書評

2007年07月12日

アンドレ・ブルトンを登場させ、フランス語で書かれた詩をテーマに、日本語で小説を書くというのは、相当勇気のある行動です。少なくとも、日仏双方の語学に堪能であることが必須条件であり、それが読者にも感じられる必要がある、と思うのですが…。

読者を時空の彼方に飛ばしてしまう力を持った詩と、それに魅せられた人間たちを、権力者たちが、文字通り「狩立てる」というのが、この作品の粗筋です。焚書という行為は、秦の始皇帝で有名ですが、禁書という行為は、同じ中国の戦国時代から既にありました。近代になっても、マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』が、各国で長い間禁書の扱いを受けたのは知られていますし、第二次大戦後にいたるまで、カトリック教会には禁書というものがあって、サルトルの著作なども名を連ねていたものです。したがって、特定の本を「狩立てる」のは、為政者がよく考えつくことのようで、人類の歴史では珍しくないことなのですが、この本の元ネタは、やはりブラッドベリーの『華氏451』でしょう。作中に、冒頭だけですが、いわゆる「人間本」が登場してくることからも明らかですが、広く解釈すると、書物を読む(映画や演劇もそうですが)という行為は、つかの間の「異界」にひたる行為でもあるので、一篇の詩にそういう「トリップ」を代表させているのかもしれません。しかし、なぜフランス語の詩なのでしょうか。

そもそも、詩というものは翻訳するのはほぼ不可能だろう、という思いが、個人的には強くあります。詩の意味は訳せても、オリジナル言語の音の響きやニュアンスまでをも伝えることは、相当難しいと思います。まして、日本語とフランス語のように、全く異なる言語ですと、どちらからどちらへ訳すにしろ、普通のバイリンガル以上に特別な資質と教養のある人間の手にかからないと、読むに耐えないものができる可能性が高いのです。当たり前ですが、日本語は日本語として、フランス語はフランス語として理解するのがベストです。

翻って、この作品ですが、最大の不満は、そういう翻訳の困難さなど全く存在しないかのように、ストーリーが展開されることです。フランス語で書かれた詩を、日本語に訳しても、単純に同じ魔力を保てる、という展開自体が、極めて安易なように私には思われます。

次の不満は、オリジナルの詩、つまりフランス語で書かれた部分が全く登場しないことです。日本語の翻訳のさわりだけが紹介されているのですが、『時の黄金』という詩のタイトルのフランス語が出てくるだけで、オリジナルの中身は一切示されされません。特に、「ドゥバド」という一種の呪文である重要なキーワードが、どのような綴りなのか提示されていないのです。これに近い音となると、私の貧弱な知識で思いつくのは、deux bateaux 「ドゥバト」(2隻の船)ぐらいですが、推理小説でないにしろ、謎解きの要素で引っ張るSFである以上、これは本来重要な要素たりうることなので、これでは極めてアンフェアではないでしょうか。あるいは、単に音の響きだけで選んだのでしょうか。フランス語の発音を、日本語のカタカナで正確に表現することなど、絶対に不可能なのではないでしょうか。

また、詩の作者の名前、フー・メイWho May ですが、日本語の「不明」に引っ掛けた駄洒落にすぎない気もするのですが、この音自体は、hとfの差はあるものの、フランス語のフー・メ Fou Mais 「狂っている、しかし」を連想させ、それなりに面白いとはいえ、この英語の音が、フランス語の何を連想させるのかの言及が全くないのは、なぜでしょうか。もし、作者が全く気付いていないとしたら、大変失礼ながら、語学知識的にそもそもこういうテーマを扱うのはいかがなものか、と思わざるをえませんし、もし気付いていたとしたら、なぜ読者に提示しないのか、と思います。

要するに、フランス語の詩という中心モチーフがあるにもかかわらず、フランス語を語ることがほとんど無いという点に、大変なフラストレーションを感じながら、ずっと読んでいました。もっとも、そのフラストレーションに後押しされたので、最後まで読めたのかもしれません。

それと、作者自身のあとがきに、「この運動(シュールレアリスム)に関わった人物の中で、筆者は、親分格とされるアンドレ・ブルトンの尊大さに、いささかの反感を覚えていた。そこで、そんなブルトンに、寒いパリのカフェで待ちぼうけを食らわせてやろうという密かな企みが、実は、前記場面に込められているのである」とありますが、ブルトンの作品を批判することは誰にも許されることとはいえ、作品を批判することと、作者を批判することは、全く別の行為だと私は理解しています。つまり、ブルトンのことを尊大と呼ぶことのできる人間は、そうはいないはずなのです。したがって、この部分には納得いかないものがあります。

以上、色々と批判してしまいましたが、この本の一読者としての私にとって最大の不幸は、ガルシア=マルケスの『族長の秋』を読んだ直後に、これを読んでしまった、ということなのかもしれません。かって、ウィリアム・フォークナーは「どんな作品に影響を受けましたか」という問いに対して、「私はどんな文章にも影響を受ける。毎日読む新聞にさえ、影響される」と答えたことがあります。もちろん内容は違うのですが、時空を超えるストーリー展開という共通点を持つ二作を立て続けに読んでしまい、その描写力の歴然たる差を否が応でも感じてしまったのが、辛い評価につながっているのかもしれません。だとすれば、その点はお許しいただきたいところです。

(hacker)

