図書館のねずみ

南アルプスの伏流水を使った香り高い珈琲を啜りながら、じっくりお気に入りの本が選べる本好きのためのささやかなサロン、ブックギャラリー&カフェ風信。現在は店舗移転の為、日々奮闘しております。書店では扱っていないような古書、絶版文庫を集めています。

2013年12月

雪の降る日は…

どんよりとした曇り空、寒い。
朝から気温はほとんど上がっていない。
典型的な雪の降る空模様だ。
チラチラ白いものが落ちてきてもよさそうだが、まだ降っていない。
しかし、地元の天気予報では、午後は80%の雪と伝えている。
午前中の確率は60%という。
普通、山梨の白州周辺は雪が少ない地域だが、真冬に南岸低気圧が来るとき、寒気が降りてきやすい八ヶ岳南麓は確実に雪になる。
年に数回、ほとんど年が明けてからだ。
今回は甲信地方が中心、甲府盆地でも5・6兩僂發襪世蹐Δ噺世辰討い襦

我が家の前のヒノキ林は静まり返っている。

ヒノキ林

葉一つも動かず、時々ヒヨドリの鋭い声がするばかり。
菱田春草の名作「落葉」はクヌギの雑木林にカシワと杉の幼木が、それぞれ左右の屏風に描かれているのだが、晩秋のためか下草がほとんど生えていない。
前のヒノキ林の風景がこの絵と重なる。と、書いているうちに、もう細かい白いものが落ちてきた。
午前10時40分。
見えにくいほど細かい雪だ。
これは積もる!
ラジオの予報では明日昼頃までは降り続けるだろうと伝えているから、除雪車がこの辺りにやって来るまで、夏タイヤのままでは走行できないだろう。
大雪の気配がしてくる。

風邪がないから真っ直ぐに雪が降りてくる。
いつの間にか粒も大きくなってきた。
もう、ヒノキの枝葉が白くなってきた。

ヒノキ林2

このペースでは一晩中降り続くと、2〜30cmの積雪になるが…。
室温6℃、ストーブをつけないと冷蔵庫並みになってしまう。
指を動かしていないと手貸駅ってしまう。
外は、ローズマリーの花だけの世界、ツバキの蕾も凍ってしまう。

翌朝、寒気はさほど南下せず、雨になってしまった。
積雪は10cm程度、夜中に除雪車が初めてでたようだが、大雪とはならなかった。
ツバキの蕾も、ロウバイの膨らんだ蕾も凍ることはなかった。
溶けかかかった雪道には、ハクセキレイやキセキレイがいつも出てくるが、どういう訳かわからない。
山葉完全に冬山の気配、雪のほとんどなかった八ヶ岳も麓まで白くなっている。
甲斐駒は雲に隠れて見えないで、前山や里山の林は真っ白に変身した。

甲斐駒方面雪の林











雪や氷の世界のエッセイと言えば、一昔前までは中谷宇吉郎の独壇場であった。
代表的な随筆シリーズ、「冬の華」があるように、雪の結晶や極北の世界の研究者だが、生涯の師・寺田虎彦のように晩年は専門以外の随筆酒を次々と出している。
「百日物語」「日本のこころ」「イグアノドンの唄」・・・随筆家としての中谷を識るには、以前は角川文庫全3冊の「中谷宇吉郎随筆集」があったがとうに絶版、今は、岩波文庫版(1冊本)だけだ。
もう一つの岩波文庫は「雪」だが、元々この本は岩波新書創刊号の赤版として世に出たもの。(昭和13年刊)
後年、同じく随筆家として鳴らした小林勇の岩波書店編集者時代の仕事だ。

雪

結晶

この本、雪の結晶の写真や人工雪のことも面白いが、下総の古川藩主・土井利位が残した「雪華図説」(天保3年・1823年)の話が興味深い。
この人、大阪城代の時の大塩平八郎の乱を平定したことで有名だが、この小冊子「雪華図説」は当時の世界的な水準を示す仕事だった。
殿様の道楽とも言われようが、自然観察者として(科学者)の眼は確かだ。
肉眼と簡単な虫眼鏡で「雪の結晶」を描いている。


