図書館のねずみ

南アルプスの伏流水を使った香り高い珈琲を啜りながら、じっくりお気に入りの本が選べる本好きのためのささやかなサロン、ブックギャラリー&カフェ風信。現在は店舗移転の為、日々奮闘しております。書店では扱っていないような古書、絶版文庫を集めています。

2012年02月

孫文と横浜

土曜日は横浜シティガイド協会による「横浜中華街・孫文の足跡」ツアーに参加予定のはずが、前夜の大雨、当日も1日雨の天気予報に気がくじけ、出発時刻(9:30)には夢の中。
行くコースはわかっているので、月曜日(当店定休日)に一人で回ってきた。

中華学院の孫文だけはツアーでなければ見れないかな?と、隣の関帝廟から除いたが、よくわからず。
反対側に入り口が運よく開いていたので、目的を果たすことができた。
が、孫文像はあまり出来が良くない小さな像であった。
日本での最大の支援者・梅屋庄吉は孫文の死後、孫文の銅像4基を中国に寄贈、ブロンズ肖像を多数作って関係者に送ったというが、その一つか?新作か?よくわからない。

梅屋夫妻と
         梅屋庄吉夫妻と孫文

横浜での孫文の足跡は、その後の震災と戦災により、ほとんど消えてしまった。
住所番地だけが当時と変わらず残るのみ。
古写真と「博愛」の書、それと、鶴見総持寺に残る犬養木堂(毅)の筆による黄興追悼の「黄君克強之碑」と「日本同志援助中国革命追念碑」(1931年)しかない。

横浜は革命前夜の孫文が活動の拠点として世界的にも重要な場所だが、昨年10月10日は辛亥革命100周年の日、中国や台湾では武装蜂起して清朝を倒した指導者・孫文の功績をたたえ、記念行事が盛大に行われたという。
中国と台湾では、孫文の歴史的評価は微妙に違いがあるようだが、辛亥革命の重要性は変わらない。
ジャッキー・チェンの100本記念の映画も、辛亥革命を取り上げた。
タイトル「1911」は無論、革命年。
チェンは孫文の片腕、ナンバー2の黄興を演じている。

日本留学で軍事を学んでいる黄興だが、亡命先日本で孫文と出会い、革命へと協同するようになる。
この二人を結んだのは、宮崎実蔵(滔天)だ。
孫文が武装蜂起に失敗して最初に横浜に来たのが1895年(明治28年)、再訪は897年(明治30年)、横浜中華街はずれの陳少白宅、翌年からは温炳臣卓を拠点に、日本での支援者たち犬養毅・頭山満、山田純三郎、宮崎滔天らと往来した。
十数回の亡命・来日のうち横浜滞在は通算5年を超える。

この孫文の横浜の拠点、同じ通りの山下町119と121番地には、せめて石柱の記念碑を建ててほしい。
中華街の街づくり組合も近くにあるのだから。
また、中国(清国)領事館のあった所は、公園として整備されているのだから、革命前の孫文と横浜の関係を示す記念碑が必要だ。

孫文がロンドン留学中の南方熊楠と親しく交流したことは興味深い。

熊楠と
        中央・孫文 その左・熊楠

1895年、最初の日本亡命の後、ハワイ・アメリカ・イギリスへと渡った孫文は、ロンドンで清国公使館に監禁されてしまう。
ようやく釈放された孫文が大英博物館で出会ったのが、東洋調査部にいた南方熊楠。
孫文がロンドンを去る時、港まで見送りに来るほど両者はウマが合った。
1900年に南方が帰国したのを知った孫文は、1901年には和歌山の南方宅まで出向き再開した。

手薄い横浜の孫文を埋める図録を紹介したい。
有隣堂創業80周年記念に開かれた「孫文と横浜」展の図録は、北京大学図書館所蔵品の貴重な写真が多く、必携の本。(1989年刊)

孫文展

復興のデザインぁ 聞掌楊晶蠅ら…復興を読む)

この冬の厳しい寒さで、梅の開花が遅れ気味のようだ。
2月ともなれば江戸の風流人にとっては、亀戸天神梅屋敷の名木「臥龍梅」が思い浮かぶころだ。

亀戸の梅屋敷

蒲田の梅屋敷や湯島天神もあったが、この古木の風格と梅花の薫りを前に一句ひねろうと出かける粋人も多かったようだ。
少し足を延ばして、東海道を下り保土ヶ谷から金沢道を行けば、名所・杉田の梅郷は近い。
ここの古刹・妙法寺にも名木「双龍梅」「昭水梅」がある。
「東海道名所図絵」には、富士をバックに桃源郷のような浜辺の村が、紅白にかすむ梅林と共に描かれている。
江戸人の春一番の長距離行楽地は、杉田の梅林と金沢八景だ。

