図書館のねずみ

南アルプスの伏流水を使った香り高い珈琲を啜りながら、じっくりお気に入りの本が選べる本好きのためのささやかなサロン、ブックギャラリー&カフェ風信。現在は店舗移転の為、日々奮闘しております。書店では扱っていないような古書、絶版文庫を集めています。

人物

県民栄誉賞か、県のイメージアップ大賞か

スポーツ選手の活躍は、出身・地元の人たちに喜びや元気を与える。
(御岳海は長野県民を熱狂させた)
特に圧倒的な王者を倒しての優勝は、ことのほか感動的だった。
茨城県牛久育ちの稀勢の里のことではない。
山梨では卓球の平野美宇の全日本卓球選手権優勝(最年少)が、地元山梨県民に力を与える出来事だった。
出身地、中央市(合併してつまらない名前になった)田富町分庁舎では早々と懸垂幕がかかり、横断幕もポスターも作り、祝った。
県では県イメージアップ大賞など新しい顕彰も考えているようだ。
オリンピックで補欠という裏方に回った悔しさをバネに、その後、ワールドカップ女子シングル最年少優勝で世界を驚かせた平野が、昨年と同じ対戦となった女王・石川に4−2で圧勝した。
4連覇を狙う女王を、終始圧倒して攻め続けた。
第5ゲームだけは優勝がちらついたのか、8−2から逆転され落としたが、その後は強い精神力で女王に何もさせなかった。
この日、準決勝戦で、いつも苦しめられているカットマンの橋本を問題としない勢いと集中力を、決勝でもそのまま発揮した平野の精神力は並ではない。
国際卓球連盟が、「その年最も躍進した選手」としてブレークスルースター賞を与えたのも当然だと思える。
平野は、絶対優勝すると宣言して、その通りにした有言実行の高校1年生(16歳)だ。
顔に似合わず、負けん気の強さは人一倍持っている。
同じく強気のライバルで親友の伊藤美誠も唖然とさせる強さだった。

ー東京新聞からー
平野


翌日の山梨日々新聞、1月23日(月)の第一面は当然、白鳳を破って横綱を確実にした稀勢の里ではない、平野美宇が皇后杯を掲げた写真が大きく載った。
山梨日々新聞をお目にかけたいが、白州らいぶらりーで見たのでここに載せられないのが残念だ。。
横浜に帰って東京新聞を見ると扱いが大きく違っていた。

ー東京新聞からー
稀勢の里


これで、最強の中国選手と互角に戦える若い戦力がもう一人増えた。
美誠は世界女王の丁寧を破ったし、中国スーパーリーグにも挑戦した美宇が実力をつけて一番手に躍り出た。
三連覇で敗れた石川佳純を加えて最強の布陣となる日本の卓球界からは、目が離せない。

この全日本選手権の最終日が行われた東京体育館は、初めて満員(6100人)の観客を集めた。
その中心には男子九連覇を達成した水谷隼と、抜群の強打で他を圧倒した平野美宇がいた。

ー東京新聞からー
水谷

〔真っ黒く澄み渡る馬の目の中に釜無川が流れている〕 方代

4・5日ぶりで戻った山梨の家はカシワの大きな枯葉で埋もれていた。
カシワの葉は厚く大きいから腐葉土にはなりにくい。
庭に散ったカシワの落葉は紙屑のように目立って目障りだから、集めて落ち葉焚きしなければならない。
頑張っても2・3日はかかりそうだ。
それにしても、カシワの落葉が年々早まるのはどうしてか?
以前は春近くまで半分以上が残っていた枯葉が、今ではもう99パーセントが散ってしまった。
老木(まだ成木だが)の生理なのか、わからない。

鉄道が通る以前、甲府盆地は周囲のほとんどを山に囲まれているから、富士川に舟運や身延道を除くと、かなり険しい峠を越えなければ他国へは出られない。
そのひとつ、甲斐と駿河を結ぶ中道(なかみち)往還も右左口(うばぐち)宿あたりから険しい登り道となって、精進湖へと向かっていく。

この右左口で生まれたのが、歌人・山口方代(ほうだい)だ。
〔ふるさとの右左口郷(うばぐちむら)は骨壺のそこに揺られてわがかえる村〕
この歌碑が今は空き地となった生家跡に建てられている。

