図書館のねずみ

南アルプスの伏流水を使った香り高い珈琲を啜りながら、じっくりお気に入りの本が選べる本好きのためのささやかなサロン、ブックギャラリー&カフェ風信。現在は店舗移転の為、日々奮闘しております。書店では扱っていないような古書、絶版文庫を集めています。

2012年07月

貧しい日本の街づくりとヤマユリの里づくり

連日の猛烈な暑さ、朝から30度を越えてしまうのは身体にこたえる。
日が沈めば楽になる農村と異なって、都会では夜までこの暑さが続く。
アスファルトやコンクリートに残った熱は、仲々冷めない。
朝まで、25度を越える熱帯夜が続いては、東京にオリンピックなど無理な話だろう。
熱帯夜などありえない水の街ロンドンが羨ましい。
夏の都会のヒートアイランド対策を疎かにしていると、大変なことになると識るべきだ。

歩道や空き地、駐車場までアスファルトで覆い尽くされ、冷房に頼った日本の街は、江戸の町のスローライフを学ぶべきだ。
手間も金も頭も使わない街づくりはもうやめにして、街に緑を増やすことを本気で考えて欲しい。

横浜では埋め立てで海や運河を失ったことも大きい。
特に、高度成長期からコンテナ船時代に失われた海岸線や運河は、海の町の魅力や涼しい環境を減変させてしまった。

広重の浮世絵版画でも有名だった本牧鼻の光景も、わずかに残された運河のような海まで結局全部埋められてしまった。
これでは祭りの船も出せない。
海のない本牧の鼻など無残で見たくもない。
ミシシッピーベイと呼ばれた根岸の美しい海岸も、深い湾や美しい浜を持つ富岡・金沢まで失った横浜の都市づくりは酷しい。

東京・横浜の暑さも、大垂水峠を越え、山梨県境の山々や森を見ているとしばし忘れる。
この季節ならばヤマユリを見る楽しみもある。
相模湖インターを入るとすぐ、十数年はたったと思われるヤマユリの大株がたくさんの花をつけている。
初狩サービスエリアの前後にも、3カ所ヤマユリの群生地が見られる。
高速脇の土手一面がヤマユリに覆われていて見事だ。
これを神奈川県下に広めたいものだ。
先週書いたように、日本は野生のユリ大国だ。
農家の草屋根のてっぺんにヤマユリが咲いている光景は、少し前の横浜近郊でも見られた。

幕末に日本に来たプラントハンターの一番の狙いは、日本のユリの原種にあった。
日本のヤマユリ、カノコユリ、テッポウユリが、ヨーロッパの花好きにどれほどの衝撃を与えただろうか。
特に、ヤマユリは人気を集めた。
明治5年には、もうかなりの量のユリ根が横浜から輸出されている。

日本のユリ研究の決定版は、県立大船植物園長だった清水基夫氏の「日本のユリ」(誠文堂新光社 1971年刊) だが、今でもこれを越える本が出ていない。
当店棚にあった本もネットに出したらすぐ売れてしまった。残念!
写真がないので、日本の野生のユリ5種絵はがきセット(表紙はジンリョウユリ)にしたものと、大阪花博記念のヒメユリのカード(切手はヤマユリ)をお見せする。

野生のユリ


花博記念カード


夏の訪問者たち

また、山梨に来ている。
このところ、毎週の山梨行きだ。
梅雨明けの快晴。
ニイニイゼミが、ずっと鳴き続けている。
もう、コタツは片付けねば・・・。
先週までは、このコタツ布団にもぐって寝ていたのがウソのよう。
(夜中はスイッチまでいれていたとは・・・)
玄関の扉を開けると、巨大なガマガエルが足元にいて、蹴飛ばしそうになる。
大きな黒っぽいキノコ(コウタケのようなトゲトゲの突起のある皮ふ)のような、枯葉のような物体がじっと動かない。
「ちょっと、アンタ、じゃまだからどいておくれ」と外開きのドアでどけようとすると、頭を低くしてドアをよける。
お前、どこから来たの?
ひょっとして、今、冬眠から覚めたのか。
すぐ近くの落ち葉の山から、あまりの暑さに這い出してきたのだろうか?
今度は、靴で押しどけようとするのだが、ガンとして動かず。
「踏んづけても知らんよ」と強制退去をあきらめて、近くで見ていると、意外とナナフシ程度の動きの速さで、(この比喩では余計理解できないか?我が家の名物ナナフシも動作はゆっくり、時々ドジで葉から落ちてしまうが、指でつかもうとすると意外に速く動く。モッコウバラの新芽を食べて丸坊主にした犯人はこのヒトか?)枯葉の中にもぐって行った。

