図書館のねずみ

南アルプスの伏流水を使った香り高い珈琲を啜りながら、じっくりお気に入りの本が選べる本好きのためのささやかなサロン、ブックギャラリー&カフェ風信。現在は店舗移転の為、日々奮闘しております。書店では扱っていないような古書、絶版文庫を集めています。

2012年01月

港町の復興デザイン

震災復興として昭和3年に作られた霞橋を見に行きたい。
野毛坂の店からは、野毛山を越えて行けばすぐのはずだ。
動物園を横目に新しい展望台のできた公園に入る。
1万人の観客席を持つ野毛山プールはすでにない。
三春台方面に意外と大きく白い富士山が見えるのを確認。
右へ折れ、一本松小学校前を通って、霞橋の橋上へ。
下の道は車で通過することはあるが、橋上を歩くのは48年ぶりだ。
中学生のとき、美術の授業で個々の眺めを描いたことがある。


霞橋は目立った装飾もない地味な陸橋だけれど、広い階段下のトイレ、バス停と相まって、三春台、霞ヶ丘の立派なランドマークになっている。
霞橋もトイレも、鉄筋コンクリート造りの一体的デザイン。
この橋、「神奈川の橋100選」に選ばれているのを、初めて知った。
アーチ

橋百選

霞橋


根岸方面の入口、山元町前の赤い鉄骨陸橋・打越橋(これも同じく昭和3年竣工の復興橋)と並んで、横浜の代表的なアーチ橋だ。
打越橋



横浜復興の先頭に立ったのは、当時最も勢いのあった生糸商人であった。
震災直後の9月7日には、横浜公園内で生糸貿易の復活を決議。
17日にはバラックで生糸取引を再開したスピード感。
横浜市復興会会長には、当然ながら原富太郎(三渓)が選ばれた。

「開港以来われわれの祖先が心血を注いで60年来蓄積したところのすべてを一朝の煙と消え失せました。しかし乍らこれはいわば横浜の外形を焼き尽くしたというべきものでありまして、横浜の本体は厳然としてなお存在して居るのであります。横浜の本体とは何か。市民の精神であります。市民の元気であります。常に市の中枢となり原動力となって中心の力たるところの御列席の諸君が、かくの如く健在でおいでになる以上は、市民の本体は厳然として存在することを断じて憚りません・・・」

「われわれは新しい文化を利用するためには旧来の文化を破壊しなければ難しいという事情がありますが、本市は今や一葉の白紙となり、その意味では千載一遇の好機を迎えました。われわれはいくつかの光明をたしかに認めることができますが、実際の問題として焦眉の急を要するのが資金であることは申しますまでもありません。国家の援助にまたなくてはならないのは当然でありますが、しかしこれとても、われわれは先ず自ら背水の陣を布いて、身を捨ててかからなければ、他からの同情も期待できるものではありません。われわれは横浜という焼け残りの孤城に踏みとどまり、ここに籠城して必死の戦をたたかい、若し事ならなかったならば、ともに枕をならべて討死する。その覚悟で以って臨まなくてはならぬと信ずるのであります。」


長々と「横浜復興誌」から引用したが、表だったことが嫌いで演説嫌いの原が残した一世一代のスピーチである。
原は自ら先頭に立って、難問題に奔走した。
原自身の会社の損害や苦難は口にしなかったという。
横浜の復興が東京より順調に進んだのも、40万市民の勤倹もあるが、原の力が書ききれぬほど大きいことは明らかだ。

原三渓(富太郎)の伝記には、武田道太郎さんの「近代日本画を育てた豪商・原三渓」(有隣堂)と白崎秀雄「三渓・原富太郎」(新潮社)があるが、いずれも品切れ、絶版。
何たることよ!
当店では常備本、欠かすことができぬ。

