カテゴリ: 三百則に学ぶ

32則 太原父母未生
[本則]
太原孚上座、嗣雪峰。問鼓山、父母未生已前、鼻孔在什麼処。山云、即今生也、鼻孔在什麼処。師不肯乃曰、你問我、与你道。鼓山問、父母未生已前、鼻孔在什麼処。師但揺扇而已。
[和訳]
太原孚上座(雪峰に嗣ぐ)鼓山に問う「父母未生已前、鼻孔什麼の処にか在る」山云く「即今生ぜり、鼻孔什麼の処にか在る」師肯わずして乃ち曰く「你、我れに問え、你のために道わん」鼓山問う「父母未生已前、鼻孔什麼の処にか在る」師ただ扇を揺がすのみ。
 [五燈会元]…巻七【0499】太原孚上座(雪峰義存法嗣)686
[たより]
太原孚上座(雪峰に嗣ぐ)
本則は『禅苑蒙求』中巻でも取り上げられている公案です。但し『五灯会元』に掲載されている内容とは多少の違いがあります。
鼓山に問う
孚上座が鼓山に尋ねます。この鼓山とは福建省の福州にある鼓山の涌泉寺に住職された神晏禅師(863939)の事です。この神晏禅師もやはり雪峰義存禅師の弟子になるので、孚上座とは兄弟デシの関係であり、本則は作家同士の問答という事になります。
 
先ず孚上座がその神晏禅師に尋ねます。
「父母未生已前、鼻孔什麼の処にか在る」
「未だ父母が生まれない已前のあなたの鼻の孔は、何処にありますか」というのです。
この鼻孔とは鼻の孔(鼻メド)の事になります。我々はこの鼻の孔を通して外界の空気を取り込んで呼吸をしています。もし呼吸が出来なければ我々は一時たりとも生きては行けません。しかもこの鼻孔を通して我々は無限の過去から続く生命を生きている事になります。何故なら我々につながる父や母も、そして御先祖さまも皆なこの鼻の孔を通して呼吸をして生きて来ました。ですからこの「父母未生已前の鼻孔」でもって我々の「自己の正体」をそして「今此処に生きている事実」を現わしています。この事実を「父母未生已前の自己」とか「朕兆以前の面目」「本来の姿」「本来の面目」などと色々な名前で呼ばれていますが事実は一つです。言葉から学ぼうとするととても難しい事になりますが、実物から見れば何一つ問題はありません。
「父母未生已前、鼻孔什麼の処にか在る」
ですからここでは「何が自己の正体ですか」。或いは「自己の正体は何処にありますか」などという意味になります。 

山云く「即今生ぜり、鼻孔什麼の処にか在る」
そこで神晏禅師は「そんな『父母未生已前』などというまどろっこしい事など言わないで『即今生ぜり、鼻孔什麼の処にか在る』。私は今このように生まれており、いったいどこにそのような父母未生已前の鼻孔などというものがあるというのか」と答えます。
生まれる已前とか、生まれた已後とかそんなまどろこしい概念の話などしないで、我々が今・此処に生きており、そんな生まれる前の話ではなく、たった今はどうなのかというのです。
ただ「已前」とか「即今」という時間的な観念にどうしても執着している神晏禅師を、孚上座は肯(ウケガ)いません。ですから、
師肯わずして乃ち曰く「你、我れに問え、你のために道わん」
「あなたが私に質問をして下さい。そうすれば、逆にあなたに答えてあげましょう」というのです。
そこで神晏禅師が、
鼓山問う「父母未生已前、鼻孔什麼の処にか在る」
「未だ父母が生まれない已前、あなたの鼻の孔はどこにありましたか」と言うと、
師ただ扇を揺がすのみ。
すると、孚上座は、ただ扇子(オウギ)で煽(アオ)ぐばかりであったというのです。

そもそもこの在什麼処(什麼の処にか在る)の意味は「どこに在りますか」という疑問の意味ではなく、「什麼の処にも在る、どこにでもありますよ」という意味だったのです。この「父母未生已前の鼻孔」という「本来の姿」は、ある特別なものではなく、どこにでもありますよというのです。
そこで、孚上座はこの「在什麼処(どこにでもありますよ)という事実を実践されたのが、
師ただ扇を揺がすのみ。
孚上座は何も言わず、ただ扇子(オウギ)で煽(アオ)がれたというのです。つまり「在什麼処(どこにでもありますよ)が概念的な理解であったのに対し、孚上座は「在什麼処(どこにでもありますよ)という事実を、扇子を使って実践して示されたのでした。
 
これと良く似た古則公案が『正法眼蔵』第一巻の現成公按の終盤のところに出て来ます。
それは麻谷山の宝徹禅師という人が、夏の暑い盛りに扇を使っていると、一人の修行僧がやって来て次のように尋ねました。
「風性常住、無処不周(風性は常住にして、處として周からざる無し)なり、なにをもてかさらに和尚おふぎをつかふ」
「風の本性は常住であって、風性のないところは何処にもない。風は此処だけしかないという訳ではなく。何処にでもあります。それなのに何故、和尚さんはワザワザ扇を使われるのですか」と修行僧が理屈を言います。
風の本性はどこにでもあるのだから、和尚さん別に扇など使わなくても良いじゃないです。そこに風の本性はチャンとあるではありませんかというのです。この風性は仏性という事にも通じます。

