図書館のねずみ

南アルプスの伏流水を使った香り高い珈琲を啜りながら、じっくりお気に入りの本が選べる本好きのためのささやかなサロン、ブックギャラリー&カフェ風信。現在は店舗移転の為、日々奮闘しております。書店では扱っていないような古書、絶版文庫を集めています。

2013年06月

宮本常一・未完のライフワーク

森のみどりはすっかり濃くなり夏の姿に変わっている。
下草も伸びてもう森の中に入りにくい。
林緑に咲くホタルブクロの花も盛りを過ぎたようだ。
ヘビイチゴの赤やどくだみの白い花だけがやけに目立つ。
ミドリ一色と思われた森を遠目に眺めると所々に白い花を見ることができる。
もう咲き終わって小さな身も見えだしたミズキが、また咲いている。
無論、同じ木ではない。
ミズキにおくての樹があるのだろうか?
標高1000メートルをはるかに超える奥飛騨などに行くとミズキやトチノキの白い花が7月下旬に見られるが、この辺りは5月街にはミズキが咲いていた里山。
また、疑問が増えた。

閑話休題、宮本常一の続き。
未来社の「宮本常一著作集」の観光は昭和42年3月(1967年)常一59歳のとき、この年、日本観光文化研究所の「あるく みる きく」が創刊され、「私の日本地図」も刊行されだした。
前年には武蔵野美術大学研究室に集まる学生たち(武蔵美だけとは限らない)のために、「生活文化研究会」を作り、週1回の集まりを持つことになった。
同年開設の日光観光文化研究所でも、若い研究者や学生を指導し、調査させ、原稿も書かせた。
(2000年以降から現在も続く宮本関連の出版ブームはこの時、直接間接に影響を受けた若者たちの成果ともいえる。)
この頃から約10年間が宮本の最も充実した絶頂期だろう。
著作集も昭和52年、第一期25巻が完成し、今和次郎賞を受けている。
著作集も昭和56年宮本の没後にも、後継者・武蔵野美術大学の田村善次郎氏編集で、第二期続巻が現在も刊行されている。
小さな雑誌に埋もれた原稿も多く、45年たっても完結の兆しは見えない。
日本最長の著作集となるだろう。

宮本常一の高い評価は、すでに昭和30年代の平凡社「風土記日本」「日本残酷物語」や「日本の離島」の執筆・監修者として始まってはいたが、これは出版界だけにとどまっていた。
その後、40年代の大学紛争時の学生たちへの熱心な指導を経て、(宮本は後年の佐渡「日本海大学」や故郷東和町の「郷土大学」など若者への教育に熱心だった)今では、常一(つねいち)と読めなくても民俗学に興味のなかった人たちまでもが、「日本文化の形成」を探している。
「日本文化の形成」は最晩年の宮本が、アジア史の中で日本民族や文化の成立を構想した雄大な著作(ライフワーク)となるはずであったが、惜しくも未完に終わった。

初版「そしえて版」は絶版。
ちくま学芸文庫(3冊本)も品切れではどうしようもないが、日本観光文化研究所での11回の講義を除いた遺稿文だけは講談社学術文庫「日本文化の形成」として入手できるのが救いだ。
しかし、筑摩書房は「ちくま日本文学全集」に柳田國男と共に宮本常一の巻を入れた先進的な出版社だ。
いつまでも品切れにしている事情が良くわからない。

ところで、宮本常一と横浜との関連はあるかといえばほとんどない。
しかし、イノシシをとらえて家畜化したのではないかと宮本が発想した昭和45年、武蔵野美術大学団長としての発掘・調査は横浜市緑区霧が丘であった。
また、戦前アチック・ミューゼアムを主宰し、宮本が生涯の師として仰いだ渋沢敬三は夏の海の家を本牧に持っていてよく姿を見せていた。
宮本は来たか?
もうひとつ、アチック・ミューゼアムは戦時中、日本常民文化研究所と改称したが、1981年からは神奈川大学へ移管されている。(民具は民博へ)
これは大きい。
歴史学者で研究所にいたこともある網野善彦氏も同時に神奈川大学に移っているのも心強い。

