図書館のねずみ

南アルプスの伏流水を使った香り高い珈琲を啜りながら、じっくりお気に入りの本が選べる本好きのためのささやかなサロン、ブックギャラリー&カフェ風信。現在は店舗移転の為、日々奮闘しております。書店では扱っていないような古書、絶版文庫を集めています。

2012年12月

角界の異端児・ハマっ子大関の若羽黒をご存知か?

どこかの小学校で、相撲を授業に取り入れたというニュースを小耳に挟んだ。
埼玉県?であったかも知れないが、聞き逃した。
これは良いことだ。
怪我の多い柔道よりも、足腰を鍛えるのには相撲の方が良いと思う。
特に小学校では。
相撲はほかのスポーツのように道具も場所もいらない。
棒で、土俵を円形に描くだけで良い。
別に裸にならなくとも、体操着にベルト状に紐を巻けば、それで良し。
校庭の隅に簡単な土俵があれば、さらに良し。
(相撲の強い東北や北陸地方、九州などには今でも土俵のある学校は残っているだろうし、奉納相撲を行う神社にも、立派な土俵を持つ町もあるだろう。)
愛媛の山間の町では、素人とプロの相撲大会が立派な土俵を持つ会場で行われるという。

かつて、栃若時代の小学校では、休み時間の男子は相撲をとって遊んでいた。
人気のスポーツは野球か相撲くらいしかなかった時代(昭和30年代)の、マンガ雑誌の表紙といえば長嶋や朝汐だった。
今の相撲のように、引き技やイナシに簡単に倒れてしまう相撲はあり得なかった。
あの狭い土俵でも仲々勝負がつかず、水入りの熱戦も多かった。
体の小さな子供でも、意外と双葉山並み?の二枚腰で、反って仲々倒れない強い腰を持っていた。

同じように腰の強さが生きるレスリング競技にしても、かつてのレスリング大国日本の面影はなく、24年ぶりの男子金メダルに大騒ぎするほど凋落した。
(女子は強いが…)
国技の大相撲も横綱・大関はほとんどモンゴル勢に占領されている体たらく。
元々、日本の相撲は大陸の地モンゴルあたりから朝鮮半島を経て日本に伝わったようだから、当たり前のこととも言える。
モンゴル発祥の相撲は、草原の遊牧民を通してロシア・東欧にも広まったから、ロシアや東欧の横綱が出る日も近いかもしれない。
何しろ今や日本の大相撲は世界的に広まっていて、日本人が考える以上に人気が高い。
オリンピック競技にもSMOUが入る可能性は高いのでは?
野球よりも競技人口は広がりを持ち、勝ち負けのハッキリしない今のJUDOよりもわかりやすいスポーツだ。
(大砂嵐というエジプト人も強い)

しかし、スポーツ欄の星取表に一喜一憂したかつての相撲人気は、少なくとも今の神奈川・山梨にはない。
例えば、山梨では突貫小僧と呼ばれた富士桜(現・中村親方)の引退後は十両竜電(甲府出身)が最高位。
横浜出身の力士は序の口が最高位。
幕ノ内に何人もいる東京・大阪とは比較にもならない。

かつて、昭和30年代には山梨に富士錦(小結)、横浜には若羽黒(大関)がいた。
若羽黒が初大関で優勝した(13勝2敗)昭和34年九州場所では、12勝3敗の富士錦が敢闘賞を受け出世の手掛かりをつかんだ。
ついでに言えば、同部屋のライバル安念山も3敗で殊勲賞。
さらに、小生好みの若の海(仕掛け投げの名人)も3敗で技能賞。
この場所の星取表をお目に架けたい。

星取表


小生のいつも行く温泉施設「むかわの湯」には、小結「富士錦」の化粧まわしや柳行李などが飾ってある。
昭和39年寝小屋場所で優勝した時(14勝1敗)は、オープンカーで出身校・武川小学校まで凱旋パレードしたという。
(後、高砂親方として部屋を継いだ名力士となった)

一方、若羽黒と言えば、生粋のハマっ子力士として、当時の横浜市民はみな応援した人気力士であった。
ハマの人気スターは、美空ひばり、岸恵子、遠藤幸吉(力道山と並んだプロレスラー)、そして若羽黒・・・と言われた。