それに対して麻谷禅師は修行僧に、
師いはく、「なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらず」と。
「君は、ただ風性常住(風の本性はどこにでもある)という事だけは理解しているようだが、未だ無処不周(ところとして風の至らないことはない)という道理を理解てしていないようだね」と言われます。或いは「お前さんは理屈は知っているようだが、未だ実物をしらないようだね」という事でもあります。
 
そこで修行僧は、
僧いはく、「いかならんかこれ無處不周底の道理」。
「無處不周(ところとして風の至らないことはない)とは、どのような事ですか」と再び質問をします。
ときに、師、あふぎをつかふのみなり。
麻谷禅師はこの時ただ扇を使うだけであったという。

道歌に、
月影の 至らぬ里は なけれども 底の抜けたる 桶に宿らず
というのがあります。勿論これは、法然上人がお作りになった。
月影の 至らぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ
を作り替えしたものだろうと思われます。
月の光は皓々として何処でも照らしています。ところが受け取る側の桶の底が抜けていて水が溜まっていなければ、折角の月の光も宿る事が出来ません。或いは誰にでも月の光は降り注いでいるけれども、その月を眺める人以外には、その月の美しさはわからないという事でもあります
同じように風の本性はどこにでもあるという事がわかっていても「無處不周底の道理(として風の至らないことは無いという道理)」を理解していなければ、それは風がないのと同じ事になるのです。この「無處不周底の道理」を頭の中で納得するだけではなく、チャンと実践し実行する事が大事であり、その時はじめて本当に理解したと言えます。それは丁度、井戸の中に水がある事を知っていても、チャンと汲み上げなければ、我々は水を飲む事が出来ないようなものです。
ですから麻谷禅師は何も言わずにただ扇を使うだけであり、また法然上人は専修に念仏申されたのでした。

本則でも「父母未生已前の鼻孔」とか、「自己本来の面目」などと幾ら言っても詮無きことで、ただいま此処で私が扇を使うという日常の、当たり前の働き以外の何処にも仏法の真実はないぞと言われたのでした。

因みに『五灯会元』における「太原父母未生」の内容は次のようになっています。
[本則]
鼓山問師、父母未生時、鼻孔在甚麼處。師曰、老兄先道。山曰、如今生也。汝道在甚麼處。師不肯。山却問、作麼生。師曰、将手中扇子来。山與扇子、再徴前話。師揺扇不對。山罔測。乃殴師一拳。
[和訳]
鼓山、師に問う、「父母未生の時、鼻孔、甚處の処にか在る」。師曰く、「老兄、先に道え」。山曰く、「如今、生ぜり。汝道え、甚麼の処にか在る」。師、肯(ウベナ)わず。山、却って問う、「作麼生」。師曰く、「手中の扇子を将ち来たれ」。山、扇子を与えて、再び前話を徴(タダ)す。師、扇を揺らして対えず。山、測ること罔し。乃ち師を殴つこと一拳す。
三百則とは若干文章の入れ違いはありますが、大意としてはあまり変わりがありません。
ただ太原孚上座と、鼓山神晏禅師という二人の兄弟デシの関係は、微妙なものだったのかもしれません。それは次の『鼓山一隻聖箭』の話においても明らかです。
≪平成30年6月5日()の「夜坐だより」≫

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如意輪観音とサツキ(6月6日)

13則 投子呑却両三(投子両三を呑却す)
 [本則]
舒州投子山慈済大師[嗣翠微、諱大同]因僧問、月未円時如何。師曰、呑却両三箇。僧曰、円後如何。師曰、吐却七八箇。
[和訳]
舒州投子山慈済大師[翠微に嗣ぐ、諱は大同]因みに僧問う「月、未だ円ならざる時如何」師曰く「両三箇を呑却す」僧曰く「円なる後如何」師曰く「七八箇を吐却す」
 [五燈会元]…巻五【0309】投子大同禅師(翠微無学法嗣)489
[たより]
舒州投子山慈済大師[翠微に嗣ぐ、諱は大同]
舒州(現在の安徽省安慶市桐城市)投子山の住職であった慈済大師(819914)は翠微無学禅師のお弟子で、諱を大同といいます。
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         工事中の投子寺(2016‎年‎10‎月‎23‎日参拝)
 

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              投子寺への道に架かる趙州橋
その投子大同禅師にある修行僧が質問をします。
因みに僧問う「月、未だ円かならざる時如何」
未だ月が満ちていない時はいかがでしょうかというのです。昔の人は月が満ちたり、欠けたりする事がとても不思議で、誰も太陽の光りが反射して月が輝いているなんて思ってもいなかったでしょう。特に夜になると輝きだす月の光りは、とても貴重で有り難い存在だったろうと思います。
ここでは未だ満月になっていない時の月は如何でしょうか。つまり月はどうしてあのように満ちて行くのでしょうかと質問をしたのです。 
 
すると投子禅師は、
師曰く「両三箇を呑却す」
「月が徐々に大きくなるのは二、三箇を呑み込んで行くからだよ」と言われます。月が新月から三日月へ、三日月から上弦の半月へ、そして半月から満月へと徐々に大きくなるのは、二箇から三箇を呑み込んで行くからなんだよと答えます。
 