さっきからしきりに家の周りを巡回しているオオムラサキがいる。
縄張りを主張しているのだろう。
家の中に入るとヤッカイなので、網戸を占める。
ネムノキの花にやってきたクロアゲハまで追い払って、羽音をビュンビュンたてている。
強いオスだ。

ベランダ前のヒノキ林の暗い下枝に青い鳥がとまっていたが、双眼鏡を取ろうとしたらすぐ飛び去ってしまった。
オオルリに違いないが、ここでは初めて見た。
すぐ近くに釜無川が流れているから、ここに出現しても不思議はないが…。

野鳥と言えば、もう一種。
このところ、いつも笛のようにキョロキョロ・フィーという声が聞こえ、姿を見せない鳥が気になっている。
クロツグミだろうか?
名前がはっきりしないと、気になってしようがない。

今回出会ったチョウやトリのいくつかを書いたが、この山梨の家は別に深い森の中にあるわけではない。
国道20号、甲州街道を少しそれた集落のはずれの、ブドウ畑に囲まれた村里の中だ。
夕方に近づいた午後4:45、一斉にヒグラシの声。
今年の初鳴きか?
5:00、2度目のヒグラシの声。
何度か訪れたナナフシとイナゴは省略。
5:45、ヒグラシ3度目。
6:00すぎ、7:10きり無し。
ミンミンゼミ、アブラゼミの声はまだのようだ。

カメラを持ってこなかったので、芋版画(メイクイーン)の名人でナチュラリストの山室眞二さんのオオムラサキの絵ハガキと野鳥の絵ハガキをご紹介したい。

絵はがき

いずれも、5種セット500円で販売中。

横浜にまともな植物園がないのは、なぜ?

ちょうどこの時期、丹沢や箱根周辺をドライブすると道の両側、切り拓いた崖の上などにヤマユリの大きな花が咲いているのに出会う。
昔は近郊の草原などにもよく見かけたヤマユリは採りつくされ、墓地や人の手の届かない高いところだけになってしまった。
関西の人たちになじみの深いササユリも同じだろうか?
ササユリや高地に咲くヒメユリの自生地を見てみたいものだ。
これは園芸好きの外国人にとっても同じで、日本観光はサクラばかりでない。
ヨーロッパに渡って大人気だったツバキ、ユリ、ハナショウブ、キリやイングリッシュガーデンにもてはやされたギボウシなどの自生地を見たり、珍しい品種を求めたいと思う外国人も多い。
日本独自の盆栽も、今や世界のBONSAIとなっている。
かつて、明治・大正の「横浜植木」のガーデンは、そんな外国人や市民の憩いの場であったようだ。
ユリやハナショウブは、横浜の重要な輸出品であったのだが…。

この横浜にまともな植物園が出来なかったのは不思議というより、奇妙なことだ。
動物園が3つもあり、水族館まで作った横浜市がいつまでも「こども植物園」だけに頼っているのは、どういう事情なのか・・・、合点がいかない。
動物園を2つも新しく作ったことも変だ。

戦後、県立の近代美術館も鎌倉に決まり、県立植物園も大船にできたが、横浜市内には県立音楽堂と図書館の2つにとどまった。
横浜市は野毛山動物園と野毛山公園を整備して、野毛山動植物園としたらどうだろうか。
野毛山の野澤屋「茂木家」邸は、菊花展で市民に開放された歴史ある土地だ。
野毛山プールの跡地はどうするのだろうか?
(もう、マンション用地として売ってしまった?)
植物の研究施設も兼ねた小規模だが質の高い植物園を作ってほしい。
観光施設にも、市民の憩いの場ともなるのだから。