松葉好市氏の語りによる「横浜物語」に一章「君は若羽黒を見たか」があり、その短い生涯を知ることができる。
若羽黒こと草深朋明(ともあき)は、昔ピカデリーのあった長者町5丁目の鎌倉街道を少し下った(今の中郵便局裏あたり・曙町)クリーニング屋の息子として生まれた。
日枝小学校・吉田中学校出身。
髭の行事・式守伊之助を通して立浪部屋(親方は羽黒山)に入門。
チャンコ嫌い、ケイコも嫌いのワガママなドライボーイで、ジャズを口ずさみ、アロハシャツを着て場所入りして問題になったりしたことは有名だが、昭和34年小結で11勝4敗、秋場所で準優勝で技能賞、大関に登った。
そして、九州場所での初優勝となる。

優勝写真

まさに、絶頂期。
優勝を決めた琴ヶ浜との勝負で勝ち名乗りを挙げたのは、恩人・式守伊之助であった。
この年のレコード大賞は水原弘の「黒い花びら」、時の人・若羽黒も紅白歌合戦の審査員にも選ばれた。

その後の転落は驚くほど早い。
昭和40年、廃業してニュースにもならないほど忘れられた。
若羽黒の名が新聞に小さく出たのは、昭和44年3月の死亡記事だった。
横浜を遠く離れた岡山で、淋しい最期を迎えた。
「若羽黒(元大関・本名草深朋明)二日午前四時半、脳栓塞症のため岡山市の日赤病院で死去。三十四歳。横浜出身。二十四年初土俵。三十二年小結、三十四年秋場所大関に昇進、同年九州場所で初優勝した。押し相撲が得意」(神奈川新聞)
富士錦とは対照的な生涯だった。
その墓は、横浜久保山の川合寺にある。

冬のバードウォッチング

足元に野鳥が死んでいた。
ヒヨドリだろうと思っていたが、ちと違う。
いつもツバキの花蜜を吸いにやってくるヒヨドリは、ツバキの蕾がまだ固いので、サザンカやチャの花に集まっていた。
その花が終わってしまった今では、ロウバイの大きくなった蕾を狙って騒がしいのを昨日見たばかりだ。
ところが、どう見ても羽色が違う。
灰色や褐色には見えない。
アオバトのようなオリーブ色に見える。
腹・胸は白っぽい。
アオバトは生息地が決まっているし(埼玉→湘南海岸)、くちばしも体型もハトとは異なる。
しっかりした大きめのくちばしと足を持っている。

ふと、鳥の倒れていた場所の上を見るとサンルームの窓だ。
ははぁ、窓ガラスに激突したに違いない。
気絶して落ち、冬の寒さに凍死したのだろう。
このところの寒さは、山の遭難が相次いだことでもわかる。
近くの南アルプス西端・仙丈岳でも兄弟が二人凍死したばかりだ。
隣の甲斐駒もいかにも寒そうな冬景色だ。

甲斐駒

千メートルの絶壁・摩利支天の上を飛行機雲を長く伸ばして、飛行機が飛んでいく。
いつもの冬の光景だ。

快晴の冬の青空は窓ガラスや車のフロントガラスに鏡のようにきれいに映る。

フロントグラスの紅葉

野鳥が見誤るのも無理はない。
この鳥は、キツツキの仲間・アオゲラ(Jpanease Green Woodpecker)では、ないだろうか?
アオゲラは首の近くに赤い色があったと思うが、それはない。
メスだろうか?
確かめようとしたが、日本野鳥の会の「日本の野鳥ガイドブック」は引っ越し段ボールのどこかだ…出すのは不可能。
図書館に行かないと確認できないモドカシさ。

野鳥観察はここ白州の冬の楽しみの一つだ。
夏山でも、仲々見ることのできないルリビタキが冬の庭ではよく見かける。
オスのルリ色が美しい。
メスもオスも丸々として可愛い。
冬にやって来るジョウビタキ(紋付鳥)も、すっかりなじんで風景になっている。
車のフェンダーミラーや小窓に写った自分の姿に攻撃している。
モズのように縄張りを持っていて、他の鳥が入っていると撃退しようととびかかる。
なかなか逃げようとしない自分の姿に向かって、何度でもとびかかっているのもいつもの冬の光景だ。
この鳥は、去年やってきたジョウビタキだろうか?