歌碑

このあたりの風景は方代の育った当時とあまり変わっていないだろう。
旧街道の面影が坂道の家々に残っている。

街並み

母を負ぶって上った観音堂の石段もそのままだ。
少し高見に登れば、笛吹川が流れる甲府盆地が一望できる。
〔笛吹の石の川原を越えていくひとすじの川吾が涙なり〕
母がなくなると方代は父と共に、横浜へ嫁いだ姉を頼り、横浜市西区浅間町へ移ることになる。
1938年、24歳の時だ。
〔石臼を最後に売りてふるさとの右左口村を逃れて来たる〕

すでに青年時代から歌を詠み、投稿していた方代だが、本格的に詠みだしたのは敗戦後、野毛の闇市を鈴木信太郎訳「フランソワ・ヴィヨン詩鈔」(全國書房刊)をふところにうろついていた時期からだろう。
〔青ぐらい野毛横浜の坂道の修羅を下る流転者方代〕
〔ガスをはなてる運河をのぼり野毛山の死人舞踏之図をふりあおぐ〕
〔野毛坂の坂のあかりにしたいくる名に負う港の乞食貴族よ〕
〔歌をよむ吾をたたえてはばからぬ幾千万の浜風太郎(プータロー)〕

美空ひばりが野毛にあった国際劇場でデビューした戦後、野毛の最もにぎわった黄金時代、方代はひばりの「悲しき口笛」を聴いただろうか。
山梨県立文学館で観た劇団黒テントの公演「山崎方代」は「物語演劇」という副題をつけているように、軽快に当時の流行歌を絡めながら、方代の生きざまを追っていた。

黒テントポスター鎌倉文学館ポスター



方代の処女出版は、姉が資金を出し自費出版した第一歌集「方代」、昭和30年のことだ。
当時、横浜の文学科界の人々は馬車道の「ホースネック」に集ったが、方代はその片隅に目立たぬように時々現れたようだ。
基本的に方代は出しゃばる人ではないが、変に映ることもしかねないところがあり危うい。
この第一歌集を献呈した会津八一からのハガキの言葉には舞い上がってしまった。
「滔々たるマンネリズム、フォーマリズムの横溢する今の世の中に、異色ある光芒を発揮せらるる如く感ぜられ…」とあったからだ。
すぐにでも御礼に行きかねない気配に、八一はすぐ二信を送る。
「当方へご来訪の如きは絶対に無用にて候。」
(この「絶対に」のところには赤字で付け加えている)
会津八一の慌てぶりがおかしくて、にやにやしてしまう。

晩年の鎌倉暮しにはもう触れない。
方代に癌が見つかって亡くなったのは1985年8月19日、「横浜国立病院」であった。
享年71歳・
〔六十になればなればとくり返し六十歳を越えてしまえり〕
〔欄外の人物として生きてきた夏は酢蛸を召し上がれ〕

C・マッカラーズと佐伯彰一氏の仕事

連休中でもまだ桜を楽しむことはできる。
北海道の話ではない。
ここ山梨や長野のある程度標高の高い里山では、山桜と新緑の美しさは、この時期一番の喜びだ。

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もやのかかった山々の樹々が芽吹きの柔らかい色合いを見せて美しい。
史郎ヴェールに包まれた新緑の中に山桜のサクラ色や白、その新葉の脳茶から黄緑色までが加わると、一段と見ごたえがある。

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コナラや、カシワ、オニグルミなどは芽吹きと同時に長い花穂を伸ばしている。

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山桜の花色が白から濃い桃色、緋色に近いものまで様々に変化があるのが魅力だが、近づいてみれば誠に地味なものだ。
花自体の数が少ない。
真下に来れば空と一体になってよく見えない。

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山桜は少し距離を置いて眺めるものだろう。
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サクラの新しい葉やカシワ、ホウの葉など、柔らかく、いかにもおいしそうな、新葉が古から餅や寿司ご飯を包むのに使われているは、サモアリナンと思える。
朴の信用が展開していくのを見ていると。つい、木曽谷のホウバナモチを思い浮かべてしまう。

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さて、昨年のクリスマスの日に「伊那谷の老子」が亡くなって、その訃報が知らされた1月6日か7日、もう一人重要な人を亡くした報が続いた。

元旦1月1日に佐伯彰一さんが亡くなったのだ。
訃報には東大教授(都立大から東大教授、そして退官後は中央大学教授)」、アメリカ文学研究者、そして晩年は三島由紀夫記念館館長と、略歴が簡単に記されていただけだったが、その仕事は幅広く深い。
東大大学院時代は「人文科学研究科比較文学比較文化専攻」の主任教授という肩書になっている通り、日本とアメリカ文学に比較文学の研究、アメリカやカナダの大学での日本文学講義という経験から、より広く比較文化へと進み、「外から見た近代日本を考える」。
さらに、岡倉天心や神道(佐伯氏は立山信仰の中心・芦山弁寺の神宮の家に生まれる)についての著作にまで及んでいる。

