仏教話

2011年11月09日

善人と悪人


久しぶりに仏教のお話を書いてみたいと思います。

今回は、真言宗の自分が、浄土真宗の教義を基に書いてみようかなと思います。

坊主バーは、もともと浄土真宗の僧侶が始めたもので、現在では真言宗や曹洞宗など色々な宗派のお坊さんがスタッフとして一緒に働いていますが、お客様から「宗派が違ってケンカとかにならないんですか?」という質問を頂くことがあります。

実際のところどうか・・・

不思議とケンカになりません(^^)

お互いを認め合うのが仏教のいいところですね。


さて、悪人正機(あくにんしょうき)という言葉があります。

悪人正機は、浄土真宗の中で重要な意味を持つ思想です。

「悪人こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」という意味です。

平たく言えば、「悪人こそが阿弥陀如来に救われる」ということです。

よく、この部分に対して「だったら悪いことをやってもいいのか」「善人は救ってもらえないのか」「良い事をするのがバカバカしいじゃないか」と勘違いされる方がいらっしゃいますが、実際のところは奥の深い話なのです。
 



こんな話を聞いたことがあります。

悪人の住む家は家庭円満だけれども、善人の住む家は喧嘩が絶えないといいます。

さて、なぜでしょうか? 

善人の家には自分が善人であると思っている人達が住んでいます。

自分が善人であると思っているお父さん、自分が善人であると思っているお母さんです。
 
ある時、急用で家に帰ってきたお父さんが廊下に置いてあったバケツに気付かず、つまづいて水をこぼしてしまいました。
 
お父さん「誰だ!こんなところにバケツを置いたのは!」
 
お父さんはいつも善人です。
 
お母さん「今、掃除をしていたのですから、もっと足元に気を付けてください!」
 
お母さんもいつも善人です。
 
奥の部屋でそれを聞いていたおばあちゃんが言うには「何を言い合っているのですか!いい加減にしなさい!」
 
勿論、このおばあちゃんも善人です。正しいことを言っています。
 
 
さて、悪人の家でも同じことが起こりました。
 
悪人のお父さんが慌てて気づかずにバケツにつまづき、水をこぼしてしまいました。
 
お父さん「すまん、すまん。気付かずに水をこぼしてしまった」
 
このお父さんは悪人です。悪いのは自分です。
 
お母さん「すみません、すみません。こんなところにバケツを置いておいた私が悪いのです」
 
このお母さんも悪人です。悪いのは自分です。
 
それを聞いたおばあちゃんが居間から出てきて「すまんなぁ。私が気をつけていれば、バケツをもっと端に置いておいていたのに」
 
このおばあちゃんも悪人です。悪いのは自分です。
 
そして最後は仲良く雑巾がけをした、というお話です。
 
 
 
 
さて、あなたはどちらの家に住んでいるでしょうか。
 
自分が悪人だと思いながら生きているなら、言い争いや喧嘩もおこりません。
 
 
 
一方で、こんな話を書くと「私はすぐに自分のことを責めてしまって、自分が悪かったと思ってしまうから、いつも自信がありません。そんな私が自分が悪人であると自覚しろなんていわれたら潰れてしまいそうです」と思う人もいるかと思います。
 
しかし、こうした人の場合でも別の視点で見てみると、
 
「私は自分が悪かったと反省しているのに、なんであの人は反省しないんだろう」「私はこんなにも自分を抑えて接しているのに、なんであの人はあんなにも無神経に接するのだろう」と怒りの感情がわいてくることは無いでしょうか?
 
「自分はこんなにもやっているのに、相手はやってくれない」
 
そんな時、イライラしたりしていないでしょうか?
 
