図書館のねずみ

南アルプスの伏流水を使った香り高い珈琲を啜りながら、じっくりお気に入りの本が選べる本好きのためのささやかなサロン、ブックギャラリー&カフェ風信。現在は店舗移転の為、日々奮闘しております。書店では扱っていないような古書、絶版文庫を集めています。

2015年01月

街中の食事会

1月29日の東京新聞に「アサゲ・ニホンバシ」のことが載っていた。
「アサゲ・ニホンバシ」は新しく日本橋にやってきた若い企業家たちと江戸・明治創業の老舗たちの交流の場となっている。
この日の朝餉は明治10年創業の日本橋日月堂のお汁粉。
この日で33回目になる食事会は、三井タワーのカフェを会場に新・旧の120人が集って、老舗の歴史を聞き、新しく日本橋に入って来た人の企業の話を聞く。
100年を越える老舗が今も多く集っている日本橋ならではの羨ましい話だが、多かれ少なかれ、どこの街でも商店街でもあっていい取り組みだと思える。
わが町の未来は食事やお茶の雑談から生まれてくる。
食事を共にとることは、人と人を結ぶ第一歩だ。
例え、番茶に漬物やせんべいだけであっても、結束は高まるだろう。

東北の仮設住宅でも、集会場や中庭の炊き出しの一杯のスープがどれほど人の心を結び付けtことだろう。
復興集合住宅でも、一人暮らしの孤立を防ぐ取り組みや環境がなければ復興とは呼べない。
誰でも、自由に気楽に入れる中庭のテーブルやベンチ、お茶が飲める談話室や広場も欲しい。
東北の物見の塔「みんなの家」には薪ストーブとお茶のできる施設がある。
地元の枯死したスギ材を使って作られた「みんなの家」は文字通り、誰でも入れるくつろぎの部屋だ。
神戸・新長田の巨大な高層住宅(14階建て)の轍を踏んではならない。

イタリア、トスカーナ地方のシエナは17のコントラーダ(街区・それぞれのコントラーダは亀・龍・蝸牛・一角獣などの名がつけられ、独自の紋章・旗を持っている)があり、役所も礼拝堂も広場も持っている。
それぞれのコントラーダは、丘の上の都市としては一番規模の大きな古都だ。
シエナは町中が一つの巨大な石造りの建物とも思える。
石畳の道は廊下のように、街を立体交差している。
マンジャの塔から見たカンポ広場シエナの通り


その中心に市役所と高い物見の塔・マンジャの塔が建つカンポ広場がある。
この窪地のようななだらかな傾斜のある広場はイタリアで一番美しい広場と呼ばれている。
「1346年12月30日、シエナのカンポを貝殻型石で舗装し終えた」と古文書に堂々と書かれているように、シエナ市民自慢の広場だ。

マンジャの塔マンジャの塔途中から見たカンポ広場



それぞれのコントラーダ(日本でいえば町内会のようなも)の結束・連帯を強めるものはこの広場で行われる競馬の対抗試合だ。
これが、パリオと呼ばれる祭りだ。
この日のために各コントラーダでは、毎週のように道にテーブルを長く並べイスを出して大食事会を開く。
指定車以外は旧市街の中には入れないから、町全体が歩行者天国だ。
すべての人たちが、どの家でも家族構成まで知っている。
コントラーダ全員が家族のようなものだ。
これで結束が高まらないはずがない。
特に、パリオのある数日前からの予行演習と大宴会。
各コントラードの広場や道はすべて大食堂となり、コントラーダの旗で飾られる。

試合は10のコントラーダが毎年入れ替わりで出場する。
敷石の上に砂土を敷き詰められた広場を3周して、1番になったコントラーダの人々の熱狂はすさまじい。
世界一危険なコース、急カーブを全力で走る迫力、2番では意味がない。
シエナの「パリオ」は、中世イタリアの都市国家がそのまま生き残っている祭りだ。

