図書館のねずみ

南アルプスの伏流水を使った香り高い珈琲を啜りながら、じっくりお気に入りの本が選べる本好きのためのささやかなサロン、ブックギャラリー&カフェ風信。現在は店舗移転の為、日々奮闘しております。書店では扱っていないような古書、絶版文庫を集めています。

C・マッカラーズと佐伯彰一氏の仕事

連休中でもまだ桜を楽しむことはできる。
北海道の話ではない。
ここ山梨や長野のある程度標高の高い里山では、山桜と新緑の美しさは、この時期一番の喜びだ。

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もやのかかった山々の樹々が芽吹きの柔らかい色合いを見せて美しい。
史郎ヴェールに包まれた新緑の中に山桜のサクラ色や白、その新葉の脳茶から黄緑色までが加わると、一段と見ごたえがある。

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コナラや、カシワ、オニグルミなどは芽吹きと同時に長い花穂を伸ばしている。

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山桜の花色が白から濃い桃色、緋色に近いものまで様々に変化があるのが魅力だが、近づいてみれば誠に地味なものだ。
花自体の数が少ない。
真下に来れば空と一体になってよく見えない。

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山桜は少し距離を置いて眺めるものだろう。
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サクラの新しい葉やカシワ、ホウの葉など、柔らかく、いかにもおいしそうな、新葉が古から餅や寿司ご飯を包むのに使われているは、サモアリナンと思える。
朴の信用が展開していくのを見ていると。つい、木曽谷のホウバナモチを思い浮かべてしまう。

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さて、昨年のクリスマスの日に「伊那谷の老子」が亡くなって、その訃報が知らされた1月6日か7日、もう一人重要な人を亡くした報が続いた。

元旦1月1日に佐伯彰一さんが亡くなったのだ。
訃報には東大教授(都立大から東大教授、そして退官後は中央大学教授)」、アメリカ文学研究者、そして晩年は三島由紀夫記念館館長と、略歴が簡単に記されていただけだったが、その仕事は幅広く深い。
東大大学院時代は「人文科学研究科比較文学比較文化専攻」の主任教授という肩書になっている通り、日本とアメリカ文学に比較文学の研究、アメリカやカナダの大学での日本文学講義という経験から、より広く比較文化へと進み、「外から見た近代日本を考える」。
さらに、岡倉天心や神道(佐伯氏は立山信仰の中心・芦山弁寺の神宮の家に生まれる)についての著作にまで及んでいる。

また、「自伝論」という日本では未開拓の分野を切り開いたのは佐伯さんであった。

日本人の自伝」

その代表作「日本人の自伝」(講談社学術文庫)には、日本人の残した自伝の系譜を追って、勝小吉「夢酔独言」、鈴木牧之「夜職草」(よなべぐさ)、内村鑑三「余は如何にして基督教徒となりしか」、福沢諭吉「福翁自伝」、新井白石「折たく柴の記」、山鹿素行「配所残筆」。松平定信「宇下人言」(うげのひとこと)。
そして、女流・江馬細香や只野真葛の自伝に及び、締めとして芸談として知られる七世市川中車の「中車芸話」、初代中村仲蔵の「月雪花寝物語」、三世中村仲蔵の「手前味噌」を取り上げている。
並みの文学研究科ではとてもできない仕事だ。
英語圏の自伝も含めてとてつもなく広い分野に分け入る読書人がここにいる。
佐伯さんの家が本に埋まっているのは、夫人の証言を待つまでもなく明らかだ。

伊奈谷の老子・加島祥造さんとの共通点がある。
当然二人ともアメリカ文学がメーンだから、両者ともヘミングウェイとフォークナーの翻訳を持つ。
そして、佐伯さんはカーソン・マッカラーズの紹介者としても重要な仕事をされたが、(「針のない時計」の翻訳(共訳)も佐伯氏となっている)加島氏も「夏の黄昏」の翻訳(福武文庫)を持っている。
マッカラーズは重要な作家だが、日本では紹介が遅れていた。