また、「自伝論」という日本では未開拓の分野を切り開いたのは佐伯さんであった。

日本人の自伝」

その代表作「日本人の自伝」(講談社学術文庫)には、日本人の残した自伝の系譜を追って、勝小吉「夢酔独言」、鈴木牧之「夜職草」(よなべぐさ)、内村鑑三「余は如何にして基督教徒となりしか」、福沢諭吉「福翁自伝」、新井白石「折たく柴の記」、山鹿素行「配所残筆」。松平定信「宇下人言」(うげのひとこと)。
そして、女流・江馬細香や只野真葛の自伝に及び、締めとして芸談として知られる七世市川中車の「中車芸話」、初代中村仲蔵の「月雪花寝物語」、三世中村仲蔵の「手前味噌」を取り上げている。
並みの文学研究科ではとてもできない仕事だ。
英語圏の自伝も含めてとてつもなく広い分野に分け入る読書人がここにいる。
佐伯さんの家が本に埋まっているのは、夫人の証言を待つまでもなく明らかだ。

伊奈谷の老子・加島祥造さんとの共通点がある。
当然二人ともアメリカ文学がメーンだから、両者ともヘミングウェイとフォークナーの翻訳を持つ。
そして、佐伯さんはカーソン・マッカラーズの紹介者としても重要な仕事をされたが、(「針のない時計」の翻訳(共訳)も佐伯氏となっている)加島氏も「夏の黄昏」の翻訳(福武文庫)を持っている。
マッカラーズは重要な作家だが、日本では紹介が遅れていた。

マッカラーズの処女作「心はさびしき猟人」が出版された1940年はヘミングウェイの「誰がために鐘はなる」も出版され、フィッツジェラルドが死んだ年であった。
又、マッカラーズの最後の作品「針のない時計」が出版されたのは1961年、ヘミングウェイが死んだ年。

南回帰線

そして、マッカラーズが持病のひどい関節炎が昂じて亡くなった1976年にはスタインベックも死んだ。

マッカラーズの日本での評価はまだこれからだ。
それにしても、マッカラーズの作品がいまだほとんど絶版(文庫)状況なのは不可解だ。村上春樹訳「結婚式のメンバー」が出るようだが…。

伊那谷の老子亡くなる

大寒の日、−6℃を越えている。
文字通り、この冬の底になる真冬の週に入ったようだ。
18日(月曜)の雪は2年前の大雪を思い起こさせたが、2〜30僂寮兩磴悩僂鵑澄
恐れていた2度目の雪はほとんど降らなかったが、土の上や日陰の雪は当分消えそうもない。
轍ぶどう棚











釜無川釜無川2



水分の多い重たい雪が竹をしならせて電線を切った。
ガルバリウム鋼板の屋根を一気に滑り落ちる雪の音を聞いて窓の外を見ると、数秒間はホワイトアウトして何も見えない。
屋根の下を歩いていたら雪崩と同じ状況となっただろう。
クワバラ、クワバラ…。
残った雪が少し溶け出しては凍り付き、透明な槍刃のように長いツララ(氷柱)ができ、成長しつつある。
これも下から見るとちょっと怖い。
つららつらら (2)







しばらく読めなかった正月の新聞をまとめて見ると、信州「伊那谷の老子」が亡くなっていた。
12月25日、92歳の死とある。


七草粥の日だったと思う。
飯田線に乗って、気になっていた甲斐駒ケ岳の反対側の風景を見に行った。
鉄路だけだからじっくりとは言えなかったが、やはり鋭く、ピラミダルな特徴的な山頂を確認した。
すぐ仙丈岳の大きな山容ばかりとなってしまうが、右窓の中央アルプスの高嶺がまぶしく迫ってくる。
伊那谷に入ってきたのだ。
駒ヶ根駅に近づくことには南アルプスは少し遠ざかり、中央アルプスの真っ白な山並にくぎ付けになってしまう。
伊那谷では、駒ケ岳と言えばこの中央アルプスの駒ケ岳連邦のことだ。
西の駒ケ岳、または基礎駒ケ岳と登山家には区別されるが、地元の人たちにとっては甲斐駒はあまり関係がない。
白州と反対側の登山口、信州長谷村では、東駒ケ岳・西駒ケ岳と区別するのだろうか、気になる。

