図書館のねずみ

南アルプスの伏流水を使った香り高い珈琲を啜りながら、じっくりお気に入りの本が選べる本好きのためのささやかなサロン、ブックギャラリー&カフェ風信。現在は店舗移転の為、日々奮闘しております。書店では扱っていないような古書、絶版文庫を集めています。

2015年02月

パリを愛しすぎた男(バロン・サツマの時代◆

「バロン・サツマ」と呼ばれた男は、木綿布などの輸入・販売で財を成した薩摩治兵衛(初代)の孫にあたる治郎八だ。
初代治兵衛は近江の人。
東京で独立した治兵衛は、明治9年、横浜仲通りに支店を出汁、木綿布を直接輸入する商社として莫大な利益を得た。
日本橋の支店でも販売することで地盤を固めた。
明治10年代には、早くも浅野総一郎と並ぶ資産家となっていた。
父・二代目治兵衛は初代が睨みを利かせているうちこそ事業に専心したが、明治42年に初代が亡くなると仕事は番頭に任せ、自らは趣味の世界に生きることになる。
温室を作り、熱帯植物や蘭の栽培・研究に没頭した。
だが、繊維業は第一次大戦後、いよいよ盛んとなり薩摩治兵衛商店も膨大な利益を生んでいた。
当然、三代目となるはずの治郎八が英国に留学することになるのはこの頃だ。
父は自分が果たせなかった、あこがれのヨーロッパ行を息子に託した。
紳士としての教養を身につけさせ、立派な三代目として戻ってきてほしいと、支援し続けたのだ。

しかし19歳の治郎八は、子供のころから祖父(初代)から高級ワインの味を教えられ、父は酒を飲まなかったから、祖父の残した樽詰めの高級ボルドーワインはすべて彼のものになっている。
父の欧州趣味も身に付いている。
治郎八が運転手を雇い名車ブガティを駆ってフランス全土のミシュラン名店を巡る「グルメ行脚」する素地は、すでに出来上がっていたのだ。

治郎八のパリ放蕩生活の絶頂期は、パリ大学都市の日本館が落成した日に当たるだろう。
パリの日本館

1929年5月10日、この日、ガストン・ドゥメルグ大統領がポワンカレ首相以下を伴って入場し、軍音楽隊が日仏国家を演奏する。
フランス政界や社交界の有力者など1000人に近い招待者の見守る中で、ただ一人、まだ26歳の治郎八が初めに挨拶するのだ。
夜のホテルリッツでの晩餐会では、治郎八はオノラ総裁からレジオン・ド・ヌール勲章を授けられることになっている。
この日のために、治郎八はランヴァンであつらえた紺地の燕尾服を着て登場するのだ。
千代夫人は、ポール・ポアレの白黒のイヴニングドレスにダイヤとサファイアのアクセサリーをつけて…。

小生が治郎八のことを知ったのは多分、獅子文六の「但馬太郎治伝」(昭42)だったと思う。
その後、珍本「セシボン」(わが半生の夢)薩摩治郎八著を読んだ。
文六は戦後、治郎八がお茶の水の屋敷に建てた洋館・Villa de mon capriceに住むことになり、その後、大磯に移ったときに住んだ家はこれまた治郎八が渡欧前に使っていた別荘だったこともあり、この小説(主人公の名前を変えただけで、ほとんどエッセイに近い)を書くことになる。
しかも文六は、治郎八が資金を出したパリの日本館にも住んだことがあるのだ。(すぐ逃げ出したが)

戦後の1951年「ラ・マルセイエズ」号で、ヨコハマ港に帰った治郎八は、荷風のようにしばらく浅草のレヴュー通いをしていたが、(彼が愛したモンマルトルの雰囲気を感じさせた浅草を好んだ)楽屋で出会った人気踊り子・真鍋利子さんとの第二の人生を歩むことになる。
1949年、千代夫人は富士見高原の結核サナトリウムで亡くなっていたのだ。
この30歳も若い妻の故郷、徳島の阿波踊りを見た後、治郎八は脳卒中で倒れ、その後、徳島での療養生活に入る。
文六は、この徳島で初めてバロン・サツマに会い取材した。
同じ徳島の瀬戸内晴美もここでバロン・サツマに出会い、短篇「ゆきてかえらぬ」をものにした。
治郎八がこの徳島で1976年2月22日、74歳で死去した時、フランスの「ルモンド」は葬儀の翌日にすぐその死を伝えた。
「パリで〔バロン・サツマ〕の名で知られる薩摩治郎八氏が2月22日、74歳で死去した。氏は第二次大戦中、アンドレ・マルローや多くの知識人をナチの手から守った人。1920年に渡欧、両大戦間のヨーロッパ社交界の寵児となる。パリ日本館を開館。26歳でレジオン・ド・ヌール勲章を授けられた。戦時中も日本館を維持したバロンは戦後、故国に戻り、舞台のスターと結婚した。」

近年、治郎八の伝記が続けて3冊も出現した。
驚くべきことだ。
執筆年代はズレがあるが刊行順に記しておきたい。
1.村上紀史郎「バロン・サツマ」と呼ばれた男(藤原書店2009年刊)
2.小林茂「薩摩治郎八」(パリ日本館こそわがいのち)(ミネルヴァ書房2010年刊)
3.鹿島茂「放蕩王、パリをゆく」(新潮社2011年刊)
蕩尽王、パリをゆく

バロン・サツマの時代

時間があいてしまった。
自慢するわけではないが(断る必要もない)、小生はパソコンはおろか、携帯・スマホの類も一度も持ったことがない。
したがって、白州に行っているときや旅行中は一切ブログのアップはできない。
ツールも操る人間もいないからだ。
最近は白州で過ごす時間が非常に長くなったので、ブログのアップも間遠になっている。
パソコンをいじることができる人は、かなりの時間をそのために費やすらしい。
小生は、それを望まない。