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書評/SF&ファンタジー


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2007年05月10日

男女を問わず、今の日本の若い人達は、戦争に直面する危険がある。しかし同時に、若い人達には時間がある。(中略)それだけに、無駄な時間を過ごさないで欲しい。(本文より)

このような本を語る時に重要なのは、何が事実であるのかを冷静に見られるか、若しくは、事実であることを読者が理解できるだけの材料が提示されているか、ということだと思います。

そういう点から、不満がないわけではありません。例えば、日本の自衛隊の購入する兵器が法外な値段であることが語られています。これ自体は、以前に別の書物で読んだような記憶がありますし、嘘だとは思いません。ただ、語られる金額が全て「円」であり、為替レートの想定が分かりませんし、海外での原通貨での値段は不明な上、その金額の根拠となる具体的資料についての言及がありません。また、自衛隊の使用する国産武器の信頼性のお粗末さも述べられていますが、信頼性の比較には、当然客観性のある数字的根拠が求められる訳で、その点も説明不足のように思われます。ところで、話はずれてしまいますが、本書でも軍需産業への自衛隊キャリアの天下りの多が触れられていて、昔から個人的に疑問に思うのは、こういう天下りを、なぜ実名を出して公表しないのだろう、ということです。会社生活というのは、公のものであって、人事発令が発令された場合、それは個人情報ではないはずです。この点、現在検討中の天下りの方々のための人材バンクは考えてほしいものです。

ただし、明らかに事実を語っていると思われることも、当然あって、靖国問題を語るくだりでの、「戦死、すなわち国のために命を投げ出したならば、神として靖国神社に祀られる、という思想は、天皇は現人神であり、大日本帝国こそは神国である、という思想と不可分のものではなかったのか。そうであれば、昭和天皇が人間宣言をした段階で、戦死者に対して国がどのように報いるか、という問題も、戦時中の国家神道とは切り離されなければならなかったはずである。『皇軍』の兵士らは、人間天皇のために、いわんや『日本国民統合の象徴』たる天皇のために死地に赴いたわけではないのだから。(中略)人間天皇・象徴天皇制を国是として認めるのであれば、日本国政府が靖国神社と公式な関わりを持つべき、とする論拠は、すべて失われるのである」などは、それに該当します。その根拠の一例として、三島由紀夫の『英霊の声』の中で、2・26事件の青年将校や特攻隊員として、国のために命を捧げた英霊が、霊媒師を通じて、語る言葉を引用しているのも印象的です。

「陛下がただ人間と仰せ出されしとき
神のために死したる霊は名を剥奪せられ
祭らるべき社もなく
今もなほうつろなる胸より血潮を流し
神界にありながら安らひはあらず」
「日本の敗れたるはよし
(中略)
されど、ただ一つ、ただ一つ、
いかなる強制、いかなる弾圧、
いかなる死の脅迫ありとても、陛下は人間なりと仰せらるべからざりし。」

ところで、1946年1月1日に公表された、昭和天皇のいわゆる人間宣言は、正式には「新日本建設に関する詔書」と呼ばれ、かなり長文なのですが、最も肝要な部分は次の箇所になります。

「朕は汝(なんじ)ら国民とともにあり。常に利害を同じうし、休戚を分かたんと欲す。朕と汝ら国民との紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ、単なる神話と伝説によりて生ぜるものにあらず。天皇をもって現御神(あきつかみ)とし、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族として、ひいて世界を支配すべき使命を有すとの架空なる観念に基づくものにもあらず。」

実は、この文章をもってしても、「自分は人間になった」と述べていないのだから、この文章は人間宣言ではないと主張するむきもあるのですが、どう考えても、それは無理な論法で、生粋のナショナリストであり、教養人であった三島由紀夫の理解の方が正しいのです。作者が正しく指摘しているのですが、靖国問題に対して、海外が敏感なのは、これを突き詰めていくと、日本が「人間天皇・象徴天皇制を国是として認め」なくなるのを危惧しているのも一因だろう、と思います。

あと、詳細は省きますが、漫画という媒体の持つ危険性、「活字で描くと、バカバカしい、としか言えないような設定だが、これが、コマ割りをした絵、すなわち漫画で描かれると、結構面白く読めてしまったりする」点を指摘しているのには同感しました。政治的プロパガンダの武器と言うと、映画がかってそうであったのですが、現在では漫画の方が、ある意味で、恐ろしい武器になるようです。誤解しないように言っておきますが、私は漫画そのものを否定しているわけではありませんし、どのような形であれ、外部から表現に制限を押し付けることには反対です。傑作『戦艦ポチョムキン』を撮ったエイゼンシュテイン監督が、ナチスのゲッベルスの「我々は、我々の『戦艦ポチョムキン』を作らなければならない」という発言に激怒した、というエピソードがありますが、基本的には、それと同じ立場です。

長い間社会人生活をやっていると、だんだん分かってくるのですが、「見ようとしなければ、見えない」、「聞こうとしなければ、聞こえない」というのは、実生活の悲しい真実です。そういう人は、信じられないぐらい多くいます。漫画の持つ分かりやすさみたいなものは、実は、現実をある視点でデフォルメした姿だということを、理解しながら読んでいるのならば良いのですが、それが全てと思うと、罠にはまる場合もある、という点は知っておいてもらいたいものです。

ところで、この書物に関しては、語りだすと、ほとんど際限なく文章が出てきます。それを、すべてここに書くわけにはいかないので、ほんの一部分についてのみ、自分の意見を述べてみました。ただ、色々な意見を知る意味からも、特に若い方には、読んでもらいたい本です。もしかしたら、この書物で「フィクション」として描かれている日本の未来像で、一番苦しむのは若者たちなのですから...。

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反戦軍事学
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書評/社会・政治


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2007年05月01日

正義と罪と罰...が主題だったはずなのですが...