江戸の学問の水準は世界的な高さだ。 

海を失った本牧(供

本牧十二天について書かなければならない。

本牧十二天本牧十二天鳥居





ちょっと気が重い。
十二天の丘は崩されそうになったが不吉な事故が頻発して、そのまま残されたらしい。
十二天の森には天狗が住んでいる。この地から石一つ、枝一本取った人間は必ず怪我をする。と、言われてきたが丘ごと壊したらどんなことになるか。
この辺り一帯に強い、重たい気を感じて、近づけないという人もいるくらいだ。
今、その跡地は横浜市の浄水場のはずれになっているが、周りは産業道路やコンテナを積んだトラックばかりが行き交う殺風景な中にある。

本牧十二天跡RIMG0052


本牧の鎮守がこれほど不幸な事態に陥ったすべては、戦後のアメリカ軍の接収にある。
沖縄と共に、横浜市ほど米軍の接収に苦しんで戦後の復興が遅れてしまった都市はない。
横浜に上陸したアメリカ軍は、GHQこそすぐ東京に移したとはいえ、第八軍司令部は横浜に残り、沖縄を除く日本全国の占領の本拠地は横浜となった。
米占領軍の四分の一、9万を超えるアメリカ軍が横浜に進駐した。
その中心は、中区だ。
港湾施設もほとんどが接収された。
本牧地区は中心部から海岸まで、有無を言わさず接収され、金網で囲われた。
大震災による復興小学校・本牧小学校の立派な校舎も海に突き出た十二天の丘も含まれていた。
接収解除まで30年以上もかかった十二天は、荒れるにまかせた。
本牧十二天の神事「お馬流し」が行われる大切な海も、横浜市のコンテナ基地の埋め立てで遠ざかってしまった。

本牧六ヶ村の六体の「お馬さま」は、代々羽鳥家が作り、神社に供えられた後、祭り船で沖合に流される。

お馬流し

昔は各村で船を持ち、六艘が競い合って神社に戻る壮観な祭りだったが、今は船を模したトラックが各町内を巡り、埋め立て先の本牧漁港まで行き、船で六体の「お馬流し」がひっそりと行われる。
お馬様が流れずに戻ってきたら大変だ。
不吉なことが起こる前兆だ。

接収後、50年間仮遷座していた本牧神社(旧本牧十二天)は、現在、住宅地の中心・本牧和田に新しい立派な社殿が完成し、ご神体を移して遷座された。
江戸名所図会にも描かれ、開港後は外国人たちの散歩地としても有名だった本牧十二天、松や玉楠(タブノキ)の大樹の森に囲まれていた神社跡地を放置しておいてよいのだろうか。
海も失った聖地を取り戻したい。

十二天の鼻は「マンダリング・ブラフ」(みかん色の崖)と呼ばれ、外国船員たちにとっては横浜入口のシンボルだった。

本牧海岸

この丘を囲むように運河を伸ばして、入り江を復元できないだろうか?
まわりに松林を作り小祠を祀りたい。
住宅地と海を遠ざけた産業道路(昔の海岸線を走っている)に蓋をするような幅広い歩道橋を作って、本牧の中心地とささやかな海とはいえ、昔の祭りができるような場所をつなぎ、海の本牧を少しでも取り戻したい。

川の養殖など海の本牧とお馬流しの伝統を知るには、本牧八王子の松林に建つ「八聖殿」に行くとよい。
お馬さまも小さなものが展示されている。
松林を登った丘からは、コンビナートの向こうに遠ざかった海も見えるはずだ。

八聖殿八聖殿上の松林

海を失った本牧(機

本牧と言えば海の街、そして戦後は米軍基地の街、アメリカ文化の漂う街だった。
横浜の市街どこからでも、市電を乗り継いで簡単に行けた。
特に生麦方面からは、そのまま本牧1丁目まで、横浜駅や桜木町駅からは間門(マカド)まですぐ行けた。
この間門行きの路面電車を疑似体験できるのが、瀧頭の「市電保存館」だ。
本牧の三の谷・二の谷を越え、間門直前でいきなりキラキラ輝く海が出現する感動を、レトロな本物の車両に座ってちょっぴり再体験できる。
昭和30年からは、六角橋からの11系統線は間門を越えて八幡橋、さらに葦名橋まで根岸の海沿いを走った。

間門の海は遠浅で、三溪園の裏から二の谷・三の谷の崖下まで、海水浴や潮干狩りで遊べる貴重な場所だった。
広重など多くの画家たちが描いた本牧鼻の風景はそのまま残っていて、潮干狩りをしている人々の背後に白い高い崖が連なっている風景は、明治の絵ハガキそのままだった。