以下、次回。

港町の復興デザイン

建築家の伊藤豊雄さんが釜石市の復興に情熱を注いでいる姿をテレビで見た。
(12月31日・NHK)
めざすのは、千年先も希望のもてる街づくり。
自然と一体化する個性的な集合住宅を提案して、市や市民との話し合いを続けている。
鉄鋼で栄えた街も、人口は4万を切り、かつての勢いをなくしている。
一から始める街づくりは、理想の街を作る最大のチャンスだ。
急峻で平地の少ない土地を活かした、繋がりのある街づくりは実現できるか。
県や国が作るプランは、画一的な構想復興住宅になりがちだ。
神戸長田地区の復興住宅を見ると、それが良くわかる。
延焼を防ぎ、消防車の入る区画整理を優先した街は、碁盤の目並みに広めの道と高層ビルが連なり、人々のにぎわいはなくなった。
活気ある市場や商店街もなくなった。

仮設の住宅群にも、孤立を防ぐ共有スペースや集会場(堅苦しいものではなく、薪ストーブのあるカフェスペースのような空間)が必要なように、街には人が集う居心地の良い場所が必要だ。
高層ビルでは住民は、気軽に街に出て行けないだろう・・・特に高齢者は。

伊藤さんは最先端の建築を作り続けてきたが、独りよがりの建築には忸怩たる思いがあるという。
もうミニ東京は作らないという強い気持ちで復興デザインを考えているという。

石巻→気仙沼から岩手県に北上し、陸前高田→大船渡→釜石→大槌→山田→宮古→田老と三陸の港町は、それぞれ地形も文化も産業も少しずつ異なっている。
それぞれの港町が、どんな復興デザインを進めていくのか、注目したい。


関東大震災の横浜は、どう復興していったか。
当時44万人の人口(中区、西区、神奈川区、南区、磯子区がそのすべて)、山手から野毛の間の中心街地は20万くらいの規模だろう。

大正12年9月1日、土曜日の午前11時58分、マグニチュード7.9、横浜は震度6の烈震(東京は震度5の強震)と火災により、港は壊滅的被害を受け、市街は全滅した。

政府の復興プランは東京に重点が置かれ、横浜の復興事業予算は東京の10分の1以下であった。
(以下、次回へ続く)

古き横浜の壊滅
横浜の関東大震災についてはアメリカ人プールの貴重な震災体験が「古き横浜の壊滅」(有隣新書)としてまとめられている。


市会
仮庁舎となった市立職業紹介所の屋上で、生き残った39人の議員が集まり緊急市会が開かれた。
(9月11日・図説[横浜の歴史]より)



空襲
奇跡的に残った開港記念館の時計塔(同書)1

冬の時代は続く

小売店や飲食店(バー・割烹・喫茶店・・・など)にとって、冬の時代がもう10数年続いている。
人口減少の地方都市は言うに及ばず、新築マンションが増え続け、住民が増えている横浜の街中でも同じ状況だ。
市中近郊駅の駅前でさえ廃業した後には、店舗は作らず駐車場かアパートや建売住宅になる始末だ。
煎餅屋、茶舗、喫茶店、本や、靴屋、酒屋、米屋、文房具屋、帽子屋、呉服屋、下駄屋・・・ちょっと行かない間に・・・「諸般の事情により閉店させていただきます。長年のご愛顧、誠にありがとうございました。」の神が貼ってある危険あり。
伊勢佐木町の同業者「まったりや」のチラシには、「いつまでも あると思うな まったりや」とあったはず。
当店も同じだ。

昭和50年代にはまだ元気だった関内の料亭(柳・美登里・京塚)も全滅。
新潟や金沢など、芸子や老舗料亭が残っている街とは歴史の重みが違うと言うことか。
粋な実業家や、政治家・作家はヨコハマから消えてしまったからか。
昭和10年ころには幇間(ほうかん)4人を含めて188人いた関内芸妓。
生糸最盛期には300人の芸者が往来した時代があったとは、信じられない。
バー・クラブ・キャバレーも、こう不景気が続くと瀕死状態、昭和40年代クラブが林立した弁天通りなど、夜は人通りも少ない。
ザキの最後に残ったキャバレー「成田」は、年金暮らしの引退中高年をお客に絞り、30歳以上の年増ホステスをそろえる戦略で生き残っているようだ。

伊勢佐木町も名物亀楽煎餅が(仮名垣魯文が居候していたと言う)いつの間にか消えて、なじみのレーモンド設計の「不二家」と旧松屋ビルだけのザキに成り下がってしまった。
この松屋の建物は昭和6年築だが、よく見ると仲々スマートで美しい。