横浜海岸教会と開港広場の風景

元旦から6日間旅に出て、帰ってきたまたすぐ小さな旅をし、冷たい雨が嫌だと閉じこもり、そのうちサッカー・アジアカップや相撲が始まり見ざるを得ない…そんなこんなでもう半月経ってしまった。
今年もそうやって、あっという間に過ぎていくのだろうか…。

いつか少しふれたことがあるが、昔の港町ヨコハマの風景をもっとも残しているところはどこか?というと、間違いなく開港広場のある一角だ。
ここには50年前と変わらぬ建物があり、大きく開放的な空が美しい。
英一番館の跡地にできたシルクセンターのビルを除けば、戦前、大震災後に復興した昭和初期の風景がほとんどそのまま感じられる貴重な街並みともいえる。
この地は、ヨコハマ開港前の日米和親条約の締結地という歴史的な場所でもあった。
ハイネが描いた水彩画をもとにした石版画には、水神社の大木が描かれているが、これが英領事館(現・開港資料館)内のタマクス(玉楠=タブノキ)の先代という。

ヨコハマ上陸


玉楠

(当時の木は関東大震災で焼けてしまった)
この絵によれば、日本大通りの海側入口付近に応接所が作られ、その先からペリーが上陸したことになる。
安政元年、1854年のことだ。


今、開港広場に立ってみると、隣は旧・英国領事館(昭和60年築)とクマクスの木が見える。
通りの向こうには、低層・スクラッチタイル張りの震災復興ビルに入ったレストラン「スカンディア」が見える。
開港広場 (2)


右手はシルクセンターの大きな建物、これは戦後ヨコハマの復興シンボルとして、昭和34年に完成したものだ。
当時としては、横浜で一番高い建築(一部9階建て)で、設計者は鎌倉近代美術館を設計した坂倉準三。


そして背後には、横浜海岸教会が未だ背後の高層ビルに埋もれるように、しかし、印象的な姿で建っている。
しばらく外壁修理のためか、覆いが掛かって見えなかったが、やはりこの広場にはこの教会が欠かせない。
改めてこの教会の重要性を思ってしまう。

海岸教会 (2)海岸教会


この地は、国際航路の出入りする大桟橋の入口にあたる。
ヨコハマ港から上陸する乗客たちは、真正面の一番奥にこの教会の美しい側面を見ることになる。
開港広場 (3)


日曜礼拝の鐘が鳴れば、教会に吸い込まれる外国人クリスチャンもいるに違いない。
このチャーチベルは、1875年、教会堂建設時にメアリー・プラインが寄贈した貴重なもので、戦時中の金属供出にも守り続けられた鐘だ。
そして、メアリー・プライアンこそ、横浜協立学園の創立者の一人であり、日本人最初のプロテスタント教会(後の横浜海岸教会)である日本基督公会設立の源となった祈祷会(パーラー・プレイヤー・ミーティング)を山手で開いた人だ。
海岸教会の創始者J・H・バラは、米国改革派教会の宣教師として来浜、この地に石造りの小さな教会堂(自ら「聖なる犬小屋」と呼んだレンガ造りの小堂)を作った。
レンガ造りの犬小屋

そして、ここで洗礼を受けた篠崎桂之助など9名と、すでに洗礼を受けた2名を加え、日本人11名で先の基督公会が作られた。
この1872年3月10日が横浜海岸教会創立の日となっている。
1872年(明治5年)といえば、まだ日本人にはキリスト教の禁止令が生きていた時だ。
(キリシタン禁制が廃止されたのは翌、6年)
篠崎ら11人の、日本人の強い信仰心が窺える。


最初の石造りの大会堂は、大震災で倒壊したが、1933年(昭和8年)、横浜の建築家・クリスチャンであり宮内庁技師であった雪野元吉の設計で再建されたのが、現在の建物だ。
震災後のプロテスタント教会らしいきりりとした佇まいは、小さいとはいえ港ヨコハマのランドマークにふさわしい風景を作っている。
日本写真の創始者と言われる下岡蓮杖も、日下部金兵衛も信者だったというこの海岸教会が、明治の初めからこの地にずっと建ち続けている重さは計り知れない。
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