街とそこに出入りする人たちに癒されて成長していく話。
少し、神保町の宣伝臭が気になるがそれは良しとして、同じ古本屋の端くれとしては、ここに登場する志賀直哉をこよなく愛するという森崎書店の常連に、チト、違和感を覚える。
60代と思われる古書ファンに志賀直哉とは?
あまり馴染みのないマイナー作家でもわざとらしいし、荷風や鏡花本も高価すぎてこの店には似合わない。
造本に凝った谷崎潤一郎や、装丁に一家言ある室生犀星あたりが良かったなぁと思うことしきり。

古書店の女性店主も最近はかなり増えてきて、今まで見逃されていた本にも陽の目が当たってきた。
ここに取り上げた「海月書林の古本案内」(市川慎子著)も、カラー図版で「暮らしの手帖」「花森安治の装丁本」「女嫁講座シリーズ」「あまカラ」「洋酒天国」「婦人画報の目次」「しおりや検印紙」・・・と楽しい古書案内となっている。

海月書林の古書案内


もう一冊、「モダン古書案内」もその一環。

モダン古書案内


この本にも市川慎子さんも登場するが、もっと広く「ひまわりと中原淳一」「北園克衛の仕事」「横尾忠則、和田誠、植草甚一、金子國義、堀内誠一・・・」と、こちらはモノクローム図版が多いが、昭和の懐かしい本や雑誌が並んでいる。
この2冊が今週のおすすめ本。

もひとつ「ビヤホール」の話

ビール普及年表によると、慶応3年「駐日英公使館の通訳官アーネスト・サトーから昼食に招かれた薩摩藩の小松帯刀は薄色のビールを飲みすぎ上機嫌になった」とある。

酔っ払ったサムライ

又、明治5年「榎本式揚は辰の口の仮監獄で元旦二日と差し入れの「麦酒」をたっぷり飲んでうきうきと新春を迎えた」ともある。

このビール揺籃期から30年もたたない明治32年には、「新橋と横浜の停車場に食堂が開設されキリン生ビールの販売始まる」「東京新橋南金六町にビヤホールと名乗るビール一杯売り専門店が現れ、以後あちこちに同じような店ができた」といったように鉄道の普及と同じうして、ビールは全国に広がった。

立ち飲み
(いずれのイラストもビールと日本人・三省堂より)


大震災以後のカフェーブームによって、昭和5年、「ビールは今や季節の寵児である」まで大衆化していった。
伊勢佐木町入口のイセビルにはキリンビヤホールのネオンが飾られ、桜木町駅前のビルにもビヤホール。
「町毎にビーヤホールの賑はしき、内地雑居のしるし成りけり、開け行く御世のお蔭に田舎にもビーヤホール店見へけり、逸早く麒麟印のビーヤホール、治まれる代のためしなるらん」、状態に達したビヤホール人気!

このカフェ乱立(昭和4年当時、東京市内のカフェ数6187軒というにわかに信じがたい数)の昭和初期がビールの大衆化第一期ブームとすると、戦後ビヤホールが再開(昭和24年)して、十数年、屋上ビヤガーデンが登場する昭和39年頃から40年代が第二期ビールブームと言えそう。
昭和43年、銀座・新宿のビヤホールで女性客が増加し、男女比が5対1となる。
このころ、大学生たちが集まって飲むところといえばビヤホールだろう。
新宿・池袋・渋谷と盛り場には必ず2・3のビヤホールがあった。
特に銀座付近には多く集まっていた。
思い浮かぶだけでも、一番の老舗、モザイク壁画で有名な「ライオン」(菅原栄蔵のライトを手本とした設計)を初めとして、これも伝統ある交詢社ビル内の「ピルゼン」(ドイツ風ザワークラフトが名物、昭和50年に閉店)「ミュンヘン」「ローゼンケラー」(今はない)、「ゲルマニヤ」「ローレライ」「銀座アリテリーベ」と、アコーディオンの生演奏があるドイツ風ビヤレストランもいくつもあった。
大分、消えてしまった。
ドイツ式ビヤホールは銀座に定着していた。
戦前から、銀座4丁目の角はキリンビヤホールと向こう側のエビスビヤホールが張り合い、特に早慶戦の夜ともなると超満員になった。

