図書館のねずみ

南アルプスの伏流水を使った香り高い珈琲を啜りながら、じっくりお気に入りの本が選べる本好きのためのささやかなサロン、ブックギャラリー&カフェ風信。現在は店舗移転の為、日々奮闘しております。書店では扱っていないような古書、絶版文庫を集めています。

2013年01月

南太田散策

横浜の中心部や港のことは市史が詳しく調べて正史とするが、郊外や町はずれのことは、あまり書かれない。
区史や郷土史等の研究所はあるが、硬すぎて読まれない。
もっと気軽な散策記が欲しい。
前回は杉田を取り上げたが、今回は京急・南太田駅で降りてみよう。


ここは吉田新田以前は大岡川の河口、入り組んだ湾はここまで来ていた。
埋め立てが進んだ明治期には開港地から続く町はずれにあたるが、ここに新天地を求めて寺や、学校、陶芸、植木(輸出用植物)・・・といろんな人たちが集まってきた。
知らない町を歩いてみるのは楽しい。


この駅はいつも通りすぎるばかりで、下車したことはないが、車窓から見える常照寺の立派な伽藍やドンドン商店街の看板はかなり昔から気になっていた。
南太田付近の丘は明治から陶器作りが盛んな土地だったが、その痕跡は残っているだろうか?
明治期に外国人も多く来園したと言う「横浜植木」の場所はどこか?
ここから丘を登って三春台の尾根道に出て、いくつかの寺沿いに、原三渓や吉田勘兵衛、宮川香山らの眠る久保山の墓地まで行ってみることにしよう。



昼時だ。
先ずは、駅前で腹ごしらえ。
「珈琲パーラー泉」の日本ナポリタン学会?認定証付きの昔懐かし、正統派ナポリタン(この店ではポラタという名がついている。パスタは細めで、ねっとりとケチャップが絡む、食べ応えのある一品)を食べて、いざ出陣。

ナポリタン


鬼子母神・常照寺はプラットホームからもよく眺められる。
小ぶりで美しい山門は、持国天と多聞天で守られている。

常照寺山門

この目前に新しく広がったプラットホームが横切っている。
致し方なしか。
石段を登りつめ、彫刻の美しい立派な本堂に参詣して、頂上の巨大な日蓮の銅像へ向かう。
この丘からは市街が一望できる。
寺のある丘には清水ヶ丘教会も同居しているのも、新開地横浜らしい。



駅へ戻り、ドンドン商店街を突っ切って三春台へ上る途中、民家の塀に真葛焼きの窯跡プレートを見つける。
さらに進み坂を上る途中にもう一つ、これが正式の真葛焼窯跡の記念プレートのようだ。

窯跡プレート

ここに、昭和34年、四代目香山の死によって廃絶した登り窯があり、先のプレートからこの辺り一帯が真葛焼の工場だったのだろう。
この庚台(かのえだい)には横浜植木もあったようだが、その場所はわからなかった。
(現在は唐沢に移っている)
この坂を上りつめると三春台の寺町に出る。
横浜へ進出してきた各派の寺院がこの道に集まっている。
大震災や戦火で焼きだされた寺もここに移っている。
野毛にあった大聖院や林光寺もここへ墓地を移した。
伊勢佐木町裏の清正公を持つ常清寺は三度も伽藍を焼失し、ここに鉄筋コンクリートの本堂を建てた。
この道は久保山墓地と横浜市の霊場を中心にして、寺院・石屋・茶屋・仏具屋・セレモニーホールなどが集まっている。
この道では、光明寺門前にある木造地蔵菩薩像が見逃せない。
ガラス越しで見えにくいが、座高2,74メートルの巨像で室町期の作とされている。

久保山墓地へ入ってみる。
この丘の北斜面すべてが墓碑で埋め尽くされて、その向こうのビルの立ち並ぶ街並みまでが墓に見まごうばかり…右の斜面の墓地の天辺にはランドマークビルディングが顔をのぞかせている。

久保山墓地

この風景は圧倒的だ。
これを見てからは、三春台の丘から眺める谷間を埋め尽くす家々がみな、墓碑のように見えてしまうのには、マイッタ。


次回は、駅の反対側、大岡川を越えて蒔田・堀ノ内方面を歩こう。
古代から中世、戦国時代の横浜を知ることになる。

続・吉野の桜はいまだに有名だが、杉田の梅はいまだ少しは残っているのだろうか?