伊那谷の老子(老師と呼びたい気もするが)の山家、加島祥造さんの晩晴館と呼んだ家は、この駒ケ根の天竜川を越えた南アルプス側の里山の中腹にある。
中沢という山村の片隅の丘、庭からは仙丈岳の白い山頂の一部分が見え、正面には中央アルプスの駒ケ岳連邦が長く連なっている風景が目に浮かぶ。
列車は駒ヶ根駅に数分停まり、飯田に向かう。
この時、晩晴館主人は亡くなっていたのだ。
我が家の紅梅は蕾の紅を見せていたが、凍り付いて開くことができない。
たぶんこのまま開花しないだろうが、晩晴館の紅白梅は咲き始めただろうか。
ロウバイはどうか。
大きくなったコブシの木やサンシュユの蕾は膨らんでいるのだろうか…気にかかると書いたが、氏の家に行ったことはない。
用もないのに山の向こう側を訪ねる気持ちにはならなかったが、亡くなってから行きたい気持ちが強くなっているのを感じる。
いくつかの縁を感じたのだ。


神田生まれの都会っ子の氏が伊那谷を見て、故郷を感じ、完全移転したのは65歳の時。
それまでは、長年住み慣れた横浜と伊那谷を行き来していたのだ。
氏の最初の晩晴館は、山手の丘のはずれ、打越の切通し脇にあった。
横浜暮らしは長く、かなり深い。
第二の故郷は横浜だろう。
(奥様の実家は本牧にあったようだ)
第三の故郷・伊那谷に移る少し前から、それまでの英米文学から東洋の詩に足を移していくことになる。
この南信濃の伊那谷に出会って初めて自然の奥深さを知り、田舎暮らしの中で「タオ」にのめり込んでいった。
同時に長くできなかった詩作や書・墨絵にも挑戦していくことになる。
晩年、書かねばならないのは残念だが、ベストセラー詩集「求めない」(小学館2007年刊)まで出て、「時の人」となってしまった。

氏のエッセイを読んでいたら、「かつて人に教わった姫烏頭(ヒメウズ)という淡紅色を帯びた白色の小花が…」というところに「オヤ?」と思ったことがある。
また、「伊那谷の老子」の中の別のエッセイを読んでいたら、東京下町のせっかちでせわしない歩き方が伊那谷に来ていつの間にか「カラマツ林のつづく谷沿いの道を散歩している自分がゆっくり、とまりそうな歩き方をしているのにきづいた。…かつて鎌倉で友人から教わった姫烏頭という小花が実に立派な頭を上げているのを目にして、のろい足どりさえ停まった。」とある。



これはもう間違いがない。
鎌倉のヒメウズという地味な野草の名前を教えた友人とは、詩人の伊藤海彦さんに違いない。
小生も、ヒメウズの名は海彦さんから教わった。
氏のエッセイ集「小径の消息」(かまくら自然手帳)にはヒメウズの項もあるが、序詩を少し載せたい。

小径の消息

この気持ちは「伊那谷の老子」と同じだろう。

  小径の生涯を 私は生きてみたい
  名もない山の ありふれた小径がいい
  それも 気づかれぬしぐさで
  接骨木(にわとこ)の根からそっと岐れているようなのがいい
  草いきれの夏には埋もれ
  凍み雪の下では忘れられる小径
  枯葉の告げる死の暗さをしきつめながら
  しかし春ともなれば つつましい日向(ひなた)と
  すみれ ひめうず ふでりんどう・・・
  ちいさな花にほちほち ふちどられるのがいい
  ・・・

まだ続くが、続きは「小径の消息」(かまくら春秋社・昭和52年刊)で読んでもらいたい。

海彦さんは「鎌倉花信抄」(アトリエ風信・1997年刊)を遺して逝ってしまった。

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そしてその後出た、加島祥造氏の「老子と暮らす」(光文社・知恵の森文庫)を今回初めて読んでみると、「なによりも驚くのは微小な草花の見えてきたことだ…姫烏頭らしい淡い小粒の花(もし姫烏頭なら友の海彦の教えた草だ)…」とあった。

老氏と暮らす



白州か飯田のキンツバでももって、お茶友として晩晴館を訪ねるべきだった。
いつも「ひとり茶」を楽しむ氏にしても、「誰か来てくれて一緒に茶をのめるときはもっと嬉しいのです!」と書いていたのだから。

ひとり

海彦さんのこと、田舎暮らしのこと、横浜のこと、10年かかったユウスゲ(夕菅)の美しさについて…共通の話題は多い。
ユウスゲは、氏が生涯で最初に心を打たれた草花だった。
「このころ、夕菅を見るたびに、何かしめつけられるようなものを感じることがある」と書いた氏に、ユウスゲの美味しさを話したらどんな顔をされただろうか。