今度は修行僧が、
僧曰く「円かなる後如何」
「それでは満月になってからはいったいどうなって行くのですか。今度は逆に月が徐々に小さくなって行くのはいったいどういう訳でしょうか」と質問します。
 
するとお師匠さまの投子禅師は、
師曰く「七八箇を吐却す」
「満月から下弦の半月、そして三日月、新月と段々小さくなるのは、七箇から八箇を吐き出すからだよ」と答えます。
ことわざにも「月満つれば則ち虧(カ)く」とあります。
これは『史記』にある言葉で、月は満月になった後は、徐々に欠けて細くなって行く事から、物事が最盛期に達した後は、必ず衰え始める事の譬喩であり、そしてまた栄華をきわめた者に対し、奢(オゴ)り昂(タガブ)る心を戒める言葉でもあります。
ここでは満月になった後、徐々に欠けて細くなって行くのは、七から八箇を吐き出しているからだというのです。
 
ところがここで呑み込んだのが二、三箇であるのに対し、吐き出したのが七、八箇では加減の数が合いません。
これについて『大慧宗杲禅師語録』の巻三に、
 [原文]T1998A.47.0821c0811
三箇與四箇。七箇與八箇。數目甚分明。無人數得過。既是數目分明。爲甚麼無人數得過。
[和訳]
「三箇と四箇、七箇と八箇、数目甚だ分明なるも、人の数え得て過ぐる無し。既-(スデ)に数目分明なるに甚(ナン)と為てか人の数え得て過ぐる無き」
とあります。
三、四箇とか七、八箇などと具体的な数値を述べているが、とても我々の人知で数えられるものではないというのです。ですからあまりこの数値に拘泥する必要などありませんし、今から千年以上も昔の話なので月の満ち欠けをただ単にそのように理解していたのかもしれません。

ところでこの古則で投子禅師が我々に天文学の話しをしようとしている訳ではありません。勿論仏法の話である以上、ここでは「自己の正体・本来の姿」について話をしています。
 
ある解説本に、
「月、未だ円かならざる時如何」を、真如の月が満ちていないので、未だ本来の自己を諦めていない、未だ悟っていない状態の事であり、また「両三箇を呑却す」について、凡夫は物事に執着しているので、外に向って貪り、呑却(ノミコンデ)いる意味だというのです。それに対して「円かなる後如何」とは本来の自己、つまり真如の月が満ちた状態を譬えており、「七八箇を吐却す」とは今まで執着し、貪っていたものをすべて吐き出し「本来無一物」の悟りの状態であるとありました。そのように未円・円後をランク付けして解釈されると我々にも納得が出来ます。しかし我々が頭の中で納得する事と、「生命の真実・本来の自己」とは異なります。

ですから我が道元禅師はこの古則公案に対して、次のような偈頌を残されています。
[偈頌]
瑩甎瑩鏡瑩天漢、銷斷煙雲道未周。
直想秋中非有月、月中本自得中秋。
[和訳]
(カワラ)を瑩(ミガ)き鏡を瑩き天を瑩く漢、
煙雲を銷斷して道未だ周からず。
直に想ふ秋中月有るに非ず、
月中本と自ら中秋を得たり。
[意訳]
(カワラ)を瑩(ミガ)き、鏡を瑩き、青空を瑩くように、ひたすら坐禅をしている修行僧は、暗闇のごとき煙雲もすっかり銷え坐断しているが、それによって修行の道が終了したという事では決してありません。
思えば、中秋に明月があるのではなく、月のあらゆる姿の中に「中秋の明月・真如の月」があるのです。つまり探し物の「中秋の明月」が何処かにあるのではなく、未円とか、円後とか、三日月とか、半月とか、満月とか、或いは我々が言っている中秋の明月というものは皆なすべて、真如の月のある時の姿であると。

四季にはそれぞれ春には春の姿があり、夏には夏の姿があり、秋には秋の姿がある。それらを決して比較する事など出来ません。これは大人と子供とを比較するようなもので、年齢が違うから比較しようがありません。そもそも他との比較は単位が違うので、まるで体重と身長を比較するようなもので、比較になりません。仏法の修行はそのように他と比較する事ではなく、(カワラ)を瑩(ミガ)き鏡を瑩き天を瑩く」ように、今此処を深く掘り下げて行く事だというのです。
 
[偈頌]
円後未円同一月、不曾比類夜明珠。
両三七八任呑吐、萬古霊光満五湖。
[和訳]
円後未円同一の月、
曾て夜明珠に比類せず。
両三七八呑吐に任す、
萬古の霊光五湖に満つ。
 [意訳]
月が未だ満ちていない時も、また満月の時も同じ月のある時の姿であり、夜になって輝き出すという宝石の「夜明珠(イエミンジュ)」等と比較出来る筈がありません。
月が未だ満ちていなかったり、或いは満ちたりという変化は、皆な大自然のある時の姿であり、本来の姿なのです。ですから二、三箇呑んだり、七、八箇吐いたりする事はすべて大自然にお任せである。そのように大自然の恵みは世界のあらゆる処に満ちている。
≪平成30年5月29日()の「夜坐だより」≫ 

                《今週の蕎麦会》
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           (もり蕎麦 5月25日 「喜八」さん)
 

