図書館のねずみ

南アルプスの伏流水を使った香り高い珈琲を啜りながら、じっくりお気に入りの本が選べる本好きのためのささやかなサロン、ブックギャラリー&カフェ風信。現在は店舗移転の為、日々奮闘しております。書店では扱っていないような古書、絶版文庫を集めています。

2011年11月

川上音二郎・貞奴・福沢桃介

今から30年近く前、南木曽の「蔦葛木曽の桟」の作家国枝史郎のご遺族の山荘を訪ねたとき、そのタイトル通りの古色蒼然たるその橋を見た。
山荘前の木曽川に架かる、今にも崩れ落ちそうな古い四連の吊り橋。
橋長247メートル、大正11年竣工、わが国有数の3つのタワーを持つ木造トラスト吊り橋。
これが、土地の人たちが親しみを込めて呼ぶ「ももすけ橋」だ。
長く老朽化のため通行禁止になっていたこの橋は、近代産業遺産の保存制度ができて、読書(よみかき)発電所と共に国の重要文化財として指定されると、修復され、今では歩行者専用橋として蘇ったという。

この「ももすけ」は福沢桃介、福沢諭吉の次女ふさの婿となった才人だ。
若き日の貞奴(さだやっこ)とのロマンス、晩年の女優川上貞奴のパトロンとしても有名だ。

松坂慶子演ずるNHKドラマ「春の波濤」の貞奴や、杉本苑子「マダム貞奴」をご覧の方も多いかもしれないが、貞奴の最も信頼すべき伝記は名古屋人山口玲子の「女優貞奴」(朝日文庫・1993年刊)だ。

女優貞奴


川上音二郎一座のアメリカ、ヨーロッパ公演、女優貞奴の誕生、音二郎死後、女優引退から昭和21年の貞の死までの全生涯を初めて知ることができた。

木曽川の電力開発を進めた絶頂期の桃介と貞の暮らした名古屋二葉町の洋館は「二葉御殿」と呼ばれた豪邸だったが、洋館の一部は今でも健在らしい。
桃介の発電所がいくつもある木曽川周辺や貞奴が眠っている貞照寺(生前貞が作った寺、ここも犬山城の向かいの木曽川のほとり)、そして名古屋が桃介・貞の中心の地だが音二郎・貞の思い出の地は横浜・茅ケ崎である。

オッペケペ節で名高い川上音二郎の新演劇の旗上げは横浜蔦座からと言ってよさそうだ。
明治23年8月24日、川上音二郎一座は蔦座で初日を迎え、成功を収めた。
その後、東京・関西を巡り、翌年、再び蔦座で「経国美談」の公園で評判となった。
芸者貞奴が川上と出会ったのもこの頃。
明治27年、芸者「奴」を廃業、音二郎と結婚する。
アメリカ、イギリスを経てパリ万博で女優貞奴が評判を呼んだのが明治32年。
(若きピカソや大家ロダンまで夢中になった)
1年間のヨーロッパ巡業の後、明治36年、川上一座はシェークスピア劇を携えて明治座で「オセロ」、横浜喜楽座で「ヴェニスの商人」「サッフォ」と意欲的な公演を行った。
歌舞伎に対抗する新演劇の原点は横浜にあった。

ポスター

音二郎と貞が新居を構えた「万松園」のあった茅ヶ崎の市立美術館では、昨日まで「音二郎・貞奴展」が開かれていたが、とうとう見ることができなかった。
茅ヶ崎は遠い!
お店の休日が美術館の休日なのも痛い。
貞奴の写真を長谷川時雨の「近代美人伝」(岩波文庫・絶版)から取り上げようとして探したが、上巻が倉庫に埋もれて見つからない。
代わりにオフィリアに扮した貞奴の写真を載せることにする。

オフィーリア貞奴



天心―観山―三渓

三溪園の菊花展を見て、園内を散策していたら、下村観山がその代表作「弱法師」で描いた老梅を見つけた。
観山の「弱法師」はインドの詩人タゴールが天心の墓参りで来日し、三溪園を訪れたとき感銘を受け、模写を持ち帰りたいと願った作品だ。
その臥龍梅が白い花をつけたとき、もう一度見てみたい。

