帰国してまもなく小倉末子は東京音楽学校の演奏会に出演する。 1916(大正5)年5月28日(大田黒の日記では26日となっている)。帰国のほぼ1か月後、東京音楽学校第31回音楽演奏会である。

ここで助教授久野久子と講師小倉末子のふたりは同じ舞台に立った。
曲目は久野久子がショパンのNo.1コンチェルト、小倉末子がバッハ-リスト《ハ短調 前奏曲とフーガ》(有名な前奏曲集第一巻の三曲目であろう)

「久野氏の洋琴はしつかりして居た」と大田黒は日記に書いている(註)。この「しっかり」という表現は一般的な褒(ほ)めことばではなかった。前年9月の新学期から復職した久野久子の体調とその演奏状態を楽壇関係者は見ていたからである。

この演奏会の六か月後、久野久子の「恢復祝賀音楽会」が集客のイヴェントとしては盛況裏に催される。12月3日である。

しかし大田黒は嫌悪感をあらわにした。曰く、

雑然
不愉快
ヒステリック
感性の鈍い人
霑(うるおい)がない
匂いがない


と(第二音楽日記抄、39頁)。これにたいし小倉末子については、翌1917(大正6)年12月31日の日記で次のように記している。

あの人(小倉末子)だけは兎に角演奏家として外国人のそれのスタンダードに近いと云つていゝ。あれで、もつと情熱的な力強さが加はつたなら立派なものだと思ふ。(同前 64頁)

対照的である。


註:
大田黒は『第二音楽日記抄』(1920.大正9年刊)で以下のように書いている。
「久野氏の洋琴はしつかりして居た。曲はショパンの司伴樂だつた。但、手の小さいためコードの音が不平均で、きたなく聞える。此れは日本の洋琴家には避け難い欠点の主なるもゝの一つだ。」 (15頁)


2008.06 記