12則 洞山仏向上事(洞山、仏向上の事)
 [本則]
筠州洞山悟本大師[嗣雲厳、諱良价]示衆云、体得仏向上事、方有些子語話分。僧便問、如何是語話。師曰、語話時闍梨不聞。僧曰、和尚還聞否。師曰、待我不語話時即聞。
[和訳]
筠州洞山悟本大師[雲厳に嗣ぐ、諱は良价]衆に示して云く「仏向上の事を体得して方めて些子の語話の分あり」僧、便ち問う「如何なるかこれ語話」師曰く「語話の時、闍梨は聞かず」僧曰く「和尚は還た聞くや」師曰く「我が語話せざる時を待ちて即ち聞くべし」
[五燈会元]…巻十三【1031】洞山良价禅師(雲巌曇晟法嗣)367
[たより]
大本山永平寺の吉祥閣の回廊に展示してある「道元禅師からのメッセージ」の中に次のような一枚があります。
≪人生に定年はない≫
人生に定年はありません
老後も余生もないのです
死を迎えるその一瞬までは人生の現役です
人生の現役とは
自らの人生を
悔いなく生き切る人のことです
そこには老いや死への恐れはなく
尊く美しい老いと安らかな死があるばかりです。

曾ては55歳の定年が主流で、60歳定年制が義務付けられたのは20年前の1998年で、つい最近の事になります。政府は原則60歳と定める公務員の定年を、3年ごとに一歳ずつ延長し、2033年度に65歳とする方向で検討に入ったといいます。既に定年制を廃止している企業もあり、また年金の支給開始年齢の引き上げと相俟って、これからどうなって行くのか心配の方も居られると思います。
そのように我々の生活習慣には定年があっても、我々が生きている生命には少しも定年がありません。我々が生きている限り食事を取らなければならないし、我々の心臓も呼吸も一時だってサボったり、休憩したりする訳にはいきません。我々が生きている事実には定年や卒業、休憩がないのです。もし定年や休憩があるとすれば、それは頭の思考の世界であって、仏法の世界には休憩がありません。

この「人生に定年がない」というメッセージの下地になっているのが、本則の「洞山仏向上事」の公案になります。これは道元禅師が『正法眼蔵』第26巻の「仏向上事」の冒頭でも取り上げてますが、この「仏向上事」という事が良くわからないと、本則は非常に難解な公案になってしまいます。

筠州洞山悟本大師[雲厳に嗣ぐ、諱は良价]
この「筠州(インシュウ)」は現在の江西省宜春市宜豊県から高安県一帯の地域を指します。悟本大師とはその洞山普利院に住した我が洞山良价禅師の事です。
その洞山大師が会下の修行僧たちに、
衆に示して云く「仏向上の事を体得して方(ハジ)めて些子の語話の分あり」
「仏向上の事を体得してはじめて少しばかり仏法について話す事が出来る」と言われました。この「方」の字にはたくさんの意味があり、ここでは中国三国時代の魏の張揖(チョウイ)によって編纂された「廣雅」という辞典にある「方は始め也」とあるので、「はじめて」と読みます。

ところで仏教に仏像が生まれたのは、ギリシャ文明と仏教が出会ったガンダーラ地方だと言われています。それまではお釈迦さまがその根元でお悟りを開かれた因縁の「インド菩提樹」が信仰の拠り所でした。
私は法友から「菩提樹礼拝の偈文」があることを教えられ、毎朝のおつとめの後に、インド菩提樹(11月から4月まではビニールに被って屋内に、5月から10月までは屋外に出す)に向って下の偈文を三唱三拜する事にしています。
御仏が、この根元に坐を占めて、すべての敵を打ち破り、一切智に到られた、深い縁しの菩提樹を、私は礼拝致します。(三唱三礼)
 
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             (インド菩提樹 5/22現在)
また信仰の拠り所は、この「インド菩提樹」の他にも「仏足石」であったり、その後は仏舎利を納めた「仏塔」であったりしましたが、決して人間に似せた仏像を作る事はありませんでした。ところがガンダーラの地において、仏教がギリシャ文明と邂逅し、その彫刻の影響を大いに受けて仏像が作られるようになります。確かに仏像があると、礼拝の能率があがったり、民衆への布教がし易くなったりしたかもしれませんが、本来の仏教からはかけ離れてしまいました。
何故なら仏の本来のありようとは、我々が「今此処に生きている事実」の事であって、あのような人間に似せて彫刻された仏像では決してないからです。

ですから六祖慧能禅師に次のような教えがあります。
六祖示門人行昌云、無常者即仏性也(六祖、門人の行昌に示して云く、「無常は即ち仏性なり」と)
つまり仏の本来のありようは無常であって、決まった形などないというのです。
ある老師がこの事実を「泳ぐ魚に決まった形がない」と喝破されています。ですから魚拓や、干し物のようになっているのは決して生きている魚ではないように、仏の真実の姿に仏像のように一つの形に固まった姿はないというのです。そのようにあらゆるものが変化している姿を「仏向上事」という訳です。

「体得」というのは、『弁道話』の中で述べられている「つひに太白峰の浄禅師に参じて、一生参学の大事ここにをはりぬ」という事です。
つまり道元禅師が天童如浄禅師に参じて、只管打坐という自分の修行の方向がハッキリと信心決定出来たという事です。それは決して精神的な心境の問題ではありません。つまり仏向上事であるからこそ無始無終の坐禅をしなければならないと、ハッキリと方向性が決まったという事がこの「体得」したという意味になります。
「些子」というのは些少の些で「いささか、すこしばかり、わずか」という意味になります。
「語話の分あり」とは少しばかり仏法について言葉を語る事が出来るというのです。そもそも言葉は概念であって、実物ではありません。その概念である言葉を用いて語る訳ですから、余程力がないと語る事など出来ません。概念で以て概念を語られたら、我々には益々解らなくなってしまいます。ハッキリと方向性が決まった人だからこそ「些子の分あり」なのです。 