一度駅に戻るように商店街を抜けると、杉田小学校と並んで東漸寺の大きな屋根が良く見える。
鎌倉五山と並んで幕府から厚い保護を受け、広大な領地を誇っていた臨済宗建長寺派の古刹・東漸寺は人家に埋もれるように立派な釈迦堂だけが建っている。

東漸寺

境内に入ることはできないので、門や壁が邪魔して釈迦堂(仏殿)の正面の姿が見えにくい。
古い五輪塔も遠くから眺めるだけだ。
600年を越える歴史を持つこの寺も明治19年の大火でほとんどの堂宇を失い、大正12年の大震災にも開山堂や庫裡も失ってしまった。
釈迦堂脇の巨木・旗立杉(この杉から地名が出たという)も枯れ、カヤぶきは亜鉛版に替わった。
戦後のどさくさで、進駐軍の兵士に持ち去られてしまったという!本尊釈迦如来の脇侍・阿難尊者像はどこに行ってしまったのだろうか?


再び場所のわからなかった梅の寺・牛頭山妙法寺(日蓮宗)に向かう。
国道16号を富岡方面に戻り、バイパスとの交差点の歩道橋に立つ。
ここは、昔の浜辺だ。
山側を見ると人家の奥に寺らしき屋根がある。
妙法寺だ。
今ではここだけに名所「杉田の梅」を見ることができる。

梅

門前の駐車場にいぶきの巨木があり、歴史の古さを感じさせる。
江戸名所図会にはこの門前から砂浜が広がり海を一望できたことがわかる。
本堂前の狭い庭に梅の古木・名木や句碑を見ることができる。

保土ヶ谷に残る句碑「保土ヶ谷の 枝道曲山 梅の花」は東海道をそれて、笹下あたりから杉谷に至る古道が江戸風流人たちの観梅の道であることを示している。
杉田を支配していた笹下城主の間宮一族は、ここ妙法寺を菩提寺としていて、一族の立派な墓が並んでいる。

墓石

昭憲皇后命名の蝋梅や(明治19年参拝)、日荷上人の伝説を持つ榧(カヤ)の古木、牛頭天主堂前の銀杏の巨木など見どころも多い。

榧

特に、西側の山腹を上る墓所は牛頭山(妙法寺山)と妙観寺山にいたる山頂は眺望のよい平坦地となっている。
ここには宝塔を作る計画があるようだが、素晴らしい眺めだ。

海の見える丘


ここで初めてすっかり遠のいた杉田の海を見ることができた。
江戸の俳人もここで梅に囲まれた寺の堂守と杉田や磯子につづく見事な梅林の眺め、江戸湾の青い海や帆かけ船、一番上方にかすむ房総半島の眺望を楽しんだに違いない。
こうした眺めの良いところは必ず茶店があり、俳人粋人は緋毛氈の縁台に座り、甘酒でも飲みながら一句ひねったのだろう。
「梅が香に 腹ふくるるや 帆かけ船」(蓼太)
「これはこれは ここをや梅の 吉野山」(抱一)

ここ妙法寺墓地山頂の眺めは、梅の季節にもう一度来たいと思う杉田唯一の場所だった。
この山頂にわずかに残った梅の里・杉田の可能性を感じた。

吉野の桜はいまだに有名だが、杉田の梅はいまだ少しは残っているのだろうか?

横浜の街の広がりは、路面電車の路線図である程度知ることができる。
横浜の市電(路面電車)の最大の拡大は昭和30〜31年であるが、(昭和47年に廃止された)震災後、昭和初期(昭和2〜5年)には、すでに都市の輪郭が決まっている。
その当時の終点であった弘明寺、保土ヶ谷又は藤棚、杉田、生麦、六角橋が港ヨコハマの郊外拠点(副都心)と言うことができる。
現在では弘明寺は上大岡へ、保土ヶ谷は戸塚へ、杉田は金沢へ、生麦は鶴見へ、六角橋は新横浜、そして港北ニュータウンへと郊外へ街は拡がって行ったが…。

このうち、杉田は通り過ぎるだけで、今までなじみがなかった街なので行ってみたい。
梅の名所の名残はあるだろうか?
名刹東漸寺はどうなっているだろうか?
美空ひばりがデビューした杉田劇場の跡はどこか?
巨大な神輿と祭りの縁日の賑わいで知られた古社杉田八幡にも行ってみたい。
海のなくなった杉田に磯の香りは残っているだろうか?

