今春、宮島を出発点として岩国・御手洗・竹原と瀬戸内の古い街を巡った旅で、日程が詰まっていけなかった鞆の浦へ行ってきた。
そのあとは山陰に出て松江・出雲へ行くことにした。
鞆港行きのバスは福山駅から出ている。
前回の旅では、もう陽が落ちた駅の山側の改札口を出ると、目の前に視界の大部分を占めて黒々とした石垣が聳え立っていた。
こんなに駅に近い城はない。
駅は「扇の勾配」を持つ高い石垣の内堀を埋め立てた、その場所にできたのだ。
プラットホームからもその近さがわかる。


街の中心に城を持つ城下町は幸せだ。
たとえ周辺が開発され堀が埋められようとも、石垣の上までは及ばない。
街の中心にミドリの空間が遺され、市民の憩いの場となる。
ここ福山でも、文化ゾーンとして美術館やホールが建てられたが緑は残され、再建された天守からは市街のすべてを見渡すことができる。
戦火を受けなかった松江は、もっと幸せだ。
明治に入って次々と天守が取り壊され売り立てられる中、山陰ではただ一つ、地元の有志の人たちの力で城は残された。
戦後の高度成長期に、全国では次々と埋め立てられた堀もほぼ完ぺきに残されたことで、船による観光資源としても景観からも、どれほど役立っているか計り知れない。
堀沿いや城内の松の古木も大切にされ、古い歴史を伝えている。


姿の良い松と石垣、そしてお堀の水の景観は、日本美の最も重要な組み合わせだ。
巨大な天守を持った江戸城は天守こそ再建されなかったが、内堀を残したことにより、優れた景観美を残している。
この江戸城の美を発見したのは、戦前、フランスの日本大使として東京に赴任してきたポール・クローデルらしい。
文学者として、日本画家・富田渓仙と組んだ詩文集なども残しているクローデルは、皇居の半蔵門から桜田門近く(警視庁ビルあたり)までの石垣と芝の土手に生える姿の良い松、そしてお濠の水景の格調ある美しさに感動した。
今でも、渋谷のハチ公前交差点と並んで外国人観光客が最も喜ぶ東京名所だ。
それにしても、松江城などかなり大規模な白でも3〜4年で作られたと言う。
その工期と技術の高さに驚く。
堀川めぐりの大手前の船着場から大手門に入る左、高い石垣の見事なこと。
この石垣だけでも現代では再現できるかどうか。
クレーンなど重機を使っても、この城が3〜4年で出来るだろうか。
石材や木材を選び、運ぶ。
この用材をそろえるだけでも、どれだけの労力や資金、そして時間がかかることか…考えるだけでも気が遠くなる。
築城の名人・堀尾吉晴が手がけたこの黒漆喰の名城(1611年・慶長16年築)を、国宝に戻そうという運動が始まっているようだがもっともなことだ。
吉晴は城の背後を原生林の森として石垣を省き、天守を支える巨材のかなりの柱を抱板として板を貼り、鉄輪で止めることにより、巨木でなくとも木材を組み合わせて強度を保った。
巨石や巨木は当時でさえ入手は限られていたし、資金も労力もかかる。
城普請を多く手がけた吉晴にしてのみ可能だった名城で、国宝にふさわしい。
出雲大社で発掘された巨大寝殿を支えた本柱を束ねた基部を、隣の島根県立博物館で見ることができる。。
高さは50mに近いと言う巨木を3本束ねた柱は、鎌倉時代の再建時の拝殿を支えた柱だ。
創建当時の柱は、まだまだ高かったと言う。
大社内で、クレーンで再現された現代の3本柱を見ることができるが、ささやかなものだ。
この巨大な柱が林立する光景を想像すると目がくらくらする。
石でも木でも巨材を扱う古の技術の高さには、現代人はひれ伏すしかない。
鞆の浦は、瀬戸内の海上交通の重要な港として栄えた。
朝鮮使節はいつもここを経由して京・大坂から江戸へ向かった。
この要人だけが許された福禅寺の客殿「対潮楼」からの眺めも、石垣はないが日本の自然美の代表的風景。
ホテルが建ち始め、湾をまたぐ道路計画も問題になった鞆だが、ここの風景だけはかろうじて守られている。
遠くの海に走る和船はタンカーに変わったが…。
そのあとは山陰に出て松江・出雲へ行くことにした。
鞆港行きのバスは福山駅から出ている。
前回の旅では、もう陽が落ちた駅の山側の改札口を出ると、目の前に視界の大部分を占めて黒々とした石垣が聳え立っていた。
こんなに駅に近い城はない。
駅は「扇の勾配」を持つ高い石垣の内堀を埋め立てた、その場所にできたのだ。
プラットホームからもその近さがわかる。