そこで会下の修行僧が、
僧、便ち問う「如何なるかこれ語話」
「仏法についての話しとは、いったいどのようなものでしょうか」と質問をします。
すると洞山悟本大師は、
師曰く「語話の時、闍梨は聞かず」
「たとえ私が話したとしても、お前さんには解らないだろう」というのです。つまり「仏向上事」がわからなければ、終わり無き修行が務められなければ、そしてお前さんと私では修行の方向が違う為に、お前さんには私の話しを聞く事が出来ないだろうというのです。勿論、耳にはチャンと聞こえてくるのですが、お前さんはしっかりと受け止めて聞く事が出来ないというのです。
まさに師はあれども、われ参不得なるうらみあり、参ぜんとするに、師不得なるかなしみありの状態です。

そこで修行僧が、
僧曰く「和尚は還た聞くや」
「それでは和尚さんはお分かりになるのですか」と質問をします。
そこで洞山禅師は、
師曰く「我が語話せざる時を待ちて即ち聞くべし」
「私の不語話の時に、お前さんは聞いたら良いじゃないか」と言うのです。つまり言葉の概念を聞くのではなく、不語話ですから語話の指し示す実物を聞いたら良いじゃないか。お前さんは逆に語話ばかりに振り回されていて、実物を見ていないじゃないか。語話を聞くのではなく、仏法の実物を聞くべきであるというのです。

ある信者さんの自宅へ赴いてご法事する事がありました。私が「鏡の前」で衣に着替えていたら、その家の犬が鏡に写った私に向って一生懸命に吼(ホ)えているのです。本当に吼えたければ私に向かって吼えれば良いのに、何故か鏡に写っている私に向かって吼えているのでした。その時、私が子供の時に野良犬がたむろしていた所に棒切れを投げ入れた事を思い出したのです。私の住んでいた田舎には野良犬が昔たくさん居ました。特に悪さをしなければ、捕獲されることもなく我々と共存していたのです。子供ですから、ふざけてそのたむろしている野良犬の中に棒切れを投げ入れると、その野良犬たちは投げた私に向って吼えないで、投げられた棒切れに向かって吼えるのでした。
この野良犬たちを我々は決して笑えません。何故なら実物を見ないで、概念である語話にばかり我々が振り回されているのであれば、鏡に写る私を吼えたり、投げられた棒切れに向って吼える犬とあまり変わりがないからです。
一方百獣の王と呼ばれる獅子は投げられた棒切れではなく、投げ入れたその者に向って吼えると言われています。、ですからここで洞山大師が言われている「我が不語話の時を待ちて即ち聞くべし」とは、この獅子が投げ入れたその者に向って吼のように、概念である語話ではなく生命の実物をチャンと見るべきであり、聞くべきであると言われるのでした。


或いはまた別の言い方をすれば、不語話(語話せざる)の時ですから、私が言葉で話す以前、概念化する以前の生命の実物をチャンと見るべきであり、聞くべきであるというのです。
それは我々が熟睡している時でも、我々の消化器官や、心臓や、呼吸が少しも休憩することなく活動し続けています。お前さんはこの「生命の実物・自己の正体」をチャンと受け止めるべきであると言われるのでした。

道元禅師は本則に対し、永平広録第九50則で、次のような偈頌を残されています。
見語知人須似面(語を見て人を知る須ず面に似るべし)
三端直是舌鋒書(三端直に是れ舌と鋒と書と)
道成羽翼自生体(道成じては羽翼自ずから体に生ず)
逢我以来深敬渠(我に逢いて以来深く渠を敬う)
語を見て人を知る須ず面に似るべし
その人の言葉を聞けばその人がわかり、その人の顔を見ればその人の人となりを知ることが出来る。
三端直に是れ舌と鋒と書と
舌と鋒と書の三つによって「話す者」と、「兵士」と、「学者」の表現を端的に窺い知る事が出来る。つまりすべての表現はこの舌と鋒と書の三つの先っぽで行われるのである。
道成じては羽翼自ずから体に生ず
仏向上の事をハッキリと体得する事が出来れば、まるで身体に羽翼(ツバサ)が生えたようで自由自在に語話し、そして人間生活を豊に生きることが出来る。
我に逢いて以来深く渠を敬う
仏向上の事を説かれた洞山大師に本当に出逢ってから、私は真実の自己を敬う只管打坐を深く行じる事が出来るようになった。

