2015年05月
2015年05月14日 22:14

尾形月耕「花あやめ」
明治28年、博文館が創刊した『文芸倶楽部』には、
木版で制作された口絵がつけられていました。
手間をかけた彩色の木版刷り、当時人気を博していた挿絵画家たちが
それぞれに趣向をこらした美人画は、購読者に魅力的に写ったことでしょう。
木版の口絵は、海外にもコレクターが現れているほどです。

武内桂舟「江戸芸者」

水野年方「寂光院」


研究書も出ています。
会場では、木版口絵をいろいろ紹介していますので
明治期の文芸雑誌の香りを、お楽しみいただければと思います。
「山本昇雲の美人画展」は5月31日まで。(ギャラリーぼたにか)
2015年05月13日 21:28

この掛け軸は山本昇雲の肉筆、「地獄太夫」
昭和14年の作、昇雲さんの箱書きがあります。
「地獄太夫」とはまた、インパクトのある名前ですね。
室町時代に存在した遊女だそうです。
出自は武家でしたが、賊に捕らわれて泉州堺の遊郭に身を沈めることになり
「現世の不幸は前世の行いが拙い故」であるとして、自ら「地獄」と名乗り
地獄変相図を縫いとった着物をまとって、仏名を唱えつつ
風流の唄を歌った、といいます・・・

風狂の士でもあった一休宗純が、評判を聞いて堺の太夫を訪れ
「聞きしより見て美しき地獄かな」と詠むと、すぐさま
「生きくる人の落ちざらめやも」と返し、以来二人は師弟の縁を結んだともいわれます。
実在したかどうかは分かりません。
出典は、いずれも『一休関東咄』など、当時流布した一休の逸話を集めたものから。
昇雲さんの描いた「地獄太夫」は、やわらかなお顔立ち
ころもの地獄絵図も、どこかユーモラスです。
昇雲さんは、なにゆえ「地獄太夫」を描いたのでしょうか。
注文された、売り絵なのか。
いずれにせよ、なかなか魅力的な、いい掛け軸だと思われます。
山本昇雲の美人画展〜過ぎゆく江戸明治の情緒〜
2015.5.31(日)まで
主催・会場 ギャラリーぼたにか
2015年05月02日 01:02
美人画で知られる山本昇雲には、もう一つの側面があります。
「報道画家」と呼ばれた画業です。

これは明治期のグラフィック雑誌『風俗画報』(東陽堂)
表紙の絵は山本松谷。
昇雲は、はじめ「松谷」の号を用い、のちに「昇雲」と併用しています。
(本人によると、本画には「昇雲」を用いたということです。)
20才で上京した昇雲は、滝和亭に入門し、日本画家として立つべく研鑽の日々を送っていました。
そんな頃、和亭の画塾で、『風俗画報』が挿絵を公募していることを聞き応募します。
故郷土佐の奇祭「どろんこ祭り」を描いた「土佐国早乙女図」
早乙女たちが、いやがる男達の顔に田圃の泥を塗る様子を躍動感のある構図で描いたものです。
この図によって、昇雲は当時人気を博していた『風俗画報』の絵画部員に採用されました。
石版画に適していることを、同誌の編集長山下重民が見込んだといいます。
以後、「松谷」名で『風俗画報』に表紙や口絵、挿絵が数多く掲載されました。

写真技術がまだ発達していない時代に、事件、事故や災害、行事、風景、風俗など
現場に赴いて細やかに実写して伝えるのが、いわゆる報道画家と呼ばれる人々でした。
松谷は、『風俗画報』でその役割を長く担ったのです。

編集長山下重民の文章に松谷が絵をつけた、同誌の増刊号『新撰東京名所図会』(明治29〜44)は
明治をしのぶ第一級の歴史資料として高い評価を受けています。
これは、その一部を紹介した書物。(左の解説は高知出身の山本駿次朗)

むかし、山本松谷という画家が
絵筆を担い
東京の名所を訪ね歩いた
日本橋、芝、上野、浅草、深川・・・
神社、仏閣、街の佇まい、子供の遊び・・・
明治の姿を今に伝える
生きた風俗史
同書の裏表紙に並ぶ文章です。
昇雲の画家としての仕事は、忘れ去られたわけではない。
報道画家としての画業は、このように畏敬をもって
残されるべきものとして、存在し続けている。
今回、改めて昇雲の画家としての幅広い真価を知った思いがします。