わたしは性善説を信じない。それと同じく、性悪説も、信じない。
人間っていうのは(魔女さんがいうのもなんだけど)、善き者にも悪しき者にもなりうる、弱くて強い存在だと思ってる。
21世紀の誇る(?)心優しきミステリー作家、宮部みゆきさんの描くファンタジー、『ICO―霧の城ー』。この作品は、伝統的な「光」と「闇」の対決を描いていながら、「これってすごく、今の世的な問いかけだよなぁ・・・」と感じる、日曜日の魔女さんでありました。
「ぼくが君を守る。だから手を離さないで」
う〜ん、女としてやっぱりストレートに胸に響くこのセリフ。この言葉に魅かれて読み出した『ICO―霧の城ー』だけど、なんだかどうも、わくわくしない。不思議なくらい、物語の世界に入っていけない。おかしいな、ミヤベさんの作品は、どれもどきどき胸をときめかせて(時には震えをおさえつつ)読んだのに・・・。
ひとつには、これがコンピュータゲームのノベライズであり(あとがきで初めて知りました)、作者がいうように
「『ICO』の生みの親の皆様をがっかりさせるような小説にだけはするまいと気張ったつもりですが・・・」
という事情なんだと思うんだけど
(実際、霧の城にたどりつくまではすごくおもしろいのだ。城に入ってからは、どうもまどろっこしい・・・たぶん、ゲームの世界に沿ってるんだと思うんだけど、説明されても城の中をイメージできないのよね)、
もっと大きな理由は、
「善と悪とを、こうだといいきってしまえない世の中にある」
のではないかといってしまえば、大胆かしら。??
ラスト近く、城の真相が明かされると、主人公、少年イコは選択をせまられる。
「この城の中に時はない。心を決めるまで、好きなだけ迷い、考えるがよい」
何が善で、何が悪なのか。
答は自分で出さなければならない。
そして、この「何が善なのか」を「迷わなくてはならない」ということ事態が、今わたしたちの世界に内在している問いかけをうつしだしてるんじゃないかな。
闇の側にも、それなりの正義がある。
光の側にも、悪がないわけではない。
まあ、この物語世界では、闇の側の正義というのはあまりないかもしれないけど・・・ただ、「いいぶん」はあるわけだ。相手の立場にたつことをおぼえると、正義はみえなくなる。そして絶対的なものが見えない世の中だからこそ、こうした問いかけがなりたつんだよね。
(昔のヒーローはよかったねぇ。自分の行く道や、正義のあり方になやむことはあっても、
倒すべきものに悩むことはなかったんじゃない?
たとえ、悪の側と心を通わせることがあっても・・・)
イコがたどりついた結論は、ストーリーの流れとしては納得できる(あら、納得なんて言葉がでてくる自体、よろしくないってこと? まずいな)。でも、どうもすっきりしない。
「ノベライズだから」で説明しきれない切れ味の悪さは、たぶん今のわたしたちが抱えてる迷いにある。
そう考えると、よくわかる。
たとえば、今地球上のあちこちでおきている争いに、これは正しいといいきれるものがあるだろうか?
(もっとも、これは絶対に悪だというものはまぎれもなく存在する。子どもを使った戦いなんか、まさにそうだ)
比べてみると、よくわかるかも。
同じく現代の作品、『ハリー・ポッター』シリーズでも、ハリーもヴォルデガート卿の話を聞き、激しく心がゆれる。
でも、「何が善で、何が悪か」に悩むことはなかった。ヴォルデガートは絶対的な悪であり、その復活をとめようとする側は、まぎれもない善き魔法使いたちだった。
ヒロインの捕らわれている心の闇も、同じく今日的だよね。
巨大な「鳥籠」に捕らわれている少女。でも、そこを脱出しても、本当に捕らわれているのは、嘆きや後悔がつくりだした虚無であり、愛からくる悲しみであり、記憶が戻らないうちにも何度も脱出をあきらめて、闇の中に戻ることをうけいれようとする。
本当の心の闇は、自分の中。自分で出ようとしない限り、出られない。
(彼女もまた、「善と悪」の存在について悩み、それが物語の複線になっているんだよね・・・)
『ハリー・ポッター』もそうだったけど、善と悪について、自分はどうあるべきかは、「自分で選ぶ」こと。
『ハリー・ポッターと秘密の部屋』では、それが勇気付けられるメッセージとして伝わってきたけど、さあ、『ICO―霧の城ー』から、あなたがうけとるメッセージは?
ほかにも、
「なぜ霧の城は、海を渡ったところにあるんだろう?」とか、
「なんで闇の女王は、『女王』なんだろう?」とか、考えていくとおもしろいよね〜。
ところで、イコの頭の角って、どんなのだろうね?
ICO -霧の城-