平成30年5月22日()の「夜坐だより」
 

11則 趙州紛然失心(趙州紛然として心を失す)
[本則]
趙州和尚示衆云、纔有是非、紛然失心。還有答話分也無。有僧出拊侍者一下云、何不祗対和尚。師便帰方丈。後侍者請益、適来僧是会不会。師云、坐底見立底、立底見坐底。
[和訳
趙州和尚、衆に示して云く「纔かに是非あれば、紛然として心を失す。還た答話の分ありや」僧ありて出でて侍者を拊つこと一下して云く「何ぞ和尚に祗対せざる」師、便ち方丈に帰る。後に侍者、請益す「適来の僧、これ会なりや、不会なりや」師云く「坐する底は立つ底を見、立つ底は坐する底を見る」
[五燈会元]…巻四【0198】趙州従諗禅師(南泉普願法嗣)346
[たより
趙州和尚、衆に示して云く
趙州従諗禅師が会下の修行僧たちに次のように言われた。
「纔(ワズ)かに是非あれば、紛然(フンネン)として心を失す。
この「紛然」の紛は「紛争(フンソウ)」の紛で、物事が入り乱れて、ゴタゴタしている様子の事で、また「心」とは「涅槃妙心・本来心・真実の自己」の意味になります。
ですから「ホンの少しでも是とか非とかという分別の心が起こると忽ちに乱れて『真実の自己』は見失われてしまうぞ」というのです。

この「纔かに是非あれば、紛然として心を失す」というは、中国伝灯祖師の第三祖である鑑智僧璨禅師(?~ 606)が著された『信心銘』の中にある言葉ですが、趙州禅師にはこの言葉を取り上げた公案が三則も残されている事からして、趙州禅師が会下の修行僧たちにいつも言われていた言葉だと思われます。

「ホンの少しでも是非善悪の思い、つまりどれが良いか、どれが悪いかという取捨選択をはじめたら、忽ちに乱れて『真実の自己』が見失われてしまう」といい、
還た答話の分ありや」
「それでも答える事の出来る者はいるか」というのです。
つまり「是非善悪をチャンと受け止め、しかも『真実の自己』を見失わずに、チャンと答える事の出来る者はいるか」と趙州禅師が質問をしたのです。

我々が物事に答える場合は、必ず良いか悪いか、好きか嫌いか、あれかこれかと分別しながら答えています。ですから是非という分別心を生じさせない事と、質問に答えるという二つの事は矛盾している事になります。つまりこの矛盾を乗り越えて答える事が出来る者がいないかというのです。
そもそもこの矛盾は我々の思考、つまり頭の中の分別心では決して乗り越える事が出来ません。この矛盾をどう乗り越えるかが本則のキーワードという事になります。
 
我々人間は目の前に展開している物事を概念化して、頭の中に取り込みます。そして取り込んだ概念を言葉によって他の人達とコミュニケーションを取りながら日常生活をしています。ところがこの概念は実物ではなく、我々の頭の中にしか存在出来ないので、とても不安定です。況んや是非善悪などという抽象概念であれば尚更です。
そこで我々は長年の選り好みの癖(クセ)によって、どちらかへ片寄ろうとします。つまり片寄る事によって安定化をはかろうとするのですが、それはただ黒山の鬼窟裏に向って、活計を作しているのに過ぎず、決して安定しているという訳ではないのです。

本当はそのような是非善悪などの概念とは関わりのないところで、我々は生きているのです。
ですから道元禅師は『正法眼蔵』諸悪莫作の巻で、
「善悪は時なり、時は善悪にあらず」と言われています。
「善悪は時なり」というのは、善悪という概念は時代によって異なり、そして変化するというのです。たとえば「不倫」も、昔の江戸時代は重い刑罰の対象になり、死罪になる事もありました。ところが今日では「不倫は文化である」などという輩も出て来たように、不倫したからと言って刑法で罰せられ、逮捕される事もありません。ですから不倫に対する罪の意識は昔に較べ現代ではとても軽く、ただ民法による訴訟と、道義的な責任が問われるだけです。
このように善悪の概念は時によって変化してしまい、絶対的な善悪というものがないというのです。それは好き嫌い、美醜という概念も時代によって変化をします。平安時代の美人は「おかめ」のようにふっくらとした顔だちだったようで、現代とは違っています。また自分自身の好き嫌いも年相応に変化しています。そのように絶対的な概念は一つも存在しません。
それに対して「時は善悪にあらず」というのは、「時」という我々が今此処に生きている事実である『真実の自己』は、そのように我々が作り出した是非善悪の価値観の世界とは関係がないというのです。
ですから我々の『真実の自己』には少しも行き詰まりがありません。夜になればチャンと眠くなり、朝になれば目が覚め、お昼になればお腹がすくように、たとえ我々がどのような状況に置かれても『真実の自己』には少しも行き詰まりがありません。多少そのリズムを狂わせられたとしても、いつか必ず元へ戻らざるを得ないのです。

ところが頭の中の思考がすべてであると思っている者には『真実の自己』に中々気が付かず、この矛盾をどうしても乗り越える事が出来ないのでした。

そこで、
僧ありて出でて侍者を拊つこと一下して云く「何ぞ和尚に祗対せざる」
その時に大衆の中から一人の修行僧が進み出て、どう答えれば良いのかどうして良いのかと躊躇(タメラ)っている侍者和尚を一回叩(タタ)いて、
「どうしてお前さんは趙州禅師にお答えしないのか」というのでした。
我々の「本来の姿」は少しも行き詰まりがなく自由自在なの、どうしてお前さんは躊躇っているのか、お前さんはいったい何に引っ掛かっているのかというのです。
 