元々の杉田は開港地横浜とはほとんど縁のない小さな漁村だった。
江戸名所図会には、名産のナマコづくりの様子が描かれている。
この地に、鎌倉・鶴岡八幡宮と肩を並べる歴史を持つ杉田八幡者と、鎌倉の名僧がしきりに出入りしていた禅寺・東漸寺があるように、金沢と同じく鎌倉文化につながりが深い風光明媚な地であった。
海が埋め立てられ遠ざかり、梅林が消え小さな家が密集しては何の魅力もない。
シーサイドラインのターミナルとして発展するかというと、そうでもない。
元々平坦な土地の少ない土地だから、無理もない。
郊外拠点の地はむしろ金沢の地になったということだろう。
根岸線の高架が不愛想に街を横切っている。


国道16号沿いの高架下に杉田劇場があったというプレートがあった。

碑

この高架下をたどると、予想よりかなり慎ましい佇まいの杉田八幡に着いた。

杉田八幡

石段が山上にまで続いていて長い参道を持つ古社を想像していたが、異なっていた。
古くは久良岐郡の総鎮守としていた面影はなかった。
社殿背後に桜の大きな杜が連なる妙観寺山があるのだが、新しい巨大なマンションが屏風のように建ってしまって興ざめだ。
珍しい和風の狛犬2対だけが古社を偲ばせる。

狛犬

長くなりそうなので、続きは次回に。

規模は小さくとも門前町を持つ寺や神社が街中に欲しい

新年あけまして、おめでとうございます。
みなさんの初詣は、地元の神社や寺院でしょうか?
横浜市民の初詣は、横浜総鎮守の伊勢山皇大神宮と言うことになっているが、実際は、比較的近い鎌倉・鶴岡八幡宮や川崎大師平間寺に行く人がかなり多いのではないだろうか。
伊勢山神宮では、門前町の賑わいがない。
かつて縁日で賑わっていた野毛上野成田不動も、それ程の人出は無くなった。
野毛本通りも正月の賑わいはない。

急ごしらえの横浜の街作りでは、遊郭作りには力を入れても、寺や神社の配置には何の配慮もない。
日本の古い街では一等地を占めている寺社や寺町などは、横浜ではおろそかにされた。

野毛浦が埋め立てられる前は、街の中心にあった見事な松林で囲まれた洲干天社(当時は横浜総鎮守)は、厳島神社と名を変えて羽衣町に移された。
元町通りの一番海よりの一等地にあった立派な増徳院・薬師堂も消えた。
名所元町百段とその上の浅間神社、眺望よく外人に人気の高かったその茶屋も大震災で消滅した。
その後、明治・大正にかけて大阪道頓堀と覇を競った伊勢佐木町の鎮守はお三の宮・日枝神社だが、ちと遠い。
伊勢佐木本町通裏の常滑寺と清正公も震災で移転した。
ここにはかつて、浅草の浅草寺の出開帳もあり、横浜別院の計画もあったが実現しなかった。

かように、近郊では杉田の古寺、杉田八幡や弘明寺の真言宗名刹・弘明寺観音、神奈川宿の多くの寺や洲崎神社、鶴見は能登から移った大本山・総持寺があるのに、港町の中心地は、教会はあっても浅草寺のような寺を持たない街は寂しい。

ということで、今年の初詣は、大正期にはかなりの賑わいを見せていた磯子の山上の岡村天満宮と決めた。

岡村天満宮

ここの縁日は、元町増徳院薬師堂や野毛の成田不動の縁日と並んで三大縁日と言われるほど人出があったと言うが、今や、こじんまりと住宅街に埋まっている。
若い人たちには、旧松坂屋前と並んで、ユズ発祥の地としての方が有名なようだ。
境内のユズの看板と絵馬をお目にかけたい。

ユズ



絵馬

ここの西瓜天神の泥人形は全国的にも有名。


ついでに、山梨白州の初詣は2ヶ所のハシゴ。
一つは、白洲次郎の祖先の地に立つ白須八幡神社の巨木モミ。

モミの巨木

もう一つは、赤松の巨木並木の参道を持つ、石尊神社の恐ろしい石段。

石尊神社

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