弱法師
                                        (部分)  

観山は天心が最も信頼した画家であり、三渓が最も愛した画家でもあった。
三渓は観山を五浦から呼び寄せ、すぐ近くの本牧和田山にアトリエを構えさせた。
横浜の画家と言えば尾上町生まれの今村紫紅の名が浮かぶが、紫紅は20代には東京に出てしまった。
観山は30代後半から昭和5年、57歳の死まで本牧和田山を住居とした。
両人とも、横浜の画家と言えるだろう。

ところで、前回の続き、横浜生まれの天心のことを書きたい。
天心は開港地横浜の開明的な雰囲気の中、7歳でJ・バラーの英語塾で英語を学んだ。
9歳で母の菩提寺長延寺(神奈川宿、オランダ領事館があった寺。現在は神奈川新町駅前の公園となっている。)に預けられ、住職の雲居玄導に漢籍も学び、ここから伊勢山の高島学校に通い英語授業を受けた。
天心8歳の時、石川屋は、藩命で閉じられ、一家は東京へ移ることになるが、天心は東京外国語学校〜東京開成学校(のち、東京大学。ほとんどが外国人教師。授業も英語。)と進み、16歳でお雇い外国人アーネスト・フェノロサに学ぶことになる。
漢詩は森春濤に学ぶ。(南画は南原晴湖、琴は加藤桜老)
後年、フェノロサの助手として、また通訳として、古美術調査の旅に出るが、天心の日本美術への開眼となると同時に、フェノロサにとっても漢学と英語のできる最適の人材を得たことになる。
専門に英語を学び、英語学者となる弟の由三郎が見ても、天心の英語のレベルは段違いだったという。

天心ばかりではない。
当時の武士階級の秀才ぶりは、宣教師として来日していたヘボンを驚かせた。
「彼らの実力を試したが、みな、二次方程式を含む代数や平面および球面三角法などもよく理解していた。これらの青年を負かすことのできるようなアメリカの大学卒業生はほとんどあるまい。それで、当分自分の教える科目は英語に限定することにした」と、ヘボンの書簡にある。

天心の英語使用国向けの3冊の本は、刊行年代順に並べると、
「東洋の理念」ロンドン・ジョンマレー社刊。1903年。
「日本の覚醒」ニューヨーク・センチュリー社刊。1904年。
「茶の本」ニューヨーク・だフィールド社刊。1906年。
五浦の六角堂が完成する翌年に「茶の本」が執筆刊行された。
茶の本


「茶の本」は、東洋の道教思想と日本人の美意識を欧米人に伝える本だ。
和訳の文庫本としては、宮川寅雄さんの訳になる講談社文庫(昭和6年初版。観山の「岡倉天心像」がカバーに使われている。)が気に入っているが、今は絶版になっているようだ。
また、中央公論社刊の日本の名著39巻(これも、絶版)「岡倉天心」集が、天心の重要作品をすべて収めてあり、おすすめ。

六角堂流失の悲しみ

菊花展花盛りの今週、身近では横浜菊花会の三溪園菊花展が23日まで行われている。

菊花展

巴錦
葛飾北斎が描いた菊図にも出ている「巴錦」という菊

県菊花会の方は例年通り大船フラワーセンターが会場。
菊人形で有名な福島県二本松の菊花展も規模を縮小して、今年は無料で行われているという。
戦前は菊の香に包まれたという野毛山の「野澤屋の菊」は、思い出す人も少なくなってしまった。



閑話休題、一度、行ってみたいと思いながら仲々行けずにいた、茨城県・五浦(いずうら)の岡倉天心の六角堂は津波にのみ込まれ流されてしまったという。

五浦六角堂

しばらくは、湾近くに浮いているのを見たという人もいたというが・・・。
晩年の10年近く、天心の瞑想の場所であり、象徴であった六角堂が基礎だけ残して流失してしまった衝撃は大きい。
地元では材一つでも探して復元したいと言っているようだが・・・
すぐ上の天心五浦美術館も閉館中、被害が心配だ。
六角堂は海に突き出した岩礁の先端に作られ、海に三方を囲まれた低い場所だから、津波にはひとたまりもなかったと思われる。
正六角形、三坪の宇宙。
四面総ガラス、引違い窓で、一面は床の間、明治38年築の当初は板張りで炉が切ってあったという。
天心は「観瀾亭」と呼んでいた。
波濤を眺める部屋だ。