さて、本題。
モンマルトルのピガール広場に通ずる坂道をいつものように散歩している日本人がいた。
背は高くないが、日本人離れをしたがっちりとした体格で、スーツが良く似合う。
ロンドン訛りのフランス語も今ではかなり上達している。
モンマルトルのキャバレーの常連でもある彼は、踊り子を連れ、丘の上の秘密基地(アパルトマン)に向かうこともある。
この男、後にバロン・サツマと呼ばれ、通算で30年になるパリ生活で、現在に換算して600億円とも800億円ともいわれる散財をした男だ。

肖像

芸術新潮表紙


松方コレクションを遺した松方幸次郎のように美術品を買い集めたわけではない。
彼はパリ大学都市の「日本館」以外は何も残さなかった。
そのほとんどをパリの社交界に注ぎ込んだ。
芸術家たちのパトロンとして費やしたものもあったが…。

この1920年代のパリはミュージカルの全盛期。
「ムーラン・ルージュ」「フォリ・ベルジェール」「カジノ・ド・パリ」などのレビューには裸同然の踊り子たちの歓声が上がる。
フロマンタン通りのキャバレー「グラン・テカール」(J・コクトーの書名から採った店名)にはラヴェル(作曲家)とよく立ち寄っていた。

1920年12月、ロンドンのコンノートホテルから出発した治郎八の英国留学は、二人の天才舞踊家、タマラ・カルサヴィナとイザドラ・ダンカンとの出会いはあったが、次第に華やかで自由な雰囲気の溢れるパリに吸い寄せられるようにロンドン−パリを往復するようになる。
一足先にパリに移った妹・蔦子がアンリ・マルタン通りのアパルトマンにいた。(2年で帰国)
ロンドンで知り合った美川徳之助というほぼ同年代の友人もパリにいる。
ヨコハマ生まれの美川の父親はデパート松屋の前身横浜「鶴屋呉服店」の番頭で、のち丸菱デパートの社長となった人。
妹は、のち画家鳥海青児夫人となる作家の美川キヨだ。
彼もデパート視察の名目で渡欧して遊学していたから、同じ境遇のボンボン同士でウマが合った。
治郎八は父の返事を待たず、ロンドン勉学を捨て、パリで暮らすことに決めた。(1923年)
妹のいたパリ16区アンリ・マルタン通りのすぐ近く17番地。
ここには画家フジタも住むこととなる。

パリでは新進の作曲家たちが6人組を結成(1920年)、ミヨーの組曲をもとにコクトーが作ったパントマイム作品から採ったキャバレー(ミュージックホール)「屋根上の牡牛」が、ボワシー:ダングラ通りに開店したのが1921年。
ここには「6人組」を始め、コクトーもサティもストラヴィンスキーやルーヴィンシュタインなどが来ていた。
画家では、ピカソ、ブラック、デュフィ、ヴァン・ドンゲン、ローランサン、彫刻家ブランクーシもよく利用していた。
詩人・小説家では、マルセル・エーメやレイモン・ラディゲなどもいた。
その分店「グラン・テカール」も同様だ。
また、この頃、第一次大戦の傷も癒えたパリには、名門貴族や大金持ちの夫人が開くサロンも健在だった。
ここには美術・音楽・舞踊・文芸など、様々な芸術分野の才能ある人々が集って刺激し合った。
ド・ポリニャック大公妃のサロンには若い音楽家たちが集った。
ラヴェルは「亡き王妃へのパヴァーヌ」を、ストラヴィンスキーは「狐」「婚礼」、ミヨーは「オルフェ」、プーランクは「オルガンとオーケストラのための協奏曲」「2台のピアノのための協奏曲」、サティは「ソクラテス」を彼女のために書いた。
このサロンにはコクトーもプルーストも来たが、治郎八もいたに違いない。

治郎八が、兄事したラヴェルに初めて出会ったのは、モーリス・ドラージュの家だった。
ラヴェルを中心とする前衛音楽家グループ「アパッシュ」はモンマルトルのアパルトマンに集っていたが、苦情が出て、ドラージュが買ったオートイユの家に毎週集っていた。
このドラージュの家でフローラン・シュミットやロラン・マニュエルなどと一緒にラヴェルに出会うことになる。
この時代のサロンとキャバレーは、治郎八のパリ生活と一体化していた。

19歳のロンドン時代の仕送りは毎月200万。
最初のパリ時代を経て、ジル・マルシェックスの演奏会と山田千代との結婚のため帰国。
再びパリに戻った治郎八と千代の新居は、シャルル・ディケンズ通り5番地のアパルトマン。
すぐ、フォンテーヌの新築アパルトマンに移る。
この頃から毎月2000万でも足りなくなる。
2台のフィアットのあと、純銀メッキに屋根と泥除けを淡い紫色に塗った特注のクライスラーにパリジャンに変身させた千代を乗せ、本格的に社交界デビューとなるのだ。
運転手にはサツマ家の紋章を刺繍した制服を着せた。
この頃の室内写真には、背後に岡鹿之助と千代の絵がかけられている。

夫妻

「シャンゼリゼやボア・ド・ブローニュでこの芸術品(千代と自動車)は人目を驚嘆させ、巴里エレガンスの先端をゆくものだと新聞・雑誌にも云われたものである」(自伝より)

もう、長すぎた。
治郎八の絶頂期「日本館」の完成する日までは到達できなかった。
この日、「ホテル・リッツ」での1億円の晩さん会は次回で。
プロフィール
ウェブサイト
お店のウェブサイト
http://home.netyou.jp/33/fushin/
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