ロンドンのキュー植物園はもとより、パリにもベルリンにもマドリッド、バルセロナ、モナコ、ニューヨーク、カルカッタ、シンガポール、北京…世界中の大都市はどこでも立派な植物園を持ち、観光客や市民でにぎわっている。
日本でも東京には「神代植物公園」、大阪には花博公園の「咲くやこの花館」、京都には歴史ある「府立植物園」、神戸には「六甲高山植物園」や「ハーブ園」がある。
広島にも「広島市植物園」、名古屋には「東山植物園」がある。
いずれの都市もかなりの規模を持つ植物園をもっているのだが・・・、横浜は?というと、お寒い限りだ。

牧野富太郎が中心となって作った「横浜植物会」も「東京植物同好会」も100年を越える歴史を持っている。
「横浜植物会」の創立が明治42年、開港50周年の年、この歴史を持つ横浜にしてこの現状はどういうことか?
野毛山が手狭だったとしたら、花月園の競輪場跡地に県立植物園という手もある。
元々、「花月園」は植物展もたくさん催された土地なのだから。
県の花も「横浜植物会」のマークもヤマユリの花、当然だ。
ボタニカルアート絵はがきの「箱根の花」もヤマユリだ。

絵はがき

当時の植物好きの欧米人が、この花の美しさにどれほど魅了されたことか。

タケニグサの面白さ、美しさ。


タケニグサをご存知でしょうか?
ちょうど今頃から、標高の高いところでは8月ごろまでが一番目立つ時で、白い花穂を伸ばしているのをどこでも見ることができる。
ちょっと郊外にドライブすれば、中央分離帯に侵入していたりするが、特に切り開いた赤土の日当たりのよい崖や、高速道路の入口に至る斜面はこの草の天下だ。
荒地には一番早く根付いて堂々たる姿で、クサとは思えぬ巨大さで、周囲を圧倒している。
タケニグサ写真


この雑草、繁殖のすごさと葉や茎をちぎると黄色い液が出て手や洋服を汚し、なかなか取れないこともあり、皆の嫌われ者だ。
この黄色い液はアルカロイドを含む毒(薬にもなる)液で、この草をオオカミグサ、オオカメ(ミ)ダオシと呼ぶ地方もある。
(同種ケシ科のクサノオウも同じ黄色い液を出す。)
このタケニグサをかなり気に入っていたのは、民間の植物学者で著名な牧野富太郎だった。

彼は植物画もよくしたから、この異形の大型植物の面白さをよく知っていたのだろう。
この特色ある大きな葉は椿の葉のように立派で、カジバ、カジクサと呼ぶところもあるし、葉裏の白いのが良く目立って、ウラジロと呼ぶこともある。
牧野の表現によれば、「雅趣ある面白い分裂」とも、「ギリシャ・ローマにあればアカンタスの葉のように彫刻にもなっていただろう」と、その葉の形を称賛している。
この欧米にはない植物が珍重され、庭園に持ち込まれたことがあったようだ。
その壮大な姿とにぎやかな白花、目立つ葉裏の白と表の白っぽい微妙な緑色の大きな葉が立派で、西洋の大きな庭には似合うかもしれない。

夏休みの八ヶ岳高原に拓かれた新道をドライブすると、先が見えないほどの霧の中で、ハッとするほど姿の良い草に出会う。
高山植物かなと思ってよく見ると、なんだお前か・・・タケニグサであった。
「こんなにスタイルの良い雰囲気のある草だったのか」と驚くことがある。

この草は花が終わる秋には身の丈を超えた枝にたくさんの実が入ったサヤを付けて、風が吹くとカサカサ音を立てる。
ササヤキと呼ぶ地方もある。
子どもがこれをおもちゃ代わりにして、振ってガラガラのようにに楽しむ草でもあった。
(茎は穴をあけ笛にして遊んだという説もある)
タケニグサの呼び名の多さは、民俗学的にも貴重で、宇都宮貞子さんの名著「草木の話」は民族採集の面白さがわかる。
草木の話


文庫本でも読める「春・夏・秋・冬」の4冊の草木の本(新潮文庫・昭和59年・絶版)のうち「夏の草木」には、タケニグサの項もあり、熊田達夫さんの草の生える土地の環境までがよくわかる写真が仲々よい。
タケニグサの写真も、霧の中のハッとする印象に近づいている。
夏の草木