天心・岡倉覚三(幼名角蔵)が生まれたのが、文久2年(1862年)、開港直後の横浜・本町通りの開港記念館のある場所だ
開港100年を記念して実現した、「岡倉天心生誕の地」の立派な記念碑が建てられている。

天心碑

題字は、安田靭彦。
(天心に見いだされ、最後まで天心と共にあった人。院展再興につくした同人。その書も定評ある最適の人。)
肖像レリーフは、新海竹蔵の作。

ここは元々、石川屋という生糸商があったが、天心の父はここの手代から支配人に昇格していた時期。
この石川屋は、越前藩が作ったアンテナショップといったものだったようだが、やがて生糸売込み商(羽二重貿易商)として名を挙げる。
五雲亭貞秀の画になる「横浜土産」「横浜繁盛期」というガイドブックには、堂々とその名がみえる。

絵地図

商店名として載っているのは、他には「三井呉服店越後屋」だけだから、開港当初にいかに早く出店したかがわかる。
越前藩は開港地の警備を担当して、今の日ノ出町駅一帯に太田陣屋を築いていたと同時に、すぐ横浜村の名主、石川屋を名義として第一等地を確保、「石川屋」を開業するという早業。
天心の父、足軽武士・勘右衛門(党右衛門ともいう)の商人転身、時代を先取りした。
天心の英才教育については次回に。

オープン市長公舎

先週の文化の日(3日)、野毛山の横浜市長公舎が一般公開されたので、開店前に行ってきた。
これは「オープン ヨコハマ」のイベントの一環で、先月16日には市役所市長室や県庁知事室、大会議場などの公開、また、横浜正銀行本店(現県立歴史博物館)の見学会も同時に行われたようだが、こちらは未見。

市長公舎は昭和2年築のモダン建築。
近くの旧市立図書館や震災記念館(老松記念館)と共に関東大震災後の野毛山の記念的建築であったが、今は市長公舎のみになってしまった。
日ノ出町駅前のスクランブル交差点に立つと、マンションビルに隠れるように見える市長公舎の緑色の屋根や樹々、春には横浜緋桜だろうか、グリーンの中に眺めることができる。
黒沢明の「天国と地獄」のシーンを思い出してしまう。
映画では大岡川沿いの黄金町貧民窟(売春街)と丘の上の豪邸(三ツ沢の丘に作ったオープンセットらしい)だが、緑の少しもない駅前の街からは、ささやかな市長公舎でも天国と思える。

実際の市長公舎はスクラッチタイルの壁面、ポイント細部に大谷石を使って、フランクロイド・ライト設計の帝国ホテルに影響を受けた上品な建築。

旧館


元々は日本家屋と洋館を組み合わせた建築だったが、日本家屋のほうは老朽化して、小さなレセプションホールに建て替えられている。
その中央にヒマラヤ杉門と玄関の車寄せまでの中央帯に、シイの木の変わった並木があるのが奇妙な印象。
なぜ、シイの木?(不明 元々あったシイの木を活かしたのか)
洋館入口の小川三知のステンドグラス、百合の花のような(花が多いので、シデコブシの花か?)デザインのシャンデリア、、応接間には下村観山の富士の絵、(観山も原三渓に呼ばれて一時期、本牧に住んだことがある日本画家)など見どころも多いが、招待者たちをもっとも喜ばせたはずの庭からの眺望は、ビルの乱立によって失われてしまった。

ステンドグラス


シャンデリア


海や港のかけらも見えないのが寂しい。
サンルーム前のリュウノウギクの群生がその寂しさを癒してくれているようだ。

リュウノウギク

港の風景は、いつも解放されている県庁屋上から眺めることにしよう。

横浜は浦島太郎終焉の地であった

横浜は浦島太郎終焉の地であった。

江戸時代の神奈川宿と言えば、東海道有数の宿場町。
その名所・名物と言えば浦島太郎の古跡とそれにちなんだ亀甲せんべい、それに台町の茶屋から眺める海と和船の風景と、決まっていた。
広重の「五十三次名所図会」や国周の「東海道一ト眼千両」、周麿の「東海道名所・神奈川浦島古跡」を見れば明らかだ。
特に「一ト眼千両」には浦島太郎と台町茶屋、その両方が描かれている。

