4・5日ぶりで戻った山梨の家はカシワの大きな枯葉で埋もれていた。
カシワの葉は厚く大きいから腐葉土にはなりにくい。
庭に散ったカシワの落葉は紙屑のように目立って目障りだから、集めて落ち葉焚きしなければならない。
頑張っても2・3日はかかりそうだ。
それにしても、カシワの落葉が年々早まるのはどうしてか?
以前は春近くまで半分以上が残っていた枯葉が、今ではもう99パーセントが散ってしまった。
老木(まだ成木だが)の生理なのか、わからない。

鉄道が通る以前、甲府盆地は周囲のほとんどを山に囲まれているから、富士川に舟運や身延道を除くと、かなり険しい峠を越えなければ他国へは出られない。
そのひとつ、甲斐と駿河を結ぶ中道(なかみち)往還も右左口(うばぐち)宿あたりから険しい登り道となって、精進湖へと向かっていく。

この右左口で生まれたのが、歌人・山口方代(ほうだい)だ。
〔ふるさとの右左口郷(うばぐちむら)は骨壺のそこに揺られてわがかえる村〕
この歌碑が今は空き地となった生家跡に建てられている。

歌碑

このあたりの風景は方代の育った当時とあまり変わっていないだろう。
旧街道の面影が坂道の家々に残っている。

街並み

母を負ぶって上った観音堂の石段もそのままだ。
少し高見に登れば、笛吹川が流れる甲府盆地が一望できる。
〔笛吹の石の川原を越えていくひとすじの川吾が涙なり〕
母がなくなると方代は父と共に、横浜へ嫁いだ姉を頼り、横浜市西区浅間町へ移ることになる。
1938年、24歳の時だ。
〔石臼を最後に売りてふるさとの右左口村を逃れて来たる〕

すでに青年時代から歌を詠み、投稿していた方代だが、本格的に詠みだしたのは敗戦後、野毛の闇市を鈴木信太郎訳「フランソワ・ヴィヨン詩鈔」(全國書房刊)をふところにうろついていた時期からだろう。
〔青ぐらい野毛横浜の坂道の修羅を下る流転者方代〕
〔ガスをはなてる運河をのぼり野毛山の死人舞踏之図をふりあおぐ〕
〔野毛坂の坂のあかりにしたいくる名に負う港の乞食貴族よ〕
〔歌をよむ吾をたたえてはばからぬ幾千万の浜風太郎(プータロー)〕

美空ひばりが野毛にあった国際劇場でデビューした戦後、野毛の最もにぎわった黄金時代、方代はひばりの「悲しき口笛」を聴いただろうか。
山梨県立文学館で観た劇団黒テントの公演「山崎方代」は「物語演劇」という副題をつけているように、軽快に当時の流行歌を絡めながら、方代の生きざまを追っていた。

黒テントポスター鎌倉文学館ポスター



方代の処女出版は、姉が資金を出し自費出版した第一歌集「方代」、昭和30年のことだ。
当時、横浜の文学科界の人々は馬車道の「ホースネック」に集ったが、方代はその片隅に目立たぬように時々現れたようだ。
基本的に方代は出しゃばる人ではないが、変に映ることもしかねないところがあり危うい。
この第一歌集を献呈した会津八一からのハガキの言葉には舞い上がってしまった。
「滔々たるマンネリズム、フォーマリズムの横溢する今の世の中に、異色ある光芒を発揮せらるる如く感ぜられ…」とあったからだ。
すぐにでも御礼に行きかねない気配に、八一はすぐ二信を送る。
「当方へご来訪の如きは絶対に無用にて候。」
(この「絶対に」のところには赤字で付け加えている)
会津八一の慌てぶりがおかしくて、にやにやしてしまう。

晩年の鎌倉暮しにはもう触れない。
方代に癌が見つかって亡くなったのは1985年8月19日、「横浜国立病院」であった。
享年71歳・
〔六十になればなればとくり返し六十歳を越えてしまえり〕
〔欄外の人物として生きてきた夏は酢蛸を召し上がれ〕