昔話に、このような話があります。
それは長く立派なアゴ鬚(ヒゲ)を生やしていた和尚さんが居り、その長いアゴ鬚を見たある人が、
「和尚さまは、とても立派なお鬚(ヒゲ)をはやしておられますが、夜、お休みになる時、そのお鬚(ヒゲ)は、いったい掛け蒲団の外へ出してお休みになられるのですか。それとも蒲団の内側に入れてお休みになられるのですか」と尋ねると、その立派なアゴ鬚をはやした和尚さんはハタッと困って仕舞い、夜も眠れなくなって仕舞ったというのです。これこそ「睡眠する」という実物以外に、自分が作った鬚(ヒゲ)は外か内か、是か非かという概念の世界で「一人相撲」を取って思い悩み、眠れなくなって仕舞ったという笑い話です。
しかしこれは立派なアゴ鬚(ヒゲ)を生やしたこの和尚さんだけではなく、我々もそしてこの侍者和尚も同じように是非善悪という概念の世界で一人相撲をとって、行き詰まってしまっているのでした。
 
そこで趙州禅師はこの修行僧の「何ぞ和尚に祗対せざる」という答えを聞いて、
師、便ち方丈に帰る。
これで一件落着とばかりに、方丈に帰って仕舞ったのでした。
 
その後、修行僧にポカリと叩かれた侍者和尚が、
後に侍者、請益す
趙州禅師の所へ行って教えを請うたのでした。この請益(シンエキ)とは法益を請う事で、趙州禅師に教えをお願いしたという訳です。
「適来の僧、これ会なりや、不会なりや」
「さきほどの僧は、果たして仏法の真実がチャンと分かっていたのでしょうか、それとも分かっていなかったのでしょうか」と、修行僧の評価を聞きに行ったのです。
そのような他人の評価や、相手の評判などはどうでも良いのに、この侍者和尚はその修行僧の評価が気になってしょうがなかったようです。
それこそ「纔かに是非あれば、紛然として心を失」してしまっていたのです。
我が瑩山禅師はこの「纔かに是非あれば、紛然として心を失す」を拈提して、
「是非の外に向って覓尋することなかれ」
と言われています。つまり他人の評価や、相手の評判の問題ではなく、これは自分自身の問題であるというのです。

そこで趙州禅師は、
師云く「坐する底は立つ底を見、立つ底は坐する底を見る」
と、つまり「坐っている者は立っている者を見るし、立っている者は坐っている者を見る」と言うのです。
趙州禅師は須弥壇上の説法の座に坐禅を組まれて、修行僧たちに仏法を説き示されているので、「坐する底」とは趙州禅師自身の事を指します。一方、修行僧たちは皆な立って趙州禅師の説法を聞くので、「立つ底」とは修行僧たちの事をいい、特にここでは侍者和尚を叩いて「どうしてお前さんはお師匠さまにお答えしないのか」と言った修行僧を指しています。ですから「私はチャンとあの者を見抜いているし、あの者も私の思いを見抜いている」と、趙州禅師は侍者和尚を叩いたこの修行僧の事を肯っているのでした
傍観者として他人事として眺めていた侍者和尚に対し、趙州禅師は老婆親切心をもって「纔かに是非あれば、紛然として心を失す」とは、お前自身の問題じゃないかと、この侍者和尚の自覚を促しているのでした。
平成30年5月15日()の「夜坐だより」

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                             (十割蕎麦5月16日)

第10則 青原答西来意(せいげんとうせいらいい)
  
[本則]
青原和尚、因僧問、如何是祖師西来意。師曰、又恁麼去也。僧又問、近日有何言句、乞師一両則。師曰、近前来。僧近前。師曰、分明記取。
[和訳]
青原和尚。因みに僧問う、「如何なるかこれ祖師西来の意」。師曰く、「また恁麼に去(ユ)けり」。僧また問う、「近日、何の言句かある。師に一両則を乞う」。師曰く、「近前し来たれ」。僧、近前す。師曰く、「分明に記取せよ」。

[たより]

青原和尚

第一則の「青原拈払子話」に登場した青原行思禅師のお話です。
その青原和尚にある修行僧が質問した。
因みに僧問う、「如何なるかこれ祖師西来の意」
「達磨大師がインドからはるばる中国へやって来て、お伝えになった真実の教えとはなんでしょうか」という意味です。この「如何なるか仏法の大意」とか「如何なるかこれ祖師西来の意」などは禅門における質問の常套句です。

しかし「仏法の大意」だからと言って「仏法のアウトライン」を尋ねている訳では決してありません。
我々が物事を理解する場合、必ず対象の範囲を限定し、他と区別する為の輪郭をハッキリさせ、明確化させます。それは先ず物事を言葉によって概念化し、相対化する事によって初めて我々は、頭の中で認識し理解する事が出来ます。つまり認識し理解するという事は物事の輪郭を、つまりアウトラインを明確化にする事になります。
しかし禅門でいう「仏法の大意」はそのような我々の頭の中だけに存在出来る概念の話ではなく、物事そのもの、つまり実物そのものを尋ねているのです。

そこで青原禅師は、
師曰く、「また恁麼に去()けり」
「そのように行きなさい」と言われるのでした。
つまり目の前に居るお前さん自身がそうではないか。あなたが「祖師西来」として生きているではないかという意味になります。
どうも我々は自分の外に「仏法の真実」があるような気がして、いつも外見ばかりして、物事を追い求めています。

