図書館のねずみ

南アルプスの伏流水を使った香り高い珈琲を啜りながら、じっくりお気に入りの本が選べる本好きのためのささやかなサロン、ブックギャラリー&カフェ風信。現在は店舗移転の為、日々奮闘しております。書店では扱っていないような古書、絶版文庫を集めています。

2013年02月

オリオンとシラネを愛した文学者・野尻抱影

久しぶりに通った中央高速の上り笹子トンネルは驚くほど天井が高く、スッキリした印象。
出口近くのカーブにファンが何台も並んでいるのが気になるが、これだけ天井が高ければ排気ガスも問題にならないだろう。
撤去案もあったというコンクリートの天井版は何だったのだろうと、今さらながら思ってしまう。
近くの初狩サービスエリアには、献花台が作られも黙祷する人も多い。
下り初狩サービスエリアは中央高速一の富士山のビューポイント、以前は中国人観光客のバスは必ず立ち寄る場所だったが、今ではすっかりその姿も見られなくなった。

ここ初狩には、もうひとつ、特別な夜景の楽しみがある。
特に冬のオリオン座と合わさると格別の喜びがある。

この銀河鉄道の夜は明るい電灯のついた大月駅のプラットフォームから始まる。
大月駅を離れた夜の列車は、初狩駅を越えると笹子川の向こう側を山裾から山腹へ次第に登り始める。
平行して上る中央高速も初狩サービスエリアを越えると勾配がきつくなり、競うように夜空に向かって登りつめる。
車と夜汽車の向かう南天の空にはオリオン座が光っている。
車はオリオンの三星の右下にある一等星リゲルを目指して走っている。
ちらちら横目で銀河鉄道のような光りを放つ夜汽車を意識しながら、共に空に向かって往く。
リゲルの青白い光に向かう角度が緩まり、登りつめたところが笹子トンネル。
いつのまにか列車は消えている。
車はブラックホールのような笹子トンネルに突入する。
長いトンネルを抜けるとキラキラ光る星が次第に増えてきて、天の川の大星雲が近づいてくる。
これはオリオン座の大星雲M42ではないか?
それとも馬頭星雲か?
・・・と錯覚したくなるが、これは甲府盆地の街の灯りだ。


冬の星座の王者はオリオン座と言われるが、山梨の夜空ではオリオン座の中にも驚くほどの多くの星を見ることができる。
(肉眼で見られるのは、136個らしい)
三ツ星下の縦に並んだ小三ツ星、その少しにじんだような光がオリオン大星雲だ。
月明りのある甲府盆地からは、大星雲のかわりに青白く光る南アルプスが眺められる。
ひときわ白く輝いているのが白根(峯)三山、北岳か。


オリオン―山梨―シラネとくれば、浜ッ子で星の文学者として知られた野尻抱影と言うことになる。
氏は、若き教師時代(明治末)の5年間を甲府で過ごした。
山と星空に囲まれた甲府にいれば、星の研究にも磨きがかかり、白峯(根)三山にも取り憑かれるわけだ。
氏の登山は明治末年から大正にかけてだから、ウェストンやE・サトウはともかくとして、同じ浜ッ子の小島烏水と比べてもそれほど遅くはない。
南アルプス初期の開拓者の一人だ。
晩年の随筆集「鶴の舞」(昭和47年・光風社刊)には「遥けき山々」として、若き日の山恋の日々を描いて興味深い。

鶴の舞

「星博士による星のエッセイのない随筆集」として評判になった本だ。
氏の出された本はかなり持っているが、ダンボールの中に埋もれて簡単には出せない。
見つかったもの2・3冊の書影を掲げたい。
星三百六十五夜日本の星

橋のギャラリーと桜のプロムナード(大岡川・中村川・掘割川)

サクラは丘や公園にもよく似合うが、河の堤や運河沿いの桜並木はまた、格別のものがある。
江戸郊外の名所・武蔵小金井堤の桜は広重の富士三十六景にも取り上げられた江戸人の行楽地。
小金井

玉川上水沿いに様々な品種の山桜が植えられている。
元文年間(1736〜41)に植えられたと言うから100年を越えた古木が多い。
この桜並木は現在でも、明治期あたりに植え替えられた山桜を見ることができる。
花色も花形も新芽の色も様々な山桜が美しい。