もしかしたら、周囲の人に色々と気遣って我慢している自分のことを「善人」と思っている自分がいないか、心の中をのぞいてみると何か見えてくるかもしれません。

 
ここで、真言宗的にはどのように解決していくかを書いてみます。
 
浄土真宗が「凡夫である自分は仏になど成れない。阿弥陀仏に救っていただく」という『他力本願』を説くのに対して、真言宗は「この身このままで仏になることが出来る」という『即身成仏』を説いています。
 
一見するとまったく正反対の思想です。
 
しかし、浄土真宗のお坊さんと話をしていると、結局は同じところに行き着くのではないかと感じさせられます。
 
真言宗でも、「自分は仏であるのだから何をやってもいいんだ」ではなくて、「仏としての自分で生きるとはどういうことか」ということを考えれば自然とその生き方、行動が決まってくるわけです。
 
例えば、自分がミスをしてしまったときに「自分は仏であり、善なのだから悪くない。悪いのはあいつだ」とはならないのです。
 
なぜなら仏様が「悪いのは自分じゃなくてお前だ。お前が悪いから自分がこんな目にあったんだ」などといって他者を責めたりするはずが無いからです。
 

浄土真宗の悪人正機にしても、真言宗の即身成仏にしても「自分が善で相手が悪」という他者を非難するという思想は生まれないのです。

 
善悪を言う前に「自分自身を見詰め、他人を尊重する力を高めていく」ことが大切なのではないかと思います。
 


簡単なことではないかもしれませんが、自分もこうした心を持ちながら日々精進させていただきたいと感じます。
 
 
 


bouzunikki at 01:27|Permalink

2009年09月03日

なんかいいこと

「なんかいいことないかなぁ」って言うときのいいことって「自分にとって都合のいいこと」を探しているときです。

もし、神様や仏様は四六時中いつも自分に必要となるいいことだけを与え続けてくれているという考え方や信念が根底にあったら

いま自分にとっていいことと思えないことでも「これは自分にとってどんないいことなんだろう」って考えられると思います。

「人生で起こること全てがいいことばかりで幸せです」っていう人間がいたら、その人は幸せな「環境」を手に入れている人ではなくて、幸せな「考え方」を手に入れている人だと思います。

いつだって自分にはいいことが起こっている。

そう思える心を持ち続けたいですね。



bouzunikki at 23:59|Permalink

2009年08月30日

新宿荒木町盆踊り

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駆け込み寺の隣にある公園で28日(金)、29日(土)、30日(日)と荒木町盆踊りが開催されました。

小さな公園なのでこじんまりとした盆踊り大会ですが、夜になると連日太鼓の音が鳴り響き、大きな掛け声とともにみんなが踊っていました。

僕は仕事の合間にその様子を窓からのぞいたりしていたのですが、活気ある様子が伝わってきてなんだかこっちもうきうきしてきました。

町内の集まりが残っている地域っていいですね。

盆踊りとは元々は仏教行事で、念仏踊りがお盆(盂蘭盆)の行事と結びつき、精霊を迎えて先祖供養をするために行われる様になったのが起源といわれています。

日本ではこのように生活の中に自然と仏教が取り入れられているんですね。



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2009年08月26日

新しい仏教用語?

最近、堅めのお話しが続いていたので今日はちょっと柔らかいネタを・・・



知り合いの禅宗のお坊さんに教えてもらった言葉


ドラえもん・・・修行中に隠れて押入れの中で居眠りすることの意


時代が変われば仏教用語も変わる・・・(^^;



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2009年08月20日

葬儀にて感じたこと

今日は知人のお寺の葬儀の助法に行ってきました。

ちなみに助法(じょうほう)というのは仏事のお手伝いという意味でして、今回の葬儀は僧侶二名でお願いされていたので導師の隣に座る脇僧として僕が出仕してきたということです。

葬儀にて弔辞の後、お孫さん達のお別れの言葉がありました。

二十代、三十代のお孫さん十数人が次々におじいちゃんの思い出話を短く語り、お別れの言葉を述べました。

一人ひとりの想いのこもった温かい言葉に会場が包まれました。

私は故人がどのような方なのか、どのように生きた方なのかということは分かりません。

でも、人に"与えること"の多かった方、人を"受け入れること"の多かった方なんだろうなと思いました。

100年後、私達はこの世にいません。

有形無形にかかわらず何を残せるか。

心が温かくなったり、笑顔になったり。

そういうものを沢山残せたらいいなと思いました。



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