写真がないので、宮本の絶版文庫を少し載せたい。
いずれも近畿日本ツーリスト(日本観光文化研究所)時代の成果。

伊勢参宮海と日本人


大名の旅日本の宿


30年ぶりに病名の付く病気になった。
回復までに3週間ほどかかるようだ。
まったく深刻なものではないので、ゆるゆるとすごせば良いと言われた。
病気慣れしていないので辛い。

宮本常一の車窓風景

世の中には2種類の人種がいるとしたら、例えば、電車やバスの車窓には何の興味も持たない人たちと、窓ガラスにヒタイをつける位にして車窓の風景を眺める人たちに分けることもできるかもしれない。
無論、宮本常一は後者の代表人物だった。
「ハッ」としたり、「オヤッ」と思ったらガラス越しでも、ブレてもノート代わりにドンドン写真を撮った。
その写真、10万点が蔵書と共に、故郷の山口県周防大島の文化流通センターに集められ、整理され始めている。(毎日新聞社刊)
段々畑の石垣、農作業する女性たち。プラットホームの行商人や晴れ着の女性、草屋根農家の庭先の鯉のぼり、物干し竿や洗濯物、肥桶を背負って畑に向かう女性、はだしで遊ぶ子供たちなど・・・視る人・宮本常一の真骨頂を見ることができる。
その執念は、昭和37年に亡くなった母親まちの火葬、骨あげの様子まで写真に撮っていることで知られる。
一枚の何気ない写真から宮本が読み取る情報は限りなく大きい。

かつて宮本は近畿日本ツーリストの援助を受け、観光文化研究所を立ち上げた。(昭和41年)
その機関誌(月間)は「あるく みる きく」、宮本の旅をそのままタイトルにしたものだ。

あるく みる きく


宮本常一が日本全国を歩き続けた聖人(一遍上人か弘法大師か)のように言う人もいるが、氏の旅の中心は当然、故郷瀬戸内海を中心とする西日本や離島であったことは明らかだ。

宮本の追悼号となってしまった「あるく みる きく」174号(1981年8月号)には、晩年の新幹線からの車窓風景を描いたエッセイ(遺稿)が載っている。

174号


氏が車窓風景から何を読みとくか少し引用してみよう。
「私はいつも広島から新幹線へ乗る。広島始発の列車があって、それに乗れば必ず坐ることができる。そして窓際に席を占める。窓外の風景は何回見てもあきないばかりでなく、よく見ていると、色々のことが気が付く。・・・トンネルをぬけると西条高原の南部へ出る。私は新幹線の農村風景の中でここを一番このましいと思っている。よくひらかれた田圃の中に点々として農家がある。その農家の多くは赤瓦で屋根を葺き、主屋のほかに蔵や納屋を持ち、しかもそれらの家はほぼ同じ大きさと構えを持っている。田に苗の植えられたころは緑色の中に赤瓦の屋根が散在し、いかにも安定して平和な村だという感じがする。ここにはまだコンクリートの建物が少ない。このあたりの人びとは昔からよく稼いだ。そしてその暮らし向きのよかったことは明治初年の調査書にも見える。しかもこの家々を明るくしているのは釉薬のかかった赤瓦で葺いていることである。このような赤瓦は島根県の都濃津(とのつ)付近で多く焼かれて、一般に石見(いわみ)瓦と言っている。都濃津付近は良い陶土が出て、江戸時代にはカメや壺の大きな産地であった。それを船で遠くまで売りにも行き、車などに載せて山間の村々へも行商した。明治になって、農家は草葺きや藁葺きだけでなく、瓦で屋根を葺いてもよくなると、石見の陶器職人たちは広島の山中へ来て、陶器だけでなく同じ手法を使って瓦を焼くようになった。その南限が西条高原のあたりであった。・・・」

田園風景


この後、瀬戸内海で古くから使われている黒瓦の話になっていく。
長い引用になってしまったが、これ以上短くは出来なかった。

宮本は農村の風格ある景観は共同体のしっかりしたところでは保たれているが・・・マツクイムシにやられた木をそのまま放置しているところが多いことを嘆くことになる。

未完の遺著「日本文化の形成」にも触れたかったが次回に続けたい。

「帝蚕倉庫」は生き残れるか?