作者の意図としては、一人の15歳の少年が養父にレイプされ続けている少女を救うために犯した、止むに止まれぬ殺人をめぐって、アメリカと日本の法律の差から、正義が何なのか、法は万能なのか、ということを問いたかったのかもしれません。作中にも述べられていますが、アメリカですと、このケースで第一級殺人にて有罪ならば、終身刑務所(減刑が可能な日本の終身刑と違い、正に死ぬまで出所できません)の人生が決定され、無罪ならば、そのまま普通人の生活に戻れます。その決定を行うのは、原則無作為に選ばれた12人の陪審員たちです。日本の場合は、もちろん裁判官が有罪無罪を決定しますが、基本的には少年法が適用されるので、終身刑務所のような重い刑が科せられるはずもありませんし、刑の内容については、裁判官にかなりの裁量が許されているように思えます。陪審員の一人である、アメリカ男性と結婚した日本女性は、この日米の差を知っているが故に悩むのです。

私も色々な文化に触れるチャンスに恵まれながら、ここまで生きてきましたが、異文化と接する場合、重要なことは、異文化では認められていることがどんなにおかしく思えても、それなりの理由がある、ということを知っておくことです。アメリカの陪審員制度は、個人的には、司法部門の責任逃れ、つまり裁判官が自ら判断を下すことを回避しているのではないか、とも思えるのですが、成文化した法律が世間の実体からかけ離れた場合、そこから離れた自由な発想で、判決を下せる、というメリットもあるのでしょうし、映画『評決』で描かれたように、裁判官に決定権を持たせると、裁判官によっては、偏見を持った判断をする可能性もあるので、それの排除という目的もあるのでしょう。もう一つ、この制度で特徴的なのは、判決は12人全員一致でなければならない、という点です。この辺の事情は、映画『十二人の怒れる男』を観るとよく分かりますが、無作為に選ばれた12人の人間が同一意見を持つなどということは、実生活においては、議論の余地がないくらい明白な事実に対してでないと起こりえません。むしろ、意見が割れて、当然ではないでしょうか。そして、本書の事件もそうなのですが、そういう場合は、誰かが陪審員の間でキャスティング・ボードを握ると、その人間の意図する方向に流れる可能性が高いのだと思います。『十二人の怒れる男』の場合は、一人だけ無罪を主張して、残りの人間を一人一人ロジカルに説得していく様子が克明に描かれるのですが、そこまで自己主張できる人間は、やはり少ないでしょう。人間だれしも、自己の利害若しくは責任に係わってくることに対しては、なかなか主張を曲げませんが、直接関係のないと思える事柄に関しては、簡単に「妥協」したりするのは珍しくありません。裁判というものは事実を争うものである、という大原則がある以上、それで良いのか、と読みながら考えてしまいましたが、結局読者にそう思わせてしまうことが、本書の最大の弱点ではないでしょうか。

要するに、アメリカの陪審員制度と法制度の批判が目的でこの本が書かれているように、読めるのです。そういう意味からは、本書が日本語で書かれ、日本で出版されていることにも、どこか違和感があります。アメリカの制度の是非を問いたいのなら、やはり米語で書いて、アメリカで発表すべきではなかったのでしょうか。欧米社会で最も大切な「フェア」という概念からも、その方が良かったのだろうと思います。もっとも、冒頭で述べたように、それが作者の意図だったとは思わないのですが、作品は完成と同時に作者の手から離れる訳で、私がそう感じるのは仕方のないことです。力作ではありますが、そういう点に不満が残りました。

(hacker)

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陪審法廷
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書評/ミステリ・サスペンス


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2007年03月18日

折原節は健在なれど...

結局のところ、良質な謎解きミステリーというのは、いかに上手く騙してくれるか、いかに伏線の張り方が上手いか、ということに尽きるわけで、知的ゲームとして、どれだけ楽しませてくれるか、というのが最大の評価ポイントになるのでしょう。本書は、その点から見ると、やや物足らない、というのが正直な感想です。

三人称と一人称を使いわけたり、ジャック・リヴェット監督の諸作のように「繰り返し」が好きな折原節は、本書でも健在で、それはそれで楽しめるのですが、逆にこの作者に慣れ親しんだ読者にとっては、そこに注意を払わなければいけないのが分かっているので、その部分を読む時は、騙されまい、と自然と身構えてしまうのです。本書で初めて、この作者を読む方だと印象が違うかもしれませんが、つまり、個人的には伏線の張り方にデジャヴュ感が付きまとい、トリックその物や「犯人」の正体も含めて、袋とじになっているラストも、あまり驚きをもって読むことができませんでした。ことに、言葉の解釈の違いによる誤解、というのならともかく、「掘った芋いじるな」と同レベルのことが、トリックに使われているのは、いささか感心しません。このようなことをしなくても、主要登場人物の一人の描写で、暗示としては十分事足りていると思います。

要するに、知的ゲームとしては、不満が残ってしまいました。YA向けだというのは、あまり情状酌量にならないと思います。『Xの悲劇』や『Yの悲劇』などは、中学生が読んでも、面白いのです。残念ながら、先日読んだ『乱鴉の島』の有栖川有栖もそうですが、折原一も初期の作品の方をお勧めします。