江戸の街は、ちょっと郊外に出れば緑が広がる、最大で百万人の緑園都市。
名所も多い。
水ぬるむ頃ともなれば、品川や深川の海では潮干狩り、隅田川では花見の舟遊びもできる。
一面のレンゲ畑を見ながら釣り糸を垂れる喜びもある。
江戸人のちょっとした行楽地は、深川洲崎ということになる。
洲崎と言えば海沿いのどこにでもある地名だが、江戸ではここ深川の洲崎。
深川八幡を参詣した江戸人は、ブラブラと土手を歩きながら春菜摘み。
土筆(ツクシ)や蓬(ヨモギ)摘みには最適。
海辺にはお決まりの洲崎弁天社。
弁天様は海にはつきものだ。
品川洲崎にも洲崎弁天社があるが、どちらも遠浅で、潮干狩りの名所だ。

品川洲崎


ついでに、横浜の弁天社というと開港時の唯一の横浜村の名所「洲干の弁天社」。
ここの巨大な松林は横浜総鎮守にふさわしい憩いの場所であった。
(明治3年より伊勢山皇大神宮が総鎮守となる)
開港前の横浜村から野毛村を臨む広重の版画を見ると、弁天社のできる横浜の砂浜と野毛の集落の情景が良くわかる。

野毛村


江戸深川の先、洲崎は寛政3年の津波により被害を受け、建物や開拓を禁止した広大な原っぱである。
海辺を少し高い土手道にして、他は葦やヨシの原が続いている。
目の前の江戸湾がまぶしく光って、帆掛け船が良くそうも見える。
遠くに房総の山々がかすんでいる。
長閑な風景だ。
この草原は水鳥の重要なネグラになっているだろう。
江戸では、川沿いの1本の老松だけでも名所になる。

品川鎧掛松

ましてや白い蔵が並んだり、草花の絶えない寺や眺めの良い茶店などあれば立派な江戸名所。
小名木川の運河でも、松の名木が唯1本、長く長く伸びる枝を眺めるから、風情ある川岸を歩くのは江戸の風流人だ。


三陸海岸の大津波に何度も見舞われた町や村は、今度こそ理想郷を作る最大のチャンスと捉えることもできる。
70万市民を抱えた横浜では、実現できなかった復興の一筋の光を見たい。
江戸の名所はその一つのヒントとなるだろうか。
つづく…

港町の復興デザイン

横浜はこの150年の間に、3回0からの街づくりを経験した。
1回目は、開港時の新しい街づくり、2回目が大震災後の復興、そして3回目がその22年後の横浜大空襲による焼失、(昭和20年5月29日。京急平沼駅跡〈横浜・戸部の間〉にこの日の残像を見ることができる)敗戦後の再生のまちづくり。
街の中心、港と関内地区のほとんどが米軍に接収されながらの苦しい復興となった。
これは沖縄と共に、他の都市にはない悲惨な状況だった。
(今もノースドッグなどの接収が続いている)

さて、2度目の震災復興はどうであったか。
理想都市を目指した後藤新平の東京復興デザインが後退していったように、横浜の復興予算も当初の半分以下に縮小され、市債を発行してその場を凌いだ。
震災以前から鉄筋コンクリート化を進めていた小学校は、一気に復興小学校として実現させた。(全31校)
公共建築・水道・道路・公園・橋や主要橋梁脇に作られた鉄筋コンクリート造りのトイレに至るまで、市や復興局の建築課が競うように設計施工していった。

日本大通り
日本大通り

生糸検査所が大正15年、ニューグランドホテルは昭和2年、県庁や現在地の三代目横浜駅は3年、山下公園は5年。

ニューグランド
ニューグランドホテル

野毛山公園も反町公園もこの頃。


特に野毛山公園は復興記念式典(昭和4年)の会場となったように、その後、市の重要なイベント会場として使われていくことになる。
横浜市図書館は昭和2年、その上の震災記念館が3年。
野毛山の坂は行き来する市民でにぎわった。
また、石畳を敷いたイセザキ町通りも昭和4年にはきれいに整備され、モダン都市横浜の胎動はすでに始まっている。