マッカラーズの処女作「心はさびしき猟人」が出版された1940年はヘミングウェイの「誰がために鐘はなる」も出版され、フィッツジェラルドが死んだ年であった。
又、マッカラーズの最後の作品「針のない時計」が出版されたのは1961年、ヘミングウェイが死んだ年。

南回帰線

そして、マッカラーズが持病のひどい関節炎が昂じて亡くなった1976年にはスタインベックも死んだ。

マッカラーズの日本での評価はまだこれからだ。
それにしても、マッカラーズの作品がいまだほとんど絶版(文庫)状況なのは不可解だ。村上春樹訳「結婚式のメンバー」が出るようだが…。

伊那谷の老子亡くなる

大寒の日、−6℃を越えている。
文字通り、この冬の底になる真冬の週に入ったようだ。
18日(月曜)の雪は2年前の大雪を思い起こさせたが、2〜30僂寮兩磴悩僂鵑澄
恐れていた2度目の雪はほとんど降らなかったが、土の上や日陰の雪は当分消えそうもない。
轍ぶどう棚











釜無川釜無川2



水分の多い重たい雪が竹をしならせて電線を切った。
ガルバリウム鋼板の屋根を一気に滑り落ちる雪の音を聞いて窓の外を見ると、数秒間はホワイトアウトして何も見えない。
屋根の下を歩いていたら雪崩と同じ状況となっただろう。
クワバラ、クワバラ…。
残った雪が少し溶け出しては凍り付き、透明な槍刃のように長いツララ(氷柱)ができ、成長しつつある。
これも下から見るとちょっと怖い。
つららつらら (2)







しばらく読めなかった正月の新聞をまとめて見ると、信州「伊那谷の老子」が亡くなっていた。
12月25日、92歳の死とある。


七草粥の日だったと思う。
飯田線に乗って、気になっていた甲斐駒ケ岳の反対側の風景を見に行った。
鉄路だけだからじっくりとは言えなかったが、やはり鋭く、ピラミダルな特徴的な山頂を確認した。
すぐ仙丈岳の大きな山容ばかりとなってしまうが、右窓の中央アルプスの高嶺がまぶしく迫ってくる。
伊那谷に入ってきたのだ。
駒ヶ根駅に近づくことには南アルプスは少し遠ざかり、中央アルプスの真っ白な山並にくぎ付けになってしまう。
伊那谷では、駒ケ岳と言えばこの中央アルプスの駒ケ岳連邦のことだ。
西の駒ケ岳、または基礎駒ケ岳と登山家には区別されるが、地元の人たちにとっては甲斐駒はあまり関係がない。
白州と反対側の登山口、信州長谷村では、東駒ケ岳・西駒ケ岳と区別するのだろうか、気になる。

伊那谷の老子(老師と呼びたい気もするが)の山家、加島祥造さんの晩晴館と呼んだ家は、この駒ケ根の天竜川を越えた南アルプス側の里山の中腹にある。
中沢という山村の片隅の丘、庭からは仙丈岳の白い山頂の一部分が見え、正面には中央アルプスの駒ケ岳連邦が長く連なっている風景が目に浮かぶ。
列車は駒ヶ根駅に数分停まり、飯田に向かう。
この時、晩晴館主人は亡くなっていたのだ。
我が家の紅梅は蕾の紅を見せていたが、凍り付いて開くことができない。
たぶんこのまま開花しないだろうが、晩晴館の紅白梅は咲き始めただろうか。
ロウバイはどうか。
大きくなったコブシの木やサンシュユの蕾は膨らんでいるのだろうか…気にかかると書いたが、氏の家に行ったことはない。
用もないのに山の向こう側を訪ねる気持ちにはならなかったが、亡くなってから行きたい気持ちが強くなっているのを感じる。
いくつかの縁を感じたのだ。


