図書館のねずみ

南アルプスの伏流水を使った香り高い珈琲を啜りながら、じっくりお気に入りの本が選べる本好きのためのささやかなサロン、ブックギャラリー&カフェ風信。現在は店舗移転の為、日々奮闘しております。書店では扱っていないような古書、絶版文庫を集めています。

2012年11月

岸田吟香・目薬・たまごかけごはん

山梨県白州にある数少ない食堂・レストランのひとつに「たまごかけごはん専門店」がある。
平飼い、地育ちの鶏の生み立てタマゴ(鶏が初めて生む小さな卵も珍しい)を炊き立ての白州米にのせて、醤油を垂らす。
好みでネギやかつお節を加えてもよい。
軽く箸で混ぜて一気にかき込む。
一杯目は1分もかからずに終わってしまう。
タマゴは何個でも自由に食べられるが、ご飯のおかわりは有料だ。
たまごかけごはんにご飯無しではしようがない。
おかわりりということになる。

この「たまごかけごはん」というスローフードのファストフード?の創始者・元祖!は岸田吟香と言われている。
吟香といえば、新聞ジャーナリストの先駆けとして有名だが、東京日々新聞の記者として従軍していた時(台湾出兵)、彼が常食としていたのがたまごかけごはんだったという。
鶏卵は江戸時代から食べられてはいたが、生で食べたというのは明治の吟香からだという。
ご飯さえあれば、何しろ1分で食べられる。

前に人気の歌舞伎役者、沢村田の助の脱疸手術や義足のことを書いたことがあるが、このとき手術をしたヘボンの医療所(横浜絵ハガキや古写真でよく見ることのできる谷戸橋際の寺院のような大屋根の目立つ屋敷。「平文」という看板がかかる。現在はヘボンの記念碑が建っている)には、横浜に来たばかりの岸田吟香が住み込みの助手としてここにいた。
(ついでに言えば、日本人へのクロロフォルムを使って外科手術をした、最初の手術だった)

吟香は眼病治療のため、名医として評判の高かった横浜のヘボンのところに来たのだが、その病気もヘボンの眼薬ですぐ治り、吟香の才能を見込んだヘボンの助手として雇われていた。
ヘボンが手がけ始めていた和英辞典の完成には吟香は欠かせぬ人材だった。
2万語以上を収めた原稿がようやく出来ても、活字による活版印刷所のなかった日本では印刷もできない。
二人は上海に渡り、吟香はひらがな活字の製作に苦心、書名の扉文字「和英語林修正」も描いた。
この扉には「一千八百六十七年 日本横浜梓行」(梓は出版の意)と記した。

辞典完成後の吟香は、さまざまな事業に手を出したり、ジャーナリストとしても活躍するが、銀座煉瓦道の中心(今の服部時計店の場所)に、目薬店と書店(中国文房具屋書籍を扱う)を兼ねた「楽善堂」薬舗を開いて成功する。
この目薬がヘボン直伝の日本初の点眼薬だ。
晩婚だった吟香の4男として明治24年、ここで生まれたのが画家岸田劉生。
吟香はすでに60歳であった。

劉生が、関東大震災後の昭和2年、東京日々新聞の連載依頼に応じて書いた「新古細句銀座通」にはこの「薬善堂」や明治の銀座の様子が回想されていて、貴重だ。

新古細句


昭和34年、凝った趣味本で知られる東峯書院から[非買]として作られた、岸田劉生「新古細句銀座通」(しんこざいくれんがのみちすじ)から、柳並木も描かれた薬善堂の挿絵をお目にかけたい。

挿絵

冬に入る日

今朝の東日本は、完全に冬モードに入ったようで、東京・横浜でも最低気温8度台になった。
これが2・3日続けば紅葉が進む。
明治以来の温かさだった札幌も、一気に初雪、氷点下になったようだが、山梨・勝沼ではすでに先週半ばに氷点下を記録している。
ぶどう棚はもうすっかり黄色い黄葉の風景が広がっている。
霜が何回か続けば、紅い葉も混じって来るだろう。

八ヶ岳山麓のカラマツ林はもうすっかり黄金色の林になり、風が吹けば柔らかい針のような黄葉の葉が降りしきり、林床は落ち葉のクッションとなる。
新緑の芽吹きの時も美しいが、落葉松(カラマツ)の名の通り、秋の黄葉が舞う季節のカラマツ林は一段と美しい。
足に伝わる落ち葉のクッションも心地よい。
これは宣伝になってしまうが、このカラマツ林の四季を追った唯一の小さな写真集が、小社刊の「落葉松(カラマツ)」(詩文・串田孫一 写真・丹地保尭 本体2000円)だ。
写真


