1885(明治18) 12/24 滋賀県大津市に生まれる。
   ※ 誕生日が年末なので、年齢表記は計算より-1としている。※

1901(明治34)、15歳、東京音楽学校仮入学。
          4月20日、日本女子大学校設立。

1902(明治35)、

1903(明治36)、17歳、日本女子大学第一回卒業生→櫻楓会の形成

1904(明治37)、18歳、3/29 クーラウ、ソナチナ(第三回甲種師範科生徒卒業書授与式)

1905(明治38)、19歳、

1906(明治39)、20歳、研究科へすすむ。

1907(明治40)、21歳、4/28、ピアノ伴奏でなく、オケ付きでベートーヴェン《ピアノ協奏曲No.1》 第16回音楽演奏会

1908(明治41)、22歳、研究科卒業。

1909(明治42)、23歳、春、中条(宮本)百合子にピアノを教えはじめる。
                  この年、日本女子大ピアノ科講師となる。
      同年、幸田延子、東京音楽学校を辞す。

1910(明治43)、24歳、助教授になる。

1911(明治44)、 25歳、9月、雑誌『青鞜』創刊
               12/10、ヴェーバー、ピアノ及管絃楽コンサート

1912(明治45)、26歳、小倉末子、東京音楽学校に入るも、シベリア鉄道経由でドイツのホホシューレに留学
       この年、中条(宮本)百合子、ピアノの規則的稽古をやめる。

1913(大正2)、27歳、 12/7、バハ、グーノー(ママ)、ピアノ、オルガン及絃楽 メデイテーシヨン(オルガン、助教授・中田章) 第29回音楽演奏会

1914(大正3)、28歳、8月、小倉末子、第一次大戦の戦乱を避け、ドイツを去りアメリカに行く。この夏頃、大田黒もシベリア鉄道経由でロンドンより帰国。オーストリアで半旗を見る。

1915(大正4)、29歳、1/21 自動車に轢かれ意識不明になる。 赤坂葵橋停車場附近にて
         ⇒ 『音楽界』2月号「精神的に於て既に死せるもの」(『音楽界』1915.02)
      4月、「本誌に健筆を振はれる大田黒元雄氏は此度『現代英国劇作家』と題する新着(ママ)を洛陽堂から『バッハよりシェーンベルヒ』と題する好著を松本楽器店から出された」(『音楽』「花信月書」4月号 → 『バッハよりシェーンベルヒ』は印刷の都合で7月の刊行となる。このとき大田黒22歳)
        6/17 退院(5か月入院) → 転地療養へ。 7月上旬から8月下旬・伊香保温泉(群馬)→日光湯元(栃木)。
        9月の新学期より学校に復帰。
        9/- 中条(宮本)百合子『貧しき人々の群』で文壇デビュー。
        同9月より小倉末子、シカゴの音楽校でおしえる。

1916(大正5)、30歳 、4月、中条百合子、日本女子大学英文科に入学するも1学期で辞める。
         4月23日 小倉末子、横浜港に帰国。
         5/28 ショパン《ピアノ協奏曲No.1》第31回音楽演奏会
           講師・小倉末子・リスト編バッハ《前奏曲とフーガ》(東京音楽学校一覧附録の演奏会曲目を底本としているが、大田黒元雄の日記では5/26となっている)
         11/16 皇后陛下行啓演奏会 グリーク《春の曲》、シヨッパーン(ママ)練習曲(第一部三番目)、第二部一番目、ピアノ独奏・講師小倉すゑ、サン、サーンス《狂想曲》(ママ)
         12/3 《恢復祝賀音楽会》
         ⇒大田黒の日記第二ピアノ奏者出演せず久野ひさの御礼文
         12/9 大田黒元雄《スクリアビンとデビュッシィの夕》

1917(大正6)、 31歳、 4月 小倉末子、講師から教授となる。
          8月、久野久子、助教授より教授となる。


1918(大正7)、32歳、 3/4、成瀬仁蔵(日本女子大学校創立者)没
  
         4月、大田黒元雄『続バッハよりシェーンベルヒ』出版(プロコフィエフに短くふれる)。7月、プロコフィエフ、アメリカへの途次、日本で演奏会を開く。
           12/7「ベートーヴェンの午後」(悲愴、月光、テンペスト、ワルトシュタイン、熱情)

1919(大正8)、33歳、

1920(大正9)、34歳、 2月、大田黒元雄『第二音楽日記抄』刊行。「‥それ(恢復祝賀音楽会での久野久子の演奏)はショルツ氏の来ない事などから心の平静を欠いて居たものと見えて、すべて安定を欠いて来た(ママ)。そしてそれは情熱的といふよりもヒステリックだつた。」                  

        12/04 ベートーヴェン(生誕)150年記念祭 ピアノ協奏曲No.3ハ短調Op.37 小倉末子 クローン教授指揮、出演:東京音楽学校職員生徒、交響曲第3番変ホ長調「英雄」Op.55 悲歌Op.118(絃樂附混声合唱)、上野・奏楽堂。(『月刊楽譜』1921.01)


1921(大正10)、 11/26、大田黒横浜出帆、渡欧す(『音楽界』T11.01)。

1922 (大正11)、  1月、大田黒ロンドン着
         8-9月『読売新聞』「…怪我したために急にピアノが上手くなったという理由もないであろう」(秋山龍英『日本の洋楽百年史』357ー358頁)

1923(大正12)、37歳、2/24-25 渡欧《告別演奏会》(上野・奏楽堂)、東京音楽学校学友会と日本女子大学校櫻楓会の共催。3月4日大阪、6日京都。 (告別、ハンマークラヴィーア、作品110、111)
          3/9、大田黒、ヨーロッパより帰国→ 3/19 東京會舘(丸の内)で帝劇専務・山本久三郎、山田耕筰らによる歓迎会(『音楽界』T12.04)。
         4/12 久野久子、東京駅出発 → 故郷・滋賀県大津と中国を経てドイツへ。同じころ(同春)、齋藤秀雄、近衛秀麿、そろって渡欧。齋藤はライプチヒ音楽学校入学。
         6/2 上海出港、 7/12 ドイツ着

1924(大正13)、 38歳、 3月 「久野先生よりの御便り」東京音楽学校学友会『音楽』に掲載される。夏すぎころ、ウィーンに移動。
          11/25、ザウアーの門をたたく。 ⇒(1)、 (2)、

1925(大正14)、39歳、 4/20(オーストリア時間)バーデンで自死。享年39歳。
         久野久子の死について
         4月20日の死
          -/23 パリで荼毘にふされる。      

         4月、近衛秀麿の談話(『報知新聞』4月22日) 
         5月、牛山充(東京音楽学校学友会)の追悼文
            櫻楓会『家庭週報』 (1)(2)(3)
          同月、市島光子(日本女子大学生徒)の追悼文
            櫻楓会『家庭週報』 (1)(2)(3) 追悼文ノート
             6月、鳥居維子(東京音楽学校友人)
           「学校時代の久野さん」『婦人公論』1925/T14.06

             墓碑  

         兼常清佐について (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)

      長谷川時雨の記述:浴衣を着たまま風呂に人の輪のなかでの金勘定。「お面をかぶって

 《月光》レコード収録時期の問題→http://blog.livedoor.jp/bookshell/archives/1449316.html




2011/.07, Web初出
2014/.08,09,改訂