神田生まれの都会っ子の氏が伊那谷を見て、故郷を感じ、完全移転したのは65歳の時。
それまでは、長年住み慣れた横浜と伊那谷を行き来していたのだ。
氏の最初の晩晴館は、山手の丘のはずれ、打越の切通し脇にあった。
横浜暮らしは長く、かなり深い。
第二の故郷は横浜だろう。
(奥様の実家は本牧にあったようだ)
第三の故郷・伊那谷に移る少し前から、それまでの英米文学から東洋の詩に足を移していくことになる。
この南信濃の伊那谷に出会って初めて自然の奥深さを知り、田舎暮らしの中で「タオ」にのめり込んでいった。
同時に長くできなかった詩作や書・墨絵にも挑戦していくことになる。
晩年、書かねばならないのは残念だが、ベストセラー詩集「求めない」(小学館2007年刊)まで出て、「時の人」となってしまった。

氏のエッセイを読んでいたら、「かつて人に教わった姫烏頭(ヒメウズ)という淡紅色を帯びた白色の小花が…」というところに「オヤ?」と思ったことがある。
また、「伊那谷の老子」の中の別のエッセイを読んでいたら、東京下町のせっかちでせわしない歩き方が伊那谷に来ていつの間にか「カラマツ林のつづく谷沿いの道を散歩している自分がゆっくり、とまりそうな歩き方をしているのにきづいた。…かつて鎌倉で友人から教わった姫烏頭という小花が実に立派な頭を上げているのを目にして、のろい足どりさえ停まった。」とある。



これはもう間違いがない。
鎌倉のヒメウズという地味な野草の名前を教えた友人とは、詩人の伊藤海彦さんに違いない。
小生も、ヒメウズの名は海彦さんから教わった。
氏のエッセイ集「小径の消息」(かまくら自然手帳)にはヒメウズの項もあるが、序詩を少し載せたい。

小径の消息

この気持ちは「伊那谷の老子」と同じだろう。

  小径の生涯を 私は生きてみたい
  名もない山の ありふれた小径がいい
  それも 気づかれぬしぐさで
  接骨木(にわとこ)の根からそっと岐れているようなのがいい
  草いきれの夏には埋もれ
  凍み雪の下では忘れられる小径
  枯葉の告げる死の暗さをしきつめながら
  しかし春ともなれば つつましい日向(ひなた)と
  すみれ ひめうず ふでりんどう・・・
  ちいさな花にほちほち ふちどられるのがいい
  ・・・

まだ続くが、続きは「小径の消息」(かまくら春秋社・昭和52年刊)で読んでもらいたい。

海彦さんは「鎌倉花信抄」(アトリエ風信・1997年刊)を遺して逝ってしまった。

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そしてその後出た、加島祥造氏の「老子と暮らす」(光文社・知恵の森文庫)を今回初めて読んでみると、「なによりも驚くのは微小な草花の見えてきたことだ…姫烏頭らしい淡い小粒の花(もし姫烏頭なら友の海彦の教えた草だ)…」とあった。

老氏と暮らす



白州か飯田のキンツバでももって、お茶友として晩晴館を訪ねるべきだった。
いつも「ひとり茶」を楽しむ氏にしても、「誰か来てくれて一緒に茶をのめるときはもっと嬉しいのです!」と書いていたのだから。

ひとり

海彦さんのこと、田舎暮らしのこと、横浜のこと、10年かかったユウスゲ(夕菅)の美しさについて…共通の話題は多い。
ユウスゲは、氏が生涯で最初に心を打たれた草花だった。
「このころ、夕菅を見るたびに、何かしめつけられるようなものを感じることがある」と書いた氏に、ユウスゲの美味しさを話したらどんな顔をされただろうか。

恩地孝四郎の装本と「月映」

山麓の季節はまだ晩秋らしい風景だが、山は冬の気配になっている。
先週は甲斐駒の山頂が白く冠雪した。
周辺の山々は、高いところは紅葉が終わり、葉を落とした冬樹が目立つようになった。
最後まで残ったカエデ類の紅葉が美しい。

楓の紅葉

ブナやカラマツも黄から橙色に移り、葉を落とし始めた。
遠くに見える富士山も、山頂の雪はまだ少ないから夏山のように淡い色で目立たないけれど、稜線はくっきりした姿を見せている。