ちびっこムッシューとマドモアゼル(ちびっこギャング?)に襲われた日々が過ぎた。
土・日・月(1・2・3日)は頭が空になり、ブログも怠け、1週飛ばしてしまった。
スミマセン。
この3日間は昔のテレビ「相棒」シリーズ6作に加え、映画版まで見てしまい頭はすっかりオフ状態。
4日のサッカー戦もめでたく終了したし、そろそろ頭を戻していかないと・・・県立近代美術館の「井上ひさし展」も、東博の「神像展」も今週で終わってしまう。
井上ひさし


ヤン・ヨンヒ監督の「かぞくのくに」(横浜キネマ倶楽部第31回)は来週15日だから、忘れてはならぬ。
かぞくのくに


東京駅ギャラリーの「木村荘八展」は、すっかり忘れて行きそこなってしまった。

遠藤於兎設計の「帝蚕倉庫」の続報が先月神奈川新聞に出た。
森ビル側は倉庫を買いたい、高さ200メートルの超高層ビル(ほとんど住宅用という)を建てると言う。
解体した部材を活かして倉庫を復元した建物を計画中という。
当初の曳家による倉庫の移動と保存は簡単に撤回されてしまった。
民間所有の建物について、歴史的遺産であっても市の権限は小さい。
市のまちづくりガイドラインに沿わなくとも、特に国の「特定都市再生緊急整備地域」に指定されてしまうと、6ヶ月以内に都市計画を決定しなければならず、事業者の計画案をほとんど変更できないらしい。
「歴史を生かしたまちづくり」を標榜する横浜市としてはどう動くのか?
奥の手は何かあるのか?
森ビルの誠意を待つしかないとは情けない。
6ヶ月しかないとしたら市民の保存運動を起こすにしても時間がなさすぎる。
森ビル側もこの時期に発表して時間切れを狙っているとしか思えない。


現代日本の大企業による文化貢献度はあまりにも低くなった。
かつてソニーの大賀氏が私財でホールをつくり、西武グループの堤氏も質の高い音楽ホールや現代美術館を、サントリーの佐治氏も美術館やコンサートホールを完成させた。
景気の良い時だけに金を出し、調子が落ちるとすぐ撤退する現代日本企業の民度の低さにはうんざりする。

これといった大企業もなく経済が下降していたイタリアでは、ローマのコロッセオの修復費用28億円をイタリアの民間会社が小切手で寄付して救ったことがあったが、横浜の企業は1億円の文化財移転費用も出さなかった。
歴史的文化財の保存に余りに冷淡なのが日本企業の特徴化。
シルクで横浜が繋がった長野県上田市の4階建ての繭倉は、上田のシンボルとして異動して立派に残され、地域交流の場となっている。
シルクタウン横浜の象徴「帝蚕倉庫」はシルクセンターの博物館と並んで、シルク貿易の歴史を伝える現物を残して、赤レンガ倉庫のように横浜を訪れる観光客の集まる拠点としたい。
横浜発祥のビヤホールも併設して。
プロフィール
ウェブサイト
お店のウェブサイト
http://home.netyou.jp/33/fushin/
クリックして応援!
どちらのボタンもクリックしていただけると応援になります。よろしくお願いします。
にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ
にほんブログ村
人気ブログランキングへ
記事検索
携帯電話からもご覧になれます
QRコード
  • ライブドアブログ