それに比べて、今の横浜にはビヤホールといえるようなものはほとんどないのが不可解だ。
40年代の横浜アリテリーベも高級レストランに変わり、横浜ビールとキリン生麦工場のブルワリー「スプリングバレー」くらいか。
ビヤホール発祥の地としてはなんとも情けない話だ。
幻の旧野澤屋1階ビヤホール化案も実現不可。
今まで普通にあった建物が消えた空間は今さらながら痛々しいほど。
見るに耐えない。
ここに最新のモダン建築ができるならまだしも、バラック2階建てのスーパーとは情けない。
(また、ぐちになってしまった)

横浜で唯一残った震災小学校・旧三吉小学校の最後を見届けようと横浜橋商店街を抜けてみると、これももはや消えて、南区役所の工事が始まっていた。
この方は長年使われず、廃墟のようだったのでやむを得ないだろう。
もうひとつ、ビクター工場も新子安の駅から望むと、既に工事用の足場が組まれよく見えない。
1億円をもったタイガーマスクは現れなかったようだ。


今週のおすすめ新刊書。
「布への祈り」森南海子
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ビヤホール・ビヤガーデンのこと(1)

幕末日本のビールを語るとき、有名な写真が思い浮かぶ。
二人のチョンマゲ軍服姿のサムライが、向かい合ってビールを酌み交わしている古い写真。
ガラスコップにビール瓶を持つ二人、この人たちは安政7年軍艦ポーハタン号に通訳見習いとして乗船し人気者になったトミー兄弟だ。
慶応3年撮影のこの写真は、幕末・明治のビールを再現した地ビールの絵柄としても使われているようだ。

サムライ・ビール


ビール発祥の地横浜山手の「スプリングヴァレー」については依然触れた事があるが、ビヤホールの発祥も横浜だ。
コープランドは山手のスプリングヴァレーブルワリーの敷地内に(山手123番地)ビヤハウス「スプリングヴァレー・ビヤガーデン」を開いていた。
当時の山手には他に「ベルビュー・ビヤガーデン」という、生の音楽とビールを楽しむお店もあったという。
(これもドイツ式にビール醸造所に併設したビアガーデン)
いずれも明治初期、少なくとも明治9年には営業していたようだ。
このビヤガーデンはコープランドがビール醸造を止めた明治17年以降も営業を続け、引退した高島嘉右衛門も時々顔を見せ「天沼ビヤ酒」を飲んだ。

ビールは明治の日本人に西洋料理と共に広がっていく。
レストランや牛鍋屋が繁栄するにつれ、ビール消費量も多くなっていった。
嘉右衛門も、高座豚を使ったカツレツとビールを横浜の「西洋亭」で食べていたのでは・・・と、想像される。
明治初めは高級シャンペン並に高かった。
ビヤ酒(ビール)も、日本各地に鉄道が延びていくにしたがって普及していく。

宣伝


明治20年代〜30年代にかけて、キリンビールは明治屋によって一手販売されていたが、新橋と横浜駅の食堂では生ビールが良く売れていたという。
横浜駅の古い写真を見ていると、キリンビールの看板が大きく写っている。
鉄道と共に日本各地に広がっていくキリンビールの販売戦略だ。

ビヤホールの全盛にまでとてもたどり着かないので、次回へ。
挿図は2枚とも「ビールと日本人」(三省堂1984年刊)より。

お店は春先の黄色い花、マンサクとロウバイの花盛りです。
どうぞ、ご来店ください。
プロフィール
ウェブサイト
お店のウェブサイト
http://home.netyou.jp/33/fushin/
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