富士山 (2)

5合目近くの御庭の天然カラマツは、もう葉を落としてしまっただろうか、気にかかる。
今月中で閉鎖されるスバルラインは平日無料になったらしいから、見に行きたいが…。



前回、前々回と装本家、雪岱・壮八について書いたが、今回は版画家・装本家としての恩地孝四郎のことを書きたい。

先月まで、東京駅のステーションギャラリーで開催されていた「月映」つくはえ展は、若き日の恩地孝四郎・中森静雄・田中恭吉の3人が始めた版画と詩文の同人誌「月映」や同時代の手紙を中心とする充実した展覧会だった。

月映リーフレット


主要版画作品は公刊になった機械刷りの「月映」(夢二の画集を出していた洛陽者から200部ほど、第7集まで刊行されたがほとんど売れなかったようだ)と、私家版として3部だけ作った木版詩画集(1〜6)ということになる。
これは恩地が保存していた、ただ一つだけの(田中・藤森の分は失われてしまった)貴重な作品群だ。
(現在は田中の故郷・和歌山県立美術館に寄贈されている)


夭折の版画家・田中恭吉の評価は、この作品群が失われていれば幻の画家になっていただろう。
田中恭吉が「月映」の名を恩地に提案したハガキが残っているが、これが大正3年3月21日、そして恭吉が亡くなったのが大正4年10月23日、享年23。
その間、1年半。
それも半分くらいはもう版画が作れず、詩文だけを載せたのだから、この画家は月映以前も含めて実質1年だけで、これほど完成度の高い作品を残しているのだ。


恩地と藤森は遺作展を日比谷美術館で開いたが、遺作集の刊行はできなかった。
死後、刊行された萩原朔太郎の第一詩集「月に吠える」は恩地が装本など協力して、著者も望んだように田中恭吉遺作小画集の想いも込めて、カバー、口絵、挿絵などに恭吉の作品を多く収蔵している。
恩地宛の朔太郎の手紙には、「今度の出版は私一人の詩集ではなく、故田中氏と大兄と小生との3人の芸術的共同事業でありたい、少なくとも私はそう思っている」とある。

月に吠えろカバー月に吠える


恩地の装丁はそれ以前、竹久夢二の「どんたく」(大正2年刊)から始まっている。

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この小さなかわいい夢二本は、以前NHK日曜美術館で恩地孝四郎展を取り上げた時、長女三保子さんの手に載せていた本に違いない。
三保子さんは、父・恩地孝四郎が果たせなかった念願の恭吉画集を1983年に実現することになる。
これが龍星閣から出た「太陽と花」田中恭吉詩画集だ。

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恩地孝四郎の代表的な装本をお見せしたいと、吉田弦二郎のいつも手元近くに置いていた本を探したが見つからない。
筑摩書房の百巻を超える「現代日本文学全集」もここにはない。
氏の装本の仕事は三省堂刊の「恩地孝四郎・装本の業」を見ていただきたい。

ここでは、ちょっと珍しい恩地孝四郎の本を2冊ご紹介したい。
恩地孝四郎も美術家としては文筆もよくしていた人だ。
その著書もいくつかある。
創元選書の「日本の現代版画」も「詩集」もあるが、エッセイ集「工房雑記」(興風館1942年刊)と珍本「人間の作る美」(六三書院1949年刊)の書影を載せることにする。

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前回載せられなかった、木村壮八の代表的な装本を追加したい。
石川淳「白頭吟」(中央公論社1957年刊)の外箱(貼り函)の挿画。

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日本独自に発達させた、貼り函入りの文芸書。
今となってはかなり贅沢な装丁。
もうこの貼り函を作る製函屋差は1件あるかどうか…