(hacker)

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タイムカプセル
  • 著:折原一
  • 出版社:理論社
  • 定価:1470円
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2007年03月12日

「善なる人々の執着の果てにあるものは…」

「こだわり」というのが本書のキーワードでしょう。主要登場人物は皆、強烈なこだわりを持っています。

80歳の老人レオは、ポーランド出身のユダヤ人。若き日に愛した女性アルマを一途に思い続けた記憶にすがって生きる老人です。思いの全てを言葉にせずにはいられなかった彼は、アルマだけのために、イディッシュ語で「愛の歴史」という名の原稿を書いたことがあります。

戦乱により、アルマはひとりアメリカに渡ってレオの息子アイザックを産みます。音信不通だったレオがようやく渡米した時には既婚の身でした。レオに対する愛情は息子へと転化され、レオの夢〜作家として生きること〜を息子によって実現させることに捧げられます。

14歳の少女アルマは、父親がリトヴィノフ著(レオではない!)のスペイン語版「愛の歴史」を母親に贈ったことでこの世に生まれ、「愛の歴史」に登場する少女にちなんで名付けられました。今は亡き父への愛着の歪みから、母の再婚相手探しに熱中し、たまたま「愛の歴史」の英訳を依頼してきた人物(正体はいかに?)を標的と定めます。

夫の亡き後は、翻訳という生活の手段が目的と入れ替わってしまったアルマの母。「勉強ばかりして世間知らずなのだろう」と大目にみられることで社会に適応してきた彼女は、ますます仕事に没頭し、もはや新たな人間関係を結ぶことから撤退してしまったかのようです。

レオと同じくポーランド出身のリトヴィノフは、スペインで「愛の歴史」を出版します。社交性に乏しく引きこもりがちな彼が、なぜかくも大胆な行為に及んだのか? そこにも、ある人物に対する憧れと嫉妬と責任感が複雑に入り混じった強烈な執着が支配的な影を落としています。

早くから社会に溶け込めず、妄想の世界に生きるアルマの弟バード。聖書の記述を真に受けて、あるものを作ることに熱中します。母親が気付けないのですから精神科で診断される見込みは低そうです。障害が重いぶん、もっとも純粋で「天使の心」を持つ彼は、現実の世界に居場所を見つけることが出来るのでしょうか。

特徴的な言い回し、数々の自分だけのルール、慣用句の言葉の意味に囚われる様、モノの名前を知りたがる傾向、少ない情報ですぐに断定する思考パターン…私は精神科医ではありませんので、もしかすると的外れかもしれませんが、強烈な個性を放つ主要登場人物たちは、発達障害としか思えませんでした。

生まれつきの脳機能障害により、コミュニケーション能力や社会性などが欠如する彼らは、強烈なこだわりを持つことが特徴です。ASはヒトに、ADHDはモノに執着するのが鑑別点になります。

特に健常者とは「話が通じない」のに他人との深い関わりを求めるASは、対人関係に大失敗して引きこもったり、嫌われているのに近づこうとしてストーカーとみなされたり、現実から逃避して妄想の世界で恋人や友人を作ったり…という二次障害を合併することがあります(レオに○○○○が現れたのは、おそらくアルマの死後でしょう)。

発達障害は、遺伝的素因と出生時のストレスが重なって生じます。レオを父として、難産で生まれたアイザックがASらしい人物というのは典型的です。レオゆずりの言葉に対する執着が文才として花開き、個性的作家として名を成しています。こだわりをうまく才能として伸ばせれば、非常な成果を産むことができるのです。

本人が無自覚で周囲の理解も無いと派手な事件を起こすことがありますので、犯罪者予備軍と誤解されることがありますが、彼らはむしろ純真です。暗黙のルールや社会常識が自然と身に付かず、自分の不安を他人への不満として発散するため、トラブルメーカーやクレイマーと見なされていることが多いですが、それが極端な場合だけ犯罪に結びつくのです。

レオや、アルマや、リトヴィノフや、バードは、みな一所懸命に生きています。彼らなりの理解の仕方で他人の意図を推測し、ときに過剰に気を回して他人の反応を先取りしようと必死です。「レオ・グルスキ、彼は理解しようとした」という一文は象徴的でしょう(そして理解できなかった!)。

物語の後半は、読者にとって真実と思われていたことが次々と覆り、発達障害らしい他人の意図の誤解が偶然にも良い方に転んで、クライマックスに収束していきます。もうページをめくる手が止まらない!状態です。ミステリとしては、残念ながら大きなミスをひとつ犯しているのですが、そんなことは気にならないほどです。

そして、彼らの一途な思いは、世界を巡り巡ってひとつに繋がります。みな愛に包まれて死んでいくのだろうな、という余韻に包まれます。アルマは息子アイザックの成功を実現させて。リトヴィノフは妻に体面を保ちつつ「愛の歴史」にある改変を施すことで良心の咎を逃れて。そしてレオは、適わぬと思っていた愛が新たなる「いのち」となって現れるという奇跡を目の当たりにして…。

人間関係をうまく結べない彼らにとって、愛を成就させて人生を終えるという結末は、甘く切ない願いです。しかし、無論のこと、我々にとっても、コミュニケーション能力があるはずなのに(!)、実現すれば幸運といえるでしょう。だからこそ、誰が読んでも胸を打つ物語となっています。