2RIMG1860

このビルは越前や百貨店として建てられた後、鶴屋→寿百貨店→松屋→松坂屋西館となり、現在はJRAの有料馬券売り場となっているが、基本は松屋デパート。

オール松屋デパートの出発点は本牧・根岸の入り口となる地蔵坂下亀の橋の「鶴屋呉服店」だ。

雪の堀川

写真は明治時代の雪の日の元町と堀川。
中央、亀の橋の入口に土蔵作りの重厚な建物「鶴屋呉服店」あった。

この堀川沿いの鶴屋の創業者は、山梨県出身の古谷徳兵衛。
今も鶴のマークが残る松屋のルーツだ。

昭和5年にできた吉田川沿いの松屋呉服店横浜支店は、地上7階、地下1階の堂々たるのその建物で、野澤屋とは両雄・ライバル関係にあった。

松屋開業記念

呉服専門の強い松屋は、一人あたりの売上げでは野澤屋を寄せ付けなかったようだ。
(当時の日常着・絹の銘仙は14円50銭)
ニューグランドホテルや公共建築は無論、この松屋ビルも旧越前屋(現JRA)も、震災後の商業建築は、どれもデザインに凝りすぎず格調が高い。
立派だ。



*お知らせ
今週土曜日、当店で、佐藤凉子さんの「おはなし会」と「お話の会」を行います。
PM1:30〜3:00
飲み物付き 800円
詳しくはHPをご覧ください。

素晴らしいおはなしの世界へ、どうぞお越しください。


水都ヨコハマ

以前ご紹介した尾崎富五郎の「横浜真景一覧図絵」を見ていると、横浜も相当の「水の街」であったことが実感できる。
横浜の旧市街に架けられた橋は、約100。
とても大阪には及ばないが、水の景色がこの街の重要なファクターであった。
(橋の半分は、運河の埋め立てで消えた。)
弁天橋から大江橋、そして今は京浜東北線と高速道路に変わった派大岡川に入るハシケの多いこと、小型の蒸気船や帆船も混じり、ハマの生活を支えていたことがわかる。
野毛・都橋近くの古写真を見ると、この辺りが橋が集中している重要地点だったことがわかる。

都橋


現在、中村川→堀川、大岡川を除くほとんどの運河は埋め立てられ、公園や道路となってしまったが、昭和30年代までは筏(いかだ)まで入ってきている写真を見たことがある。
そういえば、大岡川沿いにはついこの間まで、材木商がいくつか残っていた。
また、野毛の古本屋さんでも、東京神保町から仕入れた本の荷を船で運んだと、聞いたことがある。
神保町から、近くの鎌倉河岸までリヤカーで運び、品川〜羽田〜子安〜運河沿いを桜川(1954年埋め立て)に入り、野毛の入口、都橋付近の共同卸場からリヤカーで運んだのだろう、
トラック便が盛んになる前、昭和30年代までは普通に行われていたようだ。

ところで、都市景観を考えると、海や川の重要性はかなり大きい。
今は、大通公園となった吉田川の夕景色を石渡庄一郎の木版画で見ていただきたい。

新吉田川

それと、大岡川にとってかわられた人口の川・掘割川河岸の桜の景色。

掘割側

もう一つ、大岡川河口の雰囲気を残した日枝神社前の舟遊びや子供たちの水遊びの古写真。

大岡川の舟遊び


日枝神社付近

いずれも明治時代。
コンクリートで囲まれた現在の大岡川では、想像もできない風景だ。

桜木町から関内、石川町に続く派大岡川は川幅が大きく横浜市街の最も美しいビューポイントになるべきであったが、この最後の砦もとうとう昭和40年代(〜昭和52年)に埋め立てられてしまった。
せめて、高速道路部分の一部だけでも,蓋をしてカヤックくらいが通れる浅い水路を作ったらどうだろうか。
汽車道鉄橋から大岡川→中村川→派大岡川→大岡川の周遊コースが完成すればカヌー・フェスティバルの眼玉となるだろう。
プロフィール
ウェブサイト
お店のウェブサイト
http://home.netyou.jp/33/fushin/
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