東海道一ト眼千両

幕末となって、和船が黒船に変わり、横浜が開港された明治初期にも、まだ神奈川宿の浦島伝説は生きていた。
アメリカの女流ジャーナリスト・シドモアの紀行文「Jinrikisha(人力車)Days in Japan」にも生麦事件・リチャードソン遭難の地にあった生麦「スーザン茶屋」と共に、この浜辺が浦島伝説の地として、浦島太郎の話を興味深く紹介している。
外人の土産用に横浜で作られた明治の縮緬本、日本のフェアリーテール・シリーズ「URASHIMA」(チェンバレンの英語訳)も評判を呼んだという。

浦島伝説の日本での発祥の地は、丹後の国と言われているが、絵巻や御伽草子絵として浦島太郎の物語となると、その土地独自の要素も取り入れて日本全国に広がっていったようだ。
始めは仏教的色彩が濃かった物語も、竜宮城・亀・玉手箱・乙姫様といった材料も出そろい、江戸時代になると草草子や歌舞伎・浄瑠璃の題材として一気に庶民の人気を集めた。
瀬戸内にも、桑名にも、木曽の「寝覚の床」にも浦島伝説が伝わっているが、東海道脇の子安浜や浦島寺(観福寺)を中心とする史跡は、神奈川随一の名所となって江戸っ子の人気を呼んだ。
「江戸名所図会」や「金川(神奈川)砂子」を見ると、東海道神奈川宿の入り口、小高い丘に、航海の目印ともなった龍燈松(その根元に灯篭があった)と観福寺(浦島寺)、浦島父子の墓が描かれている。

神奈川砂子


観福寺は明治になって神奈川宿の大火により焼失してしまい、その後埋め立てや鉄道・道路の工事などにより、この丘は無残に切り崩されてしまったが、浦島観音像や浦島寺碑などは慶運寺に残され、、浦島親子の墓は近くの七島町の蓮法寺に移されている。

神奈川浦島古跡
浦島寺


































現在、慶運時の門前にある亀の台座の石碑は大きさはかなり誇張されているようだが、周麿の「東海道名 所・神奈川浦島古跡」に描かれたもののようだ。昭和6年の石渡光逸の版画「浦島寺」の門前の石塔もこれだ。





この横浜の浦島物語では、浦島太郎の父親・浦島太夫(三浦に実在した人物)は三浦半島に住んでいたが、朝廷の命により丹後に転任してこの話は始まる。
その子太郎が竜宮から玉手箱と浦島観音像を持って帰ったのが数百年後。
太郎は愕然として父母の墓を探しに三浦を目指すが、途中箱根で玉手箱を開けて白髪老人となる。
太郎が神奈川のこの地に至ると、観音像が重くなって動けなくなる。
この地が父・浦島太夫墓の場所であった。
太郎はここに草庵を建て観音像を安置したという。
これが、観福寺(浦島寺)の地。


現在、神奈川地区には、蓮法寺や慶運寺を除くと、成仏寺の「浦島太郎の涙石」(浪石)、子安の浜には「浦島太郎の足洗井戸」、足洗川の碑などがあるが、訪れる人はあまりいないのが現状。
これで、明治45年鉄道建設によって削られた浦島寺跡を悲しみ、小島烏水による浦島旧跡保存運動や、昭和初期の浦島再ブームと遺跡整備もあったが、平成の浦島再ブームは来るか?
権現山も消え、浦島寺も削り取られ、台町の眺望はビルだらけとなった神奈川宿の名所・旧跡は、青木町「和洋菓子うらしま」の亀の甲せんべいだけに終わってしまうか。
神奈川宿と共に浦島史跡も埋もれてしまうには惜しい。
神奈川お台場の一部復元と合わせて神奈川復活を望みたい。

プロフィール
ウェブサイト
お店のウェブサイト
http://home.netyou.jp/33/fushin/
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