しかし、彼らの障害を知っていると、一層こみ上げるものがあると思います。一読すると、「自作が読者の人生を変える、という作家なら誰でも夢みるお語」という甘い小説のようですが、そうではないのです。レオの作品を理解したのは、結局のところ、同じ発達障害者でしかなかった…という厳しい現実も、しっかりと描かれているからです。

本作は2作目という、まだ若い女流作家だそうですが、次回作も注目したいです。ニューヨーク出身の彼女には、ファンタジー系でこそ、その能力を如何なく発揮できるのでは…という勝手な期待も込めて、西海岸に居を構え「西の善き魔女」と呼ばれるル・グインに対して「東の善き魔女」の名を進呈させていただきたいと思います。


他の著作も読みたい度 ★★★★★
古書店には売らない度 ★★★★★
これは使える!度   ★★★★☆
心が揺さぶられます度 ★★★★★

(シルフレイ)

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ヒストリー・オブ・ラヴ
  • 著:ニコール・クラウス
  • 出版社:新潮社
  • 定価:2310円
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推理小説マニアのための、有名トリックへのオマージュに満ちた連作短編集

謎解きミステリーの書評というのは、素晴らしければ素晴らしいほど、その内容がトリック=ネタとリンクしている関係で、書いていても、フラストレーションがたまることが多いのですが、この五つの小説からなる連作短編集は殊更イライラがつのるようです。何故かというと、ラストの作品(もしかしたら、これもそうなのかもしれません。残念ながら知識不足で判断を誤っているかもしれません)を除いて、各短編が推理小説の著名なトリック若しくは犯人像へのオマージュだからです。普通、オマージュという話題になると、「あの作品のどこそこは、あの小説へのオマージュだよね」、と友人同士の会話では盛り上がるものなのですが、こういうレビューですと、「あの小説」の名前を出しただけで、マニアの間ではネタバレになってしまいます。これから、簡単に個々の短編の内容に触れますが、元ネタを出さないように書くのは、大変なフラストレーションなのですよね。

『ミハスの落日』
謎解きミステリーの確立された一ジャンルである密室殺人を扱っています。密室殺人の分類というのは、色々な作家がやっていますが、ここでのトリックは「被害者が自ら密室を作り上げる」パターンに該当します。もっとも、かなり独創的なアイデア(これも書けないのヶ辛い)がそこに盛り込まれていて、トリックとしての新鮮味は損なわれていません。ただし、小栗虫太郎並みに実現性の薄い、このトリックは、やはり無理でしょう。意気込みは買いますが、総体とすると平均点以下の出来栄えだと思います。

『ストックホルムの埋み火』
某作家が考案したトリック(書かれた言語の文法を考えると、これで長編を書くとは途方もない作品です、これだけで、何のことか分かる人は分かってしまうかもしれませんが)の変形が使われています。詳しく書けませんが、見事なアレンジだと思います。あと、ラスト一行で明らかになる、刑事の「正体」にびっくり!なぜ、この物語がストックホルムなのかも、最後の一行で説明されます。素晴らしいです。

『サンフランシスコの深い闇』
某御大の代表作と同じ犯人像が描かれます。犯人の判明と同時に、全体を通しての、ユーモラスな語り口が一瞬にして暗転する語り口も見事ですし、それが最後の一行で、精一杯明るくしようとする作者の「気遣い」にも好感がもてる作品です。

『ジャカルタの黎明』
別の某御大の代表作のトリックが使われています。スタイルとして、決して謎解き風ではないのですが、これはやられました。このトリックで驚かせられたのは久しぶりです。その背景には、読者の安易な予想を外す、スーリー・テリングの妙があり、だからこそ、うっちゃりが見事なのです。

『カイロの残照』
人の手助けをするつもりが…という物語です。ある意味で平凡な内容ではあるのですが、結末に至るまでの伏線の張り方はうまいです。

あと、この短編集総体として、やはり触れておかなければいけないのは、作者の語り口の巧みさでしょう。各々の短編が、全く違う雰囲気で語られているのです。『ミハスの落日』は一種の青春小説として、『ストックホルムの埋み火』は典型的な刑事物として、『サンフランシスコの深い闇』はユーモア・ハードボイルドとして、『ジャカルタの黎明』は心理劇として、『カイロの残照』はサスペンス物として、物語が展開されています。よほどのテクニシャンでないと、こういう真似はできません。これだけでも、一読の価値がある一冊だと思います。

(hacker)

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ミハスの落日
  • 著:貫井徳郎
  • 出版社:新潮社
  • 定価:1470円
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2007年02月27日

人間はミスを犯す、利便性(=功利性)とセキュリティは相容れない、という単純な事実に、いかに多くの人間が気付いていないことでしょう。

私事で恐縮ですが、私は通算20年IT産業の片隅で生きてきました。その間、自分も含めて、何人もの人間が、実に単純なミスを犯すのを見てきましたし、何故こんな風になることが予見できなかったのか、或いは、何故誰も止めなかったのか、と思うようなことも多々経験してきました。