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宋時代の「戴益」によって作られた有名な『探春』という詩があります。
尽日尋春不見春(尽日(ジンジツ)春を尋ねて春を見ず)
杖藜踏破幾重雲(杖藜(ジョウレイ)踏破す幾重の雲
)
帰来試把梅梢看(帰り来って試みに梅梢(バイショウ)を把って看れば
)
春在枝頭已十分(春は枝頭(シトウ)に在って已に十分)

[
拙訳]
春を探し求めて、藜(アカザ)の杖をつきながら、山河を越え、そして幾重にも重なる雲を眺めながら歩き回ったが、結局、春にめぐり会う事が出来なかった。ところが我が家に帰って庭先の梅の梢を手に把って見たら、蕾がすっかり膨らんでいて、春の気配を已に十分示していた。

作者である「戴益」については、あまり詳しい事が伝えられていません。ただ北宋時代の学者でこの『探春』の一首で世に名を残しています。
この『探春』で言いたいのは、我々の眼は外向きに付いていて、いつも外ばかり探し回っているというのです。

そこで青原禅師はこの修行僧に、
「また恁麼に去()けり」
「お前さん自身が『西来意』なのだから、そのまま行きなさい」と言われるのでした。

しかしそれでも真実に目覚める事が出来なかったこの修行僧は、また質問をします。
僧また問う、「近日、何の言句かある。師に一両則を乞う」

「近ごろ和尚さまはどのようなお言葉を、お示しでしょうか。私にも和尚さまの言葉を、どうか一つか二つ、お示し頂けないでしょうか」とお願いするのでした。和尚さまのご説法を一つか二つ、私にお示し下さいというのです。
どうもこの修行僧は、仏法を他人事のように考えていたのかもしれません。

そこで青原禅師は、
師曰く、「近前し来たれ」
「近くに来なさい」と、つまり「苦しゅうない!近こう寄れ」と、この修行僧に言ったのです。
すると、
僧、近前す
この修行僧は躊躇なく、そして何の疑いもなく、言われた通りに青原禅師の近くまで進んで行ったのでした。
つまりお前自身がその人ではないか、お前自身が「今」「此処」に生きている「西来意」そのものではないか。「仏法の大意」ではないかというのです。何をキョロキョロしているのかというのです。

この「近前来」については、『不生の仏心』を唱えた、我が国の盤桂禅師にも次のような逸話が残されています。
一冬、備前三友寺にて結制の時、師出座の日は、備前・備中の道俗大ひに群集。備中庭瀬に法花宗の大寺地あり、住持上人、博究學匠にて、檀信歸崇す。時に師道風遠近偃伏して、彼の上人の檀那、皆悉く参謁す。上人憤り、檀那に向ひ云けるは、我聞、盤珪は不學の人也と、我往て難問せば、一言にて擬議せしめんとて、一日参謁し、衆後口に在て、説法半に、大音聲に申けるは、「一會の衆、皆師の説法を聞き受け信仰す。某甲が如きは、師の法要を受けじ。受けざる時、いかにしてか救得ん。」師中啓を擧げ曰、「前え出でられよ」と。上人進前す。師又曰、「今少前え出られよ」と。上人又進前す。師曰、「なんと能く受けらるゝではなひか」と。上人罔然として言なくして退く。 (『盤珪禅師語録』鈴木大拙編ー117)
[拙訳]

これ盤珪禅師の晩年の六十八歳の冬の話です。盤珪禅師の名声が益々高まり、岡山の三友寺で結制を行うと、盤珪禅師の御説法を聞こうと近在から多くの人達が集って来たといいます。この三友寺の近くには他宗の大寺があり、その寺の僧侶が盤珪禅師の徳望を妬んで、何人かの檀家信者を引き連れ、その三友寺にやって来ます。その僧侶はとても博学であったのに対し、盤珪禅師はあまり学問に秀でた人でないと聞いていたので、その僧侶は「私が難問を言えば決して答えられるまい」と、高をくくってやって来たのです。
最初は盤珪禅師の御説法を聴衆の後方で聞いていたのでしたが、中途に至って大きな声を出して質問をはじめたのです。
「多くの人々が貴僧の説法を聴聞しに信仰しているが、某甲は貴僧の説法に承服が出来ない。私のように承服が出来ない者を、貴僧はどうお救いになさるのかな」というのです。
そこで盤珪禅師は、その僧に向って持っていた中啓で手招きしながら「もう少し前へ出られよ」というと、

その僧は盤珪禅師に言われた通り、素直に前に出て来たのでした。そしてさらに、
「もうちょつと前へ」と盤珪禅師に言われると、その僧は前へ進み出たのでした。
そこで盤珪禅師は、すかさず「チャンとあなたは良く承服しているではないか」と言われたのでした。その僧は一言も言えずに、スゴスゴと退出して行ったというのです。

つまりここで問題にしている「祖師西来意」とは頭で考えた理屈や理論の話ではなく、我々が「今」「此処」に生きている事実の気付きだというのです。
そこで、
師曰く、「分明に記取せよ」

青原禅師は「他人事のように、いつも余所見ばかりをして、人生を歩むのではなく、自分自身をチャンと引き受けて生きなさいよ。その事をハッキリと記憶しておきなさい」と言われるのでした。
この修行僧がはたして真実に気が付いたかどうか、分かりませんが、これはとても親切な古則です。


         『近こう寄れ』と
                  寄って見れども
                           見えぬなり


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