原口真智子のbookrack

西日本新聞に発表した書評をアップしています。

圧倒的なスケール 深緑野分『ベルリンは晴れているか』

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 敗戦直後のドイツは、米英仏そしてソ連の4か国に統治されていた。破壊され、瓦礫と混乱と憎しみに埋もれたベルリン、その街並みや住民の暮らしが、驚くほど克明に浮かび上がる。設定にも骨格にも重い荷を負った長編だが、筆運びが若々しく、広い世代の読者を魅了するだろう。配給切符で得た食物のにおいや、登場人物がSバーン(鉄道)の乗車ドアのハンドルを開けるときの力の入れ具合、灯火管制用の蛍光塗料の色などの描写に浸っているうち、歴史ミステリーという範疇は意識から消え、作品が追うもののサイズが測れなくなってしまうくらいである。

 主人公は、米軍の兵員食堂で働く天涯孤独な17歳のドイツ人少女。かつて恩を受けた人が不審な死を遂げたためにソ連兵に拘束されて、容疑者として浮かんだ彼の甥を探すよう指図される。成り行きで、一緒に旅をするのは、お調子者の泥棒。不気味なソ連軍大尉も含めて謎を抱えたまま、ストーリーは紆余曲折の坂を上っていく。楽しめるのは、多彩な登場人物が、過酷な過去を背負っているにもかかわらず逞しいことだ。したたかに生きる力が沸々と伝わってくるのである。

 無惨に存在する現実の中で、最後まで失ってはいけないものは何だろう。悲しく辛い過去を持つ少女。隣家のユダヤ人一家の運命。ナチ礼賛をしていた人々は敗戦後、自分は騙されたのだと弁解する。人間には薄暗い負の部分が必ずある。それでもなお失ってはいけないものの象徴のように少女が大切にしているのは、子供の頃に買ってもらった英訳版の「エーミールと探偵たち」である。

さて、国家や民族が絡む戦争の爪痕だけではなく、人の心に潜む憎しみの闇も同時に描いたことで作品は広がりを見せるのだが、それがさらに驚くべき結末へとつながっていく。ストーリーがラストの坂を上り切ったとき向こうに見えるのは、果たしてどんな空だろうか。

     
      2018・10・27掲載

 

 


ひたひたと迫る沖縄への思い 大城立裕『あなた』

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 沖縄初の芥川賞作家で、長く沖縄の文学を牽引してきた著者が、来し方を振り返りつつ綴った6編である。私小説と言えるだろうが、今年
93歳になる作家の時間は重く、沖縄の歴史そのものを感じさせる。とともに、寄せ返す思い出は情愛も後悔もなお増して、ひたひたと迫ってくる。

 表題作の「あなた」では、川端康成文学賞受賞作『レールの向こう』に登場した妻を亡くした後の、今の心情が語られる。首里士族の娘であった妻と結婚を決めた頃に彼女が言った「わたし、一所懸命やるわ」というひと言。そのいじらしい言葉のままの人生を生きた妻が、晩年の脳梗塞や認知症によって記憶を失っていく過程は切ない。そんな中で、若い頃に見た久留米の雪の記憶を、彼女はしばしば口にするのである。60年近くを隔ててなお繋がる鮮烈な雪の記憶が、作品を際立たせている。

 亡き妻に〈あなた〉と語りかける文章は、淡々と綴られる。にもかかわらず、老いた身に蘇る悔いは生々しい。旅行のお土産のこと、水芭蕉を見せられなかったこと等々…。共用の痒み止めクリームは、丸椅子の上が指定の場所だった。しかし妻はたびたび鏡台に置き忘れて、夫は探し回った。今、それがずっと丸椅子の上から動くことはない。老いて残されたという現実。夫の語りで、一女性の生き方がページに鮮明な像を結ぶ作品である。

 遠い昔、兄とドライブして道に迷いガソリン切れになって、一夜を明かした。翌朝車を出て波の音を辿ると、眼前に海がきらめく。人を見つけて聞けば、ここはヘノコだと言う。二人は、その名を知らなかった。「辺野古遠望」は、その記憶から現在へと至る。今、その兄の息子があるいきさつで防衛省施設の工事を請け負い、著者も含めて反対住民も役所の係も機動隊員も、ウチナーンチュ(沖縄人)同士が複雑な立場の中で生きる。沖縄の歴史を見通した上での著者の怒りや絶望は、まさに沖縄の現在を生きる作家のものである。

       2018・10・6掲載

戦争がさえぎる12の人生                         乙川優三郎『ある日 失わずにすむもの』

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アメリカ、ヨーロッパ、アジア、そして日本、地球上のさまざまな街の片隅で生きる人々。その毎日の暮らしと、窓から見える景色に見合ったささやかな夢。本書に収められた12編のどれからも、確かな生の営みが伝わってくる。恋人や友人や家族とともに紡いでいくドラマに惹きこまれ、人生のページが続いていくことを疑わないだろう。が、戦争が始まる。

私達の耳慣れた、ステルス戦闘機や迎撃ミサイルが飛び交う戦争だ。そして12の物語のすべてが、行く手をさえぎられてしまう。もし戦争さえなければ続いていくはずだった明日である。読者は、ドラマの続きを失ったことに気づく。失われたページに、何を想像すればいいだろう。

アメリカのルークは、仕事のために小さな町に越してきた。これまで人と距離を置いてきた彼だが、野良猫を飼い、素朴な町と友人たちに少しずつ心を開いていく。そんなある日、戦争が始まり兵役の通知が来た。彼は〈猫のことを案じながら人を殺しにゆく〉のである。フィリピンの貧しい家に生まれたマルコは、娼婦をさせられているまだ少女の妹を守るために志願する。成功者の移民の2世ナタリーは、母国中国とのアイデンティティに悩んでいたが、属す国と属す民族との戦いを前にして過酷な決断をせねばならない。

本書に戦争の経緯はない。主人公たちとは無縁の、強欲で愚かな権力者が始めたものとして書かれているだけだ。そして戦争さえなければ失われなかった日常を濃やかに描く。しかし、本当に彼らとは無縁だったのだろうか。そう、しだいに物語に並走するものに気づくのである。戦火を遠くのものとして、何かを見過ごしてきたのではないか。それもまた日常だったのではと。ならば、失われたページに想像するべきは、消えた明日ではなく、この静かな問いかけであり、そしてさらには、私達が今見過ごしているものなのかもしれない。

        2018.9.8掲載


ギャラリー
  • 圧倒的なスケール 深緑野分『ベルリンは晴れているか』
  • ひたひたと迫る沖縄への思い 大城立裕『あなた』
  • 戦争がさえぎる12の人生                         乙川優三郎『ある日 失わずにすむもの』
  • 松原新一の真実 上原隆『こころ傷んでたえがたき日に』
  • 予感させるつながり  朝吹真理子『TIMELESS』
  • 少女と文豪  出久根達郎『漱石センセと私』
  • 希望は時代を隔ててつながる 佐川光晴『日の出』
  • 親密な死  木皿泉『さざなみのよる』
  • 父と半島のヒストリー 深沢潮『海を抱いて月に眠る』