ロンドンで仕事をしたこともあるのですが、その時印象的だった出来事の一つに、某社を訪れた時、「(努力の結果)わが社では(指示書の)エラー率が5%まで落ちた」と先方が誇らしげに語っていたことでした。当初、「何だ、5%ということは、100件処理したら、5件間違えることか」と馬鹿にしていましたが、そのうち、英語には’within the range of human error’という表現があって、要するに「人間の犯すミスの範囲」ということなのですが、「人間はミスを犯す」という大前提となる考え方が背後にあることが分かってきました。ですから、前述した会社の人間も、「人間の犯すミスはゼロにはならない」という単純な事実を理解し、5%程度は仕方がないと判断していたのです。そして、この前提があると、ミスを犯した時に、どうやってその対応を行うのか、が次の策として自然に出てくる思考パターンになります。現在の日本の制度に広く欠けていると思われるのは、この思考パターンではないでしょうか。

本書は1999年9月30日に起こった、東海村臨界事故の犠牲者となった大内久さんの83日間の闘病と治療の記録です。優れた記録がすべからくそうであるように、書全体が、事実を、その時々に大内久さんの治療にあたっていた医師や看護婦の感情も含めて、事実だけを伝えようという姿勢で貫かれています。そうして、読者は、被曝がどういう結果を人体にもたらすのか、被曝者は死に至る前にどのような苦しみを受けるのかを、事実として受け止めざるをえません。詳細はあえて触れませんが、それが想像を絶するような苦しみであること、なおかつ、最新の医学と技術力をもっても、治療のしようのない病であることは、全ての読者が理解できます。この事実の前に、我々は慄然としますが、更に広島や長崎で被爆した多くの犠牲者の一人一人が、そして、詳しくは報道されていませんが、チェルノブイリ事故の犠牲者の一人一人が、大内さんのような苦しみを受けた後に死を迎えたことを思う時、怒りにも似た激しい感情が湧きあがってきます。その感情は、止めようもない涙となって、私の頬をつたいました。

「原子力防災の施設のなかで、人命軽視がはなはだしい。現場の人間として、いらだちを感じている。責任ある立場の方々の猛省を促したい」(本文より)これは、寝食を忘れて、治療にあたった前川東大教授の大内さんの死を発表した記者会見での言葉です。大内さんのご家族に直接病状とのその変化(悪化)を伝え、最後まであきらめなかった、否あきらめきれなかったご家族の思いに直接接してきた立場の方として、実は相当抑えた言葉だったのではなかったのではないか、と想像しています。この事故が、いかにずさんな管理と運用の結果であったものかは、本書を読むまでもなく、当時の記憶を呼び覚ますだけで十分なのですが、更に驚くのは、大内さんを始めとする作業員の方々が臨界事故の可能性について知らされていなかいまま、作業をしていたという事実です。可能性を知っていれば、或いは、気付いていれば、誰でもそれなりの対応を取るでしょうし、こういう事故は起こらなかったと思います。万一起こったとしても、死者は出さずにすんだのではないでしょうか。「馬鹿野郎!お前ら、人の命を何だと思ってるんだ!なんで、こんなになるまで、手を打たなかったんだ!」前川教授は、本当はこう言いたかったのではないでしょうか。

「人間はミスを犯す」、「利便性=功利性とセキュリティは相容れない」、という単純な事実に、いかに多くの人間が気付いていないことでしょう。悲しいことです。

(hacker)

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  • 編集:NHK「東海村臨界事故」取材班
  • 出版社:新潮社
  • 定価:460円(税込み)
朽ちていった命―被曝治療83日間の記録
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2007年02月20日

「間違えたら、またやればいいだけのごとだべさ。大切なごとは“わかる”というごとなんだ。してな、それよりがもっと大切なごとは“考える”ってごとなんだ(本文より)」

この小説から連想するのは、当然アーサー・ペン監督の『奇跡の人』で描かれた、サリバン先生とヘレン・ケラー(赤ん坊の頃に、熱病の影響で、盲目で聾唖となった女性)の実話です。この映画の原題は「The Miracle Worker」で、「奇跡を起こす人」という意味からもお分かりのように、実はサリバン先生の物語です。彼女は自分自身も極端な弱視という障害を持っていたのですが、触感しかコミュニケーション手段を持たないヘレン・ケラーに、手話を通して、事物にはそれを指す言葉があり、言葉にはそれぞれの意味があることを伝えようとして、教え子と文字通り格闘する物語です。映画のラストで、ヘレン・ケラーはwaterが水を指すということ、万物には名前があることを理解し、いわば動物から人間へと蘇生するのですが、それは同時に、サリバン先生にとっても、自分でも誰かを救えたという事実による、自分が世の中に存在する意義の証でもあったわけです。実は、あまり一般的には認知されていないような印象があるのですが、これが教育という行為の本質なので、教育は教えられる者のためだけにあるのではなく、教える者のためにも存在するのです。この両者が「救われる」ことを目的に行うのが教育なのです。

北海道を舞台にした、この小説も作者自身の実話を元にしていますし、主人公西川司、通称かっちゃんと森田先生の関係は、『奇跡の人』のそれとよく似ています。主人公はひらがなも数字も満足に理解できず、知的障害児を集めた、ひまわり学級(昔は珍しい存在ではありませんでした)に小学校2年生から編入されます。しかし、5年生の時、転校がきっかけで、ペルーの小学校で教鞭を取っていて、日本に帰ってきたばかりの森田先生に出会います。森田先生はかっちゃんの視点で、かっちゃんの話を聞き、「なぜ、漢字とひらがなとカタカナが存在するのか」といったような、誰も教えてくれなかった疑問に答え、誰も教えてくれなかった跳び箱の跳び方や逆上がりのやり方を、分かりやすく教えてくれます。5年編入前の春休みの2週間、森田先生の特訓を受けたかっちゃんは、それまでぼんやりとしていた意識が、一枚一枚薄皮がはがれるようにはっきりしてきて、「普通の」子供へと生まれ変わるのです。当然ですが、かっちゃんは先生にいたく感謝します。ある時、「おれ、先生の生徒になれで、ほんとによがったと思ってる」と言うと、その先生から「なんもだ。先生のほうごそ、にしかわの担任になってほんとによがったと思ってる。ペルーから帰ってきて、まだ日本の小学校の先生やっていぐ自信づけてくれだの、おめだからな」と言われ、びっくりするのです。