あまり写真もないので、バードウォッチングの大先達・中西悟堂の本を載せたい。
定本「野鳥記」全15巻(春秋社刊 昭和54年)

野鳥記

貴重な近代化遺産・根岸競馬場

今年は日本の近代競馬が始まって150年の記念すべき年として、JRAのG1レースのポスターには必ず、日本近代競馬150年記念の冠がついている。
これは公式のレースプログラムが残っている1862年(文久2年)4月26日開催の横浜新田(今の中華街の場所)YOKOHAMA RACESを最初の公式レースとしている。
実際は前年にも元町で居留外国人のレースが盛大に行われていたし(仮設の円形馬場だった)、前々年(万延元年)にもレースがあったことが、居留外国人の日記にも記されている。
1862年は生麦事件の起きた年だ。
幕府は居留外国人のための乗馬用の散歩道の整備と本格的な競馬場を作ることを決断した。
1866年(慶応2年)、根岸の丘の原野に忽然と現れた巨大な競馬場の全景をベアトの写真で見ることができる。
また、明治5年の横浜名所絵では、富士山も海も臨まれる美しい環境と居留地外人の華やかな交流の場としての競馬場の様子がよくわかる。

根岸競馬場

居留地のイギリス人たちは、富士山・江戸湾・三浦半島・房総半島の眺めを見て、「英国で一番美しいと言われたグッド・ウッド競馬場より美しい」と自負したと言う。


根岸競馬場は昭和17年秋まで76年間(春・秋開催)、日本競馬の中心であった。
特に明治21年から大正にかけては、居留外人のための施設としてほとんど独占状態で、馬券を発行することができた。
明治天皇の行幸も13回に及ぶ。
最後の行幸も根岸競馬場であった。(明治32年)
現在の天皇賞のルーツ、ミカド・ベーシスの授与も根岸から始まっている。


ここに、上野不忍池の競馬を描いた版画がある(明治18年刊)

不忍池競馬場

明治天皇と皇后、女官たちが洋装して競馬を楽しんでいる。
明治の競馬場は、鹿鳴館と並んで要職政界財界人たちの社交の場であったことがわかる。
馬券の発行はない。

元々、欧米では馬や馬車はステータス・シンボルであり、競馬場は正装した貴族階級やブルジョアジー、エリートたちの社交パーティの場、優雅な楽しみの場であった。
その雰囲気を今に残しているのがパリの西、ブローニュの森のロンシャン競馬場だ。
この広大な公園は日本にも優れた馬を贈ってきたことのあるナポレオン3世が、ロンドン・ハイドパークを手本に造ったもので、競馬場は1857年完成。
普段はピクニック気分の人たちが、トロット競技を眺めながらのんびりと過ごす場所だが、年に2回の大レースの時だけは大いに盛り上がる。

夏のバカンス前の「パリ大賞典(G1)」の日は、セミナイターとして夕方5時始まり、最終レースは9時20分スタート。
日没は10時に近いので、まだ明るい。
女性陣はガーデンパーティを楽しみ、子どもはアトラクションで遊ぶ。
花火が11時ころでお開きになるが、これを終えるとバカンスに突入することになる。
海岸のリゾート地ドーヴィルへの移動が始まる。

ロンシャン最大の祭りは、秋の10月第1日曜日。
世界中の競馬人の夢「ザ・レース」と言われる「凱旋門賞」の日だ。
賞金400万ユーロ。
今年は、日本最強(ふつうに走れば)のオルフェーブルが2着に泣き、2006年には1万人の日本人をロンシャンに呼んだディープ・インパクトは3着(後、失格)に沈んでいる。
この日は6万人の記録的入場者で小さなロンシャンを埋め尽くした。

根岸は震災後、日本では初めての本格的メーンスタンドを持っていた。
昭和4年に出来たモーガン設計の鉄筋コンクリート造りの1等スタンドは今でも建っている。

根岸競馬場遠望


根岸競馬場側面

貴賓室もきれいに残っている。
見学用の階段を作って、年に何度かは公開してもらいたい。
せっかくの150周年に根岸森林公園となったここで、JRAや横浜市はイベントくらいは考えてほしい。
ロンシャンのクレープ屋台並みに日本の競馬場の名物屋台でも並べて、往年の名馬とファンの交流の場を作って全国からファンを集めてほしいが…。
トロット競技でも復活させて・・・無理か?

