魔法の本棚から、しあわせの輪をひろげます。(^^)
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ベルサイユのばら―完全版 (1)
―というわけで、晴れて宝塚劇場に
足を踏み入れることとなった魔女さん。
チケットをわたして一歩劇場に入った瞬間から、
おめめの中にはお星様がき〜らきら☆
足どりはふ〜わふわ☆
う〜ん、ここはやっぱり、おドレスを着てきたかったぜ。
舞台の魔法・・・身体中がしびれるくらい、この“生身の魔法”が好き。
客席の灯りが消え、劇場が闇に閉ざされるその瞬間、
人々の思いが、暗がりの中に放たれる。
ご縁あって数時間をともに旅する人々の思いが、たしかに熱く、こだまする。
そして幕が開き、舞台の魔法が花ひらく。
・・・☆★☆・・・どどどどどーん。きらきらきら・・・・・・☆★☆・・・
ベルサイユのばら―完全版 (2)
ベルばらか・・・。
世代的には後になるけど、一度は読んだ物語。
(7歳でこれを“読んだ”といっていいかどうか、
ちと疑問だけどね)
というわけで、お芝居そのものもだけど、
人形劇の脚本を書いたりしていた魔女さんとしては、
「この物語をいかに脚色したのか」
という点が、すごく、すごぉく、氣になるところ。
「愛・・・それは強く、愛・・・それは貴く、愛・・・それは気高く・・・」
マリー・アントワネット、フェルゼン、オスカル。
ユウメイな、「ベルばらのテーマ」(?)を歌い上げる、3人の主役たち。
・・・この時点で、魔女さんは、“ある予感”にとらわれていたのだ。
そして、芝居がすすむにつれ、その予感は“確信”に近づいていくことに・・・。
ベルサイユのばら―完全版 (3)
「初演から32年。時がたっても古びない、
タカラヅカの宝をお楽しみください・・・」
たしか、上演前にそんなあいさつを聞いたような
氣がするけど、
この32年という時の向こうで、
当時の舞台人が何を見て、何を考えて
この芝居をつくったのか、
よ〜くみえるお芝居に、なっているのだ、これが・・・。
「愛・・・それは強く、愛・・・それは貴く、愛・・・それは気高く・・・」
本編は、「フェルゼンとマリー・アントワネット編」と相成っているので
基本的には、これは
フェルゼンとアントワネットの“許されざる真実の愛”のテーマとして歌われる。
(オスカルの、フェルゼンへの愛、
アンドレの、オスカルへの愛のテーマとしても歌われるけど、
それはあくまで、影のヴァージョン)
ベルサイユのばら―完全版 (4)
フランスへ嫁ぐ、幼い
(必要以上に“幼い”と思われる)
アントワネットの情景を描いたかと思うと、
一転、それは王妃の“回想”だった。
本当の愛も孤独も知らなかった、
かつての自分を思い起こす、王妃アントワネットの・・・。
満月の夜、揺れる小舟の中で
“孤独”が結びつけた“真実の愛”を歌う二人。
その一方で、一人王宮の庭を散歩しながら、
国王として、夫としての“孤独”を語る王、ルイ16世。
彼らは、等しく孤独で、不幸だ。
「愛・・・それは強く、愛・・・それは貴く、愛・・・それは気高く・・・」
ベルサイユのばら 5 完全版 (5)
そして来る、別れの日。
革命の炎。
運命の転落。
見出した家族の絆。母としての矜持。
でも、すべては遅すぎた。
母として、王妃として、期待される役割を担うよりも、
女として生きていた者には、許されざる罰が待っていた。
愛・・・それよりも、強く、尊く、気高くあらねばならぬものが、この世にはあるのだ。
あのテーマが流れるたび、魔女さんにはそう聞こえてならなかった。
愛よりも、人が重きをなさねばならぬもの、
それに従わなかった者を、この世は許さない。
ベルサイユのばら(5冊セット)
・・・そんなふうに聞こえてしまうのは、
たぶん、あながち間違いではない・・・と思うの。
原作にはない(と思う)、
“アントワネットがオーストリアから携えてきたお人形”
の存在もそう。
「あなたはもう子どもではない」
といって、フランスの国境で
取り上げられてしまったその人形のことが、
執拗なまでに、何度も何度も語られる。
“人形”を持たない=“少女”ではない=“ある規範”に従って生きなければならない
のに、あくまで“人形”(=愛や、女としての生き方)を求めて生きた
アントワネットに、生きる場所は無かった。
反面、
革命後の囚人としての暮らしの中で、子どもたちを不憫がり、
「お母さまもお人形を持っていたのよ、今度つくってあげましょうね」
とやさしく話しかけ、
「わたくしは母です」
といって、子どもたちの盾になろうとするアントワネット。
ベルサイユのばら その謎と真実 単行本
ラスト間際、そんなアントワネットが
フェルゼンの助けを拒んで
「(王妃として母として)死なせてください」
と言ったとき、福音のように
人形はアントワネットの手に戻ってくる。
もう、“立派なおとな”になったから・・・?
次の生では、“立派なおとな”になるんですよ、といって・・・?
「さようなら、ヴェルサイユ。さようなら、パリ。さようなら、フランス」
そういって、死への階段を上っていくアントワネットのセリフに、
もはや
「さようなら、フェルゼン」
という言葉はない。
愛よりも、強く、尊く、気高いもの。
そういったものが人の世にはあり、人はそのために生きねばならぬのだ。
32年前につくられたこの芝居には、そんなテーマが貫かれているような氣がしてならない。
32年前には、それが至上命題であり、それが人々の心をうったのだ。
(今の韓国ドラマブームや“純愛至上主義”とは、ベクトルが逆なのね)
花やリボンをとりはらってみると、時代劇のような構造をもっていた「ベルばら」。
そう思うのは、魔女さんがその日たまたま、
『初潮という切札―「少女」批評・序説』という本を読んでいたせいかもしれないけど―
なんだかそこに、男も女もふくめた“あはれ”というか、
“日本の美学”
を感じて、フクザツな思いのする魔女さんなのでした。
帰ってきた魔女さんにそのはなしを聞いて、ぼくがちょっぴり思ったのは―。
いいや、いわないどこ、っと。
<雅子さま>はあなたと一緒に泣いている
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