実質的な物語はこれが全てと言っても良いでしょう。かっちゃんのライバルとの友情、淡い初恋、感動的な卒業式も語られるのですが、この物語が語るべき内容からすれば、むしろ蛇足かもしれません。と言うか、この物語が伝えたかったのは、結局のところ、前述した教育という行為の本質と、森田先生の次の言葉に集約されています。

「間違えたら、またやればいいだけのごとだべさ。大切なごとは“わかる”というごとなんだ。してな、それよりがもっと大切なごとは“考える”ってごとなんだ」

こういう先生に出会えたかっちゃんは、幸せです。実際に社会に出てみると分かるのですが、いかに「考えない」人間の多いことか。「なぜ、こういう風にするのか」という質問に対して、「そういう風にしろ、と言われたので」とか「昔から、こうしています」と答える人間が、いかに多いことか。更に残念なのは、そういう受け答えをすることに、何ら疑念を感じていない人間が多いということです。

「少年よ、大志を抱け」よりも、「大人よ、考えよ」の方が、今の日本にはふさわしそうです。

(hacker)

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  • 著:西川 つかさ
  • 出版社:講談社
  • 定価:1365円(税込み)
ひまわりのかっちゃん
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2007年02月11日

短編の名手が情け容赦なく描く、終着駅手前の人生

松本清張という作家は、短編の名手という印象が強いのですが、この短編集で本質的には、凄い筆力の作家であることを再認識しました。7編の短編は、いずれも、人間の老いの醜さ、愚かさを情け容赦なく描いているのですが、その描写が凄いのです。

「安之助は歯が無く、ゆっくりと動かす口もとには内に入っている飯粒までがまる見えだった。それに洟が出るから絶えずふところから手拭を出してふいていなければならない。痰が詰まれば咽喉を鳴らす。咳といっしょに口の中の飯とおかずが食卓の上に飛ぶ。そんなことで子供が同席を嫌い出したのだが、息子の秀人もいっしょに食事するときは眉間に縦皺をよせて不快感を示した。」(『筆写』より)

これは、ほんの一例ですが、こういう日本語の文章で書かれた小説を読むのは久しぶりのような気がします。目指しているものが違うので、どちらが良いとか悪いとかはないのですが、『長崎くんの指』などと比較すると、その差は歴然としています。

ところで、小説でも映画でも演劇でも、物語のある芸術というのは、同じ人間であっても、接する時の年齢によって、受け止め方がかなり違うものです。個人的な体験を語ると、小津安二郎の『東京物語』を中学生で最初に観た時には、どこが面白いのだろう、と思ったものでした。もちろん、今では世界的な傑作だと思っていますが、あの作品を中学生で理解する、というのがそもそも無理なのでしょう。反対に、若い頃に初めて観たり、読んだりして、良かったと思える作品もあって、これも個人的な話ですが、映画ですと『冒険者たち』や『囁きのジョー』、小説ならば『キャッチャー・イン・ザ・ライ』という辺りが相当します。この分類でいくと、この短編集は前者に該当します。

私もそうですが、人生の半ばを過ぎた人間が読むと、この短編集に登場する人物たちは痛いほどリアルです。会社の名前と自分の力を混同している人間、会社での地位=自分の価値と思い込んでいる人間、自分には何の責任もないのに資本の理論でバッサリと切り捨てられる人間、定年まで務めること以外に目的意識がなく働き続けるサラリーマン等々、そういう人間を数え切れないぐらい知った後で、この短編集を読むのと、そうでないのとでは、受け止め方が違うのは当然でしょう。書く側にしても同じで、この短編集の中で、最初に発表された作品は『背広姿の変死者』(1956年)ですが、作者が47歳の時で、このぐらいの年齢にならないと、こういう作品群は残せないのだろうと思います。そして、そういう登場人物たちを、比類のないような筆力で描いた短編を集めたのが、本書なのです。

定年後も会社にいた時の地位に固執するしかない老人を語る『いきものの殻』、家族の誰からも愛されていない老人が愚かにも夢想する、醜い女中との恋を扱った『筆写』、美しいはずだった恋が生きながらえたばかりに暗転する『遺墨』、生命に執着するあまり悲劇を迎える町工場主の物語『延命の負債』、地方小新聞の広告部長の卑屈さと辛さがこたえる『空白の意匠』、自分の将来に絶望した中年男の自殺前の独白『背広姿の変死者』、定年後全く別の人生を歩もうとした男を描く、この短編集唯一のミステリーである『駅路』、いずれも素晴らしく、同時に痛々しい短編でした。

ところで、この本を読んでいて、まず頭に浮かんだ言葉は「老愚」なのですが、広辞苑で確認したところ、「老醜」はあっても、この言葉は日本語にはないのですね。不思議な気がしました。

(hacker)

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男たちの晩節
  • 著:松本清張
  • 出版社:角川書店
  • 定価:540円
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2007年02月04日

これぞ、魔術的リアリズム!