武蔵本牧の鼻

根岸三の谷 古写真

高台に建つ開門園で執筆していた山本周五郎の愛したこの海辺は、周五郎の死(昭和42年)と共に昭和45年までにすべて埋め立てられ死んだ。
奇しくも同年、市電本牧線も廃止された。

明治時代から小規模な埋め立てや埋め立て案は常にあったが、本牧がそのほとんどの海を失ったのは、昭和30年代から40年代だ。
最後まで残されていた本牧鼻までが埋め立てられると、本牧の海はコンテナ埠頭や石油コンビナートのカナタに遠ざかった。
もはや、人が入る海は本牧から消えてしまった。
せめて、間門の海辺、2〜30メートルでも残せなかったのだろうか。
戦前から、全国的に珍しい海辺の臨界養護学級を持つ小学校・間門小学校(全国的に珍しい水族館?を持つ小学校・特定土曜日だけの公開)前の砂浜だけでも・・・。
本牧・八王子鼻の崖は陸地に上がってしまった。

八王子の鼻

崖下は長い本牧市民公園となり、崖直下はトンボ池で囲まれ、友好都市上海による中国式庭園もプールもできた。

中国庭園


しかし、問題は本牧十二天だ。
本牧の総鎮守だった十二天をこのままにしておいてよいのか?
海も市電も米軍基地(これはよいこと)もなくした本牧は、三溪園だけの街でよいのだろうか?
十二天問題は深くて、思い。
次回にしたい。

「道具の王様は、日本の大工道具だ」

たまに神社や寺で開かれる骨董市を覗くことがある。
そこには大工道具や林業で使うナタ、カマ、製材用の巨大な鋸をなど見ることができる。
大工道具の種類や数が圧倒的に多い。
古い道具箱ごと、様々なサイズの刃を持つノミがずらりと並んでいたりする。
鉋(カンナ)の種類も多い。
手のひらに乗る豆カンナからかなり大きいものまで、戦前の大工は普通に40種以上のカンナ、ノミを持っていたようだ。
壺キリ、三つ目キリ、四方キリ・・・など伝統的なものも含め、外来のねじ式のキリなど、キリの種類も結構多い。
特に仕上げの高さ、精巧さを追求する名人ほど、カンナ、ノミの数は多く、その道具の質も高い。



名人の道具は鍛冶名人がつくる。
兵庫県三木市の鉋鍛冶名人・千代鶴是秀のカンナは昭和16年、新作30〜35円の売価だったが、現在では数十万になるだろうか。
古道具屋や市では、すり減って錆びた大工道具は小さいものは500円均一、立派な大ノコギリでさえ3000円と言う値がついている。
捨て値だが、買う人は少ない。
電動化や機械化で大工道具は急速に減った。
道具箱を持たない大工もいるようだ。
工場でプレカットした木材ばかりでは、カンナやノミはほとんどいらない。


しかし、式年遷宮で見られるように、神社建築の伝統はまだ生き延びている。
その技術もそれを支える道具も世界一だ。
古建築に使われる和鉄から作った釘は、1000年経ってもまだ使える。
砂鉄から作るタタラの技術があってこそだ。
大正時代に一度消えたタタラの和鋼がなければ、日本刀は作れない。

道具鍛冶の職人がいなくなれば、木工技術の匠の技も生き残れない。
天然の良質な砥石が無くなれば…これも深刻だ。
「村の鍛冶屋」も研ぎ屋も鋳掛屋もほとんど消えたが、鉄砲鍛冶の伝統を継ぐ堺や三条、三木のわずかな職人が日本の伝統技術を支えている。
日本の代表的伝統工芸である漆器産業も、国産の漆が無くなれば、優れた漆器はできないだろう。
国産漆で有名な岩手県浄法寺では、戦前に300人以上いた漆掻き職人が今では18人、それも40代以下の若い職人は4人だけだという。
…かように世界一の技術を支える職人の数は驚くほど少ない。

大工道具の名工・名品が輩出した明治松から大正・昭和初期の名品は、「道具曼陀羅」(毎日新聞社刊)と言う3冊の本にまとめられている。

道具曼陀羅

毎日グラフ連載。
解説・編集は名著「大工道具の歴史」(岩波新書・1973年刊)を持つ村松貞次郎、写真は岡本茂男氏、見事だ。

キリ・ゲンノウノミ






この本(写真集)は、以前、高架下効果として描いた神田川沿いの万世橋高架下ギャラリーで見ることができる。
プロフィール
ウェブサイト
お店のウェブサイト
http://home.netyou.jp/33/fushin/
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