横浜では、大岡川沿いに、桜木町から弘明寺まで桜の並木が続いているが、河口近くの何本かの里桜を除いて、すべてソメイヨシノが植えられているから寿命が近づきつつある。
大坂造幣局の通り抜けのように、里桜の色々な品種を混ぜて花期も寿命も長くして桜を楽しみたい。
元々の大岡川の河口は、初代吉田勘兵衛の建てた日枝神社(お三の宮)の場所。
日枝神社

ここから浦舟町あたりが横浜の川、運河の集中地で材木商も材木市場もここに集っていた。
現在、中村川(元町脇の堀川につづく運河)と掘割川(明治7年に開墾された根岸湾につながる運河)が大岡川と合流するこの地には、震災後復興局が作った復興橋も多く残されており、中村川や大岡川の下流(南太田―日ノ出町―桜木町の運河部分)と合わせて、復興橋のギャラリーと言えるほど多く残っていて貴重だ。
大通公園となった吉田川や高速道路となった派大岡川に架かった多くの橋をなくしても、これだけ大正末から昭和初期の橋が集積している場所は日本にはないだろう。
同じ復興橋でも永代橋や清洲橋の隅田川では規模が大きすぎる。
小名木川クラスの中村川や大岡川は花見のプロムナードとしても橋のギャラリーとしてもちょうど良い規模だ。
清水橋近くの大岡川では、明治30年創設の伝統を持つY校ボート部の漕艇も見られる。

日枝神社前の鎌倉街道には復興局が大正15年に造った吉野橋が架かっているが、昭和60年補修時に、今はない吉田川・日本橋の親柱が復元されている。
吉野橋

中村川の浦舟水道橋には、明治26年「西の橋」の鉄橋を縮小して作った翁橋をさらに小さくして、歩行者用水道橋として使われた。
これで、現在最古のピン結合トラス橋が残されることになった。(平成元年)


日枝神社裏の山王橋も復興局製だが、車道拡幅により脇に歩道橋を仮設している。
山王橋2

山王橋

これも新設ではなく戦前の跨線橋や鉄橋を使ってほしかった。
大岡川の桜のプロムナードには、全国から使われなくなった貴重な鉄橋を集め、歩行者用のギャラリーとしたい。
橋詰のユニークな復興トイレも整備して。

明治の掘割川は、桜の名所として横浜の外国人たちにも人気があった場所だ。
桜の季節には人力車に乗った外国人が訪れ、手彩色の絵ハガキも多く作られている。
大岡川の桜

この川沿いは空が広く歩道も広く取れるのだから、小金井堤の山桜のように、芝の土手を作って様々な山桜を植え、名所の復活を期待したい。
この川と大岡川の桜とを繋ぐ中村川は、上を高速道路でふさがれているが、橋のギャラリーと運河に似合うヤナギを植えて一大プロムナード(桜木町→根岸)とすることは、夢の話ではない。
市の観光PR予算や緑化予算の一部を使うだけで実現可能なのだから。

日ノ出町というところは?

日ノ出町駅前の再開発ビル工事が、いよいよ本格化してきた。
重要な震災復興橋の一つ、長者橋から日ノ出町駅のプラットホームを完全に見ることができる。

駅からの眺め

また、駅側からは、巨大な空地と長者橋、川向うの吉田興産ビルが一望できるようになっていた。
この付近一帯は、明治初期から代々、吉田家の住まいのあった所だ。
現在の吉田勘兵衛は十何代目だろう?

この日ノ出町駅から長者橋を通って伊勢佐木町に行く大通りは、根岸線や地下鉄がない時代には伊勢佐木町通りへのメインストリートだったのだが、今や最もつまらない通りになっている。
かつて山元町行きの市電が走っていたこの通りの唯一ともいえる楽しみは、和菓子屋「しげた」の大正期のレンガ倉庫が見られることだったが、これも一瞬にして消え、駐車場となっていた。
今や、地元吉田家の復元した大井戸やミニ復元の清正公(これも久保山へ移った)だけの街だが、その先のイセブラ自体も死語となっているのだから、いまさら嘆いても詮無きことか。
明治〜大正時代にはこの重田家と吉田家は長者町の3大長者と言われたそうだが、(あと一人は忘れた)両者が少しでも残っているだけでも良しとするか。


日ノ出町と言えば、大岡川沿いに西川オルガンの工場があった所だ。
もと三味線職人の西川虎吉は、初め元町で創業したが、明治20年には日ノ出町に移り、本格的に西洋楽器の製作を始めた。

西川虎吉

店は馬車道にあった。
横浜英和女学院にある2台の西川オルガンもここで購入したようだ。
30年代の日ノ出町2丁目30の工場は、3階建てのかなり大きなものだったようだ。
西川オルガンは国産リードオルガン製造の元祖だ。