この小説が最初に翻訳された頃、ガルシア=マルケスの世界を表現するために「魔術的リアリズム」という言葉がよく使われました。それは、現実にはありえないこと、起こりそうもないことを、実にさらっと自然に書いてしまう文体とストーリー・テリングのせいであったと思います。今回久しぶりに読み返しましたが、この世界を堪能しました。素晴らしいです。今後数世紀にわたって読み継がれる、20世紀の文化遺産の一つであることは間違いありません。

物語は、マコンドという村の誕生から消滅までと、そこでのブエンディアという一族の盛衰を描いたものです。登場人物には初代から六代目まで、同じ名前が繰り返し使われます。それには当然作者の意図があるわけで、一族の話を語っていても、巨大な孤独を抱えつつ、巨大な愛を求めて生きていく、人間という一つの生き物を、六代の一族に象徴させて描いた作品と言ってよいのでしょう。このところ、『わが悲しき娼婦たちの思い出』、『コレラの時代の愛』と立て続けに読んだガルシア=マルケスなのですが、思うのは、彼の終生のテーマは愛と孤独、なかんずく孤独なのだな、ということです。その出発点が本書なのでしょう。そして、彼の凄いところは、凡庸な作家たちが、何行も費やすようなことを、必要な事項を省略せずに、実にあっさりと短く書いてしまえる点で、結果として、独特の語り口が誕生しています。短編小説で、こういうことをやって成功しているのは、何人もいますが、近代の長編小説で最後までこのパワーで押し切ってしまえるのは、他にはL.F.セリーヌぐらいしか思いつきません。実際、これほど面白い長編文学は、史上稀です。一度、この世界に巻き込まれた者は、一生抜け出られません。

ところで、登場人物の名前についてですが、ブエンディアという姓は、英語ですとGood Dayにあたり、「こんにちは」という意味です。ただし、ブエンディア一族を意味するために、これを複数形にすると、「良い時代」という意味になります。ガルシア=マルケスの他の小説でも感じるのですが、彼が「現在」に決して満足していなくて、この物語で描かれた時代に一種の憧れを持っていることが、これからでも分かります。この一族の始まりは、ホセ・アルカディオ(夫)とウルスラ(妻)ですが、まず前者のアルカディオは、キャプテン・ハーロックのアルカディア号と同じで、ギリシャ語の桃源郷、小さな村のユートピアを指します。ホセは、英語のジョゼフ、ヘブライ語のヨセフで、ヘブライ語の本来の意味は「一族の増大」ですし、聖母マリアの夫の名前でもあります。妻のウルスラは、ラテン語の「熊」を意味する言葉から来た名前ですが、「苦しむ人の母、悲しむ者の慰め手」として有名だった聖人アンジェラが、16世紀に創設した聖ウルスラ会の名称としても使われています。アンジェラという名前は、当然「天使」から来ているわけで、ブエンディア一族の始まりとして、ふさわしい名前の夫婦であったことが分ります。

個人的には、登場人物の中では女性たちの方が印象的だったのですが、中でも、あふれるような愛情を持ちながら、それを外に表わす方法や他の男にそれを与えるすべを知らないアマランタと、地上で生きる、又は地上の男たちの間で生きるためには、あまりにも純粋無垢で、美しすぎるために、昇天してしまうレメディオスが、愛情と満たされない孤独という作品のテーマを体現しているようです。この二人の名前なのですが、アマランタは永遠に枯れることのない伝説上の花のことで、amar(英語のlove)という単語が名前に含まれています。また、レメディオスは「解決」とか「治療」を意味するremedioから来た名前で、基本的には「癒し」を意味するのだと思います。こういう名前を持つ二人の女性が、男たちからの愛を受け入れられない、というのは、作品の構図からは当然のことなのです。

ついでに登場人物の名前の話をすると、作中22人に付けられるアウレリャノというのは、アウレウス(古代ローマ帝国の金貨)から来ている名前です。転じて、素晴らしい、という意味にはなるのですが、一族の途中での金銭的な繁栄を示唆する名前でもあるのです。また、アルカディオという名前の語源がギリシャ語であることにも関連して、預言者メルキアデス(これもアルキメデスを変形した名前でしょう)が書き残した、一族の未来の預言書が、「偶数行はアウグストゥス帝が私人として用いた暗号で、奇数行はスパルタの軍隊が用いた暗号で組まれていた」のも、意味のないことではないのです。

と、色々と書いてきましたが、このような小説を前にして、同じ言葉を武器にして、何かを語ろうとするなど、ある意味で不遜なのかもしれない、と絶望的に思う、というのが、実は本当のところです。昔、友人で、マルクスの『資本論』の解説書が、『資本論』より短い、というのはおかしいと言っていた者がいましたが、それに似たような感覚でしょうか。実際、今回の再読でも、いくつもの疑問点や引っかかる箇所が出てきて、まだ頭の中が整理できていない状態なのです。ただ、これだけははっきり言えます。これは、生きている間に、絶対に読んでおくべき書物です。死んでから、後悔しないようにしてください。

(hacker)

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  • 著:ガブリエル ガルシア=マルケス 訳:鼓 直
  • 出版社:新潮社
  • 定価:2940円(税込み)
百年の孤独
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