大佛次郎の壮八本、他

風もほとんどないのに桂の黄葉がバラバラ落ちる。
玄関先は1日で落ち葉で埋まり、落ち葉の香りに包まれる。

桂の落ち葉

緑が所々に見えるのはヤブコウジで、まだ赤い実はつけていない。
ムラサキシメジもそろそろ出現する季節になったが、まだ姿を見せない。
今年も最後の花、サザンカと茶の花が咲き始めている。
どちらも寒さには滅法強いツバキの仲間だし、花も美しいから寒さの厳しい山麓の庭木や垣根には欠かせない植物だ。

茶の花




10月末、まだ秋のバラが咲いている「港の見える丘公園」の大佛次郎記念館や県立神奈川近代文学館をのぞいてきた。
文学館では生誕140年「柳田國男展」が始まっている。

パンフレット

文学の側面から抒情詩人として出発した柳田が、官僚として全国の山村を視察するうちやがて民俗学へと向かう道筋がよくわかる展示で興味深い。
特に文学者で旅の作家・田山花袋との絵葉書や手紙を見て、この二人が特に深い交流が続いていたのを確認できた。


大佛記念館は久しぶりだ。
いまは、「大佛次郎の愛した舞台―バレエも歌舞伎も―」の小さな展示があるが、ここでは猫の置物や、絵に囲まれた書斎や横浜を舞台にした開化物の書影、木村壮八の挿絵だけ見ればそれで良い。
生きた(?)猫たちに囲まれた木村壮八の書斎写真を見たことがあるが、大佛次郎の鎌倉の家も常に十数匹の猫が出入りしていた。

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猫のことは別にしても、開化モノの代表作「霧笛」は昭和8年、朝日新聞に連載したものだが、木村壮八の挿絵とともに記憶されるべき作品だ。
「薔薇の騎士」も「花火の街」も、戦後の「幻灯」や「その人」など大佛の横浜開化モノには必ず壮八の挿絵や装丁絵に飾られて出刊された。

薔薇の騎士

鏑木清方も画家としては、かなりの文筆の仕事を残したが、壮八の文筆の仕事は圧倒的に多い。
画家として一番著作物を多く残したのは壮八ではないか。

新編・東京繁盛記


講談社から出た全10巻の全集があるくらいだから、推して知るべし。
(現在の画家・横尾忠則もかなりのもの)
壮八は前回書いた花柳章太郎の本に序文を載せたくらいだから、舞台美術や時代考証の仕事もあり、歴史小説の挿絵画家としても、明治の「風俗画報」や古写真の浮世絵版画などの資料から多くを学んで、得意の細いペンで挿図や挿絵を描いた。
特に大佛の幕末・明治ヨコハマ小説や、荷風の風俗小説、安藤鶴夫の寄席小説なども木村壮八の挿絵なくては考えられない印象を残している。
壮八の「装本の業」はとても数えきれないほど多い。
プロの装本家として初めて立ったのは、この壮八か恩地孝四郎ではないだろうか。

ところで、大佛記念館で入手した「おさらぎ選書」19・23には兄・野尻抱影(星の文人・英文学者)への書簡と、抱影からの書簡の一部が公開されていて貴重だ。
また、12日からは「星の抱影と弟・大佛次郎」の展示が始まる。
28日の大佛研究会(近代文学館ホール)には、「星の文人・野尻抱影」も上映される。

雪岱本のいろいろ

さわやかな日本の秋らしい天候が続くようになった。
ネムの木もまだ緑色の葉だが、日暮れになってもそう葉を閉じることはなくなった。
落葉を待つばかりだ。
特徴ある柿の葉も落ち始め、実も熟しているが、今年はまだ猿の姿を見ていない。

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山の果実も豊作ということか?
もう少し寒くならないと、山を下りてくる意味もないのだろう。
湿度が40パーセントを着るようになれば、段ボールの本を軒下で開けて整理する最高の季節(とき)だ。
稲架(はさ)がけで自然乾燥している稲穂にとっても、古文書や文化財の虫干しにしても、この気持ちの良い秋の日を待って行われる。
寒冷の「正倉院展」も来週から始まる。
台風の位置さえ気をつければ、乾燥した秋晴れが続くだろう。