晩秋には2メートルを超える茎が立っているが、中が空洞で見かけは竹そっくりだ。
竹似草はここから出ている。
竹煮草ではないだろう。
この茎はクモの巣払いに使っていただけだが、何とか利用価値はないのか?と思っていたら、(チャンバラをするにもあまりにも軽く、メダカの釣竿くらいしかないのか)、宇都宮さんの本でタケニグサやシシウドを竹の代わりにトヨに使うことを知った。
「遠い出水から引いてくるのに、この茎を継ぎ足し継ぎ足し、トヨにして、今のホース代わりに・・・秋になりゃ硬くなるでしょう」というのは炭焼きの人たちがしていた話。
染色・薬などこの草のことはまだ色々あるが、今回はこれくらいで。

最後に江戸の本草家・飯沼悠斎の「草本図説」に出てくるタケニグサの図を紹介したい。
タケニグサ図

三渓―文六の芦之湯温泉(ふたたび)

タゴールも泊まり、古径も「いでゆ」でこの浴室を描いた芦之湯の原三渓の別荘「去来山房」のことは、以前少しふれたが、その建物は現在残っているのだろうか。
箱根の教育委員会、郷土資料館の方に伺ってみると、すでに建物は無くなっており、その場所も完全に特定できていないという。
「松坂屋さんの敷地にあったことは確かですが・・・増築新築などもあり、「去来山房」を知る人も今はいなくなってしまった・・・。」という。
残念だ。

三渓はここに毎夏、避暑に来るのを常とした。
この芦之湯の自慢の湯につかり、事業の構想を練り、三渓コレクションや作庭の構想を深めたに違いない。
奈良の古美術を好んだ三渓が、庭一面に植えたという馬酔木(あしび)の1本でも残っていないのだろうか?


この松坂屋には戦前―戦中―戦後にかけて、100人を超えるドイツ水兵たちが暮らしていたことがある。
横浜港に停泊していたドイツ艦が、不審な爆発事故により帰れなくなったのである。
このドイツ水兵たちの生活ぶりや面白い噂話などを、大女将や若主人からよく聞いて小説家としての職業的意欲・興味を湧き起こしたのは、この離れに毎年訪れた獅子文六であった。

文六が晩年に書いておきたかった作品は、このほかにもう一つ。
父の遺産でフランス遊学中に出会ったマリー夫人のこと。
「父の乳」で福沢諭吉の門弟であった父親や子供時代を、「娘とわたし」で男手ひとつで育てようとした娘のことを描いた文六は、自伝的作品の最後に、最初のフランス人妻のことを描いておきたかった。
彼には、日本に連れ帰った妻を早死にさせてしまった負い目が最後まで残っていたようだ。
日本に来た夫人は文六の翻訳(近代劇全集)の協力者としても献身的に仕事を助けたが、病気になり、娘を残してフランスに戻り実家で亡くなってしまう。
文六はかなり後になってその死を伝えられたが、すぐ実家に出かける余裕も金もなかった。
日本での教会追悼会を開くのがやっとであった。

三渓と文六、とても繋がらないこの二人が、芦之湯温泉と野村洋三という2つのルートでわずかにつながっているのが面白い。
野村洋三は、美術と同郷人という仲立ちで晩年の三渓が最も信頼した人であった。
洋三の三溪園への散歩はほとんど日課となっていた。
「去来山房」や「白雲洞」に、大震災時に三渓と共にいたのも洋三だった。
洋三の「サムライ商会」も、ただの信用ある「骨董商」ではない。
横浜の優れた工芸家の(金工・陶芸・漆芸)の作品を置くことを忘れなかった。
三渓が日本画家を援助していたように、洋三も、当時最後の頂点を迎えていた日本の工芸家を支援して注文を出していたのだ。
この店で遊びまわっていたいたずら坊主が、文六少年だ。

今回は写真がないので、文六の装丁本ベストワン。
コーヒー愛好家に人気の本、芹沢げ霑丁の「可否道」をお見せします。
上は函・下が表紙

函

本
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http://home.netyou.jp/33/fushin/
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