伊勢佐木通り

モボモガの全盛時代に入るのは、もう2〜3年後。
この頃には港も活気を取り戻していた。
日本郵船はサンフランシスコ航路の三姉妹と言われた豪華客船、浅間丸・秩父丸・龍田丸を昭和4年・5年に竣工させた。
さらにシアトル航路に氷川丸級の最新船3隻も投入させた。(昭和5年)
日本客船の黄金時代に入っていた。
一時金融恐慌の波に襲われたこの街も、たちまちカフェやダンスホールの街へ変貌していく。

横浜のカフェ名鑑(昭和8年)によると、伊勢佐木署管内に257店舗のカフェが載っている。(市内では576店・女給2046人)
同じころの職業別地図帳を見ると、花街の松影町・黄金町から伊勢佐木町にかけては、カフェで埋まっている。
昭和9年の横浜市の人口は70万くらいだから、驚くべきカフェの数。
馬車道に横浜宝塚劇場が開店したのが昭和10年、オデオン座改装が11年。
この昭和10年・11年が、ザキの全盛期だろう。
夜は専属のジャズバンドを持つナイトクラブ・サクラサロンに人が溢れた。

サクラサロン


横浜復興の総決算、山下公園の「復興記念横浜大博覧会」が開催されたのも昭和10年であったが、もうその頃には軍靴の足音が近づいていた。
盧溝橋事件が昭和12年、13年には国家総動員法が施行され、モダン都市ヨコハマは早くも消滅していくことになる。
・・・つづく。

小田原行き(「長谷川潾二郎展」)

横浜の震災復興についてもう1回書こうと思っていたが、先週小田原に行ってきたので、今回は先にそのことを書きたい。

1月30日「長谷川潾二郎展」最終日、松永記念館とその周辺の茶人たちの別荘、ついでに小田原の街歩きと、ちょっと忙しい日になった。
以前、電力の鬼と言われた松永安左衛門(耳庵)が名品・金棺出現図を手に入れて、三渓や鈍翁にようやく迫ることができたことを書いたが、その松永記念館で、観たくて行けなかった長谷川潾二郎展が開かれるとは・・・しかも、最終日が店の庭球の月曜日、行かざるを得ない。

ポスター


元々、お茶道具や古美術の展示用として造られた記念館だから、潾二郎のような小さな作品しか描けない絵画の展示には無理があった。
ガラス越しで、奥まった壁面(60cmほど先)展示では見づらい。
しかも、平塚美術館での展覧会より、ずっと作品が少ないようだ。
でも、潾二郎の戦前に描かれた小さな風景画の魅力は確認できた。
新緑の樹々の色も印象的だった。
戦後から晩年に描かれた、たくさんの花や静物画(寡作潾二郎に似合わない、画商依頼の売り絵が多くなったためか?)には、納得がいかない作品も多い。

それはさておき、耳庵の茶室「老欅荘」も、幻庵の「葉雨庵」も見られたのだから良しとしよう。

老欅荘

門


小高い丘の老欅荘からは海も見えることも確認できて満足。
隣山の益田孝(鈍翁)から頂いた石造りの塔も楽しめる。

三重塔


三井の創始者で、三渓と並ぶ大茶人・美術コレクター・鈍翁の数万坪と言われる別荘掃雲台にも登ったが、庭石ひとつ見つけられない新しい住宅地に変わっていた。
この辺は城山に続くかなり高い場所で、目前に相模湾が120度くらい広がっている。
敷地の1万坪を山縣有朋に進呈して、翌年作られた古稀庵は現存している。
山縣は無類の別荘狂い。
庭作りに熱中!
生涯九つの別荘を作ったが、目白の椿山荘もその一つ。

掃雲台は消えたが、鈍翁の小田原での痕跡はところどころに残っている。
旧東海道の海寄り、昔の魚市場の近くには蒲鉾屋が多いが、その名店「籠清本店」の看板は鈍翁の揮毫になる。

籠正

看板


小田原の城を中心にして、「街かど博物館」による街づくりについて触れたかったが、もう紙幅は尽きた。
小田原で出会ったいくつかの美しい商家や建物を並べてみたい。
ほとんど関東大震災後に建てられたものである。
紙店(茶舗)江嶋、なりわい交流館(旧網問屋)済生堂薬局、古田商店、柴田商店、仏壇ストウ商店など。
茶店お休み処





薬屋古田商店

柴田商店仏壇屋












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