落葉松表紙

未だ、在庫有り。
クリスマスプレゼントには最適の美しい本です。


白州も紅葉が一段と進み、紅葉の美しさで知られるハナノキ(日本の固有種、カエデの仲間)は、先週には下半分が黄葉、日当たりのよい上半身が鮮やかな紅葉になっていたが、今週は紅葉を少し残してほとんど落葉してしまった。

ハナノキ

玄関先のカツラの落葉にハナノキの紅い落葉が混じって仲々美しい。
ハナノキとカツラの落葉の七変化をご覧ください。

紅葉


風が吹くとばさばさ音をたててホウノキの巨大な葉も落ちてくる。
この葉はオムスビを包むのにちょうど良い、山の贈り物の一つだ。

我が家の王様カシワの大きな葉もすっかり黄金色に輝いている。
この葉はしっかり枝について春先まで落ちることはない。
おにぎり用には使えない。
柏餅の季節まで待とう。

日差しのある日には、コンクリート製の電柱にテントウムシが集まってくる。
木製の電柱には隠れる場所もあっただろうが、コンクリートでは冬籠りの場所もないだろうに・・・昔の習慣が残っているのか、あるいは高く登り、温かい場所を求めて飛び立つためか?
よくわからない。

カメムシは家の中に入ろうと、窓に集まってくる。
少しでも隙間を見つければ侵入してくる。
虫たちの冬支度も始まっている。

落ち葉


庭で元気が良いのは茶の木やサザンカ(山茶花)だろうか。
どちらもツバキの仲間で冬に強い。
同じような黄色いシベの目立つ美しい花だ。

もうすっかり初冬に入った裏山の雑木林で最後まで残った花をつけているのは、野菊の仲間でもリュウノウギクだけだ。
(たまに咲き遅れたリンドウやアキノキリンソウが残ることもあるが)リュウノウギク(竜脳菊)は、霜の降る寒さに葉を紅葉させて最後まで咲いている健気な花だ。
文部省唱歌「野菊」(作詞・石森延男)を思い出してしまう。
 岷鵑せ海ら吹いてくる こ寒い風にゆれながら、気高くきよくにおう花・・・
Aがおりても負けないで、野原や山に群れて咲き、秋の名残を惜しむ花。あかるい野菊、うすむらさきよ」
ここで歌われる野菊は薄紫だからヨメナかノコンギクだろうが、白いリュウノウギクの方がよく似合っている。
一茶の「足元に日のおちかかる野菊かな」の句も、リュウノウギクにふさわしい光景だ。

横浜の橋の要諦は親柱にアリ



一週間ぶりの山梨の山荘は、カツラの黄色い落葉で埋まっていた。
カサカサに乾燥した落葉の上を歩くのは楽しい。
都会では公園の地面でしか味わえなくなってしまった喜びだ。
日本の街中では、枝から落ちた葉は、その時点でゴミとして扱うようだ。ゴミが落ちていると街のクレーマーがうるさい。
並木を管理している市は手間を省くため、夏を過ぎると早くも枝を整理して丸坊主状態にしてしまう。
サザンカの咲いている生垣のある住宅地、落ち葉を集めて焚く同様の風景は町では消えてしまった。
焚火は町ではご法度となってしまったらしい。
落ち葉はごみ袋に直行となる。
落ち葉焚きに限らず、焚火の楽しみは田舎暮らしの最大の楽しみの一つということは、以前言ったことがある。
アウトドア遊びが盛んになったこともあって、焚火に憑かれた人が多くなったことは大著「焚火大全」という本まで出たことで識れる。

さて、町暮らしの楽しみは何かというと、その一つは新しいランドマークになるような建造物の出現である。
東京駅者の復元、ゲートブリッジやスカイツリーの出現で、東京の風景も一変した。
北十間川の中央にそびえるスカイツリーの風景は、この小さな運河の価値も高めた。
同様に、隅田川の流れる下町東京の魅力を再認識させた。
水上バスやいくつもの親水プロジェクトによって、東京下町の水辺の重要性は高まっている。

今の格調ある日本橋が出来たのも、横浜の吉田橋が「かねの橋」から3連アーチの美しい鉄筋コンクリート造りとして完成したのも、明治44年であった。
この開通式の賑わいはスカイツリーどころではない。
明治44年4月3日の雨の開通式を伝える朝日新聞には「…百万市民は雨降らば降れ風吹けば吹け、槍が降ろうが火が降ろうが此盛儀を見逃して成る物かと午前中より押し寄する者引きも切らず…」の大混雑。
吉田橋開通式の絵ハガキを見ても同様の市民の賑わいを確認できる。

吉田橋完成


当時の橋の重要性は現代の比ではない。
橋は街の入口、出口の門であり、広場でもある。
江戸時代には高札が建ち、市も祭りもここを基点とした。
吉田橋は、港・馬車道と繁華街・伊勢佐木町を結ぶ横浜の最重要の橋であったから、端の途中に三つの半円形の張り出しを設けた重厚なデザインが成された。