オルガン

大正期にはピアノやヴァイオリン製作にも乗り出し、大正期には鶴屋町に大工場も作ったが、同年二代目西川安蔵、9年虎吉の死で西川楽器は、長年のライバル山葉寅楠の日本楽器(現・ヤマハ)に吸収されてしまった。
西川オルガンの世評は高かったらしく、その後しばらくは西川オルガンの名を残して販売したそうな。
西川夫人のことは前に触れたことがあるが、モダンガールは駆り、横浜社交界の華であった。
大岡川沿いには長谷川伸の生誕の地の記念プレートがあるが、西川オルガン工場跡のプレートも欲しい。

蒔田の丘を歩く

50年間一度も下車しなかった京急南太田駅に、1月だけで3回降りることになった。
一度目は駅の山寄り、宮川香山の窯跡から久保山墓地を歩いた(これは前回書いた)
二度目は、蒔田城が気になって吉良家の墓がある勝国寺周辺を歩いた。

勝国寺 (1)


勝国寺山門

今回はその時行けなかった堀ノ内の室生寺を中心に、日が暮れなければ蒔田の奥を通り抜け、岡村の三殿台遺跡まで行ってこよう。
前回見られなかった蒔田城跡(城と言っても石垣や立派な天守を持つような城ではない。空堀や土塁で囲まれた丘の上の賢固な屋敷)に立つ横浜英和学院の礼拝堂にも、予約が取れている。
ここのステンドグラスも楽しみだ。

この地域は横浜で一番古い歴史を持つところだが、開港地横浜から見れば郊外、街の外ということになる。
横浜市に編入されたのは開港50周年の後だ。
蒔田の丘は縄文・弥生・古墳文化と3つの時代が重なった三殿台遺跡(標高55メートル)に跨っていて、大岡川流域では古代から最も住みやすい環境だったことがわかる。
それほど遡らなくとも、弘明寺と並んで平安末期創建の古刹・宝生寺(古儀真言宗)がある。

宝生寺石段

堀ノ内の家並みを遠くに見える森を目当てに歩いていくと、写真で見慣れた宝生寺の石段が見えてくる。
石段を登り山門をくぐると、もう別世界だ。

宝生寺 (1)

野鳥の声だけの静寂…本堂背後の原生林の深さに驚く。
スダジイ、タブの巨木を中心にして、アオキ、アブツバキ、ヤツデなどが混じった横浜の海岸線の森だ。
街中で原生林がこれほどの規模で残されているのは奇蹟だ。
蒔田城脇の勝国寺(吉良家の菩提寺)の墓地に行った時も、横浜とは思えぬ森の深さに、鎌倉の寿福寺裏の墓地や浄智寺にいるような錯覚を起こすほどだった。
かつて、本牧の寺はすべてが宝生寺の末寺であったという。
その格式を伝える古文書、仏画、仏像も多く、大震災や戦災にも大きな被害を受けなかった宝生寺の貴重さは言うまでもない。
宝生寺には弘明寺の鉈彫十一面観音像のような目玉はないが、背後の県指定天然記念物の原生林と古文書がある。

さて、すっ飛ばさないと三殿台まではとてもたどり着かない。
名門吉良家(世田谷一帯も領地にしていた)の吉良頼康が築いた蒔田城は、大岡川沿い、鎌倉街道脇の切り立った要塞の地にある。
すぐ下はもう海岸が迫っている。
宝生寺門前でも塩作りが盛んだったようだが、南太田側にも「塩くみ坂」という名があるように、この一帯は塩田作りが行われていた。

この蒔田城跡に大正5年山手から移ってきたのが横浜英和女学校。
一時成美学園と名を変えたが、現在は横浜英和学院になっている。

礼拝堂

この礼拝堂はかつての本丸のあった場所に建っているが、元々山手時代のマカスリン礼拝堂の木組みやステンドグラス、ランプをそのまま使って建てられたものだ。

ステンド2ステンド1











ということは、明治のアメリカ製の横浜最古の貴重なステンドグラスだ。

礼拝堂内部

女子ミッションスクールの礼拝堂にふさわしい色遣いの落ち着いた清楚な印象のステンドグラスの中、西川オルガンを響かせて賛美歌を歌っているのだろう。

もう三殿台までは無理だ。
プロフィール
ウェブサイト
お店のウェブサイト
http://home.netyou.jp/33/fushin/
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