原発事故もそうだが、日本の安全装置が壊れ始めた歴史的な事故

近代競馬150年と根岸競馬場について書いたのだが、日曜朝に起きた、中央高速笹子トンネル事故があんまり重大な出来事なので、これに触れないわけにはいかない。
この新しい笹子トンネルは完成(1977年)以来、35年間でおそらく数百回使っているトンネルだ。
特に今夏からは、毎週のように、多い時は週に2度、中央高速の相模湖インターから勝沼インターまで利用している。
先週も事故前日の夕方、トンネルを通って帰ってきた。

大月から笹子の山並みはもうすっかりなじんだ風景となっている。
別の機会に書くが、初狩から笹子トンネルに向けてオリオン座を目指して登るような感覚は真冬の楽しみになっている。

この笹子トンネルの天井板が崩落して、車3台が巻き込まれ、9人の死者を出した事故は恐ろしい。
東京への上り線だから、昼過ぎになればなお大惨事になっていただろうし、平日ならば大型トラックが繋がって高速で飛ばしているから、トンネル内の追突・爆発・火災で目も当てられない事態になっていただろう。
タイル1枚が落ちても事故につながる高速道路のトンネル内で、長さ130メートル分のコンクリート製の天井板が一気に落ちるなど、異常という言葉では言い表せないくらい異常だ。
1,2m幅の天井板を、わざわざ溶接して繋ぎ合わせていることが一層被害を大きくしたようだ。
1ヶ所のボルトが外れても、他で支えるようにと繋いだのだろうが、バランスが崩れ次々と崩壊しては意味がない。
ボルトと接着剤の関係も気にかかる。
排気と吸気を分けて半分ずつの天井板を中央でまとめ、中央の吊り金具で支えている構造らしいが、たとえ吊り金具のアンカーボルトが全部落ちたとしても、道路には落とさないフェイルセイフの方式は別にむずかしい工事ではないと思うが、それはしていない。

35年前、昭和52年ころにはそうした安全思想はまだなかったとトンネル専門家は言ったが、それはないだろう。
1日に数万台の車を通す最重要トンネルの一つでこんな危ない吊り天井方式が採用されていたことにショックを受ける。
しかも安全点検は目視のみ、中日本高速道路は笹子だけは打音検査なしで済ませていたという。
ボルトまで5メートル以上あるのでできなかったという。
ア然!
(2000年の点検だけは足場を作って打音検査をしたらしい)
とにかく、中日本高速道路には、吊り天井が危ないという認識は少しもない。
別会社の保守管理会社に任せきりだ。
それにしても、換気のために分ける目的の天井板に1枚1tを超える重いコンクリートの板が吊りさげられている構造はおかしい。
吊り天井は、3.11の時にもあちこちで落ちている。
そういう時に不安は感じなかったのか。

この国の安全装置はガタガタに壊れかかっている。
昭和40〜50年代に造られた多くのトンネル・橋梁・高速道路などの老朽化対策は、やっと始まったばかりだと言う。
中央高速道路が、当分まともに使えなくなったことの影響は甚大だ。
経済的損失も計り知れない。

また、笹子〜大月の街は夜中までトラックが連なって、深刻な被害を受けることになる。
そこでまた、事故の犠牲者など出ないことを祈るばかりだ。

国土交通省は全国のトンネルの構造や保全状況など、ランクづけて公開すべきだ。
特にトンネル内に重たい構造物があるようなトンネルは通りたくない。


もう、紙面が尽きた。
予告写真を1枚。
根岸競馬場スタンドと花瓶
*明治21年当時の根岸競馬場スタンドと、MIKADO VASES明治天皇から下賜される銅製花瓶
プロフィール
ウェブサイト
お店のウェブサイト
http://home.netyou.jp/33/fushin/
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