日本ピアノ文化史(閑話-5)
リパッティと井上園子 Lipatti and Sonoko その5





 不思議なことに事典の類では、リパッティのコンクール参加年は1934年が主流なのだ。

 音楽事典といえば GROVE だ。第五版までは1933年だったのものが、次の第六版にあたるNew Groveでは1934年に変えている。

 これは ' Dent & Sons ' の影響らしい。その "The International Cyclopedia of Music and Musicans (1975)" は1934と書いているからだ。 ここでも誤記が主流となる。多勢と権威には従え。そんな流れがあるように思えてならない。 

 1933年のおなじファイナル(本選)の舞台に立ったふたりの、演奏家としてのそれからの道は悲劇だった。まったく同じ時期、ふたりは若くして舞台から去らなければならなかったのだから。

 1950(昭和25)年、リパッティ Lipatti は悪性リンパ腫で亡くなり、翌1951年、井上園子も病で演奏活動から引退した。リパッティ33歳、井上園子35歳である。 

 リパッティが死の直前、痛みをこらえてブザンソンでおこなった演奏は、あまりにも有名だ。死後それはレジェンド(伝説)となり、レコードの普及とともに広まっていった。


 他方、井上園子さんは、リパッティの亡くなったとおなじころ、病とたたかっていた。復帰演奏会を催すと通告していたが結局、引退を余儀なくされた(註)。

 そしてふたりのことは別々に語られ、重ね合わされることもなかった。

 でも、楽しいじゃないか。
 1933年のウィーンで、リパッティと井上園子さんが同じムジークフェライン大ホールの本選の舞台に立ち、air(アリア) を歌った(おなじ空気を吸った)。 もしかしたらすれ違い、言葉を交わしたかもしれないのだから。


Sonoko Inoue 井上園子     1915.02.22 - 1986.01.19
Lipatti, Dinu(Constantin)  1917.01.04 -  1950.12.02




註:
 1951年5月27,28,29日、ローゼンストック指揮による日本交響楽団第327回定期演奏会においてチャイコフスキー《ピアノ協奏曲No.1》の演奏記録がある。





《閑話 リパッティと井上園子》結

1983/.06 『音楽の世界』
2006/.01, Web 初出
2010/.01 ,PC版
2013/.06,改訂
2014/.04,改訂
2015/.07,10,改訂
2017/.06,推敲
2018/.06,推敲