生きる力

2009年03月05日

生きる力を失っている人へ

長年多くのご相談をお受けしていて感じることがあります。

それは「生きる力を失っていて早く死にたいと考えている人はエネルギーの強い人だ」ということです。

逆じゃないかって思う人がいるかもしれません。

でも、エネルギーが強いからこそ起こる現象なんだと思います。

例えば何らかの形で抑圧されて育ったとします。

狭いビンの中に閉じ込められたような人生です。

そんな時、エネルギーの弱い人はその狭いビンの中に閉じ込められてもなんとも思わずに、ストレスも感じずにその中に納まってしまいます。

しかしエネルギーの強い人はそこに納まることが出来ず、飛び出したいと思うものの実際に飛び出す方法が分からなかったり、飛び出す術がなかったり、飛び出させてもらえる状況になかったりして狭いビンの中に閉じ込められたままの状態が続くとそのうち絶望を感じて早く死にたいと考えるわけです。

つまりエネルギーの強い人はその中に納まっていられないのです。

自分の能力を100%発揮したいのにそれが出来ないと不全感が生じます。

人によっては「まぁこれはこれでよかったんじゃないか」と納得できる人もいます。

でもエネルギーの強い人はそう易々と納得出来ません。

だから自分が自分らしくいられない状況に絶望して生きる力を失っていくのです。

自分の能力を100%発揮することを拒んでいる人もいます。

能力を100%発揮することは怖いことです。

なぜなら100%発揮したものが評価されなければ「無能」ということが世間で確定してしまうからです。

世の中に能力のない人なんていません。

自分の本当の能力に目覚めていない人はいますし、能力を生かそうとしていない人もいますし、能力を信じられない人もいます。

鬱々としてやる気が起きないのは、エネルギーが小さいからではなく、大きなエネルギーを閉じ込めてしまったからという見方をしてみるのもいいかもしれません。

もし今生きる力を失っているエネルギーの強い人が、自分の能力を発揮しはじめたら世の中はすごいことになるんじゃないかって思います。



bouzunikki at 11:27|Permalink

2009年02月16日

生きる力

良寛さんはいつも子どもたちと手まりをして遊んでいました。

当時は子だくさんの家が多く、また親も忙しく働いていたので子どもと一緒に遊んでくれる大人はいなかったようです。

だから子どもたちは良寛さんと遊ぶことがなによりも楽しかったのだと思います。

良寛さんは学校の先生のように仕事として子ども達に接していたわけではなく、教育のために接していたわけでもなく、ただただ子どもたちと一緒に楽しく遊んだだけです。

良寛さんのように寺を持たず、ボロを着て托鉢をしながら生活していた僧侶が、子ども達と無邪気にただ遊んでいる姿を見て快く思わない大人たちもいたことと思います。

そして寺で難しい話をしてくれる僧侶の方が何かありがたいと感謝される場合のほうが多かったと思います。

しかし、良寛さんは、自分が山を降りてくるのを待ちわびている子ども達の顔をみると一緒に遊ばずにはいられなかったのです。

そして良寛さんはそれを自らの楽しみとして子どもたちの先頭に立って夢中になって遊びました。

現代は教育熱心な時代だと思います。

しかし生きる力が弱くなったり、人生に楽しみを持てない人が多い時代でもあります。

生きることの楽しさや生きる力というのは良寛さんのように一緒になって夢中になって遊んでくれる大人がいれば自然と学べるのではないかと思います。

そしてそれは大人でも同じだと思います。

一緒に夢中に遊んでくれる人がいれば人生は楽しいものになると思います。

遊びといっても単なる娯楽ばかりではありません。

仕事だって夢中になって一緒に楽しんでくれる人がいれば遊びと同じくらい楽しいものになります。

僕はカウンセリングにしても占いにしても坊主バーにしても、出会った人と共に人生を楽しみたいと思っています。

それがたとえ人生のうちのたった1時間の出会いであってもです。



bouzunikki at 22:25|Permalink