街の中心に城を持つ城下町は幸せだ。
たとえ周辺が開発され堀が埋められようとも、石垣の上までは及ばない。
街の中心にミドリの空間が遺され、市民の憩いの場となる。
ここ福山でも、文化ゾーンとして美術館やホールが建てられたが緑は残され、再建された天守からは市街のすべてを見渡すことができる。
戦火を受けなかった松江は、もっと幸せだ。
明治に入って次々と天守が取り壊され売り立てられる中、山陰ではただ一つ、地元の有志の人たちの力で城は残された。
戦後の高度成長期に、全国では次々と埋め立てられた堀もほぼ完ぺきに残されたことで、船による観光資源としても景観からも、どれほど役立っているか計り知れない。
堀沿いや城内の松の古木も大切にされ、古い歴史を伝えている。


姿の良い松と石垣、そしてお堀の水の景観は、日本美の最も重要な組み合わせだ。
巨大な天守を持った江戸城は天守こそ再建されなかったが、内堀を残したことにより、優れた景観美を残している。
この江戸城の美を発見したのは、戦前、フランスの日本大使として東京に赴任してきたポール・クローデルらしい。
文学者として、日本画家・富田渓仙と組んだ詩文集なども残しているクローデルは、皇居の半蔵門から桜田門近く(警視庁ビルあたり)までの石垣と芝の土手に生える姿の良い松、そしてお濠の水景の格調ある美しさに感動した。
今でも、渋谷のハチ公前交差点と並んで外国人観光客が最も喜ぶ東京名所だ。
それにしても、松江城などかなり大規模な白でも3〜4年で作られたと言う。
その工期と技術の高さに驚く。
堀川めぐりの大手前の船着場から大手門に入る左、高い石垣の見事なこと。
この石垣だけでも現代では再現できるかどうか。
クレーンなど重機を使っても、この城が3〜4年で出来るだろうか。
石材や木材を選び、運ぶ。
この用材をそろえるだけでも、どれだけの労力や資金、そして時間がかかることか…考えるだけでも気が遠くなる。
築城の名人・堀尾吉晴が手がけたこの黒漆喰の名城(1611年・慶長16年築)を、国宝に戻そうという運動が始まっているようだがもっともなことだ。
吉晴は城の背後を原生林の森として石垣を省き、天守を支える巨材のかなりの柱を抱板として板を貼り、鉄輪で止めることにより、巨木でなくとも木材を組み合わせて強度を保った。
巨石や巨木は当時でさえ入手は限られていたし、資金も労力もかかる。
城普請を多く手がけた吉晴にしてのみ可能だった名城で、国宝にふさわしい。
出雲大社で発掘された巨大寝殿を支えた本柱を束ねた基部を、隣の島根県立博物館で見ることができる。。
高さは50mに近いと言う巨木を3本束ねた柱は、鎌倉時代の再建時の拝殿を支えた柱だ。
創建当時の柱は、まだまだ高かったと言う。
大社内で、クレーンで再現された現代の3本柱を見ることができるが、ささやかなものだ。
この巨大な柱が林立する光景を想像すると目がくらくらする。
石でも木でも巨材を扱う古の技術の高さには、現代人はひれ伏すしかない。
鞆の浦は、瀬戸内の海上交通の重要な港として栄えた。
朝鮮使節はいつもここを経由して京・大坂から江戸へ向かった。
この要人だけが許された福禅寺の客殿「対潮楼」からの眺めも、石垣はないが日本の自然美の代表的風景。
ホテルが建ち始め、湾をまたぐ道路計画も問題になった鞆だが、ここの風景だけはかろうじて守られている。
遠くの海に走る和船はタンカーに変わったが…。