恩地孝四郎の装本と「月映」

山麓の季節はまだ晩秋らしい風景だが、山は冬の気配になっている。
先週は甲斐駒の山頂が白く冠雪した。
周辺の山々は、高いところは紅葉が終わり、葉を落とした冬樹が目立つようになった。
最後まで残ったカエデ類の紅葉が美しい。

楓の紅葉

ブナやカラマツも黄から橙色に移り、葉を落とし始めた。
遠くに見える富士山も、山頂の雪はまだ少ないから夏山のように淡い色で目立たないけれど、稜線はくっきりした姿を見せている。

富士山 (2)

5合目近くの御庭の天然カラマツは、もう葉を落としてしまっただろうか、気にかかる。
今月中で閉鎖されるスバルラインは平日無料になったらしいから、見に行きたいが…。



前回、前々回と装本家、雪岱・壮八について書いたが、今回は版画家・装本家としての恩地孝四郎のことを書きたい。

先月まで、東京駅のステーションギャラリーで開催されていた「月映」つくはえ展は、若き日の恩地孝四郎・中森静雄・田中恭吉の3人が始めた版画と詩文の同人誌「月映」や同時代の手紙を中心とする充実した展覧会だった。

月映リーフレット


主要版画作品は公刊になった機械刷りの「月映」(夢二の画集を出していた洛陽者から200部ほど、第7集まで刊行されたがほとんど売れなかったようだ)と、私家版として3部だけ作った木版詩画集(1〜6)ということになる。
これは恩地が保存していた、ただ一つだけの(田中・藤森の分は失われてしまった)貴重な作品群だ。
(現在は田中の故郷・和歌山県立美術館に寄贈されている)


夭折の版画家・田中恭吉の評価は、この作品群が失われていれば幻の画家になっていただろう。
田中恭吉が「月映」の名を恩地に提案したハガキが残っているが、これが大正3年3月21日、そして恭吉が亡くなったのが大正4年10月23日、享年23。
その間、1年半。
それも半分くらいはもう版画が作れず、詩文だけを載せたのだから、この画家は月映以前も含めて実質1年だけで、これほど完成度の高い作品を残しているのだ。


恩地と藤森は遺作展を日比谷美術館で開いたが、遺作集の刊行はできなかった。
死後、刊行された萩原朔太郎の第一詩集「月に吠える」は恩地が装本など協力して、著者も望んだように田中恭吉遺作小画集の想いも込めて、カバー、口絵、挿絵などに恭吉の作品を多く収蔵している。
恩地宛の朔太郎の手紙には、「今度の出版は私一人の詩集ではなく、故田中氏と大兄と小生との3人の芸術的共同事業でありたい、少なくとも私はそう思っている」とある。

月に吠えろカバー月に吠える


恩地の装丁はそれ以前、竹久夢二の「どんたく」(大正2年刊)から始まっている。

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この小さなかわいい夢二本は、以前NHK日曜美術館で恩地孝四郎展を取り上げた時、長女三保子さんの手に載せていた本に違いない。
三保子さんは、父・恩地孝四郎が果たせなかった念願の恭吉画集を1983年に実現することになる。
これが龍星閣から出た「太陽と花」田中恭吉詩画集だ。

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恩地孝四郎の代表的な装本をお見せしたいと、吉田弦二郎のいつも手元近くに置いていた本を探したが見つからない。
筑摩書房の百巻を超える「現代日本文学全集」もここにはない。
氏の装本の仕事は三省堂刊の「恩地孝四郎・装本の業」を見ていただきたい。

ここでは、ちょっと珍しい恩地孝四郎の本を2冊ご紹介したい。
恩地孝四郎も美術家としては文筆もよくしていた人だ。
その著書もいくつかある。
創元選書の「日本の現代版画」も「詩集」もあるが、エッセイ集「工房雑記」(興風館1942年刊)と珍本「人間の作る美」(六三書院1949年刊)の書影を載せることにする。

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前回載せられなかった、木村壮八の代表的な装本を追加したい。
石川淳「白頭吟」(中央公論社1957年刊)の外箱(貼り函)の挿画。

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日本独自に発達させた、貼り函入りの文芸書。
今となってはかなり贅沢な装丁。
もうこの貼り函を作る製函屋差は1件あるかどうか…
プロフィール
ウェブサイト
お店のウェブサイト
http://home.netyou.jp/33/fushin/
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