吉田橋


明治には、この袂で正月の出初式が行われ、多くの市民が集まった
戦後では、アメリカの進駐軍はこの橋を行進し、市民が見守った。
それにしても、この吉田橋のかかる派大岡川の広い水辺の風景が失われたことは、横浜の都市景観にとって最大の損失と思われる。
隅田川を持つ東京下町がどれだけ羨ましいことか。

桜木町駅前の大江橋から、元町入口の西ノ橋まで川沿いを路面電車が走っていた昭和30年代の風景を思い浮かべながら、運河や橋の痕跡をたどってみよう。
ついでに高速で蓋をされた中村川を遡って、亀の橋〜翁橋〜車橋から三好橋まで行ってみたい。

翁橋
                 翁橋
帰りは、横浜橋商店街を通って金沢産の地魚でも買ってこよう。

大岡川も派大岡川、中村川も関東大震災後の昭和2・3・4年に造られた震災橋梁がほとんどで、デザイン的にも面白い。
特に、橋の両脇に建てられた親柱のデザインは若い建築家デザイナーの参画があったことで、アールデコ調、表現派調から和風デザインまで変化に富んでいて楽しい。
震災橋梁の要諦は親柱に表現されている。
重要な橋にはそれ相応の立派な親柱がつくられている。
派大岡川に架かる花園橋の親柱は近くの港中学校の門柱として残されている。

花園橋の親柱

高さ3メートルを超える堂々たる姿だ。
扇町方面から横浜公園、中華街を結ぶ重要性が偲ばれる。
中村川の亀の橋や扇橋も、野毛入口の都橋と同じく重厚なデザインが成されている。

親柱の部分


埋め立てられた運河・吉田川や日ノ出川の震災の親柱は一つでも残っているだろうか。
デザインは「横浜震災復興誌」の中に残っているが…

野毛っ子・平岡正明のこと

最近古書展にはあまり行かないが、今年の有隣堂の古書まつり(10月18日〜21日)には、顔を出すことにした。
目録にあった「三渓画集」(昭和5年〜刊・6冊揃・73500円)をちょっと見ておきたかったから。
この本は、晩年の原三渓がかなりの力を注いで編集した贅沢な出版で、その秩入りの大きな(新聞紙半裁位)造本は、下島大完堂が手掛けている。
大完堂の戦前の仕事を見ておきたい。

この古書店で見かけたのがユニークな野毛のタウン誌「ハマ野毛」(季刊)の6冊揃6300円。
この雑誌の編集長だったのが平岡正明だ。
1992年創刊だから、もう20年前になる。
当時平岡は葉山から横浜・保土ヶ谷のマンションに移り、50ccのバイクで野毛に日参していた。
革命・文学・ジャズ・演歌・浪曲・新内・祭り・大道芸狂いの平岡がその仲間と、別に売れなくてもよい雑誌を作れば、こんな雑誌になる…という見本だ。
タウン誌としては破天荒な分厚い文字ばかり目立つ紙面だ。
何しろ、東急桜木町駅廃止に伴う街の活性化資金があるから、同人誌よりも自由な編集ができる。
この小さな6冊の雑誌は、平岡の著書「横浜的」「野毛的」と並んで、平岡の横浜作品の一つだ。
6冊6300円は高くない。

古書展の帰りは吉田町を通って野毛へ向かう。
その入り口は大岡川を渡る都橋だ。
都橋


補正2

平岡も本牧や山下町〜港をうろついて、都橋を渡ると自分の家に戻ってきたかのようにホッとすると何かに書いていた気がするが、その感覚は良くわかる。
美空ひばり、長谷川伸にゾッコンだった平岡は東京生まれだが、ハマっ子以上にハマ好き、ノゲっ子だった。
その平岡が逝ってもう3年。
平岡が盛り上げた大道芸や新内流し、八尾のおわら風の盆などの流し芸は続いているが、何か元気がない。

平岡の愛した中華料理店「萬里」のランチでも食べて、平岡の義兄弟のように親しかった萬里主人の話を聞きたいと店を覗いたが、主人がいない。
支店「放題亭」に行っているのか?
またしても、メニュー19番・特別中華ランチを食べ損ねた。

「昭和ジャズ喫茶伝説」の著書を持つほど、ジャズ喫茶通いをし、レコード世代の平岡は、中華街の端っこにあるジャズ喫茶「ミントンハウス」にもよく現れたが、闇市の臭いのする野毛のジャズ喫茶「ちぐさ」や「ダウンビート」でコーヒーをすすっているときが一番くつろげたのだろうと思う。
下戸の彼のことだから。
プロフィール
ウェブサイト
お店のウェブサイト
http://home.netyou.jp/33/fushin/
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