段ボール箱から出てきた花柳章太郎「きもの」(二見書房・昭和16年刊)をパラパラ見ていると、この本なかなか面白い。

きもの

当代きっての女形による着物へのウンチクだけではない。
口絵・装丁・序文・写真など資料的にも興味深いものがある。
例えば、装丁について律儀で凝り性の章太郎らしく細かく銘記している。
箱張  鏑木清方先生筆
表紙  苅谷鷺行先生筆「白鷺」衣裳デザイン
見返し 鏑木清方先生筆「瀧の白糸」衣裳デザイン
扉   伊東深水先生筆「日本橋」衣裳デザイン
題字  川口松太郎先生
装幀・構成 花柳章太郎
そして、鏑木清方と木村壮八の序文と章太郎の自序まで入っている。

この盛りだくさんの装いでは、すっきりとしたスマートな装丁とはとても言えないが、手持ちの材料すべてを盛り込んだ几帳面さがうかがえ、資料的な価値が出た。
鏡花の「通夜物語」の舞台稽古写真を見たことがある。
章太郎が着物と帯姿を鏡花と雪岱に見せている、衣裳合わせのシーンだ。(昭和11年・明治座上演)
鏡花の書き下ろし小説「日本橋」(大正3年刊)に初めて、装丁の仕事をした雪岱は、それ以後鏡花作品のかなりの重要作品の装丁を任せられている。
それ以前、明治の鏡花本は洋装本は少なく、伝統の和本の流れをくむ、糸で綴じた菊版大和綴じの本が多いが、木版口絵も装丁絵も清方が抜きんでている。
日本橋育ちで「日本橋檜物町」とタイトルをつけたエッセイ集(再刊・中公文庫1990年刊)を持つ雪岱の装丁には、日本橋好みの鏡花を十分に満足させたばかりか、鏡花と早くから組んで口絵や挿絵の秀作を次々とモノにしていた清方をも驚かせた。

雪岱文庫本

これ以後、雪岱の装丁家デザイナーとしての才能を一番買っていたのは清方だったのかもしれない。
そして、鏡花作品の挿絵・口絵画家として清方の実力を一番知っていたのも雪岱だったのではないか。

雪岱は、挿絵画家・日本画家としての尊敬すべき先輩画家・清方の描いた「註文帳画譜」を拝借して長く手放したくないほどの気持ちになったと、新小説社から木版画として再現された「註文帳画譜」刊行の際に書き残している。
雪岱の鏡花本は装丁というより、木版画による雪岱作品の小画集といった趣だ。
あるいは、その後に力を入れていくことになる舞台美術科としての力量を示すものだ。
(舞台の書き割りを凝縮したのが、前と後ろの見返し絵・二場面だろう)

芍薬の歌鴛鴦帳







装丁家(ブックデザイナー)としての雪岱作品は、新小説社刊の師に献げた作品だから、思い切り力が入っている。

邦枝完二「おせん」や三田村鳶魚「大衆文藝評判記」(汎文社刊)にとどめをさす。

雪岱「大衆文藝評判記」

長谷川時雨「旧聞日本橋」や鏡花作品を愛していた芥川龍之介の装丁家としての小穴隆一にもふれたかったが、もう長すぎた。

芥川龍之介の本(小穴隆一装)

別の機会にしたい。

鏡花が亡くなったのは、昭和14年9月7日。
雑司ヶ谷墓地の鏡花の墓は、雪岱がデザインした。雪岱が急逝したのは、翌年である。
死後、高見沢木版から出た4000部限定「小村雪岱画集」には、当然ながら、清方の序文が入っている。
美しい追悼文だ。


*この原稿を入力していると、デスクわきに1枚の原稿が目に入った。
読んでみると9月22日にクズについて書いた時の文章だ。
つまり、私がするりと逃げたものを見落とし、一部欠落したものをアップしてしまったようです。
300回以上もアップしていてこのようなことは初めて・・・
夫は何も知りませんが、できましたら、もう一度読んでいただけませんか?

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http://home.netyou.jp/33/fushin/
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